にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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【エッセイ】うまくできていない人間

うまくできていない人間

 仕事でやけに怒る人がいる。たぶんストレスが溜まっているんだろう、などと思ったりもするが別にストレスという言葉になにか特別の含みがあるわけではない。ただ「あの人は自然本来的にはああいう人物ではないのだけれども日々の疲れによってああいう風にたまたまなってしまっているのだ」というぐらいの整理の仕方はしているように感じられる。しかしながら、ストレスフリーで外界と完全独立な自然本来の彼の姿など拝むべくもないのは言うまでもない。そしてもっと深刻なことには、大抵の場合、そんな事情があったところでこっちには何の関係もない。突き放すような書き方だが、誰とでも何らかの関係にあってがんじがらめになっているよりは、健全な状態である。

 ダブルチェックというのは、二人で確認することでエラーを少なくしようとする試みである。漫画のキャラクターでもない限り、人間というものは絶対に一定の割合でエラーを起こす。そんなことは誰でも知っているのだが、なぜか恐ろしくミスに厳しい人がいて、二回目の検査をした人がミスを見つけると一回目の検査をした人に「しっかりしろよ!」と激怒する場合がある。基本的に怒る人とは関わってはいけないというのは原則(にすると非常に有益)なのだが、関わってはいけないといわれても関わらなくちゃいけない場合もある。事故に遭いたくて遭うやつはいない。

 にんじんは労働にやる気がない。にんじんコンテンツにはやる気があるが、労働にはない。これも極めて当たり前のことである。勤め先の成績がよくなろうがどうしようが、にんじんにはまったく関係がない。もちろん上がってくれれば一応嬉しいし、下がることを望むわけではないし、破壊工作もしないが、別にどうでもいいといえばどうでもよい。こういうふわふわした気持ちもまた、にんじんが平均的な考え方をしているのならば、当たり前のことだと思う。さて、職場の仲間がミスをしたとしよう。にんじんは特に怒らない。もし時間給で仕事が退屈ならばむしろ喜ばしくさえあるかもしれない。いや、そういう細かい利得計算をしているわけではなく、怒らない。なぜかといえば、怒る理由がないからである。

 しかし相手が陰湿な場合はどうだろう。怒りたくもなるし、怒るだろう。耐えがたいほど陰湿なやつがいたら、怒るついでに仕事を辞めるなどして関係を断てばよい。では相手が親であるなどして関係が断てない場合はどうするのか。それには色々な手段があるだろう―――そして正直、この路線で話を発展させてもまったく甲斐がないと感じる。なにしろ、批判者はにんじんの回答よりもはるかに過酷な例を出し、その過酷な例が少数ではないことを示し、こんな人たちはどうするんだと問えばいいだけだからである。しかし、にんじんは政治家ではないから、彼らをなんとかする義務はない。

 もちろんつらい話には胸が痛むし、なんとかできる手段がありその手段を講じてもにんじんが許容できるほどの損害しか被らないなら、救うに決まっている。南極にいるあの可愛い皇帝ペンギンのヒナは、そのほとんどが餓死で死ぬ。誰がバケツに餌を運んでやればいいのにと思うが、そんなことはあらゆる意味でできない。だが地球温暖化とかオゾン層の破壊とか、そういうことで協力はしてやれるかもしれない。というわけでクーラーをできるだけ使わないようにしてみたり、消費を少なくしてみたりする。たぶんほとんど意味はないんだろうと思う。が、結局のところ、なんにしてもそんなものだろうとも思うのである。

にんじんは人間それぞれの独立性について語りたいわけでも、怒ってはならないといったような道徳について語りたいわけでもない。たとえばアドラー心理学は「怒ってもなあ汗」みたいなスタンスで書いてあることが多い。たしかに精神衛生上、怒らないに越したことはないが、威嚇してみせることには意味がないわけではない。裁判所とか、第三者機関に言う前に、まずちょっとそういう風に言い合ってそれで事が済むならそのほうがよい。また、「そうする理由がない」などと色々言ったが、にんじんがなにかを見て胸がつまるとか、悲しいと感じることは行動の理由になる。あくまでも因果必然的な理由がないということである。因果によって強制的にやらされている善的行為など、道徳的でもなんでもない。そういう意味ではこの記事は「規則のリストが道徳であるという倫理的主張には反対である」というメッセージではありうる。

 

 にんじんは人にものを頼むときに「いつまでにやる?」と訊く。大抵の場合、いつまでにやってくれとはなかなか言わない。「ここまでにやればこうなる」という風には言う。それで相手が何を思うかはともかく、日付の返事が返って来る。相手に確認し、同意がある。内容によってはこれは『契約』と呼んでも間違いではない。さすがに友達相手に『契約』は重すぎる(法律上は友だちだろうがなんだろうが関係ないが)。

