にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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【社労士】労働基準法「割増賃金」&「妊産婦等」

割増賃金

 法定労働時間は一日8時間、一週間につき40時間が原則となっています。

 これを超えると通常の計算額から数割増しで賃金を計算しなければなりません。これを割増賃金と呼びます。超えた時間は次のように分けられます。

  1.  時間外労働 : 2割5分(月60時間超え→5割)
  2.  深夜業   : 2割5分
  3.  休日労働  : 3割5分

 深夜業は午後10時から午前5時までの業務のこと。時間外+深夜、休日+深夜という組み合わせもあります。逆にいえば、時間外+休日はありません。

 

  • 始業時刻が午前8時、終業時刻が午後5時、休憩時間が正午から午後1時までの事業場において、残業を行い、翌日の法定休日の午前2時まで勤務した

 このような場合は、

  1. 午後5時から午後10時まで・・・2割5分以上(時間外)
  2. 午後10時から午前0時まで・・・5割以上(時間外+深夜)
  3. 午前0時から午前2時まで・・・6割以上(休日+深夜)

 と計算されます。

 

【割増賃金の算定】

  • 時給制: その時給の金額
  • 日給制: 日給を、1日の所定労働時間数で除した金額
  • 月給制: 月給を、月における所定労働時間数で除した金額

※ただし月によって労働時間数が異なる場合は1年における1月平均労働時間数

 

 受け取った賃金のうち、割増賃金の計算から除外するものは、

  1.  家族手当
  2.  通勤手当
  3.  別居手当
  4.  子女教育手当
  5.  住宅手当
  6.  臨時に支払われた賃金
  7.  1か月を超える期間ごとに支払われる賃金

 です。ただし危険作業手当については算入しなければならず、過去問にも一度出ていますので注意が必要です。原則としては「臨時」のやつです。

 

妊産婦等

  •  妊産婦とは、妊娠中の女性及び産後1年を経過しない女性をいう。
  •  出産とは、妊娠4か月以上(=85日以上)の分娩をいい、死産も含む。

※一か月=28日で計算。三か月=84日であることに注意

 

【産前休業】6週間以内に出産予定→請求によって休業

【産後休業】産後8週間までは就業禁止。ただし6週間から医師の判断により就業可能。

【妊娠中】請求によって軽易な業務への転換

 

 さて、妊産婦が請求した場合は次のようにしなければなりません。

  1.  変形労働時間制を採用していても、法定労働時間を超えての労働禁止
  2.  災害、臨時の必要、36協定のある場合でも時間外労働・休日労働禁止
  3.  深夜業禁止

 ※フレックスタイム制などは可。

 ※管理監督者等は2番が適用されない=時間外・休日労働OK

 

  その他、次のような制度もあります。

【育児時間】生後満1年に達しない子の育児時間。

  請求によって、1日2回各々少なくとも30分が与えられる(休憩時間除く)。

【生理休暇】生理日の就業が困難→請求によって休暇。

 

 

【社労士】健康保険法③ 資格取得と喪失

資格の得喪

(1)一般被保険者
  •  次のいずれかに該当するに至った日から資格取得。
  1.  適用事業所に使用されるに至ったとき
  2.  使用されている事業所が適用事業所になったとき
  3.  適用除外に該当しなくなったとき

 ※要するに、一般被保険者に分類されるであろう人が適用事業所で働いたとき

 

 「被保険者資格取得届」 → 事業主が5日以内に機構又は組合に提出

 

  •  次のいずれかに該当するに至った日の翌日から資格喪失
  1.  死亡
  2.  事業所に使用されなくなったとき
  3.  適用除外に該当する
  4.  任意適用事業所の取消しがあったとき

 

 「被保険者資格喪失届」 → 事業主が5日以内に機構又は組合に提出

 

