にんじんブログ

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にんじんと読む「人類史のなかの定住革命(西田正規)」🥕 ②

定住革命

 サルや類人猿などの高等霊長類は100頭程度の単位集団を形成し、固有の遊動域を移り住んでいるが、人類もまた出現して以来数百万年を遊動生活者として生きていた。定住生活を始めたのはおよそ一万年前頃のことだが、そこから生じて来た社会の複雑化は定住生活の出現に伴って生じた歴史的現象であるといえる。だがなぜ、人類はそれまでの遊動生活を捨てて、定住生活をはじめたのだろうか。「定住を望むのは当然」だとする見解もあるが、人類出現以来続いてきた伝統を捨て去ることは、遊動生活に適した進化を遂げて来た身体には快適とはいえない。だからむしろ、遊動生活維持が無理になったからこそ、定住生活が始まったのだとするのが自然だろう。

 遊動することの機能や動機は次のように整理できる。:

  1.  安全性・快適性の維持 a:風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため。b:ゴミや排泄物の蓄積から逃れるため。
  2.  経済的側面 a:食料、水、原材料を得るため。b:交易をするため。c:共同狩猟のため。
  3.  社会的側面 a:キャンプ成員間の不和の解消。b:他の集団との緊張から逃れるため。c:儀礼、行事をおこなうため。d:情報の交換。
  4.  生理的側面 a:肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。
  5.  観念的側面 a:死あるいは死体からの逃避。b:災いからの逃避。

 逆に言えば、定住生活ではこれらを移り住む以外の方法で満足させなければならない。たとえば環境汚染の防止について、遊動民は一切気遣わない。移動すれば自然が帳消しにしてくれるからである。人類以外の、定住する動物もまた同じように、清掃の問題が付きまとっているが、それまで遊動生活をしていた人類にとってその変化は酷だったに違いない。たった一万年という期間では、私たちの体はそれに合わせられず、幼児に対してはまず排泄の訓練、ゴミの処理を学ばせなければならない。

 また、定住生活においては、定住に耐えうる頑丈な住居を作らなければならない。新石器時代に出て来た磨製石斧マセイセキフはこうした木材加工技術の存在を象徴的に示すものである。また定住するためには、こうした資源が豊富な場所であることも求められる。

 そして、社会的不和に関しても、定住生活者は「離れる」以外の方法で解決しなければならない。争いを解決させるための権利や義務についてのルールが取り決められる。アフリカの遊動狩猟採集民における食料や道具の分配における平等主義的な社会原理は後退せざるを得ない。定住民は同じ環境に住み続けなければならず、貯蔵ということを行う。彼らは蓄えた食料や財産からも逃れることができず、それを守るためには守りを固めるしかないのである。

 定住者は死者や災いからも逃れることができない。多くの定住民は死者の住む領域をはっきりさせ、共存をはかろうとし、壁で囲むなどして、その場所の特異性を強調し始める。逃れられない災いに対してはなんとか場所の安全を説得するために、その原因を神や精霊などに求め始め、儀式的な操作によって追い払えると信じ始める。遊動生活者は単に逃げればいいだけなので、このような操作はまったく必要ない。

 遊動生活は変化に富み、脳や体に適度な負荷を与えるが、定住民は別の方法を考えなければならなくなった。行き場をなくしたエネルギーは高度な工芸芸術や政治経済システム、込み入った儀礼、宗教体系、芸能など、さまざまな装置につぎこまれてきた。『いうなら、退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。』(p33)

 

 どうしてここまでして、人類は定住に切り替えなければならなかったのか?

 人類史における初期の定住民は、日本の縄文文化がそうであったように、狩猟・採集・漁撈を基盤にした非農耕定住民であった。だから農耕は定住の結果なのであって、時折説明されるように、農耕が原因で定住が起こったわけではない。