 一度締め切りに遅れてきた人がいた。経緯を説明してくれといったら「今更説明しても無駄だからしない」と言われた。そういうわけで契約は打ち切った。履行遅滞だからどうのとか面倒なことをチェックしたうえでの解除だったが、相手が「わかりました」とすなおに同意したので特にその説明はしなかった。

 以前まではなにもかも相手に説明しようとしていた。「これはなんとかというもので、ここはこうでああで……」というふうに。しかし誰もそんなことは望んでいないし、そうしないほうがうまく運ぶことにも気が付いた。ところが難儀なことに、「じゃあ適当でいいんだな」と思ってヘエヘエと気楽に生きていたら、それはそれで怒られることが増えた。説明してほしいのかしてほしくないのかどうすればいいんだとわからなくなることもあった。

 だが、当たり前のことに気が付いた。わからんと言われたら答えればいい。何をやってんだと言われたら答えればいい。もちろん相手が納得しない場合もあるが、だいたいのことは、そういうものである。そして高望みをするなら、いつも答えられるようなことをしたいものだ。ところが難儀なことに、人間はそううまくできていない。

 

 

 

【にんじんブログ特集記事】滋賀県草津市矢倉の名物・うばがもち

 夏休みを利用して取材旅行に行ってまいりました!

 

 湖南だけでなくなんと湖西のほうまで足を伸ばし、なんと湖北のほうまで行ったのですがそのときの模様は別の場所で紹介するとしまして、

 

 この記事では「うばがもち」という滋賀県のお菓子を紹介したいと思います!

 

 

「うばがもち」は滋賀県草津市の和菓子

 滋賀県草津市中山道東海道が交わる宿場町として有名です。下の写真が交わってるところです。

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 下の写真の場所が「本陣」と呼ばれるメイン宿で、大名や旗本、幕府役人などが宿泊しました。敷地や建物が当時のまま残っているなかで最大級のもので、草津市の観光では真っ先に出てきます。ちなみににんじんが行った時は休館日でした。( ˙ᾥ˙ )

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本陣

 草津市は国道一号線の通り道でもありますが、その道中にうばがもち屋の本店があります。

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こちらにはカフェがあり、うばがもちを美味しくいただくことができます。

写真左にあるチョコンとしたお菓子が「うばがもち」です。うばがもちはいわゆるあんころ餅の一種で、餅を小豆でできた餡で包んだもの。たとえば三重県伊勢市赤福餅も、あんころ餅です

 

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うばがもち

 

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 食べるとすぐに餡の味がします。噛むともちもちとして大変おいしいです。若干飲み込みづらいモチモチさなのでよく噛んでから食べましょう。にんじんは喉にちょっと不安があるタイプのお野菜なので、もっそもっそ噛んでいただきました。三粒でけっこうな満足度です。

 ちなみに中に入っても「いらっしゃっせーー!!!」「いらっしゃせーー!!!!!」って大声で言われません。普通の大人しそうな店員さんが控えめな挨拶をしてくれます。にんじんのようなノンフレンドお野菜でも安心して入ることができます。

 

 お帰りの際は草津駅前に支店もありますのでおみやげにどうぞ。

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歌川広重が描いたうばがもち屋

 歌川広重が書いた下の絵は「うばがもち屋」を描いたものです。でも実はこの場所は国道一号線沿いの、先ほどの本店の場所ではないことがわかっています。

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 上の写真を見てください。

 うばがもち屋の前にカゴが通っているのはよくわかると思いますが、向かって右に笠をかぶった二人がいるのがわかるでしょうか。実はここはちょうど二つの道が分かれる「分岐点」にあるお店で、さてどっちに行こうかというので、うばがもちを食べながら旅人が考えた茶屋と言われています。

 

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http://blog.livedoor.jp/minamibiwako/archives/6417365.html より引用

 

 その分岐とは「船」か「徒歩」。次の宿場は大津でしたが、そこへ行くには船でいってもよし、歩きでいってもよし。上の写真のようなルートがあったのです。

  • 勢多(瀬田)へ廻れば三里の回り ござれ矢橋(やばせ)の舟に乗ろ
  • 武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
  • 瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅

  現在、この茶屋は残っていません。この場所には「株式会社瀬川元 瓢泉堂」があります。

瓢泉堂 株式会社 瀬川元

 

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うばがもちの歴史

 そもそも「うばがもち」というのはどのように生まれたのでしょうか。現在のうばがもちを製造販売している南洋軒もその歴史を説明しているが、実はそれは諸説のうちのひとつにすぎません。