(2)任意継続被保険者
  •  資格取得: 一般被保険者の資格を喪失した日
  •  資格喪失: 次のいずれかに該当するに至った日の翌日。
  1.  任意継続被保険者になった日から起算して2年
  2.  死亡
  3.  保険料を納付期日までに納付しなかった
  4.  一般被保険者となったとき
  5.  船員保険の被保険者となったとき
  6.  後期高齢者医療の被保険者等となったとき
(3)特例退職被保険者
  •  資格取得: 申し出が受理された日から。
  •  資格喪失: 次のいずれかに該当するに至った日の翌日。(3はその日)
  1.  退職被保険者に該当しなくなった
  2.  保険料を納付期日までに納付しなかった
  3.  後期高齢者医療の被保険者等になったとき

 

  資格の得喪は保険者等が確認することによって効果を生じます。ただし、任意適用事業の適用取消による得喪任意継続被保険者の資格の得喪については確認は行われません。

 

にんじんと読む「はじめての朗読レッスン」

 今回読むのはこちら。

 

はじめての朗読レッスン

はじめての朗読レッスン

 

 

 読む前に気になっていたことは「音読と朗読は何が違うのか?」でした。

 それはすなわち、朗読が満たすべき要件はなにか、という問いでもあります。そのことを意識しながら、読んでいくことにしましょう。

 

 結論からいえば、この本からはわかりません。

 そもそもレッスンの本なので、発音がどうと書いています。

発声と身体のレッスン 増補新版 ─ 魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために

 発声のレッスンといえば鴻上さんの本を思い出します。文庫で読みやすいのでにんじんとしては鴻上さんの本をおすすめしますが、朗読に特化させているという点で読み手の方には参考になるかもしれません。

 

音読と朗読は何が違うのか?

 朗読に興味・関心を持っている人が多くなったのは大変喜ばしいのですが、朗読発表会へ行くと、終始テキストを手に音読している場合が多いのは残念です。また、語り、一人芝居、朗読を分別していない人に出会います。(10ページ)

 朗読と音読の違いについて考えていたら、朗読、音読どころか、

  1.  朗読
  2.  音読
  3.  語り
  4.  一人芝居

 という四つも区分けができてしまいました。

 

 残念ながら、この本ではこのそれぞれの言葉の定義をまったくしていません。ただ一文だけ、「朗読だけがテキストを見ながら読むのはおかしいことで、これでは音読の域を脱していません」とあることから、テキストを見ないことが朗読の条件であることがわかります。

 じゃあテキストを見ているかどうかわからない場合は「朗読です」と言い張るしかないわけで、これは朗読ですと正式に表明するためにはテキストを持っていないことの証拠が必要です。到底受け入れられる条件ではありません。(普通の感覚だと思うのですが、朗読をやられている方はどう思われますか?)

 

 にんじんとしてはテキスト云々ではなく、

  •  朗読とは、聞き手に向かって、感情をこめて読み上げる。

 ことです。音読との違いは(1)聞き手がいるか、いないかもそうですし、(2)感情を込めるという点の二種に求められます。(1)(2)のうち(2)のみを満たすとき、それを表現読みと呼んでいます。いかがでしょうか?

 一人芝居というのは一人で演じる芝居のことであって、身体動作も含めたものだと考えられます。では「語り」とはなんなのか……この著者がどう考えていたのかは文章からは読み取れません。

 

 検索してみると、次のような記事がありました。

www.ytv.co.jp

 

 ここにおいて、朗読は聞き手のいる音読とほぼ同一視されています。一方、問題の「語り」は、読み手の解釈を交えて音声化することとあります。つまり我々の考える朗読と同じ意味です。即ち、語りと朗読の差がわかりません。

 

 そうこうしているうちに見つけたのがこちらのサイト。

wind.ap.teacup.com

 

 元がブログということもあり根拠とするには不十分ですが、「テキストの暗記」という要素が持ち出されています。これをもとに、用語を定義しておきましょう。

 

まとめ

  •  音読とは、テキストを声に出して読むことである。
  •  表現読みとは、感情を込めた音読である。
  •  朗読とは、聞き手がいる表現読みである。
  •  語りとは、テキストを持たずにする朗読である。
  •  一人芝居とは、身体動作を伴う語りである。

