にんじんブログ

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あのフォロワーを救いたい! 2019年8月版・睡眠の設計!

にんじん健康ランド・睡眠まとめ

  1.  睡眠時間を決めてください(6時間以下はアウト。活動時間を考えながら決定)
  2.  何時に寝て、何時に起きるかを決めてください。起きる時間に目覚まし時計を設定してください。できれば22時~2時の時間は入れてください。
  3.  遮光性カーテンを手に入れるか、窓に布団でも吊るして暗くしてください
  4.  寝る時と起きているときの恰好は変えてください着替えることに意味があります。また、寝るときはゆったりとした服装で、寝返りのうちやすいものにしてください。ハミガキをする手を洗う、なども大変良いです。
  5.  寝る少し前に柔軟体操をするのがおすすめです。足に手が届きますか? 股はどれぐらい広がりますか? 座ってばかりの生活をしているとかなり影響が出てきます。
  6.  本を読むのもおすすめです。わからないぐらいの難しい本がいいです。哲学とかおすすめです。エンタメ小説とかは意味がわかるのでまったくおすすめしません。あれは考えなくても読めます。「嫌になる」瞬間が来るので、本を投げ捨てて電気を消します。
  7.  ただし、携帯だけは絶対にいじらないでください。携帯はマジで睡眠の邪魔です。できれば寝る前に捨ててください。
  8.  ぼーっとしないでくださいまだやることがあります
  9.  ぐっと力いっぱい伸びをしてください。柔軟っぽいことも、寝ながらいっぱいしてください。
  10.  ぼーっとしないでください。まだやることがあります
  11.  柔軟が鬱陶しくなったらその日あった良いことを三つひねりだしてください。このアドバイスをすると「生きれて良かった(笑)」と言い出すのが通例となっていますが、そういう皮肉ではなくて、マジで「進んだな」「良かったな」と思うことを三つ弾き出してください。ポンポンポンと出さなくていいです。けっこう考えて、あーーーとか言ってもいいですし、目をぱちぱちやっててもいいです。むしろ目を閉じないように開けっ放しで耐えるとかでもいいです。その間も考え続けてください。
  12.  三つ思いつく前に大抵寝てますが、大抵寝ていると書いたら多分寝れなくなったと思うので、この後は無意味なことを考えて下さいカレカノのOPみたいに色んなキャラが飛んできては消えていく感じで、雑多に色んなものを飛ばしていってください。無意味であればあるほど良いです。馬鹿馬鹿しすぎて笑ってもいいです。そのうち考えるのが嫌になってきます。
  13.  それでも眠れない場合はもう寝ないでいいです。ただし、次の睡眠時間まで起き続けてください。むしろTwitterに「断眠〇日目で~す」とツイートして記録に挑戦しましょう。まず体調がすぐれなくなり、不機嫌になり、幻聴が聞こえはじめ、幻覚が見え、最後はぶっ倒れます。

 

 

寝れないときは自律訓練法の練習にでもあてましょう!

下に挙げている本を読むのが良いですが、動画でも解説がありました。

自律訓練法の実際:心身の健康のために

 

www.youtube.com

 

 

 

スタンフォード式 最高の睡眠

スタンフォード式 最高の睡眠

 

 

 

自律訓練法の実際:心身の健康のために

自律訓練法の実際:心身の健康のために

 

 

 

【社労士】労働者災害補償保険法② 二次健康診断等給付

二次健康診断等給付

 二次健康診断等給付は、

 労働安全衛生法の規定による一般健康診断のうち直近のものにおいて、血圧検査、血液検査その他の事由による脳血管疾患及び心臓疾患の発生にかかわる身体の状態に関する検査であって、厚生労働省令で定めるものが行われた場合において、当該検査を受けた労働者がそのいずれの項目にも異常の所見があると診断されたときに、当該労働者に対し、その請求に基づいて行う

 とされています。

 安衛法の一般健康診断ですべて異常であったときに、

  1.  二次健康診断
  2.  特定保健指導 … 医師又は保健師による保健指導

 が行われます。もちろん現物給付です。お金はもらえません。

 

社会復帰事業

「政府は、労働者災害補償保険の適用事業に係る労働者及びその遺族について、社会復帰促進等事業として、次の事業を行うことができる」とされています。

  1.  社会復帰促進事業
  2.  被災労働者等援護事業
  3.  安全衛生確保等事業

 

 被災労働者とは業務災害や通勤災害に遭った労働者のことですが、こうした被災労働者のために全国各地に労災病院を設置したり、たとえば義肢や義眼などの補装具の支給などが行われています。(社会復帰促進事業

 また特別支給金、労災就学援護費、労災就労保育園援護費などの支給金や貸し付けなど、お金に関わる事業も行われています。(被災労働者等援護事業

 それ以外にも事業主に対して労働災害防止の指導パンフレットや、講習会を開くなどの事業や、未払い賃金を国が立て替える事業など、事業主に対する活動もあります(安全衛生確保等事業

 

 

労災保険の実務と手続き 最強ガイド

労災保険の実務と手続き 最強ガイド

 

 

 

にんじんと読む「MIND 心の哲学」

 にんじんと読む記事です。

 

実体二元論

「世界はそれ自体で存在しうる二種類の実体または存在者に分かれて」おり、「心的な実体と物理的な実体が存在する」という考え方。

 

