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エピクロスの倫理思想

 今までのいくつかの記事をまとめました。

エピクロスの倫理思想

 道徳原理には大きく分けて二つの種類がある。またその下位には二つずつ種がある。

 

 (1)経験的原理に立脚する道徳的形而上学=幸福の原理に基づく道徳

   1. 自然感情に基づく立場 → エピクロス

   2. 道徳感情に基づく立場

 (2)理性的原理に立脚する道徳的形而上学=完全性の原理に基づく道徳

   1. 理性的の理念に基づく立場 → ストア

   2. 神意の理念に基づく立場

 

 エピクロスの「精神の平静と肉体の無苦」を第一の善として快楽を認める立場は、自然感情に基づく立場である。不必要にご飯を食べるべきではないのは、それが不必要だからである。長期的に第一の善のために役に立つとみなされることならば、たとえ苦痛だとしてもやらなければならない。快楽の選択には各人の思慮が大切であり、学問をすることはその方法なのだ。まさにそのために、学問することそれ自体が精神的な快楽でありうる。キュレネ派はエピクロスの幸福を「死人の状態」といった。しかし死ぬと感覚がなくなるため、エピクロスにとって死は善いものでもなければ悪いものでもない。どうでもいいものである。

 エピクロスのこのような倫理思想は、生物一般が生まれ落ちたときから快楽を求め、苦痛を避けるという経験的事実から来ている。このように「倫理的行為の基礎は生まれたときから自然本性的に組み込まれているという前提」をもち、その自然本性を生まれたての揺籃期に求める論法を「揺籃の論法(cradle argument)」と呼ぶ。

 善と快楽が一致していること自体はエピクロスは論証するまでもないと考えていたようである。というのも、別の記事で紹介したように、エピクロスの証明は感覚に基づいている。悪い言い方をすれば「そう感じるんでしょ。じゃあそうじゃん」なのだが、詳しくいうと、感覚というものはエピクロスにおいて、嘘をつくことなくありのままをそっくりそのまま受容していると考えられている*1

 

 快楽をどのように選択するのか。快楽は欲求にはじまるから欲求の分析が肝要となる。自然的・必要の観点から分けて、エピクロスは自然的で必要な欲求の充足を求めた。食欲は自然的で、腹が減ったら食べなければ苦痛が生じる。だから、これは快楽に資する欲求である。しかし、食いすぎるのは問題である。*2

 快楽には大きく分けて静的快楽と動的快楽がある。第一の善とされるのは静的快楽であり、まさに「精神の平静と肉体の無苦」である。動的快楽は「喜びや愉楽」である。静的快楽が基本で、動的快楽は静的快楽に資するか害さない場合に許される。

 

倫理思想に対する反論あるいは疑問

(1)サイコ野郎の扱い

 少なくともエピクロスの議論だと、「正義」という従わなければならない何かがあるわけではないことになる。人を殺すのは何故いけないのか、という質問に対して、刑罰があるからだと答えるような不気味さがある。昔の人だから「魂が穢れる」とか言いかねないが、そんなことは現代のわれわれには理解できないことは言うまでもない(『主要教説』には快よく生きることと、思慮深く美しく正しく生きることが等しくされている。にんじんもそう願うが、根拠に乏しい)。

 たとえば犯人は殺人をなんとも思っておらずむしろ愉快でさえあり、相手は反抗できない弱者で自分が傷つくおそれもなく、また絶対にバレないというお墨付きが与えられているような場合、エピクロスはなんと答えるのだろう。殺人をどういう理屈で止めるのか、彼の倫理からは見えてこない。エピクロスは「殺人たのし~」という中二病的創作サイコの行為が倫理的に間違っていることを論証できない。ニュースを見ている限り創作だけとも言えないから厄介である。

 

 これがミルやベンサムの功利性原理に繋がっていくのだろうが、「エピクロス倫理」と「功利主義」を並べてみたとき、とてもふたつが進化前・進化後という関係にあるとは思えない。相当に異質なものに見える。

 

(2)どの程度思慮があればいいのか謎

 選択をするときはよく考えようね、と言うが、考えないで選択してないやつのほうが稀である。特に、それが重要な決断ならば。もちろん「勉強し続けようね」という答えも理解できないわけではないが、もし勉強し続けなければならないならアタラクシアに達するなど絶対に不可能である。なぜなら常に「おれの力は足りていたか?」と悩まなければならないから。

 「いや、可能だ」とすることもできる。思慮が必要なのは欲求を選択するときだから、それが起こらないように、感じないようにすればいい……。しかしこれはストア的な禁欲である。ストア派はまさに「感じない」ことを第一とするかのような極端な派閥だから、エピクロスとは相容れないだろう。

 

(3)人間関係はやっぱり道具?