 

  1.  江戸時代に乳母が餅屋を営んでいた金沢家の記録である「金沢よし子文書」があります。それによると、近江の国を本拠とした源氏(げんじ)・佐々木家の旗本である旧勢田庄奉行・矢倉越前守藤原国重の子孫である福井久右衛門重好という人がいましたが、重好が早くに亡くなったためその妻である「との」という女性が餅屋を営み生計をたてたのが始まりだとあります。彼女が作った餅は、後になって姥が餅と呼ばれるようになったそうです。(「金沢よし子文書」)
  2.  時は寛永(1624年 - 1644年)、代官をしていた近江源氏正統・佐々木左京太夫義賢の子孫は、攻撃を受け、滅ぼされてしまいました。生き残った彼の曾孫(3歳)を乳母が引き取り、草津へ行って密かに養いました。彼女は餅を作って街道に出て「懐きたる子はよしある子なり。其養ぐさえ」と言って、餅を買ってくれと頼みました。やがて小さな店が開けるようにまでなり、その餅は乳母が餅と呼ばれるようになりました。(通説。「『伊勢参宮名所図会』(寛政9年/1797年刊))
  3.  姥が餅の起源はさらに古いとする説もあります(応永年間(1394~1428))。これは福井家の二代目(初代は重好)の利左衛門重孝が「瀬川」と改姓したあとの瀬川八代目が皆川淇園(1734~1807)に依頼して書かせた『養老亭記』に書かれています。養老亭とは大きな庭園を伴った「姥ヶ餅屋養老亭」のことで、『近江名所絵図』にもその養老亭が描かれています。養老亭には大名が立ち寄る座敷もあり、鹿児島藩徳島藩などの大名が参勤交代の途上に食べたという記録も残っています。
  4.  また『近江国輿地志略』によると、大坂の陣に向かおうとしていた徳川家康草津を通り、そこにいた「乙(おと)」という婆さんが献上した餅をいたく気に入り、「乙餅」として広く知れ渡るようになり、やがてそれが「姥餅」となった、という説もあります。

 ちなみに南洋軒がうばがもちのロゴに書いている「永禄十二年」という文字は佐々木義賢が織田信長に滅ぼされた年です。

 また、【山本栗斎(1843~1909)が『近江栗太郡志』に記したところによると、慶長19年(1614)より前から矢倉村に餅屋が1軒あったのは確か】だそうです。

 

現在のうばがもちは乳母にかけて乳房に似せたものと言われ、地元の契約農家の有機米から作られる餅を北海道小豆で包み、すりおろした山芋を混ぜた白餡が上部に乗せてある。20年以上前にはこの白餡の部分は砂糖だったそうだが、いつから乳房の形になったのかは不明だ。作り手も姿も時代と共に移り変わってきたうばがもちだが、街道を歩く者にとっては一度は味わってみたい東海道一の名物である。

和菓子街道 東海道 草津

 

 

 

 

 

【携帯日記】顔が薄汚い問題 ~おひげを剃ろう~

 鏡で見ている顔はいつも真正面からのものです。

 人が自分をみているときは少し角度がついているし、光のあたりかたも違うので、見え方はやはり違うようです。

 

 そこでにんじんも自分を動画で自撮りしてみました。

 その動画をここでお見せすることはもちろんできませんが、

 はじめてみた時、こう思いました。「薄汚いやつだな」と。

 にんじんっていつもこれで外出てたの? 不審者?

 

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「さすがになんとかしなきゃならん」と思ってるっぽい人の画像

 にんじんはこの不潔感がいったいどこから来るのかを考えました。

 やはり「毛」だろう、と思いました。

 にんじんはすぐに薬局に走り、あるものを手に入れてきました。

 それがニベアメン シェービングフォーム スムース 195gです。

 

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 にんじんはこれまで牛乳石鹸を顔に塗ったくって適当にジョリジョリひげを剃っていました。

 そこで今回はこの商品を使い、より高度な「毛そり」に挑戦しようと決意したのです。

 

 普段こんなもの使わないので、ふたをとったときは焦りました。どこから泡が出るのかわからんからです。ふたの中にふたがついてんのかなと思って引っ張ったりしていましたが、不意に押したら泡が飛び出してきました。

 牛乳石鹸と比べて「くっせえな」と思いましたが、そういえば汗拭きシートも似たようなにおいするなと我慢します。

 あと、「これさえあれば泡が肌を守ってくれるから余裕のジョリジョリ剃りよ」とカマしてたら、顔面血だらけになりました。コラア。おまえ守ってくれへんのかい。

 