  •  この実体二元論は我々の直観に合致する。この世のすべてのものは物的なものか心的なものだ、と言われたら(哲学をやっていない限りは)思わず聞き流してしまうことだろう。
  •  「実体」とは真に実在するものの意である。また「Aの本質」とは、AがAであるために最低限備えていなければならない性質の意である。実体二元論において、物的なものの本質は空間的な広がりをもつ(延長)とされ、心的なものの本質は意識(思惟)であると考えられている。

 

 しかし、この実体二元論には多くの問題がある。

 

  1.  心身問題  = 心的、物的なものの間の関係は?
  2.  他者    = 他人には心があるか?
  3.  動物    = 動物には心があるか?
  4.  外部世界  = すべて私の心なのではないか?
  5.  知覚    = なぜリンゴが目の前にあることがわかる?
  6.  自由意志  = 世界のシナリオは既に決まっているか?
  7.  自己同一性 = 昨日と今日の自分は同じか?
  8.  睡眠    = 寝てるとき私は存在していないのか?
  9.  志向性   = どうして遠くにあるもののことを考えられるのか?
  10.  因果    = 物的な因果に心的なものがどうやって絡むのか?
  11.  無意識   = 無意識的にしていることは普通にあるのではないか?
  12.  説明    = 心理や社会現象をどうすればうまく説明できる?

 

 12個もあるが、すこしまとめてみよう。

「この世のものが物的なものか心的なものかいずれかです」と言われたとき。

  • 「そもそもどちらか片方だけでは?」 → 4番と6番
  • 「心的=意識でいいの?(無意識のこと忘れてない?)」→ 8番と11番
  • 「心的って世界の中のどこにもないくせにどうやって影響を及ぼし合うの?」→1番と5番と10番

 だとすれば、「心身問題」「心的なもの=意識?」「心的のみ・物的のみ」でかなり問題が見やすくなる。これら3つはまだ二元論を受け入れていない。残りは受け入れた上でここどうなるのと言っているタイプで、調べればきっともっと出てくることだろう。

 二元論は現在では相当に評判が悪い。二元論を擁護している本を見たことがないほどである。しかし、我々は気を抜くと二元論的な見方をしている。二元論を採用すれば肉体が滅びても魂は残ってくれるので宗教的にはありがたい教えとなっている。

 

唯物論

 二元論は評判が悪いので、心的のみ・物的のみかのどちらかだという考え方が出てくる。前者を観念論と呼び、後者を唯物論と呼ぶ。観念論によれば、この世界のすべては心的なものである。しかし現在において、それほど有力な立場ではない。

 これらに対する反論まで、この本では幅広く詳しく扱っており、しかも反論に対する反論まで紹介し、さらにそれを反論で返す徹底ぶりである。これに関しては是非、本を見てほしいが、決定的な反論はやはりこれだろう。「唯物論の分析は心的現象について十分条件を与え損なっている」。その心的状態にある時、物的にそういう状態であるとしても、そういう状態だからといってその心的状態にない場合が十分考えられる。

行動主義

 最初期の行動主義は、「心とは身体の行動にすぎない」とする唯物論の一種だった。心の科学=人間行動の科学として刺激と反応を研究したのは方法論的行動主義であり、彼らは二元論が科学の方法として誤っていると批判した。その一方で、二元論が方法という以上に論理的に誤っていると主張した論理的行動主義もあった。

 論理的行動主義は、心的状態に関する言明は行動に関する言明に翻訳できると主張した。たとえば「にんブロを読むのが楽しい」という心の状態は定期的なご愛顧や、記事に対するコメントなどなど多数の言明に翻訳できる。「ある心的な状態をもつということは、ちょうどある種の行動への傾向性がある」ことにすぎない。つまり、もしAならBという行動がつづく、という風に。

 

 たしかに心理学において実際の行動が有力な手掛かりになるのは間違いない。しかしそれを心そのものと同一視するのはおかしい。言語学者チョムスキーはこういうことを述べた。:「心理学を研究するために行動を研究するという発想は、物理学を研究しようとして計測を研究するのと同じぐらいばかげている」。計測結果は物理学において証拠になるが、研究対象そのものではない。

 また、A→Bという条件文のAをどうやって知るんだという批判にもさらされた。「にんブロが更新されているだろう」というあなたがたの信念について考えよう。論理的行動主義によれば、この信念は別の言葉、つまり行動に翻訳される。ありがたいことに、あなたはにんブロが更新されていたら記事を読みに行くひとだとしよう。しかし、にんブロが更新されていて記事を読みに行くのは、記事が読みたい人だけである。更新されていると知っていようが、だからなんだ俺はにんブロは読みたくねえんだという人はいる。心的状態を翻訳すると行動 + 欲求 が出てきてしまった。

 さらに考えてみる。にんブロが読みたいという欲求とはなにか。それは少なくとも目の前に記事があったら読むことを含むだろう。もしそうでなければ到底「読みたい人」としては扱えない。だが、目の前に記事があるとまったく思っていない人は記事など読まないのだから、目の前に記事があるという信念を仮定してはいないだろうか? こうして、分析したつもりがまた余計な邪魔ものが出てきてしまった。

 そして、行動主義は直観に反する。にんブロをご愛顧したいからご愛顧していると読者は思っているのに、行動主義はその因果関係を否定するからである。ご愛顧したいという願望はたとえば目の前に記事があったら読むことだし、更新してたら読むこともである。先ほどの困難は脇に置いても、この条件文に当てはまればご愛顧してしまう。それが欲求だと説明される。欲求は内的な経験などでは一切ない。この点が気持ち悪く感じられてしまうのだ。