 とにんじんは、考えています。この本から朗読と音読に違いを読み取ることは出来ませんでした。ただ、語りと一人芝居という概念を教えてくれました。

 聞き手がいるが、感情を込めないで音読するというパターンがありますが、これをナレーションと呼んでは駄目でしょうか? 音読はテキストを読むことですので、たとえば適当に声を出しているだけでは音読になりません。また言い間違いはテキストを読むことに失敗しているので音読ではありません。いわば正確に読む必要がありますよね。

 

 

 

 エクササイズという項目があって、朗読のためにおすすめらしい作品が掲載されているのですが、朗読しやすいようになにか手が加えられているわけでもなくそのまま載せているだけなので「作品名だけ載せればいいのでは?」という感は拭えません。またアクセントなどの例文が色々と載せられているのですが、肝心の音がないので自分の理解と正しいのかわかりません。

 

 

【社労士】健康保険法④ 保険者

保険者

 健康保険法の保険者は、全国健康保険協会及び健康保険組合とする。

 組合が組合員の保険を管掌しているのに対して、協会はそうした組合員以外の被保険者の保険を管掌しています。ただし日雇特例被保険者については協会のみが保険者となります。

  いくつもの場所で働く場合は保険者と年金事務所を1つ選びます(10日以内)。

 

全国健康保険協会

 全国健康保険協会は法人であり、本部:東京都として支部が各都道府県に設置されています。本部構成は「理事長」「理事6人以内」「監事2人」です。本部運営委員会(事業主、被保険者、学識経験者など9人以内)と共に運営をします。

 理事長と監事は厚生労働大臣が任命ですが、理事長の任命にあたっては運営委員会の意見を聴かなければなりません。理事は理事長が任命します。運営委員会のメンバーは厚生労働大臣が選ぶことになっています。

 支部には評議会(事業主、被保険者、学識経験者)が設けられます。

 

健康保険組合

  •  700人以上の一般被保険者を使用する適用事業所 → 単独で設立
  •  何社かで合算して3000人以上 → 共同で設立

 ※両方とも、設立は1/2以上の同意&厚生労働大臣の認可 の後。

 

 設立後は、そこで働く人たちは組合員になります。組合員の中から選挙で組合会議員が選ばれ、さらに組合会の中から理事会(理事+理事長)と監事が選ばれます。

 

 

 

みんなが欲しかった! 社労士 合格へのはじめの一歩 2019年度 (みんなが欲しかった! 合格へのはじめの一歩シリーズ)
 

 

 

【社労士】労働保険の保険料の徴収等に関する法律③ 有期事業の一括

事業の一括

有期事業の一括

 有期事業の一括には、2以上の事業が次の要件を満たす必要があります。

  1.  それぞれの事業の事業主が同一
  2.  それぞれの事業が有期事業
  3.  建設又は立木伐採の事業
  4.  事業規模の概算保険料が160万円未満。
  5.  建設:請負金額が1億8000万円未満
  6.  立木伐採:見込み生産量が1000立方メートル未満
  7.  それぞれの事業がほかと同時に行われること
  8.  労災保険料率に掲げる事業の種類が同じ
  9.  事務が1つの事務所で取り扱われること
  10.  それぞれの事業が、一括事務所の所在地を管轄する都道府県労働局の管轄区域又はこれと隣接する都道府県労働局の管轄区域内で行われること(地域要件は廃止されました。平成31年

 

 要件が多すぎますが、3番で多くが振り落とされます。太字の部分がよく出題されています。3~7あたりでよいと思います。要件に当てはまる事業は一括され、一括されたあとは元に戻ることはありません。また、一括されなかった事業が要件に当てはまったからといって一括されることはありません。これは法律上当然に行われます。

 

  •  一括有期事業開始届:開始の日の属する月の翌月10日までに労働基準監督署
  •  一括有期事業報告書

  次の保険年度の6/1から起算して40日以内 or 消滅した日から50日以内に

  都道府県労働局歳入徴収官に提出

 

 

 

 

【CD-ROM付】月刊社労士受験2019年9月号

【CD-ROM付】月刊社労士受験2019年9月号

 

 

にんじんと読む「キリギリスの哲学」

キリギリスの哲学

 以前紹介した本をにんじんと一緒に読んでいく記事です。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 

 

ゲームとはなにか?