 別にシェービングフォームにこだわりなんてないので泡さえできればなんでもいいような感じもしましたが、終わってみるとあのくっせえ臭いが「匂い」に変わり、床屋さんから出た時のようなさっぱり感。あごは血だらけですが。

 

 髭剃りはいろんな角度からやらないといけないといいます。それをやってる間に血だらけになります。特に顎の部分は骨があるのでツルリといかず、血が出ます。床屋のおじさんに顔そりをしてもらったことがあると思いますが、ああいう感じでチョイ、チョイ、チョイとやると出血が少なくなりますね。

 

 

にんじんと読む「遊びと人間(ロジェ・カイヨワ)」🥕 一だけ

定義

 ライデン大学学長ヨハン・ホイジンガはその著作にて、その主張自体はともかくとして、遊びに関してはその根本的性格のいくつかをみごとに分析し文明の発展における役割を明らかにした。彼の研究を批判的に検討しその欠陥を補おう。

形式について考察したところをまとめて述べてみれば、遊びは自由な行為であり、『ほんとのことでない』としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからと言って何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用が織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。

ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み (1974年)

  •   遊びと秘密や神秘(「ありきたりの生活の埒外」)の親近性を指摘したのは大切なことだが、しかし、これを遊びの定義に入れてしまうのはよくない。
  •  次に物質的利益をすべて排したものだと考えると賭博などが遊びから外れてしまう。とはいえ、賭博は「生産」とは関係ない。そこでは富の生産ではなく、富の移動が行われている。遊びは技術や労働とは区別される。
  •  遊びは自由な活動として定義されるべきである。強要されたものは遊びではない。遊びは遊戯者が遊びたいから遊ぶ。遊戯者はいつでも「やーめた」といえる。それが遊びである。
  •  遊びには約束事がある。では人形遊びはどうだろうか。ここでは「なぞらえること」が規則としてはたらいている。

 

 というわけで、遊びは以下のような活動として定義される。

(一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

(二)隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

(三)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。

(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

 

 

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

 

 

 

 

【まとめ】書籍紹介ショート記事

 

菜根譚

 良い本をちょっと紹介するコーナーです。

 今回は菜根譚です。

菜根譚 (岩波文庫)

菜根譚 (岩波文庫)

 

 

 「これ一冊あれば大抵の自己啓発本はいいだろう」と思えるほど充実した内容です。じっくりと読むよりもなにげなくめくってみると「なるほどなあ」と思わされます。

前集50項
福莫福於少事、過莫過於多心。
唯苦事者、方知少事之為福、
唯平心者、始知多心之為過。

福(さいわい)は事少なきより福(ふく)なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍(か)なるはなし。
唯(た)だ事に苦しむ者は、方(はじ)めて事少なきの福たるを知る。
唯(た)だ心を平かにする者は、始めて心多きの禍(わざわい)たるを知る。

人生における幸いは、何よりもできごとが少ないことほど幸いなことはないし、災いは、何よりも気が多いことほど災いなことはない。ただ、平生、できごとの多いのに苦労しているものだけが、はじめて、無事平穏なのが幸いであることを悟り、また、平素、心を平静にするように心がけている者だけが、はじめて、気の多いのが災いのもとであることを悟っている。

三四郎夏目漱石

良い本をちょっと紹介するコーナーです。

今回は有名な「三四郎 (岩波文庫)」です。

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

 

 夏目漱石は「吾輩は猫である」とか「坊っちゃん」とか「こころ」は周りでも話題になりますが、あまりあげられないこちらも名作です。ここで描かれる学生たちは現代にも通じるものがあり、さすがは古典だなと思わされます。

ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定しえたり。自己の運命を改造しえたり。のっぺらぼうに講義を聞いて、のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚れなり。公らはタイプ・ライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」(強調はにんじんによる)

 論理哲学論考

良い本をちょっと紹介するコーナーです。

今回は有名な「論理哲学論考 (岩波文庫)」です。

 論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン(著) 岩波文庫

 

 安心と信頼の岩波版です。これを日々持ち歩いている人もいます。にんじんも持ち歩いていました。

世界は成立していることがらの総体である。

 一番最初の文章ですが、にんじんはこれが一番好きです。にんじんが哲学に興味を持ったのは彼がいたからこそです。哲学っていろんな人がごちゃごちゃ違うことを言い合ってて意味不明だなと思っていたところに現れた光でした。

 そうとはいえ、この本は一読してわかるようなものではなく、ウィトゲンシュタイン自身がのちに補足を書き足したほうがよかったと言っているぐらいです。そこで副読本として有名なのは

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

 