  •  漁撈について見ると、これは歴史的にも最も新しい調達の手段である。前期旧石器時代には貝が利用され、時代を経るに従って水産資源利用の証拠は増大する。魚類を効果的に得るためには、水に慣れない人類のハンディキャップを克服する道具の発達がなくてはならない。実はユーラシアと北米の広い地域において、定住生活の出現が定置漁具の出現に並行して起きている。定置漁具こそ、人類初の、携帯性・使い捨てを犠牲にして作られた最初の道具だったのである。魚類は一般的に、狩りをするよりもリスクが少ない。また、哺乳動物に比べて捕えやすい。そのようなメリットが漁撈を後押ししたが、漁獲効率と安定性を求める行為は遊動生活にそぐわないものなのだった。
  •  環境要因について見よう。一万年前といえば氷河期が終わり、大きな気候変動が起きた時代でもある。低緯度地帯にはそれほど動きはなかったが、中緯度以降、これまで草原・疎林・氷河だった世界が、温帯森林・温帯・寒帯に変わったことはそこに住んでいた人々の生計戦略を揺るがした。森林の拡大によって狩猟が不調になると(木々が邪魔、動物が小型になり肉が少ない等々)、植物性食料か魚類への依存を深める以外に生きる手はない。しかし森林はいつでも果実のあるわけではなく、季節的分布があり、特に冬場には採集が困難である。だとすれば、秋のうちに大量に食料を抱え込み、冬を越えるしか手はない。漁撈にしても冬の水域は難しく、冬までにできるだけたくさん捕まえて保存しておかなければならない。だが、そんな大量の食糧を抱えて移動することはできないのである。

 しかし、気候変動はそれまでにも何度かありながら、なぜ一万年前に定住が起こったのだろうか。それは漁撈の技術、保存技術などの前提条件を欠いていたからだと言わざるをえない。だが、それ以前の温暖期に、人類がいかにして生き延びたかについての適応戦略について私たちはあまりにも知識が少ないのが現状である。

 

 

パンドラの種 農耕文明が開け放った災いの箱

パンドラの種 農耕文明が開け放った災いの箱

 

 

にんじんと読む「人類史のなかの定住革命(西田正規)」🥕 ①

 

手形動物の頂点に立つ人類 

 霊長類を形態学的に分類することの困難を指して、「特長がないのが特長」と人々にいわしめたが、今西錦司は『生物的自然における生物には、博物館の標本のように、単にけいたいだけの生物はいない。その形態が生活する、あるいは生活する形態が生物である』(p188)と述べた。ここでは脊椎動物門というレベルにおいて、次に霊長目のレベルで、さらにヒト上科のレベルで、彼らの生活形を把握し、人類出現の背景を追う。

 発声・咀嚼・攻撃・採食・運搬・育児・身体清掃・グルーミング・移動に関してみれば、イヌとサルは非常に対照的である。発声・咀嚼・移動については手足で共通であるが、イヌが口を主に使うのに対して、サルは手を用いる。この特徴をもって、イヌは口型、サルは手型傾向の動物と呼ぼう。手型動物は口と首が短く、四肢は長く、太く、可動性が高い傾向が強い。重い四肢は、木に登り、手を様々な仕事に使うことに適し、一方、軽い四肢は高速長距離走行に適す。水中動物の手足は移動のために特殊化されており、口型傾向が強く、イルカやクジラなどは最たるものである。これをもとに脊椎動物を並べてみると、進化には手型化の傾向性が認められる。このような意味において、霊長類は脊椎動物進化の最先端を進む動物であり、人類はその頂点に立つ。

 口型から手型への移行によって目の変化が起こる。目は口ではなく、手を捉えるように進化する。たとえば口型動物の目は、前方に突き出た口吻と対象を同時に視野におさめる。手は視野の外にある。手を視野に入れるためには目か手を移動させるしかないが、脊椎動物の基本体型を維持しつつそれを行うには可能な道も限られる。原始霊長類は首を短いままに手を長くした。それは彼らが樹上で生活していたからであり、長い首は枝をくぐるにも重心を安定させるのにも不便だった。樹の下にいた動物たちはむしろ、首を長くした。そして、これまで使ってきた「口」をうまく使えるように利用した。クマやネコは例外のようだが、彼らは逆に、手で餌をとるようになった結果、器用に樹にのぼれるようになったのだろう。手を便利に使うようになると、突き出た口吻が邪魔になる。視覚を多く使い識別することで脳がの大型化が進む。口が小さく、脳が大きくなると、目は腹側に押し下げられた。これで余計に手がよく見えるようになった。

 次に霊長類を「原猿類」「サル類」「ヒト上科(類人猿)」「ヒト科(人類)」の4つに分けてみてみよう。原猿類からサル類になることで、育児・身体清掃・グルーミングに口を使わなくなった。その仕事は手にまかせるようになった。さらに類人猿になることで、頬袋にモノを詰めて運ぶこともなくなったし、採食はすべて手で行うようになった。そして人類に至り、移動に手を使わなくなる。攻撃にも口は使わない。樹上生活で発達した手型の傾向は、再び地上に降りることによって頂点に達した。