 行動主義者になるには「知覚麻痺のふり」をする必要があると、はやくも一九二〇年代にI・A・リチャーズは指摘している。

 ある行動主義者のカップルを想像してほしい。ベッドをともにした後、男が女に向かってこう言う。「君はすごく楽しんだ。僕のほうはどうだろう?」

 

物理主義

 「人が心だと考えるものは脳に他ならない」

 行動主義が心的というものの定義に攻撃を加えたのに対して、物理主義は違う。心的なものはまぁいいとしても、その心的なものって実は脳のことなんですよと主張した。

  •  論理的行動主義 : 心的状態の概念の分析
  •  物理主義    : 心的状態がどう存在しているか → 結局は脳と同じ

 これにも批判がある。物理主義によれば「イカ娘がまだ連載を続けている」という信念に対応する脳状態があるはずである。これをTKヘブン状態と呼ぼう。TKヘブン状態は、つむじのちょっと下あたりの脳がビンビン来てることだとする。だが、これを「同じことだ」と判ずるためには、イカ娘連載信念とTKヘブン状態をそれぞれ見比べて精査してみないといけない。だが当のイカ娘連載信念とはいったいなんなのか。何を見ればいいのかさっぱりわからない。結局、後退してしまうように思われる。

 それからこれはにんじんが勝手に付け足したものだが、イカ娘を全く知らない人間がつむじのちょっと下あたりを刺激されたらTKヘブン状態に達するのだろうか。ファンファンファーマシーを知らない世代がファンファンファーマシー脳状態にさせられたらファンファンファーマシーが見たくなるのか? 何かも知らないのに? それとも、イカ娘を知っている脳状態というのがあって、イカ娘既知脳状態になった上でなければTKヘブン状態になれないのだろうか。そうすると、にんじんはファンファンファーマシー既知状態でもありイカ娘既知状態でもありグレンラガン既知状態でもあることになるが。

 

機能主義

 次に現れたのが機能主義である。

  •  物理主義が心的状態を、脳状態だとしたのに対して、
  •  機能主義は心的状態を、ある機能を持つなんらかの状態のことだといった。

 つまり「どういう状態かは知らないがそれより機能について研究しないか」ということで、読んだ限りだと完全に匙を投げているように見える。 

 ある意味行動主義に戻ったように思われるこの回答は、行動主義の難点を大きく改善させた(らしい)が、心というシステムがなんなのかはさっぱりわからなないものとして放り出された。

 最近になって、脳はコンピュータであり、心というのは一つ又は複数のプログラムの組み合わせであって、心的状態というのは脳の計算的な状態であるとされる立場が出て来た。これをコンピュータ機能主義という。この考え方は非常に一般的になりつつあるようににんじんは思う。「適切にプログラムされたコンピュータは心をシミュレートするだけではなく、心をもつ」のである。

 

消去的唯物論

 行動主義は心を行動であると読み替え、物理主義は心を脳と同一視した。機能主義もまた物理主義の派生のひとつといえる。

 これ以外にもまだ答え方はある。「心的状態などというものは存在しない」これが消去的唯物論である。心というものは人々の行動を説明するために用意された前提である。にんブロをご愛顧している人は、ご愛顧するという欲求を持っているからご愛顧したのだと説明される。欲求なんてものは本当は存在しないのに、説明のために便宜上置いたものに過ぎない。

 消去的唯物論の目標は前提が誤りだと示すことである。

 私たちが普段持っている常識(「民間心理学」と呼ばれる)は誤りだらけ。私たちの心に対する常識はことごとく科学によって覆されてきた。だから、そもそも前提が誤っている、というわけである。

 

非法則的一元論

 「心的な記述 と 物理的な記述は法則のような仕方では関わっていない」というのが非法則的一元論である。これはつまり、心的なものはすべて物的なものである(一元論)のだけれど、たとえ物理学が完成しすべてがわかるようになったとしても心的状態は予測できない、という意味である。

 逆に法則的一元論は物理的なことが全部わかれば心の働きも全部わかるはずだ、と主張する。

 

生物学的自然主義

  ここまで見て来たのは心的なものと物的なものの二元論と、その片方をとろうとする一元論だった。この両者には共通点がある。二元論は当然として、一元論の立場においても「物的なもの」と「心的なもの」を区別している、という点である。区別したうえでそんなものはないと言ったり、実は心的なものは脳なのだといったりしている。

 この本の著者は、次の四つを誤った仮説として否定する。:

  1.  心的なものと物理的なものの区別
  2.  還元の概念(AがBに還元されるなら、AはBに他ならない)
  3.  因果と出来事(原因は結果より前に生じる)
  4.  同一性の自明視(水=H2O か?)