 倫理といえば人と人との関係が思い浮かぶが、エピクロスの場合、その理論のなかに他の人間が登場するところはあまりなさそうに見える。彼は「友情の所有こそが」最高だといっているが、なぜそうなるのかよくわからない。

 

 

 

 これらは単純な疑問であるし、主要教説などにも言及が見られることである。たとえば正義はお互いに害さない契約であるとされていて、一応理由付けは与えられている。ただやっぱり「刑罰があるから人殺しはいけません」と言う風にいってるように見える。実際、主要教説34によると、不正発覚による処罰恐怖が動揺をもたらすのでよくない(悪である)と書いている。しかし本物のサイコ野郎はそんなことを考えないと思う(1)。ただ、人間は不快を避けるという前提があるのだから、エピクロスが処罰を避けると考えたのは理にかなっている。しかし、その処罰以上に不正に快楽を見出す人間も考えられないこともない。

 殺人の処罰として「アイアンメイデンによる拷問」などといったように残酷すぎるものを選べば犯罪は減るだろうか? そのような残酷な刑罰を採用することは倫理的にどうなのか?

 

ci.nii.ac.jp

 

アタラクシアと幸福

 エピクロスの倫理思想を見ていく。

 

 エピクロスにとって第一の善とは「精神の平静と肉体の無苦」であった。

 精神の平静とは、動揺(タラケー)のない状態である。これはアタラクシアとも呼ばれていた。そもそも動揺というものは根拠のない信念によって生じる。これを除くのが理性であって、哲学もそのためにある。彼が具体的に考えていたのは『魂は不死であり、我々の魂は(身体の)死後にそれぞれに応じた報いを受ける、また神々は我々の生活に様々に関与する』という誤った信念である。

 アタラクシアへ至るためには魂や神々、自然一般について考察し、理性的に判断せねばならない。そして真とか偽とかを判断するためには規準が必要である。これによって生じてくるのが規準論であり、進んで自然学であるが、すべてはアタラクシアを第一の善(倫理学)とし、そこに向かうためなのだ。アタラクシアの状態にあるものは、根拠のない信念を持たない知者である。

 

 

動的快楽と静的快楽

 アタラクシアは静的快楽と呼ばれ、ふつうに想像される快楽とは異なる。味覚による快楽、セックスの快楽、音楽を楽しんだり、運動を楽しんだり……そういった快楽を動的快楽と呼ぶ。特徴づけるなら、静的快楽は苦痛がない状態であり、動的快楽は快がある状態である。エピクロスは静的快楽こそが真の快楽であるというが、動的快楽についてはどのように考えていたのだろうか。

 

 まずその前にこんな疑問が浮かばないだろうか。

 もし君がいまアタラクシアの状態にあるとしよう。それは苦痛のない状態である。私は苦痛のない状態を快楽であると感じるだろうか。恐らく感じないだろう。だとすれば、動的快楽を認めないということは「快楽なんて感じない状態」を理想とすることを意味する。しかし認めたところで、結局のところ感じるのは動的快楽だけであることには違いはなく、それじゃあそもそもアタラクシアなんて言葉は持ち出さずに「将来のことを踏まえて快楽を選びましょう」とだけ言っておけばよかったのではないか。哲学なんてやっていない限り、誰がアタラクシアなんて求めるだろうか。……

 

 エピクロスとして譲れないのは「アタラクシアと肉体の無苦」が第一の善だということである。そしてそのことから帰結するのは、次である。:動的快楽を認めないことは『快楽がない』を理想とすることに等しい。だからそれを避けようとすれば、動的快楽は理論的に認められなければなるまい。しかし、そうすると静的快楽の地位が危ぶまれるのだ。静的快楽と動的快楽はどのような関係にあるのだろうか。

  Ristはこれに関して、「全ての動的快楽は常に静的快楽の先在を前提とし、専らそれに継起するものに過ぎない」としている。たとえば、食事をするとき、『我々の口蓋は、何の苦痛も経験していないが故に既に静的快楽の状態にあり、摂食の動的快楽を感じるに至る。その後、食物が口を経て身体へと通過してしまった時には、この動的快楽は消滅する。その際、身体の様々な部位は食物によって回復せられ、静的快楽がその回復に伴う』という。

 

 お腹には苦痛が生じていると仮定する(空腹)。まず口は静的快楽の状態にある。食べることでお腹の苦痛が除去される(動的快楽)が、それはすぐに消えてしまい、静的快楽の状態となる。ところでわれわれは腹を満たした後も、食事をとることができる。しかしもはや、得られる快は限界に達しておりそれ以上得ることはできない。その後はただ「多様化される」とエピクロスは言っている。つまり、そのまま食べ続けても快は新しく得られず、最初に得たものを様々の形に変えていくだけである。

 静的快楽が先在するとは、つまり動的快楽が静的快楽への「復帰」によってもたらされるということだと解釈できると思う。静的快楽という状態への回帰こそが動的快楽なのである。

 

 

 

ci.nii.ac.jp

 

 

人と思想 83 エピクロスとストア

人と思想 83 エピクロスとストア

  • 作者:堀田 彰
  • 発売日: 2014/08/01
  • メディア: 単行本
 

 エピクロスの勉強

 