 

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)

 

 

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

 

 

【にんじんまとめ】緊急小口資金および総合支援資金について(2021.8.31現在)

 

緊急小口資金および総合支援資金についての情報

返済免除による利益(債務免除益)は非課税の方針

(日刊スポーツ)

 

⇩ 基本的なことはココにアクセス

corona-support.mhlw.go.jp

<緊急小口資金(最大20万円貸付)>

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 上記四点の書類に加えて、本人確認書類のコピー、住民票(世帯全員が記載されてるもの。その他の、個人番号とかは不要)、預金通帳のコピーが必要。

 これらの書類を市区町村の社会福祉協議会に提出!

 

(詳細は必ず各市町村または都道府県の社会福祉協議会のサイトへ)

 

貸付の申請期限が6月末→8月末に!

厚生労働省:プレスリリース(報道発表資料) ⇒ https://t.co/MK7IP8fIjF

 

貸付の申請期限が8月末→11月末に!

www.mhlw.go.jp

厚生労働省:プレスリリース(報道発表資料) ⇒ 

https://www.mhlw.go.jp/content/12003000/000819645.pdf

 

貸付金の返還免除要件が明確化!厚生労働省:プレスリリース(報道発表資料) ⇒ 

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_17395.html

https://www.mhlw.go.jp/content/12003000/000753778.pdf

 

(注意!) 返還免除に申請が必要なのかなど、手続きについては検討中。

 

返済免除した額は非課税

www.nikkansports.com

 日刊スポーツより。

 

給付金&支援金 2021年度決定版 申請するだけでもらえるお金 (パワームック)

最新版 図解「届け出」だけでお金がもらえる制度一覧

暮らしのセーフティネット! 失業等給付・職業訓練・生活保護・給付金のしくみと手続き (すぐに役立つ)

第1回 令和3年3月16日

第2回 令和3年3月23日

第3回 令和3年6月 8日

 

新型コロナに影響を受けた非正規雇用労働者等に対する緊急対策関係閣僚会議|内閣官房ホームページ

 

<第一回議事録より菅義偉内閣総理大臣から報道陣へ>(2021年3月16日)

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<第二回議事録より菅義偉内閣総理大臣から報道陣へ>(2021年3月23日)

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 <第三回議事録より菅義偉内閣総理大臣から報道陣へ>(2021年6月8日)

 

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にんじんと読む「ニーチェ入門(竹田青嗣)」🥕 第一章

第一章 はじめのニーチェ

 まず論壇上の処女作と呼べる『悲劇の誕生』から。(悲劇の誕生 (岩波文庫)

 その中身は①悲劇論、②音楽芸術論、③主知主義批判の三つから成る。彼は悲劇の概念を考え直すため、ギリシャ文化をたどる。その変遷をみるために、ニーチェアポロン的とディオニュソス的というふたつの概念を持ち出す。アポロン的とは個体化・秩序化・理性的・コスモス、デュオニュソス的とは陶酔・一体化・感性的・カオスである。このふたつが互いに刺激し合うことで、ギリシャ藝術が動いていくという。

 ニーチェの語りたい悲劇はアッティカ悲劇である。それはアポロン的かつデュオニュソス的であるような芸術である。たとえばアイスキュロスの『プロメテウス』がそれだった。アイスキュロスの世界観は正義というものを求めるアポロン的な傾向をもっているが、プロメテウスは大きな苦難に打ち勝って偉大な業績をなしとげるタイプの英雄ではない。プロメテウスが神々の世界から火を略奪し支配しようとした結果、人類は苦悩と悲哀を被ることになる。彼の行為は牧歌的な人間の生活のなかに文明をもたらすのだが、それは争いの原因でもあった。だが作者であるアイスキュロスは、プロメテウスの略奪を人間の本性に由来する必然的な罪として是認し、そこから生じた災いも是認する。「そんなことをしなければよかったのに」という考えは、たとえばルソーの自然に帰れといった思想のなかに見出されるが、ニーチェはそれとは逆に、プロメテウスが手に入れた文明によってもたらされた災いを否定すべきではないという考えを打ち出しているのだ。人間の存在の本質というのは、人間の本性によっていろいろと生み出された矛盾を引き受けつつ、なおも生きようとすることなのだ。人間は欲望(生への意志)によってさまざまな苦しみを作り出すが、この欲望以外には人間の生の理由はあり得ない。仏教は欲望を消し去ることを教えたが、ニーチェはこれに真っ向から反対した形になる。悲劇はそのような人間の本質を単に認識として与えるのではなくて、直接心臓に与えてくる、とニーチェは考える。そこで出てくるのがワーグナーである。音楽はなんらかの形を介してではなく、直接に伝えてくるものだからだ。