 彼自身の立場「生物学的自然主義」は、これらの仮定をもたない。生物学的自然主義は次の4つのテーゼから成る。:

  1.  意識状態——主観的、一人称的存在論をともなった意識状態――は、現実世界における現実の現象である。意識が錯覚であることを示すだけではそれを消去的に還元することはできない。なぜならそのような三人称的な還元は、意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。
  2.  意識状態は、もっぱら脳内におけるより低レヴェルの神経生物学的な過程によって引き起こされている。従って意識状態は、神経生物学的過程に因果的に還元できる。意識状態には、神経生物学的な基盤から独立したそれ自体の活動というものはまったくない。因果的に言えば、意識状態は神経生物学的な過程「とは別の」なにかではない。
  3.  意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている。従って、意識状態はニューロンシナプスよりも高レヴェルで存在している。個々のニューロンは意識を備えていない。だが、ニューロンから成る脳組織の諸部分は意識を備えている。
  4.  意識状態は、現実世界の中の現実の性質であるから因果的に機能する。たとえば私の意識にあらわれる喉の渇きは、私が水を飲む原因となる。

 

 還元には二種類ある。因果的な還元存在論的な還元が。

  •  Aの現象をBの現象に因果的に還元できるというのは、Aのふるまいが完全にBのふるまいによって因果的に説明され+AがBを引き起こすさまざまな力の他に因果的な諸力をもたないその場合に限られる。
  •  Aの現象をBの現象に存在論的に還元できるというのは、AがBにほかならない場合に限られる。たとえば物質的なものは分子の集合に他ならないとか、日没は太陽に対する地球の地軸における自転によって生み出される感覚上の現象にほかならない。

 また、文中にある「消去的還元」とは、たとえば日没が地球の自転によるわれわれの錯覚であることによって、日没を消去するようなことを指す。

生物学的自然主義の検討

  •  心的と物的の区別について

 まず生物学的自然主義においては、二つを形而上学的にまったく異なる存在としては捉えていない。意識とは脳の性質であって、物理的世界の一部としてある。

 それは「主観的」「質的」「志向性がある」といった特徴を持つ。肝心なことは、この三つの特徴は「延長をもたない」「物理的過程によって説明できない」「因果的に作用できない」という伝統的に物的なものの性質として捉えられていた性質を、含意しないということである。また、逆に「客観的」「量的」「志向性がない」といった物的なものの特徴は物理的な宇宙の一部であるための必要条件ではない。

 言い換えると、こうなる。

 伝統的な物的と質的の区別は「主観的」―「客観的」、「質的」―「量的」、「志向性がある」―「ない」によって与えられてきた。この区別は完全に誤っている。なぜなら主観的・質的・志向的といった状態を物理的システムが備えているはずはないと考えるのには根拠がない。意識の程度についての計量法がありえないという理由は何もない。

 だからこそ、生物学的自然主義は二元論でも一元論でもない。これらは心的なものと物的なものの区別を受け入れることを前提として議論しているから。

 

  •  還元

 還元には混乱がある。物質の三態として固体・液体・気体があるがこの現象は、分子のふるまいによって説明される(因果的な還元)。しかし、人はこれをもとに存在論的な還元を行い、固体というものを分子のふるまいから因果的に定義する。

 「意識のばあい、因果的な還元を行うことはできるが、私たちが意識という概念をもつというポイントを失うことなく存在論的な還元を行うことはできない」

 意識は神経生物学的な過程、たとえばニューロンのふるまいなどによって因果的に説明できるが、意識はニューロンのふるまいにすぎないと証明されたわけではない。

 

 たとえばここにフォロワーを連れて来て、脳の細かなふるまいを検知する装置を脳に取りつける。計測によって次のようなことがいえるかもしれない。「装置によれば彼は痛みを感じているはずだ!」同じように、このようにも言えるかもしれない。「これは固体に見えるかもしれないが、実は液体だ」

 どちらの例も、因果的な還元によって痛みと液体を再定義している。しかし、

「意識という概念をもつことのポイントは、その現象の一人称的・主観的な性質をとらえることであるのだから、意識を三人称的・客観的な言葉で定義しなおしたら、この論点は失われてしまう」

 のである。

「一人称的な実在はすべてその三人称的な因果的基盤への因果的に還元できる。しかしそこには非対称性がある。(中略)もし一人称的な存在論を切り離し、意識を三人称的な用語で再定義したら、私たちが意識という概念をもつこの意義を失うだろう」

 

 AによってBを還元したからといって、Bが不要になるわけではない。消去的還元とそれ以外の還元を区別しよう。消去的還元は、「Bが実は存在していなかった」ことを示す。日没は地球の自転による錯覚である。

 意識は実際に存在する。だから消去的に還元することなどできない。

  •  因果と出来事

 多くの場合、原因は結果と同時に起こる。この記事を読んでいるあなたが宙に浮かばないのは重力を受けているからだが、重力は持続的に作用する力である。

「私たちは自然の因果的な秩序について議論している。その秩序は、時系列の中で連続する離散的な出来事の問題ということはめったになく、システムのマクロな性質を因果的に説明するミクロな現象の問題なのである」

 

  •  同一性

 私たちが水だと呼んできた液体がH2O分子から構成されるとわかると、私たちはH2Oを水の定義の中に繰り込む。水=H2Oなのではなくて、繰り込んだ結果なのである。

 

 

 

 

 意識とは脳過程である。この点で唯物論と同じ主張をしているが、生物学的自然主義は、脳過程でありながら主観的・質的・志向的なものだという。

 

 

にんじんと学ぶ「法律」

 本日のテーマは「法律」です。

 

 

憲法

 デリケートなテーマですので、慎重にいかないといけません。基本的には次の本を参考にしていますが、にんじんがわかりやすいように読み変えています。

 

 

 憲法というのは、

「国の統治の基本的体制または根本の秩序を定める法規範」

(固有の意味の憲法

  のことです。だからそれで憲法の意味としては話が終わってしまうのですが、これだけに留めてしまうと、困ったことが起きます。独裁政治にしてもなんにしても、国としてまとまった秩序がある以上、そこに憲法があると考えられるからです。つまり上の意味での憲法があるんですと言っても何も説明したことにはならず、憲法の特徴を捉え切れていません。

