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知的めまいをほぐす「哲学」という治療【過去記事「明確化の哲学」】

 現象学が明らかにしたことは、私たちの活動のほとんどすべてが非明示的なものによって支えられているということだろう。以前書いた記事『哲学の三層構造』において示した「受動性の層」がそれにあたる。フッサールは人々が互いに納得しながら議論をすすめていく土台を作り、心的体験を掘り進めその成り立ちをはっきりさせることで哲学的な問いをほぐそうとしたが、この「明確化」の試みには彼とは異なるアプローチをとる哲学者がいる。それがウィトゲンシュタインである。

 理論というのは、《何らかの基礎的主張により、問題となっている実践の主要な特徴をすべて説明する体系のこと》(p.84)である。たとえば、言葉とはなにか、ということは「語の意味とはそれが表す対象である」と言ったり、「語の意味の違いとはその語の使用の違いである」と言ったりして、その主張を基礎に理論を形成し、それによって言語のいろいろな側面をすべて説明しようとする。だが、「わっ!」や「こんにちは」はなんの対象も指示してはいないし、「walk」と「walks」の使われ方が異なるといっても意味が違うという人はだれもいないだろう。もちろんこれを訂正して、たとえば「walkとwalksの使用の違いは重要ではない。意味の違いは、””重要な””使用の違いのことだ」とするとしても、一体なにが重要なのかは明確ではない。つまり、「使用」という概念は実は理論の基礎とするほど明確な概念ではないのである。

 ウィトゲンシュタインはその哲学的経歴の前期における主著『論理哲学論考 (岩波文庫)』において、哲学的問題をすべて解決するために一つの理論を作り上げた。それが写像理論である。つまり「語は対象を名指す」「述語は性質を名指す」「文は事態を指す」「実際そのようなあり方としているならその文は真である」といったような、「写し取る」関係である。このように積み上げた理論によって、哲学的問題は語りうるものと語り得ないものに区別され、語り得ないことにいくらアプローチしてもナンセンスに陥らざるをえないことを述べた。

 だが後期においては、理論的アプローチは捨て去られる。写像理論の理想では、一つ一つの語がそれに応じて厳格な使用法を持たなければならなかった。だが、言語実践というものはもっと多様なのだ。たとえば《紅茶を入れるミルクについての会話から、価値ある生き方についての会話(中略)、専門的な科学の論文、数学的証明、倫理的言説》(p.87)等々。このような多様性を前にして、彼は私たちの様々な実践の特徴を際立たせ把握していこうとする。

 

 

ひとつに固執する病気

  私たちはさまざまなことを了解している。「今日は曇っている」と言われれば、それがどういうことなのかがわかる。「空が青い」と言われれば「空」も「青い」もわかる。だが改めて「空とはなんであるか」とまじめに問われると困惑してしまうのも事実である。ウィトゲンシュタインはこの「不明瞭な物の見方」を像〉と呼ぶ。

 不明瞭なまま話すことはきわめて当たり前のことである。

問題が生じるのは、我々が像の要素に対し、知らず知らずのうちに典型的なその使用の状況を結びつけ、それを物事を把握するための絶対的な枠組みとしてしまうときである。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

  後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』では、「アウグスチヌス言語像」から話がはじまる。それは「言語」についての像であり、すなわち、「言語における語は対象を名指す。――文とはそのような名前の結合である」などと漠然と考えられているものである。ところで「名前」と一口にいっても、世の中にはいろいろなものがあるが、私たちはついつい中ぐらいの大きさのゴロッとしたものの名前に限定してしまう。このような、像を解釈するための状況を〈モデル〉という。

 これにより、名前とは指差しできるような対象を表すものでなければならないとされ、これを拡大して、たとえば数字「1」「2」「3」といったようなものは””心の中の指差し””つまり””精神の活動””によって指差される神秘的な対象として君臨することになる。そしてそのような神秘的な対象のありかを、伝統的に哲学ではイデア界と呼んで来たのである。

 ここでの問題は曖昧な考え方にあるのでもなければ、それを解釈するモデルにあるのでもない。問題なのは像とモデルのペアに固執してそれを絶対的な枠組みとして扱ってしまうことにある。こうして私たちはイデア界などという別世界を想定する哲学理論を組み上げてしまうことになったのだ。