 さて、『悲劇の誕生』において、ニーチェは「根源は生きる意志、生の本質は苦悩、悲劇(芸術)は本質に触れさせる」「音楽は形を介さずに伝える」という二点から「音楽の精神からの悲劇の誕生」について語った。ショーペンハウアーと異なるところは、彼にとって芸術は哲学や宗教と並んで生の苦しみから脱却する手段だったが、ニーチェの場合は生から脱却するのではなくて、苦悩する生自体を励ますものとして芸術がある。

 最後の三点目、主知主義への批判とはなにか。

 それはギリシャ悲劇の終わり、エウリピデスの喜劇の登場である。エウリピデスソクラテスという理知を持ち込むことで生の矛盾と苦悩を殺したのである。ここに最大の迷妄がある。正しく思考を積み重ねて行けば最後に真理に行きつけるという信念=理論的楽天主義! ソクラテスは知性と論理によって恐怖を克服し、自らの死を受け入れた存在である。ソクラテスはそれをギリシャ世界にもたらし、ギリシャ悲劇の精神を滅ぼした。

 ニーチェソクラテス批判の本当の眼目はヘーゲルにあった。ヘーゲルはカントの「世界それ自体を認識するのは無理」という説を拒否し、人間の理性の長い歴史のプロセスが徐々にそれを明らかにしていくと述べたし、カントの「善とは自由な人間が道徳的たろうと意志することだ」という説も拒否し、これだと個々人に善を意志することを期待するのと何も変わらなくなると批判した。人間は自由な存在であり、自由を求める生き物だが、自由のためには他者も認めなければならず、それこそが自由を求める唯一の道だと徐々に理解していくのだ。つまり自分の存在の本質を深く理解することによってはじめて善きことをする存在となる。要するに、深く正しい認識が善と接続されたのである―――ニーチェはこれを批判した。理論的楽天主義

 

 次は『反時代的考察』を見てみよう(ニーチェ全集〈4〉反時代的考察 (ちくま学芸文庫))。

 この中身は文献学とも哲学ともいえない、当時のドイツ文化批判である。①ドイツ文化のダメさ加減、②ヘーゲルに代表される歴史主義批判、③ショーペンハウアーの重要性、④ワーグナー論の四本立てである。

 ここで紹介される三つの人間像を見てみよう。まず「ルソーの人間」である。この類型では現実への強い否認と、本来的なものに対する激しい憧れが見られる。激烈な革命への希求が現れるのもここにおいてであり、たとえば自然こそが善だ自然に帰れと叫ぶ。次に「ゲーテの人間」である。この人間はルソー的ロマン主義を理解しているが、激情からは身を離している。現実と理想の間を調停させる力を持っているが、いつでも俗物に堕する可能性をもつ。次に出てくるのが「ショーペンハウアーの人間」である。彼は真理を深く認識し、それがどれだけ矛盾に満ちたものであろうが、あくまでこの真理に従い生の本来的意味を掴み取ろうとする人間である。

 青年は誰しも「ルソーの人間」の要素を持っている。自分の中にあるロマン主義的理想を追求したいと考える。だがそれは現実を無視したもので、実現のための条件をまったく考えないので、単なるロマン主義に終わってしまう。その反省によって現実を見るようになるが、考慮を重ねるうちに現実がこうでしかありえない理由が見えすぎるようになる。というわけで理想はしりぞけられ、調停が行われるようになる。「ゲーテの人間」に至ったわけだ。ニーチェはこの落ち着きを乗り越えたいと思っている。だが、もはやルソーの人間に戻ることはできない。

 そこで「文化」というものを考え直す。これまで人類の究極目標というものを考えて、たとえば万人のあるいは最大多数の最大幸福だなどといってきた。だがそんなものは違う。人類の目標というのは「個々の偉大な人間を生み出すこと」なのだ。そうすれば人類がより高次の種に移行する可能性がある。