※この記事では固有の意味の憲法を単に「憲法」と呼ぶことにしましょう。

 たとえば近代。専制主義の国家体制を否定し、国家権力は無制約に国民を規制できないという主張が起こりました。「国家の統治の権力に法的根拠を与える」ものであることに加え、「国家権力が憲法の制約をうけ、国政が憲法の定めるところにしたがって行われる」(立憲主義という原理を盛り込んだものこそ憲法であるという考え方です。このような立憲主義を盛り込んだ憲法は、近代憲法と呼ばれます。憲法というのは国民ではなくて国家を縛るものだ、というのはよく聞きますが、あれは立憲主義という考え方です。

 近代憲法には次の三特徴があります。:

  1.  国民の政治参加 → 国民が単なる被治者ではない
  2.  権力分立 → 権力が集中すると法による制約が困難になる
  3.  基本権の保障 → 国家権力が手を出せない限界

 これらはいずれも権力を抑制するという機能をもちます。憲法は国家権力に根拠を与え、権力に正当性を与えますが、近代憲法はこれを抑制します。他にも近代憲法には成文という特色があります。成文化すると法律関係が明確になるため、国家権力の限界も明確になります。そのため、近代憲法と成文は結びつきやすくなっています。*1また、通常の立法手続きよりも厳重であり改正しづらいのがふつうです。近代憲法は権力を抑制するという重要な役割がある以上、安易で軽率な変更を受けないようになりやすいのです。しかし一方で改正がしづらいために社会状況とギャップが起こる場合もあります。

 このような近代憲法は、現代に入り政治・社会・経済の要請に応じて修正を受けています。これを現代憲法と呼びます。

  1.  権力と自由の同化 → 「抑制」のためではなく、国民の政治参加で積極的に公権力を行使していく
  2.  権力の集中 → 分立させた権力が役割を果たせなくなった
  3.  社会権の保障 → 国家権力の不干渉から、積極的な関与へ
  4.  憲法の国際化 → 国家を超えた憲法的規範。ex国際人権規約

 

 刑法

刑法とは、刑罰権を行う要件を定めた法である。

罪刑法定主義とは、ある行為を罰するには、行為当時、成文の法律によって、その行為を罰する旨が定められていなければならないとする原則。

犯罪とは、その行為者に刑罰という法的効果が帰属する事実である。

刑法(全) 第4版 (有斐閣双書)

 

 罪刑法定主義によれば、刑罰のためには法がなければならない。そして犯罪とは刑罰という法的効果が帰属する事実である。つまり、ある事実が犯罪に類するかどうかは法が決める。それが犯罪であるかどうかは既に決まっているのである。

 犯罪構成要件とは、法律上可罰的である違法行為の類型を示したものである。これを用いて犯罪を言い換えれば、犯罪とは、犯罪構成要件に該当した行為であるといえる。

[1]

 構成要件に該当する行為をすればそれはただちに犯罪であると推定されるが、これには三種類の例外がある。:(1)正当業務行為(2)正当防衛(3)緊急避難

 

[2]

 構成要件に該当する行為をした行為者について、責任能力が問われる場合がある。一般に人にはそうした能力があるとされ、例外的に(1)心神喪失・心身耗弱(2)少年 の場合、責任能力が欠け、あるいは著しく弱められているといわれる。

 また「故意」「過失」といった視点もある。故意でない行為は罰されないのが原則であり、過失で罰されるかは法律に特別の定めがある場合に限る。

 

民事訴訟

民事訴訟とは、私法上の権利義務や法律関係(権利関係)をめぐる私人間の紛争(民事紛争)を扱う紛争解決制度である。民事訴訟は紛争を解決する制度の一つであり、これ以外にも「和解」「調停」「仲裁」といった手段もある。民事訴訟がこれらの制度と異なる点は、紛争当事者の合意が必要ではない点である。

  1.  たとえば誰かから訴訟を起こされた場合、その制度利用を拒むことは出来ない(これを応訴強制という)。もし欠席した場合は訴えを起こした側の請求が認められ、強制的に実現されるのである。
  2.  民事訴訟は紛争当事者の合意を必要としない。だから敗訴したほうは判決に不満を持つことになる。しかしそこでまた紛争を蒸し返しては、紛争解決手段として機能していない。そこで、裁判所がした判決が確定したら、紛争の蒸し返しを禁止している。これを既判力という。確定判決に示された裁判所の判断は、当事者とそれ以降の裁判所を拘束する。すなわち、もし蒸し返されても同じ判決が下されるため、同じ紛争が起きることはまずない。

 民事訴訟は、冒頭で書いたように、私法上の権利関係に関わる。原告(訴えを起こした側)の言う権利関係の存否について争うわけだから、民事訴訟は権利行使の一場面である。*2

 そして私法には、私的自治の原則がある。これは私法上の権利を有するものが、その権利を行使するか、いつ行使するか、どのぐらい行使するかをその者に委ねるものである。この原則は、もちろん民事訴訟においても現れる。

  1.  処分権主義とは、訴訟の開始・終了および審判の範囲を当事者が自由に設定できるという原則。
  2.  弁論主義とは、事実や証拠といった裁判所が判断を示すための材料の収集および提出を当事者の権能かつ責任とする原則。つまり、当事者が提出しない事実を判決の基礎にすることはできないし、また、裁判所は職権で証拠調べをすることはできない(職権証拠調べの禁止)