 人はある枠組みを絶対視し、それを基礎としてなにかを統一的に説明しようとする衝動:形而上学的衝動を持っている、ともいえる。この囚われの病気を治療するには、哲学的像に対して満足してもらえるような代替案を出すか、あるいは異なるモデルを用意してその像の不明瞭さ加減をわからせるか、どちらかが妥当なところだろう。

 

 ウィトゲンシュタイン自身はいろいろある立場の、どこにも与しない。だがそれならば「本当のところは」いったい何が正しいのか。その見方ならそれは正しい、という以上のことはまったく何もいえないのだろうか。

 たとえばラコタ族というネイティブ・アメリカンは、最初のアメリカ人は地下世界から現れたのだという。一方考古学者によれば、最初のアメリカ人はベーリング海峡を越えて約一万年前にアジアから渡って来た、という。どちらが正しいのかといわれれば考古学者のほうを支持したいところであるのに、ウィトゲンシュタインはそう言わないのだろうか――なにしろラコタ族の実践の中においては地下世界説はあたりまえのことであり、考古学者にとってもそれは同じなのだから。だとすると、ウィトゲンシュタインは「真理の相対主義」に味方しているように思える。真理の相対主義とは次のように定式化できる。

  1.  その信念の真偽は、何らかの実践の標準に相対的に決定される。
  2.  どのような実践も同等にその信念の真偽を決定する権限を持つ。

 私たちは信念の真偽を判定する技術を学んでいき、それによって真偽をいう。これは客観的事実との対応によって真偽を判定することの拒否である。それに加えて、二番目のテーゼによって、特定の実践を特権化することを拒否する。相対主義者には「お前はどうなんだ(それ自体は正しいのか?)」と言われるという致命的欠陥があるが、ウィトゲンシュタインはどう考えていたのだろう?

 まず(1)にしても(2)にしても、彼がそれをテーゼとして受け止めることはないだろうと思われる。それは非常に説得力をもつ哲学的像のひとつにすぎない。事実や技術や実践という明確な内容を持つわけでないことばがうろうろしている点でも、そういえる。とはいえ、そのようなラフな言い方でよければ、彼は(1)を受け入れるだろうと思われる。話のキモは、彼が奇妙な実践を見てもはっきりと「まちがっている」と言わない点だ。このところが彼を相対主義者らしくしている。

 この点を考えるために、『底面積で薪を売る人々』のことを想像してみよう。

 彼らは薪を売る時、いくら積まれているかはまったく気にせず底面積で売る。つまり、上に積み上げて行けば、値段はまったく変わらないのに薪はたくさん手に入ることになる。「これが彼らのやり方なのだ」と彼は書くが、これは(2)を間接的に支持しているわけではない。ウィトゲンシュタインが「これが彼らのやり方なのだ」と言うとき、《そのコメントは「この想像上の人々と我々が同じ信念の真理について対立した見解を持っているということは自明でない」という事実の確認として理解できる》(p.206)。つまり、想像上の人々が私たちの目から見ておかしなことをしているからといって、想像上の人々と私たちのあいだになにか信念の対立があるとは限らないという意味だ。もちろんあるかもしれないが、少なくともこれだけではよくわからない。

 想像上の人々は、私たちから見て薪を売っているように見える。だがもし本当に商売でやっているなら、底面積で売るのはいかにもどうかしている。これを「その実践のポイント=目的・勘所が理解できない」などと呼んだりする。そしてポイントが理解できない以上、そこでどのような信念が問題になっているのかさえわからない。彼らは明らかに量の違う薪に対して「どっちも同じ量だよ」と言ってくる。薪は上にものすごく重ねられ、数倍の高さになっているのに。だがいったい「量」という言葉で何を言おうとしているのか、ポイントが理解できない以上、よくわからないのである。

 もしもこの想像上の人々の商売が利益を目的とするものではなく、歴史的な経緯から単にそうすることになっているというのであれば、まだ話は通じるだろう。もしかしたら彼らのほうも、利益目的なら「同じ量なわけないじゃないか」とこちらの話に同意してくれるかもしれない。両者のあいだに対立はなかったのだ。