 文化の本質とはなんなのか。ニーチェいわく、文化とは単に人間生活を便利にするためのものではなく、そのありかたをもっともっと高い、人間的なものへと向かわせるための励まし合いの制度である。それなのにキリスト教ナショナリズム、民主主義、近代哲学ときたら、人間の精神を高くするどころか、平均化・凡庸化する。近代哲学の道徳の本質は、互いに互いの自由を制限し合うことだ。

 キリスト教の目標は最後の審判であり、カントは永久平和、ヘーゲルは絶対精神がおのれを実現するとき……だが、これらの目標はまったく現実を捉えていない。神だとか、絶対精神とか、最高善とか、最終目標とかは人間が頭でこしらえたものに過ぎない。ありもしないものを目標としないこと。目標は「人間」「人間の生それ自身」にならねばならない。これが後期の超人という考え方に繋がっていく。

 

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 

 

 

「死」についてTHINKする

 にんじんはこのところ、「死」についてよく考えます。

 

にんじんと考える「死」

 以前、『キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生』という本を読んだとき、人生というゲームについて考察したことがあります。にんじんは、人生は死を目的とするゲームだと主張する論文を拒否しましたが、今は少し違う考えを持っています。人生は死を目的としてはいません。目的をもつことを目的としています。私たちはゲームのなかで生きようとします。「私が生きている意味はなんなのか?」そう問うのも、この人生全体をゲーム化しようという傾向のあらわれのように思えます。私たちはなんの意味もない、なんの目的もない、なんの根拠もない苦しみを恐れます。「死」はその最たるものです。だから「死」をどうやって迎えるかは、理論的にも、ひとつの重大な問題になってきます。

 完全に分類することはできませんが、いくつか死に方を考えてみましょう。単純に行動するロボットAを動かしてみることにします。他にもいろんなタイプがあるかもしれません。大きく分けると、死を目的化するか、しないかです。

  •  Aは、或る条件のもとでの「死」が自分の利益になると考えるかもしれません。たとえば天国に行けるという信念をもつかもしれません。こうしたタイプは信じ切ることさえできれば死ぬのが楽です。いや、もちろん痛いし、楽ではないのですが、死に悩むことがないという意味で楽です。条件さえ整えば「やらせてくれ!」と志願するでしょう。しかし、もし人生のなかで条件が整わないことを考えると、Aは私たちと同じ苦しみを味わいます。
  •  Aは、或る条件のもとでの「死」が他者の利益になると考えるかもしれません。保険金を家族のために残すとか、わずかな食事を子どもに分け与えてやるとかです。確実にその行動が死に直結するとは限らない場合もあります。銃で撃たれそうな人の前に躍り出て身代わりになる場合も、死ぬとは限りません。また、漫画のように、強敵を前にして「先に行け」と言ったりする場合もそうです。「俺を置いていけ」もそうです。しかしだいたい死にますし、本人も死を覚悟してやっていることです。
  •  Aは「死」を単純に「終わり」だと考えています。それは、ゲームは一日一時間と言われるように、死は「その時が来た」と同じことです。この死に方がもっとも穏やかですが、この死はゲーム化されていません。本当に、「死」は終わりなのです。ただ単に、それだけです。もうゲームは終わった後なのです。Aの死には何の意味もありません。もちろんAを構成していた物質は残りますから、それはあとに影響を残すことができますが、Aがその影響を受けることは未来永劫ありません。他者の利益になることも、まぁ、ほとんどないでしょう。「死」は「終わり」です。

 私たちは最後の種の「死」を、受け入れることを拒みます。だから天国に行くとか幽霊がどうとかいうように、意味を残したがります。「すべてのものは最終的にあとかたもなく消え去る」という感覚は、意味付けを行なおうとするすべての人を絶望させます。だから、死に際して「未練がない」というのは、本当に有難いことです。にんじんは今のところ、その境地が自分の死についてベストなありかただと思っています。でも、死は常に身近にあります。未練ない境地に至る前に、そうなったらもう終わりなのでしょうか。「まだまだやりたいことがあるのに」となったときに「受け入れてください」としか言えないなんて、あまりにも寂しいことです。

 これを避けるためには「いつ死んでも別にいい」と思うことですが、どうしてそんな考え方ができるのでしょうか。そこに至るまでの時間を、「生」は用意してくれているとは限らないのです。未練がある、というのはまだやりたいことがあるということです。釈迦は欲を滅することを教えました。非常にシンプルな教えであることがわかります。でも私たちは釈迦の思想の前で止まることはできません。私たちには欲求があります。そのうえで、どうしていけばいいのか考えなければいけません。