  野矢さんの「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)」です。この本がないとウィトゲンシュタインが何が言いたいのかまったくわかりません。もちろん野矢さんオリジナルの主張もたくさん入っていますが、説得力がありますし、なんといっても何かを頼りにしなければ論考が読めない以上、これが最良の解説本です。論考を開いてみたらわかります、わかりませんので(´⊙ω⊙`)

 

 黒猫の三角(漫画)

良い本をちょっと紹介するコーナーです。

今回はこれまでと違い漫画「黒猫の三角 (バーズコミックススペシャル)」です。

 「黒猫の三角」 皇なつき(漫画)、森博嗣(原作)、2007/4/24

 森博嗣さんのミステリー小説(黒猫の三角 (講談社文庫))の漫画化ということもあって、やはり話の筋に注目してしまうのですが、一番感動するのは「漫画」のほうです。小説のほうを取り上げずに、漫画のほうを取り上げたというのはそこにあります。感想としてはすごくきれいの一言に尽きるのですが……ひとつひとつが独立したイラストのようでありながらキッチリ漫画として繋がっている感じがあります。原作を知っている人はもちろん、知らない人も読んでみてください♪L( ^ω^ )┘└( ^ω^ )」♪

「テレビの時代劇なんか、主人公が悪者を切り捨てるけれど、あれも殺人だよ。あれは、正義かな? 大衆は、良い殺人と悪い殺人がある、なんていう作りものの価値観を見せられて、それを信じている。完全な妄想。完全な洗脳。とても大きな間違いだと私は思うな。」

 

純粋理性批判

良い本をちょっと紹介するコーナーです。

今回は「純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)」です。

 純粋理性批判 カント 岩波文庫 1961/8/25

 もはや紹介する必要さえないぐらい有名ですが、実際読まれた方はそう多くないのではないでしょうか。正直にいえばにんじんもまだ全部読めていないのですが、哲学史のなかにズデンとその身を置くにふさわしい内容だと確信しています。

 本当か? と思うこともたまにありますでも多分それはカントよりも後世の哲学に触れているからで、そしてその人たちもみなカントに触れていることを見れば、やはりカントは哲学の基礎のようなものといえるかもしれません。カントを見てからウィトゲンシュタインを見直せば、得るものがあると思います。

 さて、論考もそうですがいきなり純粋理性批判を読むのは多分無理です。そこでにんじんがもっとも良いと思う入門書はこちら(カント入門 (ちくま新書))。

 カント入門 石川文康(著) ちくま新書 1995/5/1

 カントの発想から純粋理性批判、そして実践理性批判判断力批判までその概略をカバーしています。カントのことが知りたくていろいろな入門書を手に取りましたが、この本が最もわかりやすく、知りたいことが書かれていました。

♪L( ^ω^ )┘さあ カントをはじめよう└( ^ω^ )」♪

 

 論理について

良い本をちょっと紹介するコーナーです。

今回は「論理について (講談社学術文庫 12)」です。

 論理について 笠信太郎 講談社学術文庫 1976/6

 この人は元朝日新聞論説委員ということです。ネットでは騒がれることの多い朝日新聞ですが、この本は大変良かったです。小難しく書いてある学術書よりもこういう本のほうが一般人にとっては論理について有益な知見が詰まっているような気がします。

単なる知識の集積だけの現代の学問を反省、人生のための知識と知恵をいかに築いていくかを明快にとき、1人のすぐれた知識人の生き方をおのずと伝えてあますところがない。幅広い教養と豊かな人生経験に裏打ちされた深い洞察は混迷の現代を生きるわれわれに貴重な示唆を与える。

  と紹介文に書いてますね。確かにいろいろなことを知っているのだろうなという気がします。やはり本は発売から三十年以上経ったものがいい味出してくるのかもしれません。「知識」と「知恵」、それを高めていくことなど。

論理について (講談社学術文庫 12)

論理について (講談社学術文庫 12)

 

 

人類史のなかの定住革命

人類史のなかの定住革命」です。

   

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

 

 

「歩き回る生活」と「住み着く生活」について書かれております。

 主な主張はズバリ「人類は住み着かざるをえなかった」でしょう。つまり「住む」を手に入れたわけではなくて、そうしないと生存できなかった、ということですね。そして定住が、現代に起こっているさまざまな問題につながっているというのです。読んだとき、あぁ多分そうなんだろうなと思いました。にんじんの人類認識の基礎みたいな本になっております。