 

 カール・ヤスパースは紀元前500年から前後300年の間を「枢軸時代Axial Age」と呼んだ。中国では諸子百家、インドでは釈迦、そしてギリシャでは哲学が興り、ソクラテスプラトンアリストテレスなどを輩出した時代である。

 最初の哲学者タレスは紀元前624年頃に生まれた。紀元前460年頃には原子論(アトミズム)という物質観を唱えるデモクリトスが誕生し、紆余曲折を経て、現代へと引き継がれた主たる思想となっている。

 紀元前341年に生まれたエピクロスは快楽主義の哲学者として知られる。彼はデモクリトスの原子論を知り、自然に対する見方を学んだ。アトムについて想像することで彼は「重さが違う物体でも、落下速度は同じ」という結論を導いた。しかしアリストテレスが「重いほうがはやく落下する」と言ったため16世紀のガリレオに至るまで、物体の運動は誤解され続けることになる。

われわれの生活が必要としているのは、もはや理に反することでもなければ、根拠のない思惑でもなくて、われわれが魂を乱されることなく生きることである。『ピュトケレス宛の手紙』

  彼の快楽主義は、放埓に生きることをすすめない。ふつう思い浮かべる快楽主義のイメージに近いのは紀元前435年頃に生まれた、ソクラテスの弟子のひとりであるというアリスティッポスである。彼は快楽を抑制するのではなく快楽を求める本能に従うべきだと唱えた。

 エピクロスにとっての人生の目的とは魂が乱されないことである。それは平静な心身の実現であり、そのような状態はアタラクシアAtaraxiaと呼ばれる。快楽とはそれぞれの思慮によって弁別されなければらならない。快楽は欲望の先にあり、欲望はいくつかの種類に分けられる。(1)自然的かつ必要、(2)自然的だが必要ではない、(3)自然的でも必要でもない、むなしい想いによって生じたもの。*3たとえば単に腹を満たすだけでなく、特別な珍味などに対する欲求は三番に該当するだろう。それは生理的欲求の解消というよりも、珍味という記号の消費に他ならない。*4

もろもろの欲望のうち、充足されなくてもわれわれを苦痛へ導くことのないような欲望はすべて、必要なものではない。『主要教説』

 エピクロスはアタラクシアの妨げとなるような快楽とそれに至る欲望を戒めたと言えそうである。判断の方法は「必要性」であり、その必要性は苦痛を取り除けることが条件で充たされる。われわれを肉体的に傷つけるもの・ことはやめたほうがいいし、われわれを襲う漠然とした死の恐怖などはそれを熟考し不安を取り除かなければならない。ちなみにエピクロスは死について、「絶対に経験できないので自分にはまったく関係ないという考えに慣れるがいい」という意味のことを言っている。もちろん納得できる話ではない。この点は彼が原子論者であったことも関係しているだろう。そもそも唯物論者が「倫理」について語っているのが変なのだがこれについて岩崎武雄はこう述べている。

それは、元来かれの自然学がただ迷信や恐怖を取り除くためにのみ考えられているのであって、決してそれ自身理論としての意義を持つものとは考えられていないからである。ここにエピクロスの場合にはストア派の場合以上に理論に対する軽視の傾向が見られる。

西洋哲学史 (教養全書)

  彼にとって理論はアタラクシアに至るための方便だったのだろう。*5しかしながら、唯物論者だからといって決定論を支持しているとは限らないし、治療としての自然学が破綻したものなら不安など解消できるわけがないので決して軽視していたわけではないと思われる。

 

エピクロスの思想

 規準論のみを下に書いた。

 エピクロスの思想の概要:感覚と感情が真理の規準であり、それは裁判における「証言」という意味で規準である。感情とは快・不快であり、人間の選択はこれをもとに行われる。第一の善は「精神の平静と肉体の無苦」である。この第一の善をもとに、快楽はすべて善きものとは認められず、思慮による選択が必要なのである。

エピクロスの思想

 彼は、哲学とは言語と推理を用いて幸福な生活の確保を目ざす実践活動である、と規定し、精神の平静と肉体の無苦を説く説教者の立場に立った。とはいえ、人間の生活が神々の気まぐれな介入と死後の霊魂に降りかかる懲罰の恐怖とによって脅かされている状況にてらして考えれば、この二大脅迫要因から人間を解放するために自然界の本質と法則に関する知識も不可欠となる。エピクロスも、自然学の探究は苦痛をともなわないので純粋な快楽であると信じ、弟子たちにその探求を勧めている。

人と思想 83 エピクロスとストア

 自然学の探究は「精神の平静と肉体の無苦」のためであり、そして「純粋な快楽」のためであった。彼にはまず第一に「精神の平静と肉体の無苦」があったのであり、理論はそれに奉仕するのである。