 それは病院や医者とのかかわり方でもあります。病院は過ごし方が制限される場所です。お金も問題になります。

 

キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生
 

 

他者の死のケア

 病気になって死を待つ人にどのような声をかければよいのでしょうか。

 まず彼らは「死」を明確に意識している人々です。近い将来の、自分のほぼ確実な終わりを意識しながら生きるというのは想像を絶します。「こんなに苦しい思いをするなら早くお迎えがきてほしい」という人に、なんと声をかければいいのでしょうか? 間違いなく絶対に避けるべきことは、自分の考えを押し付けることです。自分の哲学的考察を開陳して、「さあ、死は無意味だ。OKOK」などといっても、何の役にも立ちません。もし心穏やかになってほしいと望むなら、そういう行動は慎むべきでしょう。

 『死を前にした人に あなたは何ができますか?』という本では、援助者が身につける五つの課題を挙げています。

  1.  援助的コミュニケーション
  2.  相手の苦しみをキャッチする
  3.  相手の支えをキャッチする
  4.  相手の支えを強める
  5.  自らの支えを知る

 まず第一に、私たちは、苦しんでいる人の苦しみをわかってあげられる人にならなければなりません。「苦しんでいる人は自分の苦しみをわかってくれる人がいると嬉しい」ということです。それは励ましでも説明でもなく、””聴いてくれる””ということです。本では、反復、沈黙、問いかけという三つの技法が語られています。反復とは相手の言葉を繰り返すことであり、沈黙は相手が大切なことを言うときの間を大事にすることで、問いかけは相手の思いを明確にして無意識の支えを意識化することです。問いかけがもっとも難しく、特に丁寧に学ばなければなりません。

 問いかけは信頼関係ができたあとに行うことです。たとえば「いろんなことがあったと思います。振り返ってみて支えになったものはありますか?」「これからどんなことがあると安心ですか」見えてきた支えをさらに強めるため「どんなお孫さんですか?」などと問うたりします。

 第二に、苦しみです。苦しみには答えることができるものとできないものがあります。痛みの緩和、湯船につかりたいときの身体介護・訪問入浴などです。身体的・精神的・社会的苦しみの多くは答えることができます。しかしスピリチュアルな苦しみ=自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛に応えることはできません。なんのために生きているのか、社会で何の役にも立っていない、何もできなくなっていく、どうして私がこんな病気に、といったことです。苦しみをゼロにすることはできません。最も難しいテーマです。ある意味、にんじんたちは哲学をすることを通して、この悩みに答えを出そうとしているともいえます。

 第三に、支えです。死を前にしても穏やかな人がいます。それは支えがあるからです。支えは大きく三つに分けて「将来の夢」「支えとなる関係」「選ぶことのできる自由」です。死が近い人にも夢を持つことはできます。死ぬ前に両親の墓参りをしたいというひともいます。あの世という宗教的な夢を持つ人もいます―――とはいえ、にんじんとしてはなんとなく嘘くさくも感じられます。このように「支えは人によって異なる」ので気を付けなければなりません。支えとなる関係というのは、たとえば家族や、施設のスタッフなどです。ここでも神様など宗教的なつながりを支えにする人もいます。三つめは「選ぶことのできる自由」です。これは支えを見つけるための視点です。

 ① 療養場所 ② 心が落ち着く環境・条件 ③ 尊厳 ④ 希望

 ⑤ 保清   ⑥ 役割  ⑦ ゆだねる ⑧ 栄養 ⑨ お金

 ひとつめ。どこで過ごすと穏やかな気持ちになるか。

 ふたつめ。どんなことがあると穏やかな気持ちになるか。

 みっつめ。どんなことで尊厳が奪われているか。どう解決するか。

 よっつめ。将来の夢と似ている。小さなことでもよい。

 いつつめ。身体をきれいに保つこと。どうしたいか。自分でするか誰かに頼むか。

 むっつめ。だれかの役に立つという意味。

 ななつめ。こだわってきたことを他の誰かにゆだねる。

 やっつめ。食べること。

 ここのつめ。お金の心配を取り除く。

 

 年をとると眠る時間が増え、歩く距離が短くなる。無理には起こさず、暗めの部屋で静かに眠れるようにしてあげることも大切です。

 

 

死を前にした人に あなたは何ができますか?