 ゲームとは、

 ルールの認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)。

 のことである。一言でいえば、「不必要な障害物を自ら望んで克服しようとする試み」である。[第3章:定義の構築]

 

  •  前提的目標とは、達成可能なある特定の事態であって、ゲームとは独立に記述されうるもののこと。これに対して、たとえば「勝利する」ことは、内部的目標といわれる。内部的目標は前提的目標を前提としているし、ゲームから独立に記述されない。
  •  ゲーム内部的手段とは、前提的目標を達成する試みにおいてルールに認められている手段のこと。
  •  構成的ルールとは、前提的目標の特定と相まって、当のゲームのプレイにあたって満たされるべきあらゆる条件のことである。ボクシングはあるカウント数だけ相手を床に倒れさせることが目標であるが、その最も確実な手段は殺害することである。しかし、それは禁じられている。これに対して、ゲームをうまくプレイするためのルールを技能ルールと呼ぶ。ボールから目を離さないことはサッカーにおいて重要なことだが、構成的ルールではない。構成的ルールを破ることはゲームプレイに完全に失敗することを意味する。技能ルールを破ることはたしかにプレイを不便にはするが、失敗はしない。ボールから目を離して、味方を見ることだってあるだろう。構成的ルール=前提的目標に到達するうえで最も効率的な手段の使用を禁じるルール
  •  ゲーム内部的態度とは、構成的ルールを受け入れることで可能になる活動を成立させるためだけに構成的ルールを受け入れることである。目標を達するためにまっすぐバイクで進めばいいものを、徒競走というゲームではわざわざ屈折した道を走らせる。そしてそうした非効率性をプレイヤーは受け入れている! この態度はゲームの定義にとって基本的である。

 

批判1:前提的目標を特定することなどできないケースが存在する。

  •  チェックメイトを、チェスのルール抜きでどういう状態のことだと説明する?

 前提的目標はゲームから独立して記述できるはずなのに、チェックメイトはどうしたってチェスというゲーム抜きには記述できないのではないか。

 

反論1:「ゲーム」と「ゲームの制度」

 次の三種類のプレイヤーについて考える。

  1.  チェックメイトする気がまったくない。ルールには完璧に従っているが、チェックメイトにまったく向かう気がない疑似プレイヤー。 → 前提的目標を達成しようという気がまったくなく、ゲームをプレイしていない。
  2.  チェックメイトしようとしてルールを破って来るプレイヤー。 → 前提的目標を達成する気はある。ただし、ルールを破っているのでゲームをプレイしていない。しかし、そのインチキはルールが守られていると期待しているからこそ手を出すもので、彼はゲームを放棄しても、ゲームの制度は放棄していない。ゲームの制度を踏まえて行動し続けることで、相手を出し抜こうとしている。
  3.  ルールも目標もどっちも認めない荒らし屋。苦労の末チェックメイトしても「まだ私のキングは動けますよ」といって駒を空中で振ってみたりする。彼はゲームも、ゲームの制度も放棄している

 

 すなわち、チェックメイトの駒の配置が示され、それがなるほど前提的目標として「ふさわしい」と誰もが納得するのは、あの駒はこの方向にしか進めませんといったようなゲームの制度を参照しているからである。

 繰り返すと、

🥕

たとえばチェックメイトはどうやって記述するの?

🐳

これがチェックメイトだと、駒を並べてみることによってだよ。

🥕

でもそれがチェックメイトなのはゲームのルールですよね。

🐳

違うよ。 駒の配置自体は実際に置いてみることができるでしょ。たとえば子どもが適当に並べた駒がその形になっていることは物理的に十分あり得ることだよね。でも子どもはチェスをプレイしていないよね。

🥕

でもどうしてチェックメイトの駒の配置を示されて、それがわかるの?

🐳

「ゲームの制度」を参照しているからだよ。駒の動きだね。

🥕

ゲームの制度は、ゲームの定義にはなかったようだけど?