 この思想は非常にわかりやすいものだが、しかし、文学・修辞学・数学・天文学・論理学などを「無価値だとし」て、「不信を表明した」そうで、正直この点に関しては理解しかねる。これについては、エピクロスが原子論を基礎にする唯物論者であり、精神作用も結局は原子の運動にすぎなかったために、原子の衝突を扱う自然学にのみ力点をおいたと考えられる。とはいえ、唯物論者の割に精神の平静がどうだのと取り扱っているのは少々妙な感じがする。

 

 エピクロスの思想は「規準論」と「自然学」と「倫理学」の三つに分かれる。

 

 

規準論

 ディオゲネス=ラエルティオスが伝えるところによれば、エピクロスは真理の標識として「感覚と先取観念および感情」を挙げており、エピクロスの弟子たちがこれに「精神の表象作成的接触というものを付け足した。そして先取観念と精神の表象作成的接触というもののふたつは、感覚に由来するため、結局は感覚と感情が真理の規準であるとされる*6

 エピクロス認識論においては、判断の真理性は感覚に帰着して検証される。たとえば遠くに人が見えたとする。それを「人である」と判断している。しかしそれは遠くから見ている限りのことで、〈確証の期待されるもの〉に過ぎない。であるから、近づいてみて感覚によって確証されればそれは真、マネキンだったらそれは偽ということになる。だがたとえば原子であるとか、天界のことなどは確証を期待する方法がない。感覚することができないからである(原子というと周期表が思い浮かぶが、エピクロスの場合、精神すら原子によって構成されている。””アトム””と呼んだほうが誤解が少ないかもしれない)。こうした原子などに対しては、感覚によって反証されない限り、真だと認めるとされる。

  •  感覚できるもの【確証の期待されるもの】 → 確証
  •  感覚できないもの【不明なもの】 → 逆証欠如

 これが「真である」ということで、偽であるのはこれと逆に確証欠如&逆証である。 

先取観念

 正しいものについての観念内容を個々の事例が正しいかどうか考察する以前にすでにもっている……という思想のもと、この観念内容を〈先取観念〉と呼んだ。これはプロレープシスの訳語であり、proというのは「前の」という接頭辞である。エピクロス哲学の全貌を簡潔に伝えているのが『ヘロドトス宛の手紙』であり、これは弟子たちから「小摘要」と呼ばれていた。*7

 われわれは語の基礎にあるもの(語の示す先取観念)を捉えるべきである。というのは、それ(規準としてのそれ)に帰着することによって、判断・吟味・問題の対象となるものを判定しうるためにであり、そして果てしなく説明をつづけるばかりで何ひとつわれわれに判明にならなかったり、あるいは、われわれが無意味な語を用いたりなどするような、そういうことのないためにである。じっさい、このためには、われわれは、おのおのの語について、最初に浮ぶ心像に着目せねばならないのであり、もしわれわれが吟味・問題・判断の対象となるものの帰せられるべき拠りどころ(語の基礎にある先取観念)をもっているならば、語の説明などもはや何らの必要もなくなるからである。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 先取観念に対する批判はあとに回そう。先取観念というものが必要とされる理由はわかりやすい。たとえば「これは馬か、牛か?」と問う時、そう問う以上、馬や牛を知っていなければならないからである。下記の「了解」との差異は、この「知っている」ということの理解にかかわる。先取観念を有することはそれをそれとして知っていることと同じではない、とにんじんは思う。

 さて、その先取観念はエピクロスによれば感覚経験によって形づくられる。それはたとえば、椅子と呼ばれるものを何度も見ることによって記憶に留められたある型である。つまり先取観念は感覚により成立するのであって、先天的なもの、アプリオリなものではない*8。だから真理の規準として挙げられていた四つは実は三つで済むことになる(人と思想 83 エピクロスとストア)。

解釈学的な「了解」との差異 

 この〈先取観念〉という語は非常に興味深い。とはいえ、これはハイデガーのいうような「存在了解」でも、和辻哲郎のいう「実践的了解」でもないだろう。というのも、〈先取観念〉とは表象のことであり、記憶のことだからである。たとえば椅子というものを何であるかを知るとき、われわれは何を知っているのだろうか。ドレイファスが『世界内存在』の第四章で語っている「椅子がなんであるかを知っていること」の一例が先取観念に近いと思う。

(b)われわれは、プロトタイプとしての標準的な椅子のイメージを持っており、それと他の対象を比較して、対象がプロトタイプからどのくらい隔たったものかを判定するのかもしれない。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

  エピクロスの場合はこうなる。何度も「椅子」と呼ばれるものを見るうちに、自分のなかに「椅子」というある型ができてくる。そしてその型を用いて、次のモノに出くわした時にそれが椅子か椅子でないかを判断するのである。しかしこのようなイメージを仮に椅子を使わない部族に持たせたと想定しよう。このとき彼らは椅子を理解しているといえるのだろうか。彼らがそのイメージを用いて対象を見分けられたとしても、「椅子」を知っているとは言えないだろう。「椅子として」は知られていないだろう。