死を前にした人に あなたは何ができますか?

  • 作者:小澤 竹俊
  • 発売日: 2017/08/07
  • メディア: 単行本
 

 

健康と死と自由

 「にんじん養生訓」として書こうとしていた記事の序文をここに載せます。ずいぶん前に書いたものですが、生きている意味がないこと、無意味を避けるということ、人生に意味を与える大きなゲームに巻き込まれ、それから生き方=死に方につながっていくという流れ自体は今もあまり変わっていません。

 

***

 

 健康の話をするときはいつも、自殺の話から入らなければならないとにんじんは思う。それは、今すぐ死にたい人間に健康は必要ない、ということでは決してない。仮に自殺するとしても不健康なために実行に移せずにいる人間もいるに違いない。ここで問題にしたいのは、そもそも健康など手に入れたところでどうするのか、死んだほうがいいのではないか、ということだ。このように考えることの効用は、特に「できるだけ長く健やかに」と漠然と思い描いている人々に対して根本的な自由に自覚的になってもらうことである。すなわち、今自分が自殺するのではなく生を選択しているというまさにそのことを。あなたは死んでもよかったのだが、なぜか生きているのだ。そしてこれは次のことも明らかにする。あなたが生きている意味というものはまったくなく、世界にとって主要な存在ではないということ。もちろん神的な存在に、生きるほうを選択させられているのかもしれないが、もしそうだとすると、あなたには自由というものは存在しない。だからこそ、これは根本的な自由なのである。

 私たちは生きるほうを選択してしまった。今すぐ死んでもいいのに。

 いや、私が選択したのは「死にたくない」であって、「生きたい」ではないというだろうか。つまり「死にたくはない。しかし生きたくはない」というよく聞くフレーズで表現されるような。それでもいいが、そうするとあなたは生命維持活動以外の一切をしてはいけないし、するべきではない。なにかを批判することなどありえない。そんなことは無意味だ。そして生命維持活動以外をしていないことをことさらにひけらかしてはいけない。そんなことにはなんの意味もない。このことに抗弁して「いや」と言ったとたん、「死にたくない」以上のことを表現することになる。人は無意味のなかに居続けることはできない。だからこそ、生きることを選ぶ。

 ニーチェはすべてが無意味であることを知り、そのなかに居続けることができる人間を「超人」と呼んだ。釈迦は目覚めた者のことをブッダといい、文献によると彼は実際にブッダになったらしい。「釈迦はなぜ悟ったときに自殺しなかったのか?」という問いはポイントがズレている。悟ったのだから、生きても死んでも彼にはどっちでもよかったのである。彼が行ったのは純然たる「遊び」であり、ゲームプレイである。人生はゲームだ、たしかにその通り。ただし、そのことを本当に理解している人間は(ほとんど)誰もいない。

 ならば釈迦やニーチェが正しいのか。彼らに付き従えばよいのか?

 ニーチェは「ヨーロッパのブッダになれるかもしれない」と言い、自らを釈迦とは正反対の人間だと言った。彼らの見解は自己というものが実は存在しないものであること、私のものであるという感覚も錯覚であることは共通しているが、その後の道行きが異なるのである。釈迦は欲望を否定し、ニーチェは歓迎するという点で、決定的に。だがここで言いたいのは彼らのことではない。言いたいことは次のことだけだ。「何をするべきかが示されることはありえない」釈迦は悟り、ブッダと成った。しかしだからといって、彼の言うことが正しいとは限らない(と同時に、間違っているともいえない)。それは選択に過ぎない。ニーチェにとって苦しみは存在の理由だった。『もしも、人が、それに対する意味、苦しみの理由を示すならば、彼はそれを欲する。彼は、みずから、それを探すのである。苦しみではなく、苦しみの無意味なことが人類を覆って広げられていた呪いであった』(道徳の系譜 (岩波文庫))。

 この帰結に対して、私たちは自然と倫理的な考察へと導かれるように思われる。そしてそれは実のところ、『健康』というものについて語ることとほとんど同じことなのだ。私たちが生きることを決めた瞬間から始めた根源的かつ最終的なゲームこそ、「いかに生きるべきか?」というソクラテスの問いに答えること、より正確には、答え続けることなのである。なぜ答えなければならないのか? そこに、意味はないのだが。