🐳

徒競走にはゲームの制度がないよね(明確に必要とされてない)。速度を上げるとか、追い越すとか、そういうのはゲーム自体から離れて存在しているよね。走り方を知らない人はまず徒競走ができないでしょ。でもチェスをする人は駒の動きをチェスで知らないといけないよね。

 ゲームにも制度がはっきりある場合とない場合があるから、定義にとっては本質的ではないんだよ。

 

 前提的目標はゲームとは独立して記述できるが、

 制度から独立しているとは限らない。 

 

批判2:到底ゲームとはいえない例が存在する。

 🥕さんのおうちから🐳さんのおうちには2つの道があります。

 🥕 < じゃあ僕は遠い方から帰るよ。

 

  •  遠いほうから帰ることがゲームだとはとても思えないし、我々は普通そんなものをゲームとは呼ばない。よって、ゲームの定義が広すぎる。

反論2:効率性についての定義

  •  結論:遠回りして家に帰るのはゲームではない。

 しかし明らかに遠いほうから帰るのは定義に合致しているように思われる。前提的目標は家に帰ることであるし、遠回りすることは近道をするという最も効率的な手段を排除しているからである。

  •  効率性について子細に見ておく必要がある。

 効率性とは、所与の目標を達成するのに必要な、限られた資源の支出が最小限であること。すると、遠回りした人物はどのような限られた資源の支出を多くした(=非効率)のだろうか。帰りつく時間か、靴底か。様々な場合がありうるだろう。たとえば徒競走の場合、限られた資源は時間である。数百メートル先に行きつくのにわざわざ走るなんて、自転車に比べたら非効率である。

 よって先ほどの例はゲームと判じるに足る情報がない。

 

 逆に言えば、限られたものが示されれば遠回りすることもゲームになりうる。

 もしも彼にとって時間が限られているとしよう。夕飯までには帰りたい。そうすると遠回りすることは確かに近道するよりも非効率であるといえる。

 

批判3:ルールのないゲームが存在する。

 🥕

なんか人生飽きたな。

🍎

ゲームやろうよ。気晴らしにさ

🥕

いいけど、俺は面倒なルールは嫌いなのさ。効率性isGOD

🍎

それならいいゲームがあるよ。殺し合うこと。

🥕

なるほど。それじゃあ明日の朝からね。

 

 🥕さんと🍎さんは互いが死ぬまで闘うことにしました。

 

 これはルールのないゲームではないか?

 それぞれのプレイヤーはそれぞれの人生に飽きてしまい、ゲームで気晴らしをしていた。でも前提的目標をクリアするために非効率的な手段をとるなど考えられぬことだった。だれがA地点からB地点まで行く目標を掲げながら、バイクで行くことを選ばないだろう。非効率性を避ける唯一のゲーム。それは相手が死ぬまで闘うこと。

 このゲームには効率的な手段を制限するいかなるルールも存在しないように見える。なぜならどんな手段を使っても、相手を殺しさえすればいいのだから!

 

反論3:それは反例になっていない

  •  開始時間より前には殺さない、というルールがある。

 一方が一方をゲーム開始時間より前に殺せば、ゲームをプレイしたことにはならない。これがゲームになるためには、相手にも競ってもらわなければ困る。すなわち、相手も自分を殺せる状況で相手を殺せなければ意味がない。

 開始時間を設けることは非効率的である。合意した瞬間に殺せばよかったのに、わざわざ開始時間まで指定してやるのだから。

 ゆえに、あらゆる競争的ゲームには少なくともひとつこのような構成的ルールが存在する

 

批判4:非競争的なゲームが存在するため、反論3は不十分である。

 単独での登山は非競争的なゲームであって、また、効率的な手段を禁じるルールなど存在しない。登山をゲームだと認めないつもりなら別だが。

 

反論4:「原理的な制限」による反駁

  •  登山はゲームであり、批判4は反駁できる。
  •  「原理的な制限」をもつゲームがある。

 原理的な制限は次の言葉で十分説明していると思われる。

 🥕

 いやあ、昨日はキャロランタン山に登ってきましたよ。

 頂上の景色は最高でね。

 🐳

 ああ、私も昨日ヘリで行って見たわ

 

 しかし実際、エヴェレストに登るためにヘリを使うことはできない(とする)。そうした現実的な点でみれば、エヴェレスト登頂者は最も効率的な手段を使ったことになる。そのように依然として主張することができるだろう。

 だが「行くことができる」としても、挑戦者たちはヘリで行こうとはしないだろう。

 

 

批判5:おままごとはゲームではないのか?