 「了解」と異なるのはそれが表象、つまりイメージ・手持ちの見本のようなもの、だからであり、それをどう使うかなど連関的な理解に至っていないからである。椅子を知らない人たちにいくら椅子の見本を見せて「これがisuデス」と区別できるようにしたところで、彼らが「椅子」を知っていることにはならないのだ。

精神の表象作成的接触

 これはepibolaiの訳語であり、表象作成的接触(image-making contact)とか把握(apprehension)とかと訳すのが今日流である*9。ここでは以後「精神の把握」と呼ぶことにしよう。

 精神の把握というのはわかりづらい。本節冒頭のエピクロス認識論を思い出そう。【不明なもの】の真理性は逆証欠如のことで、不明なものとは原子や天界のことであった。不明なものが確証ではなく逆証欠如のこととされたのはそれが普通の意味で感覚されないからである。エピクロスがいうには、そうした不明なものは精神を構成する微細な原子によってだけ知覚される。こうした知覚を「精神の把握」と呼ぶのである。

神のごときものは微細な映像を送ってくるので、その映像は精神を構成する微細な原子によってだけ知覚される。

人と思想 83 エピクロスとストア

人と思想 83 エピクロスとストア』においては精神の把握が「感覚の変種」であるとしてこれを感覚のうちに含めている。これはもとの「感覚」の意味を広げるもので、先取観念の議論とは異なり、やや強引である。しかし感覚と同様に受動的であるのは間違いない。

 広げた感覚概念を「広義の感覚」と呼べば、真理の規準は「広義の感覚」と「感情」とまとめてしまうことが許されるだろう。しかし、わざわざまとめるに足る積極的な理由は特にないように思われる。用語的にややこしいし、むしろ精神の把握という言葉を残しておくことで、エピクロスの原子論的な思想が残るような気がする。

 

 

 

 

*1:結局それでも「そうでしょ? ならそうじゃん」の一言を長く言ったに過ぎない感じはある

*2:このことは、贅沢を否定するように思われる。

*3:自然的・必要の二次元で分けたものだが、「自然的ではないが必要なもの」のカテゴリーがない。すると、「必要な欲望ならば自然的だ」と受け取れる。つまり「自然的でないなら不必要だ」とも取れる。

*4:しかしこの点に関しては「贅沢」という観点から考えられる。むしろ少々の贅沢が可能であるほうが幸福である気がするからだ。また、なにを「自然的」とするかによっても態度は異なるだろう。精子を出すのが性欲なのか、子孫を残すのが性欲なのかによって、子を残すか残さないかが決まってしまう。ちなみにエピクロスは子を作らなかった

*5:とはいえ、知識を得るのが不快を避けるためだという考え方は彼だけのものではない。ジョン・ロックは、人間の意思決定は「落ち着かなさ」に由来しこれが感じ取られない限りは人は行動に移さないと言った。

*6:人と思想 83 エピクロスとストア

*7:哲学体系を伝えるものとして「大摘要」があったのだが、それは今日には伝わっていない

*8:これゆえに、カントが純粋理性批判でいう「予科」とは異なると指摘されている。エピクロス―教説と手紙 (ワイド版岩波文庫)

*9:人と思想 83 エピクロスとストア

アリストテレスの生涯について

哲学者・アリストテレス

 アリストテレスは紀元前384年にトラキア地方スタゲイラスで生まれた。

 アリストテレスはすくすくと成長し、17歳になるとアテナイへ向かい、プラトン先輩のアカデメイアに入門する。

 アリストテレスが37歳になる頃、プラトンが亡くなった。彼はアッソスという町に向かい、2,3年の時を過ごす。アッソスという町は、ミレトスのちょい上ぐらいにある。彼はここでの数年と、その後数年を動物の研究に捧げた。それからアッソスそばにあるレスボス島、それからマケドニアと場所を転々としながら、彼は49歳のときにアテナイに帰って来る。そしてアテナイにある「リュケイオン」という地に自分の学園を建てた。

 

 アリストテレスマケドニア王家との親交を持っていたため(王子の教育なども頼まれていた)、王位を継いだマケドニア王子が遠征中に倒れたのをきっかけにアテナイ人は反マケドニア感情を爆発させ、アリストテレスアテナイから蹴りだした。ちなみにアリストテレスが教育していたのは、アレキサンダー大王として名を馳せるアレクサンドロス3世であった。

 彼はアテナイを蹴りだされた翌年、病気にかかり亡くなった。63歳だった。

 

 

アリストテレス入門 (ちくま新書)

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  • 作者:山口 義久
  • 発売日: 2001/07/01
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「被害妄想(ピエール・ジャネ)」を中途半端に読んだ🥕

途中まで読んだのでメモ程度にまとめです

 

被害妄想――その背景の諸感情

被害妄想――その背景の諸感情

 

 