「定住したくてもできなかった」と考える根拠として赤沢は、人類の直立二足歩行、道具使用、育児をあげ、これらはいずれも定住生活においてこそ有効におこなえるのだと言う。 われわれ定住民の引越しや育児の体験をふまえて、移動生活では道具や幼児は邪魔物であたという彼の主張はともかく、一般には、遊動民の素朴な経済システムでは定住することが不可能であるという判断がある。 しかし、それだけを言うのはナンセンスであろう。なぜなら、反対に、定住民の経済システムによって遊動生活のできないこともまた明らかであり、 それを根拠にして、同じように、「この一万年間の人類史は、遊動したくともできなかった歴史であり、その間人類は定住生活を強いられてきた」と言えるからである。

 

日本語が亡びるとき

増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)」です。

  にんじんはかなり持っていた本を処分したんですけども、ちょっと捨てられない、また読みたいなと思ってとっておいたのがこの本です。「英語」というもの悩んでいた時期でもあったので、どんどん読みました。英語に関する認識が変わった本でもあり、日本語というものをはっきりと認識した本でした。

「英語という<普遍語>の意味を問い、その力を前に、日本語をどうしたら優れた「書き言葉」として護ることができるか、それを真剣に問わねばならない――と訴えているだけである。それは英語にあらざる<国語>を母語とする人たちの共通の問いである」

 

然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はない様な空気の裡で生長した。だからことによると自分の年齢の若いのに乗じて、他を愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例の如くにやにや笑っている。その癖言葉つきはどこまでも落付いている。どうも見当が付かないから、相手になるのを已めて黙ってしまった。すると男が、こう云った。
熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ

三四郎夏目漱石

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

恋愛なんかやめておけ

恋愛なんかやめておけ」です。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  恋愛に関するさまざまなこと、恋愛が女性にもたらすリスク等々。

 随分前に読んだのですべては記憶しておりませんが、かなり熱中して読んだように思います。北村透谷の「恋愛至上主義」の話や、その顛末なども書いております。

恋愛至上主義 - Wikipedia

年ごろになったから恋愛をするってんじゃないんだ。なんだか、むしょうにおもしろくないことがあるから、恋愛にとびこんじゃうんだ。
恋愛は、会いたい見たいだけじゃない。平凡な日々のくりかえしに満足しきっている現実の世界への挑戦だ。日常性の否定といってもいい。現実の世界に追いたてられた、のけものにされた人間のたてこもる城だ。

ところが、ここに大問題があるんだ。それは精神的恋愛はひどく清潔で、いさましくみえるけれど、それがいつまでつづくかだ。

  Amazonレビューを読むとなんだか手に取るのが不安になりますが、単に恋愛に関する思想史として読んでもよろしいと思います。

 

 

世間体の構造

「世間体」の構造 社会心理史への試み (講談社学術文庫)」です。

「世間体」の構造 社会心理史への試み (講談社学術文庫)

「世間体」の構造 社会心理史への試み (講談社学術文庫)

 

  人間の行動というものは環境によって左右されるわけですが、それには「自然的環境」と「社会的環境」とがあります。そんなことをしていたら笑われるよ、と言われるように世間の目というのは人の行動を大きく律しております。そんな世間の構造について書かれた本です。

「世間体」を通して日本文化の基層に迫る。世間とは、体面とは何か? はじ=羞恥の文化の意義を問い直し、日本人の行動規範である「世間体」に社会心理学からアプローチする。世間論の嚆矢となった名著。

『「世間体」の構造 社会心理史への試み』(井上 忠司):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

 

 特に第6章『「世間体」の文化再考』はドキリとさせられます。

 西洋の〈近代的自我〉の思想にふれてもらい、わが国では、〈世間の目〉を故意に拒否しようとする風潮が、徐々にあらわれてきたように思われる。ことに戦後は、その風潮がつよい。そのさい、「つよい自我」(自律性)が育たないままに、「世間」の人たちの〈まなざし〉のみを拒否しようとするならば、人びとの前には、大きな陥穽がまっていることであろう。他者に見られないかぎり、なにをやってもよい事由という陥穽が、である。 

 

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

 

暗黙知の次元

暗黙知の次元」です。

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

 

 

 この中でも紹介されている例ですけれども、たとえば人間の「顔」というものがある。人はこれを見分けることができるけれども、どうやって見分けているかはっきりと口に出すことはできません。このように「人は自分が語る以上のものを知ることができる」ということを出発点として、≪暗黙知≫を考察していく本です。

 主観的認識を一切排除すれば正確に物事を見ることができる、みたいな「主観排除」ではなくて、知に個人が関わっていかないといけないんだよみたいな、にんじんは大変よくわかります(賛成)( ˶ˆ꒳ˆ˵ )。

 

キリギリスの哲学

「キリギリスの哲学」です。

 

キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生

キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生

 

 