  •  ごっこ遊びは普通の感覚で言えばゲームだと思われるが、ゲームの定義には当てはまらないように思われる。なぜならごっこ遊びには達成すべき目標などないから。

 先述の定義はいわば「目標支配型ゲーム」であって、「役割支配型ゲーム」とでも呼ぶべきごっこ遊びには適用できない。

 

反論5:「オープンゲーム」「クローズドゲーム」

  •  目標追求型、役割支配型という分類は適切ではない。なぜなら役割支配型のゲームも結局は目標追求型のゲームだから。
  •  オープンゲームとは、それを達成するとゲームが終わるという内在的な目標がないゲーム。そうした目標があるゲームをクローズドゲームと呼ぶ。

 

 卓球のラリーを考えよう。0vs0のまま、試合は一切動かない。彼らはずっとラリーを続ける……。これと同じ構造がごっこ遊びにも存在する。

 つまり、ごっこ遊びの前提的目標はそうした「プレイ状態を維持する」ことである。ラリーを続けること、それがごっこ遊びの目標である。

 また、ごっこ遊びは効率性が制限されている。ごっこ遊びには脚本というものがない。もしプレイ状態を維持する目標をより効率的に達成しようと思えば、脚本あるほうがよいだろう。

 

 ゆえに、あらゆるゲームは目標追求型ゲームに分類され、そのうちでオープンゲームとクローズドゲームと分けることが可能である

 

批判6:プロフェッショナルはゲームをプレイしていないのか?

  •  あるサッカー選手について考える。彼は生計を立てるためにサッカーをしている。起業は彼を雇い、お金を与えてくれる。彼はそのために、サッカーをする。
  •  ところでゲーム内部的態度とは、次のように定義されていた。「構成的ルールを受け入れることで可能になる活動を成立させるためだけに構成的ルールを受け入れること」

 

反論6:ゲームが何であるかは動機とは独立している。

  •  ある行為Aを行う理由がRであるとする。
  •  「Rだけの理由によってAする」を(1)Rは常にAを行う理由である。(2)Aを行う他の理由はあり得ない という意味だと解釈すると、なるほど、たしかにプロフェッショナルはゲーム内部的態度を持たない。
  •  しかし、(1)は同意するが、(2)はそうした解釈をとるべきではない。むしろ、(2#)Aを行う他の理由は必要ない と解してほしい。他の理由も許容している。

 もちろんゲームをプレイすることにより、お金を得るといったゲーム外部的な目的を達することもできる。しかし、そのゲームをプレイするためにそうした目的(おかね)を持つ必要はない

  •  プロとプロでない人はゲームに対して異なる態度をとるが、ゲームのルールに対しては同じ態度をとる。ゲーム内部的態度が排除しようとしている例を検討してみよう。

「ゴール地点に爆弾がセットされていることを知った。しかしショートカットしようにもそこには人食い虎がいる。声を出すこともできないとしよう。彼はなんとか先にたどり着いて爆弾を解除するしかない」

 彼は徒競走をプレイしているとはいえない。しかし、他の競技者と同じようにトラックを走り、ゴールすることを目指す。だがルールに対する態度は他の競技者とはまったく異なる。人食い虎がいなければ彼はトラックを横切っただろう!

 いわば彼は、反論1における2種類目のプレイヤーなのである(目標は共有するが、ルールを破る)。彼がその2種類目と異なる点は「実際には破らなかった」点だけである。

 

 

概観の終わり

  ゲームの定義に関わる「キリギリスの哲学」における論争はここまでにする。

 このあと、キリギリスたちは生の理想を探ってユートピアに赴くことになるのだが、興味のある人は買ってもらうか、図書館で借りてほしい。

 以下はキリギリスの哲学に関わる論文を紹介しよう。

 