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

初期仏教 ブッダの思想をたどる (岩波新書)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

(メモ)生態と環境・進化

 生態学ecologyとは、生物と環境・生物と生物の相互作用を研究する学問である。地球上でもっとも大きな生物学的系は「生物圏biosphere」であり、生命の存在範囲である。生物圏は山頂から深海まで広がるが、地球全体でいえば””皮””程度の厚みしかない。生物圏は太陽光以外、外部から寄与されるものはない閉鎖系であり、太陽光が全生命のエネルギー源である。地球が閉鎖系であるから、生命はその活動に必要な物質を再利用しなければならないさだめにある。

 生物圏は、特定の気候によって特徴づけられる地域であるバイオームbiomeに分けられ、その環境に適応した生物が暮らす生物群系をつくる。水中のバイオームを特に水生生活帯aquatic life zonesと呼び、サンゴ礁、河口、深海、大陸棚の四種に大別できる。

 ある地域に生息するすべての生物と、それらの生物の物理的化学的環境の総体を生態系eco systemsと呼び、生物圏は最大の生態系である。定義から、生態系は生物要素と非生物要素に分かれる。生物種は特定の場所を占有していることがおおく、個体の集まりを個体群と呼び、さまざまな種の個体群の集まりを生物群集という。ある生物種についての説明はその生息場所habitatに始まり、その生物がどのように生態系に適応しているかという生態的地位(ニッチ)ecological nicheに続く。

 生物の生存は生産者producersと呼ばれる生物グループによる、二酸化炭素と太陽光と水から有機分子を作り出す光合成photosynthesisの過程のおかげで成り立つ。消費者consumersは生産者の恩恵を受けて生活する大きな生物グループであり、(1)草食動物(2)肉食動物(3)雑食動物(4)分解者の4つに分けられている。生態系のなかで生物はほかの生物の食物源となっており、これが食物連鎖food chainを作る。食物連鎖は生産者からはじまる生食連鎖grazer food chainと、動植物の死骸やフンからはじまる腐食連鎖decomposer food chainの二種類の連鎖がある。死骸やフンはバクテリアと菌類のいる土壌や水に入り込み、有機物を形成する植物に再び取り込まれていく。連鎖はいくつも折り重なり、食物網food websを作る。食物連鎖は単に食う食われるの関係以上に、エネルギーと栄養塩類循環の経路であるとみることができる。生態学者は生物を食物連鎖の段階に応じて分類している。これを栄養段階trophic levelというが、それぞれの段階における生物量を示した図を生物量(バイオマス)ピラミッドbiomass pyramidといい、これらはその段階に含まれている化学エネルギーのピラミッドであるエネルギーピラミッドにおきかえることができる。

 私たちが世代交代できるほど長く種を続けられるのは、エネルギー循環のためではない。エネルギーは太陽光から得られ、やがては熱として地球外へ飛び出て行くため、再利用は不可能である。一方、土壌や空気、水中にいる栄養塩類は永久に再利用できる。それらは植物に取り込まれ、動物に受け渡され、動物のフンや死骸が分解され、ふたたび戻って来る。このサイクルを栄養塩循環というが、生物地球化学循環ともいう。このサイクルは環境的過程と生物的過程にわけられる。重要な循環は「水循環」「炭素循環」「窒素循環」であるが、これらを含め、栄養塩循環は人間の活動によって乱され、生態系に混乱が生じている。

 

 

 以上、ヒトの生物学 体のしくみとホメオスタシス 第24章を要約。

 

 

 地球上での生命の進化は三段階に分かれる。

  1.  化学進化chemical evolution……無機分子から有機分子ができる。地球誕生後、5~6億年ころにはじまった。もとは水蒸気とメタン、アンモニア、水素などの単純な構成だったが、太陽光、火山熱、稲妻によって互いに反応し単糖やアミノ酸などの有機分子がうまれた。次にそれらが連なってできた多量体(ポリマー)ができ、タンパク質、RNA、DNA分子がうまれた。
  2.  細胞が生まれる……原始細胞はポリマーと脂質の単純な集合体。そこから単細胞生物(無機→有機を自分でつくるメカニズムをもつ)がうまれ、酸素が増える。これらは核をもたない生物、原核生物であるが、やがて核をもつ真核生物がうまれる。
  3.  多細胞体が生まれる……真核生物があつまる。

 

ヒトの生物学 体のしくみとホメオスタシス

ヒトの生物学 体のしくみとホメオスタシス