 ここでの主題は「妄想」、特に「被害妄想」です。

 たとえばこうです。:アタシ悪く思われてるんじゃないかしら、うわあの人笑ってるよオレを馬鹿にしてるんだ、ボクはみんなに憎まれている、……ときには、もっとひどい被害を訴えることもあります。突然後ろの扉が開いて危険人物が乗り込んで来たり、悪魔が来たり……。

 患者は誰しも、最初から被害妄想に悩まされていたわけではありません。だんだん、だんだんとそういう気分になってきました。その気分が、患者の欲求や言葉遣い、振る舞いなどにあらわれ、被害妄想的な傾向を強めたのです。そして上のように「悪く思われてるんだ」と妄想するようになりました。最初の知的加工前の、発症当初からある、その漠然とした気分を「影響感情」と名づけましょう。それに知的加工が施された状態、それを解釈したもの、それが「妄想」です。

 患者は感情に影響されて行動を方向付けられており、妄想にあらわれます。だからたとえば「あなたには嫉妬感情がありますね」と診断されて驚くのも無理からぬことです。妄想に方向づけている感情を定式化するのは診断者のほうなのですから。『そのように、妄想の背後にあって妄想に先だって作動しているはずの感情があるのを認めることは、精神病を理解するためにはつねに大切なことであろう』。

 では、被害妄想を作動させる「影響感情」とは、どんなものなのでしょうか。

 

 被害妄想患者を観察すると次の三つの感情が見られます。①気おくれ感情、②嫉妬感情、③憎悪感情です。もちろん、これらを持てば必ず被害妄想に至るわけではありません。この中で最も被害妄想に特徴的なのは③です。迫害者と想定している人に対する憎悪感情が多くみられるのです。相手をなんとかして排除しようとしたりします。しかし被害妄想患者は診察者から何も言わなければ「他者が自分に憎しみを抱いている」と訴え続け、「自分のほうが憎しみを抱いている」とはほとんど言いません相手から自分への憎しみ、自分から相手への憎しみ。この両側のうち、被害妄想患者に強く作用するのは相手側、つまり客観化外在化された側面だけです。

 

 

【哲学】「もの」を「見る」「私」について

物自体ー表象ー意識作用

 私たちはものを見る。どのようにしてか。

 

 直観的には次のように考えられている。

 モノがある。それがフニャフニャと何らかの刺激を送って来る。心に思い浮かぶ。あっ、見えた。つまり「もの」ー「見る」-「私」である。刺激が来ただけでは十分でない。たとえばあなたの目の前に座ってしゃべっている人は携帯をいじくってあなたの話をまったく聞いていないかもしれない。その人が「聞いた」というのは、耳に音波が達することではない

 

 しかし、ここに問題がある。

 刺激が来る。心かどっかに残留する。それを意識する。

 このステップには問題がある。

 

 それは、この説明が一切説明になっていないからである。

 刺激が来て、ポワンと来たもの を、どうやって見ているのだろうか。

 

 問題はこうだった。私たちはものをどのように見ているのか。

 🐳「まずなにか対象があるんだろうね」

 🥕「それで対象から刺激が来て」

 🐳「私の中で〈それ〉が形づくられる」

 🥕「そのあとは?」

 🐳「あとは簡単。頭の中にある〈それ〉を見るんだよ」

 🥕「どうやって?」

 

 説明はスライドされたにすぎない。

 

西洋哲学史 (教養全書)

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  • 作者:岩崎 武雄
  • 発売日: 1975/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

問いの構造「もの」と「こと」

 何事かを問うということがどんな形式的構造をとるのか?

 ハイデガーによれば、問いとは探求である。探求は探求せられるものによって方向を決められる→すべての問いは「問われているもの」を持っている。たとえば【美】について問うとき、この問いは【美しいもの】を持っている。この問いは【美しいもの】を前提としなければ始まらない問いである。

 そしてまた、すべての問いは「問われていること」を持っている。【美】について問うとき、わたしたちが聞きたいのは具体的な【美しいもの】のリストではなく、【美しいこと】とはどういうことなのかである。

 そして願わくば、それを理論的に概念化したい。つまり、美しいとはこういうことだと言葉にしたい。その言葉こそ、「問われていること」の「意味」である。理論的には【美】について問われた時、その本来の目標は「意味」だといえるだろう。

 

 つまり、問い、特に理論的な問いは、「問われているもの」「問われていること」「意味」の三つを有する

 

 

 あるということはどういうことであるか?