論文「〈人生〉がゲームであるという可能性について」

 バーナード・スーツのキリギリスが「ゲームをプレイする人生こそが生きるに値する、よき人生である」とするのに対し、「人生それ自体はゲームなのか?」と問う論文。そして人生はゲームだと言っている。定義を確認しよう。

 

〈人生〉ゲーム

  • 前提的目標:「死」
  • 構成的ルールの例:「自殺」

 

 生じる疑問はいくつもある(にんじんが真っ先に思い浮かべたのは他殺である)。

  1.  論文でも触れられているが、〈人生〉ゲームは空虚なゲームである。何故なら死ぬという目標は放っておいても達成されるからである。蛇口をひねって水が出るかどうか賭けようぜというゲームをするとき、出ない可能性があるからこそゲームをするのであって、水道料金を払っていてインフラがまともに機能していれば出るに決まっている。そうした空っぽの目標が、果たしてゲームに値するのかは検討の余地がある(〈人生〉ゲームが、ゲームの定義の反例になっているかもしれないではないか)。
  2.  また、川谷さんは〈人生〉ゲームに対して勝敗という言い方をしているが、そもそも勝つとか負けるとかそういうものが存在するゲームなのだろうか。ごっこ遊びには勝敗が存在しないように思われる。うまく演じられたほうが勝ちだと思ったとしよう。しかし他の誰もそんなことは考えていない、ただ楽しければよいとする。彼は同じゲームをしているのだろうか? また、幸福が人生の勝利条件というのも納得がいかない。仮に幸福になった途端ファーンとラッパが鳴って昇天するにしても、アニメ見てにへらと笑うのは幸福ではないのだろうか。最高善を持ち出しても事情は同じことである。最高善の場合、そもそも記述できることなのかどうかも怪しい。

 スーツがユートピアを描いたのに対して、川谷さんのこの論文はディストピアを描いているような印象を受ける。他殺が禁じられる理由も、「勝利」を達成するために他のプレイヤーがいないと困るという納得いかないものだ。実際、戦争で恐ろしいほど人間が死んでいるし、虐殺もされている。これらはチェスでルール違反者が出るのと同じ例外だろうか? 本当に? 

 

にんじん〈人生〉ゲーム

 もし〈人生〉というものをにんじんが定義しようとするなら、オープンゲームとして定義するだろう。「死」は目的ではないし、「億万長者になったら勝ち、ハイゲーム終わり」というような内在的目標もない。何を達成しようがどうしようが、人生は続いていく。

 何を「勝ち」と呼ぼうがその人の人生は終わらない。死ぬことが勝ちであって自殺を禁ずるのはわかるが、それなら人に憎まれて憎まれて刺し殺されたら「あがり」なのかといったらそんなことはないだろう。つまり、こうである。:

 

にんじん〈人生〉ゲーム

  •  前提的目標:生き続けること

 

 だがこの場合、構成的ルールはなんだろうか。ごっこ遊びの例に戻ろう。ごっこ遊びの構成的ルールは脚本がないことだった。では〈人生〉ゲームにおいての構成的ルールはなんだろう。人生計画表がないこと、だろうか。生き続けるために、最大限寿命を延ばし続ける最適なプランを放棄することだろうか? たしかにそんなプランを手渡されたら、「いや、いらねえよ……」となるに違いないし、そのプランに完璧に従っている人間はもはや生きているとも言えないだろう。

 すると、自殺はゲームを下りることである。他殺はゲームを下ろすことである。他殺が禁じられる理由は明らかで、殺されると目標が達成できないからである。ではなぜ自殺は駄目なのか? それは、同じプレイヤーとして痛みを感じるからではないのか……と答えるのはあいまいかもしれないが、それぐらいしか思いつかない。ただ、他人が痛みを感じるからといって死んではいけない理由はない。

※にんじんが言いたいのは、自殺しないことは構成的ルールなどではない。自殺と他殺との間に構成的・派生的といった区別はなく、まったく同等のもので、まったく同等に「やめたほうがいい」と言われているものである。もちろん、にんじん〈人生〉ゲームでも目標を放棄する行為であることには違いはない。ゲームを下りることでもある。この点は変わらない。

 

  • 前提的目標:死 → 構成的ルール:自殺しないこと[川谷さんゲーム]
  • 前提的目標:生き続けること → 構成的ルール:人生計画表の放棄(死への接近)[にんじんゲーム]

 

 にんじん〈人生〉ゲームにおいて構成的ルールが完璧な人生計画表の放棄である以上、不完全な「生き方」を自らに強いている(なぜなら、パーフェクトプランを提示されても我々は断るから!)。それは死への接近ともいえる。不意の事故で死んでしまったりする。パーフェクトプランに従えば、何億歳と生きられたかもしれないのに!