 民事訴訟は紛争解決のための制度である。紛争当事者がやりとりをして、結局権利関係があるのかないのかわからない場合でも、裁判所は判決を下さなければならない。このとき利用されるのが「証明責任」であり、この責任を負っているほうが証明できなかった場合はその者の不利益になる。

 

 最後に、民事訴訟の流れについて書く。

 (1)民事訴訟は訴えの提起に始まる。

 (2)権利関係の存否について争う(審理)

    ここでは裁判所の判決のための判断資料を収集する。

 (3)確定判決によって既判力が生じ、紛争が終結する。

    もちろん三審制のもと、判決に対しては不服申し立てをすることができる。

    この不服申し立てがなされなかった場合、その判決は確定する。

 

※ところで行政書士受験者にとってはおなじみの「行政訴訟法」は民事訴訟法の特別法であり、その手続きには違いがある。たとえば、行政訴訟の際には裁判所の「職権証拠調べ」が認められている。この点が(割と)行政書士の資格試験に出題されたりするのは、一般法である民事訴訟法とは異なる点で、強調するべきだからだと思われる。

 

 脱線話:訴訟のビジネス

 訴訟にはお金がかかる。50万円の債権を争って勝っても、費用に100万円かかっては仕方がない。単純に言って、「訴訟でとれるカネ」から「費用」を差し引いてマイナスになったら裁判を起こすべきではない。

 訴訟でとれる金のことを「訴額」という。

 この訴額に応じて裁判所に払う手数料が決まる。まぁ大体1%で、額が上がれば上がるほど手数料は少なくなる。このほか、訴状の提出に切手が6000円ぐらいかかる。

 基本はこれぐらいで、証人を呼んだりすると宿泊費とか交通費とかもかかる。

  訴訟で勝てば費用は相手持ちになるが、訴額がそれほど高くない限り「手続き的に厄介だから」取り立てはしないことが多い。

 

 訴訟を起こすと、面倒な事件になればなるほど裁判所に行く回数が増える。基本的には毎月1回程度である。このことは裁判の傍聴に行った人ならわかるかもしれないが「次の審理は来月の~」と言ったりして、夏休みを利用して傍聴に行った人は「いや、夏休みが終わるだろうが」と漏らすことになる。ただ、少額訴訟の場合は1日で終わる建前になっているので、期間については本当に事件による。

 費用だけではなく、こうした手間も考慮する必要がある。専門家に頼むのも費用の一部であるから、こうした面からも考えないといけない。法テラスは裁判費用の立替をしてくれるからそれでお金の工面を一応つけるということもできる。専門家を頼るのは、もちろん法律の事を知っているからでもあるが、書類上においても「勝てる」書き方をしてくれるからでもある。

 上記の通り、裁判官は基本的にあまり審理に絡まない。証拠を揃えるのは全部こっちの仕事で、向こうはそれをもとに判決をするのが仕事である。彼らの主な仕事は裁判の進行であるから、どちらが勝つかを決めるのは「こっち」と「むこう」のやり方にかかっている。

 

 訴訟の主体

 裁判所司法権(憲76条1項)を持ち、当事者は裁判を受ける権利(憲32条)を持つ。

裁判所

 司法権とは、具体的事件を裁判によって処理し法秩序を保持する国家権力である。裁判権ともいう。このうち、民事訴訟を処理するために行使されるものを民事裁判権といい、民事訴訟制度はこの権力を行使するために存在する。訴訟に際しては、当該裁判所が当該事件の民事裁判権を有しているかどうかが問題になる。

(1)広い視点

  1.  民事裁判権は領土主権の及ぶ範囲によって決まる。外国で証拠調べをするときは条約等に則って、外国の司法機関に司法共助を求めなければならない(民訴184条)
  2.  天皇には民事裁判権は及ばない。(最高裁判例平成元年11月20日
  3.  外国国家・外国の元首・外交団の構成員とその家族、随員は治外法権
  4.  「法律上の争訟」のみに裁判権を行使できる

 では、法律上の争訟とはなんであるか。これについて最高裁はこう判示する。:

 法律上の争訟とは、当事者間の具体的な権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であって、これが法律の適用によって終局的に解決できるものであることをいう。

 たとえば、宗教団体の内部紛争は法律上の争訟にあたらない場合がある。ある人の宗教上の地位に関する確認の訴えは法律上の争訟にあたらず、却下される。一方で、現住職が元住職に対して建物の明け渡しを要求する訴えは法律上の争訟にあたるが、しかし、この判断に宗教上の教義が問題になる場合には裁判所は教義内容について審判する権利を有さない以上、法律の適用によって解決することができないため却下される。

(2)狭い視点

 日本には様々な裁判所がある。次はどこの裁判所がその事件に対して裁判権を行使するのかを考える必要がある。これはあらかじめ定まっており、これを管轄という。管轄の判断は訴え提起時を基準とする。

①職分管轄

 原則として最高裁判所に訴えを提起することはできない。裁判所にはそれぞれ役割があり、その役割に応じて管轄が定まっている。判決手続きを担当するのが「受訴裁判所」であり、執行手続きを担当するのが「執行裁判所」である。

 受訴裁判所は「第一審裁判所」と「上訴裁判所」に分かれ、基本的に第一審裁判所となりうるのは地方裁判所簡易裁判所である。

②事物管轄

 地方裁判所簡易裁判所のどちらに訴えるかは「訴額」によって定められる。

 訴額とは、原告が訴えによって保護を求めている利益を金銭的に評価した額をいう(民訴8条1項)。

③土地管轄

 訴えを提起する受訴裁判所、つまり第一審裁判所が定まった場合、さらに地理的にどこの裁判所に訴えるかが問題になる。土地管轄は「普通裁判籍」と「特別裁判籍」に分類される。