 会話形式で「ゲーム」という概念の厳密な定義づけを行っていきます。この対話が非常におもしろい。最初は「ゲームというからには目的がなくっちゃね」と来て、そのあとに目的があるけどゲームとはいえないものの例があげられ、今度はそれをも含むようにどんどん定義を確定させていきます。

 そもそもこれはウィトゲンシュタインの「家族的類似」による語の意味の説明に対する一個の反論にもなっています。彼が言うには、語の意味というのはそれぞれに家族的な類似性があるだけではっきりと共通のものがあるわけではない、のですがこの本ではそれに反して「””ゲーム””に共通なものならある」と言います。

 そういうのは脇に置くとしても、ただひたすらに「哲学」してるのを登場人物の対話を通して疑似体験できる本なのです。

 

 

哲学探究

哲学探究

 

 

変化の原理

変化の原理」です。

 

 いわば臨床心理に関する本なのですが、にんじんのような門外漢が読んでも大いに得るところがある本です。タイトルに「CHANGE」とあるように、変化について扱う本なのですが、取り扱っている変化が非常に面白い。

 たとえば不眠症の人があるとします。彼は自分の眠れない状態をどうにかするために、意志の力を総動員してがむしゃらに寝ようとするわけです。しかし、眠りとは自然に訪れるものであって、りきんでどうにかなるものではない。けれども「眠れない」を解消するために、彼は「眠る」という反対の力をかけ続けることしか知らないので、果ては睡眠薬に手を出し、薬がなければ眠れないなど、不眠症をどんどん悪化させていくことになります。

 また、うつ病の人がここにいるとします。彼に「がんばれ」と声をかけることは良くないことだというのはよく知られた忠告です。それというのも、ここにも不眠症と同様の心理的な力学が見られるからであります( `ᾥ´ )。彼は自分の悲観をどうにかしようと試みるため、悲観でない方向、つまり楽観に行こうと努力します。そこへ「がんばれ」と、彼を楽観に引こうとするものが現れるとどうなるか。彼は楽観的になれない自分を責めるのと一緒に、がんばれと支援する人々からもある種の圧力を感じるようになります。それはたとえば楽観的になれない申し訳なさなどです。高ストレスにおかれれば人間は自然と憂鬱になるもので、うつ的傾向はさらに深化していく次第となるわけです。

 

 このように、プラスマイナスゼロにしようとする変化、逆へ行こうとする変化、同じところをぐるぐるめぐる変化を、著者は「第一次変化」と名付けています。そして問題の解決をもたらすものはシステムそのものを変えるような、ある種、非合理的な「第二次変化」であると主張しているのです。

※問題の解決への努力がさらなる問題を生み出すパターン。他にもいろんな問題と、誤った解決のパターンが書かれています。全部第二次変化で解決するといってるわけではない。

 なんだか森田療法の「あるがまま」だとか、この頃にんじんが考えてきたこととか、いろいろを総合してくれるような気がして楽しく読んでいます。

 

 

森田療法 (講談社現代新書)

森田療法 (講談社現代新書)

 

 

 変化の原理を読んだあとはこちら。

  出会うべくして出会った本だな、みたいな感動に打ち震えております。

よいは悪い―暗黒の女王ヘカテの解決法 (りぶらりあ選書)

よいは悪い―暗黒の女王ヘカテの解決法 (りぶらりあ選書)

 

 

 

にんじんと読む「懐疑主義(松枝啓至)」🥕

第一章 ヘレニズム期の懐疑主義

ヘレニズム時代とは、マケドニアアレクサンドロス大王(前三五六-三二三年)が没した後、前三〇年頃に地中海一帯がローマ帝国によって統一されるまでの約三百年間の時期を指す。

懐疑主義 (学術選書)

 この頃の思想は主には「ストア主義」「古代懐疑主義」「エピクロス派」の三つがあった。共通している目的は無動揺(アタラクシア)に至ることである。そのために私たちを取り巻く世界をどのように知っていくかは重大な問題だった。古代懐疑主義以外の二つの思想は、「ある仕方で私たちは正しくものを知ることができる」としたが、古代懐疑主義は「世界についての知識なんか持てません」とした。知識の可能性を否定する古代懐疑主義は、あらゆる事柄について判断を保留する。重要なのは判断保留(エポケー)であり、いかなる表象にも同意せずまた不同意もしないことが、アタラクシアへの道だとされた。