 これがハイデガーの存在の意味への問いである。この問いは【存在者】を「問われているもの」として持ち、【存在】を「問われていること」として持ち、その意味を問うている。和辻哲郎もいうように、『哲学はまず第一に「こと」の学』なのである(和辻哲郎の解釈学的倫理学)。

 

 「こと」は「もの」に先行する。すなわち、「もの」がそのようにあることをそもそも可能にしているのが「こと」なのである。伝統的な哲学においては、本当に存在するものはなにかと問うていたが、ハイデガーは存在者がそのように存在していることの根拠としての存在を求めた。例えば、【美しいもの】はそのものが【美しいこと】に基づいて【美しいもの】として存在しうるのである。つまり【美しいもの】を【美しいもの】として把握するということは、そのものの【美しいこと】を理解することである。

 

 このことは、一見極めて分かりづらいから詳しく見よう。上の例を理解するためには、わたしたちの「もの」との出会い方への理解が肝要であると思われる。このにんじんブログでは何度もこの『存在の問い』に立ち戻ってきたが、今回は『時間と自己 (中公新書 (674))』によってこのことを考えてみよう。

外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。

時間と自己 (中公新書 (674))

  伝統的には、一歩離れて何らかのことについて考えることが真理を見出す最良の方法だとみられた。しかしここには、つまり「もの」には、わたしたちとの関わりという観点が抜け落ちるのである。

「木から落ちるリンゴ」という名詞的な言い方をする場合、それを見ている人は、自分がそこに立ち会っているという事実を消去している。

時間と自己 (中公新書 (674))

  カントは『認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う』という意味のことをいった。このことは認識する主観が、対象を形作るのに関与しているということである。ハイデガーの用いる現象学という分野はこのカント哲学の主要なアイディアを踏まえていて、【美しいもの】が【美しいもの】として存在するためには、わたしたちが関与しているといっているのである。

例えば、【美しいもの】はそのものが【美しいこと】に基づいて【美しいもの】として存在しうるのである。つまり【美しいもの】を【美しいもの】として把握するということは、そのものの【美しいこと】を理解することである。(上述)

 美しいものが美しいものとして現れている以上、わたしたちは既に美しいものについての何らかの了解を持っていなければならない。客観的に【美】というものが存在して、ものにその【美】が貼りついて【美しいもの】になり、それをわれわれがヒナのように受け取っているわけではない。受動的ではなく、むしろ能動的に、わたしたちは【美しいもの】の現われに関わっている。

 

和辻哲郎の解釈学的倫理学

和辻哲郎の解釈学的倫理学

  • 作者:飯嶋 裕治
  • 発売日: 2019/11/20
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時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

  • 作者:木村 敏
  • 発売日: 1982/11/22
  • メディア: 新書
 

 

にんじんと読む「存在と共同(轟孝夫)第一章」🥕 第二節まで

 要約というか、にんじんが理解する限り、という内容です。

 にんじんと読むシリーズでは一貫して、そうです。

 

第一章 「存在の問い」の導入

現象学から「存在の問い」へ

 現象学においては、意識は器のようなものではない。そこに何かが盛り付けられているのではなく、意識は常に何かについての意識なのである(意識の「志向性」)。たとえば、あなたが最寄りの駅について想像するとき、あなたはまさに駅そのものを志向している。駅はその部分的な側面(射影)でしかあらわれてこないが、あなたは駅の見えていない部分がまったく存在していないなどとは考えない。その意味で、駅全体を志向しているといえる。想像だけでなく知覚といった意識作用もみなすべて志向性を持つ。

 志向的作用は「われわれが~のもとで存在する」という性格を持っている、とハイデガーは言う。この性格は「~のもとでの存在」と呼ばれる。この記述は少々わかりづらい。このことを理解するためには、『机がドアのもとにある』ということがない(!)と彼が言った意味を理解する必要がある。下記のような事情で、「~のもとでの存在」という性格を持つことができるのである。

  •  われわれはドアと隣り合うことができるが、机はドアと隣り合うことはできない。というのも、机にはドアがドアとして現れてくることなどないからである。ドアという意味を拾ってくるのは現存在(人間)*1だからできることであって、机にはそんなことはできない。*2

 この「~のもとでの存在」という性格は、わたしたちが関わっている、ということを示唆している。ドアがあっても、それがドアとして存在しているのは、わたしたちが絡んでいるからなのだ。『したがって、われわれは経験された世界をその現存在という観点において問う可能性を獲得している』とハイデガーがいうのはそのためである。

 同じ存在者であっても志向的作用のあり方に応じてその存在の仕方が異なることを意味する。はい存在者、はい終わり……というわけにはいかない。それがわたしたちが絡むということである。つまり、『そこにおいて現れている存在者をその存在において捉える』ということが問題となり、ここに「存在の問い」が生まれてくる。今までは「存在者です。はい終わり」だったのが、わたしたちが絡むことがわかって大変複雑になったのだ。

 現存在(わたしたち)は、ドアをドアとして現れさせたりするやつらである。『現-存在とはまさにおのれ自身と世界の開示という出来事そのものである』といわれるのはこのためであり、ハイデガーはずばり『現存在はおのれの開示性である』といって、現存在には開示性以上の本質などないとさえ言っている。

 

<まとめ>

 意識って~についての意識だよね。

 ドアがドアとして現れてるのはおれらのおかげだよね。

 おれら、世界を現れさせててワロタ(終)

内-存在の三つの契機

【情態性】

 ハイデガーは情態性、つまり気分というものを世界との関係のうちで捉える。怖いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういう気分は自分だけの問題ではなくて、さらに、世界というものの現われも示している――このことに関するこの本の説明は極めて分かりづらい*3ので、コイファーとチェメロによる『現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために』に頼ることにしよう。