 死に接近すること。それによって生き続けるという目標を達すること。この一見パラドクシカルな感じは、ゲームそのものではないだろうか。そうして「どう生きるか」が問題になる。まさに人生という感じがする。にんじんとしては、このオープンゲームとしての〈人生〉ゲームの定義を気に入っている。

 

※ここでは「生きること=死なないこと」と言い換えても構わない。

 

  だが、もっと踏み込もう。

  そもそも〈人生〉ゲームの定式化は複数個存在するのではないのか。前提的目標に「死」を選ぶゲーム、「生き続けること」を選ぶゲーム、あるいは「利得を得続ける」ことを選ぶゲームもありうる。つまり〈人生〉はゲームである、というより、成り得るのであって、それは〈人生〉に対してどのような態度をとるかという表明に他ならないのではないか。

 〇〇し続ける、というオープンゲームの形ならいくらでもゲームを量産できる。〈人生〉の終わりはただひとつ、死によってもたらされる。〈人生〉がクローズドゲームたりうる前提的目標は恐らく死ぬことしかないだろう。

  •  オープンゲームを選んだとき、「死」はゲームの失敗を意味する
  •  クローズドゲームを選んだ時、「死」はゲームの成功を意味する

 にんじんは生き続けるというオープンゲームを選んだ。にんじんは死を肯定的なものとして捉えてはいない、ということがわかる(かもしれない)。肯定的な意味を持ちうるとすれば自殺である。なぜなら、古来いろいろな哲学者の言う通り、それは「ゲームから下りる」という積極的な行動であるから。だがもちろん、ゲームの失敗であるという点には違いはない。迫りくるチェックメイトを前に、投了するのと同じである。だから実際は、積極的な行動であるわけではない。見かけだけ、積極的で、実質的には何の違いもない。自殺をしました、えらいですね、ということもなければ、しなかったんですか、えらいですね、ということもない。

 クローズドゲームプレイヤーにおいては、死は「達成」である。宗教では〈人生〉ゲームを道具として利用し、天国に行くための条件であるように捉えていることもある。達成だと捉えるとなんだかいい感じがするが、先述したように、その空虚さに耐えかねる。だからこそ、道具的にゲームを用いようとするのだろう。死が達成だなんて、そんなゲームをプレイする気になれるだろうか。

 

〈人生〉ゲームまとめ

 ゲームの定義:

ルールの認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)。

  •  人生ゲームには本質的に二種類のゲームしか存在しない。
  1.  クローズドゲーム(目標:死)
  2.  オープンゲーム(目標:死なないこと) 

 利得を得ること、といっても本当にそれだけで生きている人間がいるとは思えない。だからそういう例はオープンゲーム内で行うゲームであるとして見れば、人生ゲームには上の2種類しかないと思われる。

 だが、にんじんはもっと強く、こう言いたい。

  •  人生ゲームはオープンゲームである。

 たとえば死ぬために、必然的ではないにしても素晴らしいプランを思いついたとしよう。自殺でも、他殺でもない。何らかの事件をきっかけで、数パーセント程度の確率で死ねる。死が目的なら、乗らない手はないはずだ。しかし、これに乗っかる人間の姿が、全く想像できない。

 もしそのようなプランを実行することは「遠回りな自殺」であるとして棄却している人を想像してほしい。そんな人間が「私の前提的目標は死ぬことですね」と言うことに、どんな意味があるというのだろう?

 要するに、クローズドゲームのプレイヤーは目標などどうでもいいプレイヤーなのであって、チェックメイトをするつもりだよといいながら勝手な手を指すやつと同じなのである。