 普通裁判籍とは、被告に対するあらゆる訴えを提起できる土地管轄である。原告が被告の住所地に出向く。

 特別裁判籍とは、特定の種類の請求について認められる土地管轄である。

 

 以上、①~③を法定管轄と呼ぶ。このほか、特定の場合に申し立てを行うことで、上級裁判所が管轄裁判所を裁判によって決定する指定管轄がある。

 もし管轄を間違えて訴えを提起した場合、「訴訟の移送」が行われる。

 

 法的三段論法

 

法規範  法共同体の成員が自己の行動の基準として受容し、自己の行動の正当化の理由や他人の行動に対する要求・期待あるいは非難の理由として公的に用いる社会規範の一種である。

 法規範は社会規範(道徳・宗教・習俗など)のひとつである。

 法規範には、「法準則」「一般基準」「原理」がある。法準則は最も明快で、PならばQといった形式をもつ。一般基準や原理はそのような形式を持たず、適用されても結論を必然的とはせずに、結論の方向性を示す。【ex. この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない】

 

 要件事実とは、実体法の定める一定の法律上の効果を発生させるための要件を構成する確個の要件のことである。これは法準則「PならばQ」のPに関係する。要件事実に該当する具体的事実のことを主要事実と呼ぶ。*3

 争点とは、法適用に意味ある主張事実の不一致である。争点には「事実レベル」「法的レベル」の二種類がある。事実レベルの争点とは、ある事実が主要事実となっているかということである。また、法的レベルの争点とは、法的観点における見解の相違である。にんじんが解釈するに、そもそも今の問題に対してその条文を適用できるのかとか、事実レベルよりも一段メタな視点からのものだろう。

 争点整理とは、争点を明確化しこれを絞ることである。これは主に弁論準備手続(民事訴訟法168条)においてなされる。

 立証命題とは、整理された争点のことである。この証拠によるとあれはこうですよね、それはああでいいんですよね、とお互いの同意できる部分とできない部分をより分けていった結果、円満に解決すればそれが一番良い。しかし争っている以上、そうはならない。この時、争っている両者の間に、見解の一致しない争点が存する。これを立証命題と呼ぶ。たとえば「あの日契約しましたよね」「いやしてませんよ」と言い争いになった場合は「〇月×日、契約を締結した」が立証命題となる。「契約の成立の有無」が立証命題だとも言えるだろう。

 つまり立証命題とは、立証活動の対象、つまり目標である。命題が事実に合致すれば真(true)、事実に反すれば偽(false)と呼ばれる。論理学の問題と違って、裁判所は最終的には真偽不明でも判決を示さなければならない。真偽不明の立証命題は、立証責任の所在に応じて真偽が仮定される(「君が証明しないといけないのにできてない。だからこれは偽ね」)。真偽が確定すれば、法律効果の発生の有無が決せられ、判決を言い渡すことができる、という仕組みである。

 

法的三段論法

 法的三段論法とは、適用されるべき法規範を大前提とし、具体的事実を小前提として、このふたつの前提から判決を結論として導き出す推論形式である。すなわち、「PならばQ(大前提)、Pである(小前提)、つまりQ(結論)」である。

 裁判所が判決する過程(司法的決定過程)には、(1)正当化の過程と(2)発見の過程がある。すなわち判決やその他法的主張をどうやって見出したか(2)ということと、法的主張をこれこれだから正しいと根拠づける(1)という二つのプロセスである。法的三段論法は(1)正当化の過程に関わるものであることは明白である。

 さらに正当化の過程は「ミクロ正当化」と「マクロ正当化」に分かれる。

  •   ミクロ正当化とは、ある言明を論理的な推論テストにさらすことによる正当化のことで、
  •  マクロ正当化とは、ミクロ正当化のテストの前提となる言明そのものの正当化のことである。

 すなわち、「大前提A→BにおいてAという小前提のあるところ、Bという結論が帰結する」という場合において、「A→B、A から B を帰結」することが妥当であるかを検討するのがミクロ正当化であり、一方「A→B」「A」が妥当であるかを検討するのがマクロ正当化であるといえる。

トゥールミンの議論図式

 先述したように法的三段論法は、形式論理学的な三段論法とは異なる。ではこれをどのように取り扱うかという問題については、「トゥールミンの議論図式に依拠するのが相当」であると著者は書いている。

 ある主張と、その根拠たるデータをそれぞれCおよびDと呼ぶことにする。主張は「Dという事実によりCである」と言われる。ではなぜDという事実によりCが導出されるのか、という問いを正当化するために根拠を必要とする場面がある(主張に納得しない人がいた場合)。その根拠をWと呼ぼう。そしてそのWの裏付けをBと呼ぼう。これが基本構造である。

 この基本構造に、実際的には「Dという事実によりおそらく(ほぼ確実に、たぶん)Cである」という限定句が加わる。この限定句の内実を留保・例外・反駁の条件と呼び、それぞれQ、Rと呼ぼう。

 以上まとめれば、

 「Dという事実によりQ、Cである。ただしRがないならば」

 ということになる。

 

 この図式によって議論の流れを追うことができる。

 Cでないことを示そうとする論者は、Dというデータに合わせてR1を主張し、B2を裏付けとした新たな根拠W2を用いて「Cでない」を示そうとするだろう。これに対する抗弁としては、DおよびR1に加えてR2を付け加えて、B3を裏付けとした新たな根拠W3を用いて「C」を再び示そうとするだろう。