 ハイデガーは私たちの技能的行動の二つの面を分析する。一方で、私たちは能動的に空間を進んだり、身近な道具を取り扱ったりする。しかし、それと同時に、私たちは技能的活動が自分の周囲の道具から引き出されるのを経験する。言い換えると、私たちは能動的に関与していると同時に、誘引(solicitation)に応答している。この二つのうち最初の面は技能によって構成されている。【略】二つ目のほうは「情態性(disposedness, 独 Befindlichkeit)」と呼ぶ。

現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために

  つまり、気分とは技能的行動というカードの一側面なのである。人ごみのなかを進もうとするとき、適当な空間を見つけ、それに誘引される。そして歩行という技能的活動をする。また逆に、歩行できるからこそ、そういう空間を見つけたときに行ってみる気分になる―――これが裏表で一体の関係にあるという意味である。

 さて、世界のあらわれには我々が関与しているというのは前節でみた。そのことからすると我々がいつも嬉しかったり、悲しんでたり、退屈だったり、虚無ってたり、様々な気分の中にあることが世界のあらわれと関係しているというのは見やすい。しかし、ハイデガー以前にはそのような見方はされていなかった。現象学は事物のあらわれ方として心的現象にももちろん重きを置いていたけれども、気分というものを作り出すのは表象とか判断とか理性的なことであり、二次的な地位にあったのである。ハイデガーが言ったのは、気分というものもそれ自身でその事物に関係しているということで、さらにいえば、理性的なそういう判断とかのほうこそ二次的だということだった。

 

【了解】

  了解とは情態性の裏面である。

 それは「いかになすかを知ること」であるが、ふつうは前認知的である。わたしたちは歩行の際に複雑な体重移動を行っているが、それを説明することはできない。歩行できるというのは、足の筋肉や骨がどうとか、それらがどのような手続きで動くかとか、そういう命題のリストではないのである。この「いかになすかを知ること」によって技能的に対処することが可能になるのだから、『了解はあらゆる種類のふるまいにとっての可能性の条件』と言われる。*4

 了解はある行為を行為可能なもの、意味をなすものとしてあらわにする。

 

【語り】

 情態的な了解によって、われわれと世界があらわになる。それがペンとしてあらわになっているということは、ペンがペンとして区切られているということを意味するだろう。この分節化されたものを「意味」と呼び、「語り」とは了解可能性の分節化である。

 道具というのはその手段性、指示、意義などの連関全体によって定められていることがハイデガーの道具論であった。この全体性はすでに分節された構造を有しているが(ハンマー、釘……)、それを表明するために語りが用いられる。ハンマーで釘を打つのはそのハンマーがもつ様々な意義のうちのひとつである。もしハンマーを使って窓ガラスをたたき割るなら、このときは別の意義を分節化していることになるだろう。

とはいえこのことは、ある技能領域にかかわる諸結合が必ず名称を持たねばならないということではない。むしろ名称など持っていない方が普通なのである。(中略)チェスの名手にしても、自分が識別しうる駒の配置のパターンすべてに関して、また自分が応じ手としてなす駒の動きのすべてにわたって、それらを表す言葉を持ち合わせているわけではないのである。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

  とはいえ、語りはもう少し事情が複雑であろう。単に「名づけた」とか「言いあらわした」以上のことがある。

 

 根源的な了解が、認知的なものではなく認知を可能にするものであるのとまったく同様に、存在論的な意味における語りは、言語的なものではなく、提示し語るべき何かをわれわれに与えることにより、言語を可能にするものなのである。(中略)語りは、そのつどの全体的な状況が何らかの対処によって分節化され言語的に表現可能となるその仕方を指す。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 

 言語によって語るというか、語ることによって言語が可能になっているといっている。

 語りとは、道具を用いる過程のなかで道具全体性への諸結合を取り上げることである。これが分節化である。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 

 語りについての説明は言語理解のためにもどうしても把握しておきたいが、今のところはこれ以上わからない。

 

<まとめ>

 ペンをあらわにするっていうのは「ペン」に誘われて(情態性)、実際に「ペン」を使うことができて(了解)、ペンに関するたくさんの意義の中から文字を書くっていうのを取りだす(分節化、語り)ってことなんだね。

 それが開示性の三つの構成要素なんだね。

 

 

*1:まぁだいたい人間と同じ意味だが、正確にはある程度社会化された人間のこと

*2:ハイデガーは人間以外の生物、たとえばペンギンなどにもこれができないと言っている。これについては少々文句が浮かぶことだろうが、彼は人間中心主義的なのでこういうのはよくある

*3:『そのつど出会ってくる存在者はつねに何らかの気分性の内で現れてくる』

*4:同じように「父親である」「教授である」ということもどうすればよいか知っている。情状性とともに了解が実存論的な諸構造のひとつといわれるのはそのため。