 いかにも正しそうに思えることに対してノーを突き付ける手段をセクストス・エンペイリコスがまとめている。

  1.  動物相互の違いに基づく方式 同じ事物でも動物によって同一のものが受け取られるわけではない。しかも人間の受け取りが正しいとは限らない。ゆえにその事物が自然本来的にどうかは保留する。
  2.  人間どうしの相違に基づく方式
  3.  感覚器官の異なる構造に基づく方式 諸々の感覚は互いに異なっている。それぞれの諸性質だけをもつのか、実際は一つなのかはわからない。
  4.  情況に基づく方式 情況によって受け取り方が違うこと
  5.  置かれ方と隔たりと場所に基づく方式 いる場所によって感じ方が違うし、近づけば正しいとはいえない。
  6.  混入に基づく方式 受け取るにしても必ずなにかといっしょに受け取られるのでその事物がどうなのかはよくわからない
  7.  存在する事物の量と重宝に基づく方式 事物の本性はものの量と調合によって異なるものになる。
  8.  相対性に基づく方式 事物はほかのものとの関わりのなかであらわれるため、自然本来の事物の姿などわからない
  9.  頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式 同じ事物でもあんまり出会わないものだと驚き、よく会うと驚かない
  10.  生き方と習慣と法律と、神話を信じることと、ドグマティストの想定に基づく方式 特定の習慣ではこうであるといえても自然本来ではどうかわからない

 要するに「対象を認識したといっても一側面。そんなことではその対象の本性を捕まえたことにはなりませんよ」ということだ。一側面のよせあつめが対象の本性であるわけでもなく、しかも一側面さえもそれを正当化するものがなく疑いうるものなので、どうやって正しい知識なんて得るのか?

 この10の方式を考案したのはアイネシデモスという人だが、この人のあとにアグリッパという人が5の方式を挙げている。2,4,5番目を抜き出して「アグリッパのトリレンマ」とも呼ばれる。

  1.  反目を論拠とする方式 問題となっている事柄について判定不可能な論争が起きているため、どれかを選び取ることも斥けることもできない
  2.  無限遡行に投げ込む方式 なにかを確信させるために持ち出されたものを確信させるものはなんなのか、と一生突き詰めていくやり方。最終的に判断保留にするしかない
  3.  相対性を論拠とする方式
  4.  仮設による方式 無限遡行を避けようとして設定した最初のものは、単に仮設として証明されもしないので議論自体が疑わしい
  5.  相互依存の方式 Aを成り立たせるために使われたものにAが使われていないかを疑うやり方

 古代懐疑主義者たちは自分たちにどう現れているかということと、物事が実際にどうであるかをはっきり区別している。「物事が実際にどうかなど気にしなくてもよい」と懐疑主義者は教えている。

 

懐疑主義 (学術選書)

懐疑主義 (学術選書)

 

 

第二章 モンテーニュ懐疑主義デカルトの方法的懐疑

 西洋ではルネサンス以降、古代ギリシャの文献がラテン語訳され、その頃の思想が流行にもなった*1。しかしこれらの思想はキリスト教にとって都合の悪いものばかりであった。協会はこれを排そうとしたが、近世になって古代ギリシャの思想を生かして自らの思想を作り上げる哲学者が続々と現れてくる。

モンテーニュの信仰主義】

 ここでの懐疑主義キリスト教懐疑主義であり、知識が疑われるというのは人間の無力さを暴くものとして捉えられた。真理は啓示によって与えられる*2

デカルトの方法的懐疑】

 デカルトはあらゆる学の根本に形而上学を見出し、その第一の真理を見出すために「方法的懐疑」を用いる。要するに私たちの心の中:「観念」というものの正当性を認めさせるために、懐疑主義の懐疑を爆弾にして徹底的に降らせたのである。

 疑い得るものはすべて保留する。これは懐疑主義と同じだが、懐疑主義が「そのように見えていること」と「実際そうであること」の区別を用いて「実際そうであること」を攻撃したのに対して、デカルトは逆に「そのように見えていること」を徹底したのである。

 

 

 

 にんじんは古代懐疑主義について知りたくて「懐疑主義」という本を手に取ったのだが、ここからはデカルトを批判的に検討し、知識とはなにかという問題に入っていくので割愛する。

 デカルトがつくった「内/外」の区別はドレイファス&テイラーによって媒介説と呼ばれたが、これについての批判は

近代哲学の根本問題 Part.5 ドレイファス&テイラーの解決 - にんじんブログ

 にまとめた。

*1:当たり前のようにさらっと書いているが、ルネサンスは14世紀であり、古代ギリシャは紀元前である。それまでは普通にはまったく知られていなかったことになる

*2:宗教と哲学の違いは物語で説明するかどうかだという話が『幸せになる勇気』で出ていたが、そうではなく、違いはまさにこの部分にあるとにんじんは思う。「正しいことは与えてくれる」これが宗教。現実的には、教会本部か教典がその役割を果たす。