 

※にんじんメモ

 だが、一見してこの議論スタイルは非生産的であるように思われる。なぜなら、異なる立論を提案するばかりで、相手の意見について反論する気が一切ないからである。「パンダは白黒だという事実から、白黒なのは可愛い証拠なので、パンダは可愛い」と言っている人に「パンダは白黒だし、なんか笹とか食う。白黒で笹とか食う奴は可愛くないのでパンダは可愛くない」と抗弁したところで何の意味もない。

 相手のWが成立することをもし認めるのであればそれはCを認めることと同義である。そうであれば、抗弁は「Dを叩く」か「Wを叩く」しかありえない。そのうえで自らの立論を披露しなければ何の意味もないと思われる。今のままだと両者は議論しているわけではなく、ただ自分の主張をごちゃごちゃ語っているだけである。

 

 トゥールミンの議論図式をもとに以後本は進んでいくが、ここで詰まってしまったのでこの点を勉強したい。

 

 

議論の技法

議論の技法

 

 

*1:例外はイギリス。イギリスの憲法には法典がない

*2:たとえば、お金を貸している側は、相手方に返すように請求できるという権利を有する。にもかかわらず相手が返さないので、権利を行使するために民事訴訟をおこすのである

*3:こう言ったほうがわかりやすい人がいるかもしれない。「タイプとトークンの区別」

【社労士】労働基準法「平均賃金」&「労働協約と労使協定の違い(ざっくり)」

平均賃金の原則

 労働基準法では、

 平均賃金とは、これを算定すべき事由の発生した日(賃金締切日がある場合においては、直前の賃金締切日)以前3箇月間にその労働者に対し支払われた賃金の総額を、その期間の総日数で除した金額

 といいます。たとえば算定事由発生日が5月26日で、賃金締め切り日が月末だとすると、2,3,4月の三か月が対象になります。5月31日に算定事由が発生した場合もこの三か月になりますので注意してください。

【賃金総額に算入しないもの】

  •  臨時に支払われた賃金
  •  三か月を超える期間ごとに支払われる賃金
  •  通貨以外のもので支払われる賃金で一定の範囲に属しないもの

 この三つが除外されます。いわゆる「賞与」と「通貨以外」ですね。

 

【算定期間及び賃金の総額から控除するもの】

  •  業務上負傷、疾病により療養するための休業
  •  産前産後休業 
  •  使用者の責めに帰すべき事由による休業
  •  育児休業、介護休業
  •  試の使用期間

 今回は「算入しない」ではなく「控除」の話です。引き算してしまえるわけですね。

 

 

【最低保証額】

 日給者、時給者などは、計算した平均賃金が最低保証額以下になっていないかどうか最後に確認しましょう。

 最低保証額 = 賃金総額/労働日数 の6割

 平均賃金の計算が「総日数」で、こちらは「労働日数」になっていることに注意。

 

 

みんなが欲しかった! 社労士の教科書 2019年度 [働き方改革関連法対応] (みんなが欲しかった! シリーズ)

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労働協約と労使協定

 労働協約と労使協定という言葉を頻繁に目にすることと思います。

 

 労働協約労働組合、労使協定は過半数労働者の労働組合又は過半数労働者の同意によって取り付けることができるものですが、この決め方自体に大した違いがみられないのでいまいち区別ができず、困っている方もいるでしょう。

 しかし、労働協約と労使協定は驚くほど違います。どう違うかというと、

 就業規則労働基準法の範囲内で定められるものです。労働時間は一日8時間以内が原則ですので、就業規則では7時間と定めることもできますよね。でも問題は就業規則っていうのは会社側が決めたものだということです。そこで登場するのが労働協約というワケです。

 労働協約を使えば労働時間をたとえば6時間30分と取り決めて、就業規則の7時間をおさえつけることができるのです!

 

 

 一方で、労使協定は労働基準法を叩きのめします。そのうちで有名なものは36協定です。労基法では上述のように8時間以内が原則となっていますが、世の中見渡してみればわかるように、長時間労働や残業で「8時間とかホワイト企業かよ」と言われるほどには労基法8時間規定はないものと同様になっています。この8時間規定を打ち破り、別にやらせてもおとがめなしになるよ、というものこそ労使協定だというワケです。

 労使協定はこんな風にヤバい代物なので、もちろん使える範囲は制限されています。

自己中心的 #36

 原稿用紙一枚で書く日記。#36

 

 自己チューという言葉をほとんど聞かなくなった。しかし自己チューがいなくなったわけではない。周りを見回してみるといくらでも自己チューがいる、なんと嫌な世の中だろう――――と思っていたら鏡があって、ようやく自分の姿に気づくかもしれない。

 犬は目がよくない。人間の知覚している色よりもずっと少ないパターンしか持っていない。不自由じゃないのかと訊かれたら犬は自分の鼻をこするだろう。しかし人間は「私たちは鼻が良くない」とは言わない。「犬は鼻が優れている」と言う。

 歩道を歩いているとき、自転車に不愉快そうな顔をされるときがある。おっとうっかり右側を歩いていた。しかしそれにしても自転車も融通のきかないやつだ、よほど自己チューに違いない。道は確かに左側通行が原則だが、それに縛られていてどうする。そして今度は自分が自転車に乗った日、こう思う。「左を歩けよ邪魔だな!」