 つまりどういうことかといえば、もしも「あの薪の束と、この山積みの薪の束は同じ量だ」と主張することが真理でありえるのは、その記述のポイントがどこにあるのかによるのである。たとえ同じ見かけはまったく同じ記述だとしても、その真偽を判定する方法は記述のポイントによって異なるというのは当たり前の事実である。

 

 だからラコタ族と考古学者の「対立」にしても、それがたとえ「最初のアメリカ人」という同じ言葉を用いているからといって本当に対立しているとは限らない。ラコタ族は宗教的文脈のうちでそう言っており、考古学者は科学というものをもとにそう言っている。だから一方的に彼らを間違っているなどとは言えない。

 だがもし、ラコタ族が科学的主張として「最初のアメリカ人は地下世界から現れた」と言い出したならそれは間違いである。科学という実践は、証拠を説明し、的確な仮説やモデルを構成することがポイントなのだから、DNA分析や遺跡という強力な証拠を無視して地下世界ばかりを言い立てるなら、上の科学的主張の真偽を決定する権限はない。この点でウィトゲンシュタインは「なんでもあり」を追放する。

ウィトゲンシュタイン自身は宗教的実践を一種の「遅れた科学」と見なして、「間違い」と断定することには批判的である。ウィトゲンシュタイン的観点からすると、そのような態度はすべての事柄に科学的思考の形式を当てはめようとする悪しき科学主義でしかない。だが、そうだとしても、もしラコタ族が科学をやっているのだとしたら、その信念は間違いと断定してよいのである。

ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学

 

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にんじんと読む「日本人のための日本語文法入門(原沢伊都夫)」🥕 ②

日本語は「自然中心の言語」 - 人間中心との対比

 動詞には「雨が降る」などの自動詞と、「絵を描く」などの他動詞がある。目的語の有無でたいてい判別がつくが、「父親が家を出た」などの場合はヲ格があっても目的語ではない。なぜならヲ格成分を主語にした受身文がとれないから。

 消えるー消す、沸くー沸かすという風に動詞にはたいてい自動詞と他動詞のペアがある。ここで気づくのは、自動詞が”変化”をあらわし、他動詞が”動作”を表すことだ。《ある現象を自然のなかの変化としてとらえると自動詞が使われ、人間が関わって引き起こすととらえられると他動詞が使われる》(p.58)。自動詞と他動詞のペアという観点で動詞は4グループに分けられる。(1)自他のペアあり、(2)無対自動詞=自動詞しかない、(3)無対他動詞=他動詞しかない、(4)自他動詞=自と他が同じ ex解散する。

 しかしなぜ、ペアのない動詞があるのだろうか。無対自動詞はたとえば、「茂る」「光る」「熟す」「疲れる」「成長する」「死ぬ」などがある。一方、無対他動詞には「たたく」「なぐる」「ほめる」「読む」「捜す」「愛する」などがある。先述したとおり、自動詞は変化を、他動詞は動作を表す。無対自動詞は自然現象としてひとりでに生じるものと考えられるもので、無対他動詞は働きかけるものである。もし自然現象を人の手で起こそうとするなら「茂らせる」というように”使役形”にすることによって、あるいは「たたかれる」というように”受身形”にすることによって、無理やりにペアを作り出すこともできる。

 

 日本語は「驚いた」というが、英語では「I am suprised」と言う。日本語は自動詞で表現したがる傾向にあり、英語は逆に動作主を重視する。このため日本語は自然中心の言語に分類される。しかし一方、これは日本語だけに限った特徴ではないことも留意しよう。

 

主役の成分によって助詞や動詞に変化がでる「ボイス」

 「バットマンがジョーカーを殴った」

 ⇒「ジョーカーがバットマンに殴られた」

 このようにガ格成分を何にするかによって助詞や動詞が変化する文法現象を”ボイス”という。前者は””能動文””というが、後者は””直接受身文””という。これを「直接」と冠するのは、

 ⇒「ハーレイはバットマンにジョーカーを殴られて、悲しかった」

 などと、別の主体をかませる””間接受身文””があるためである。直接受身文はバットマンから「直接」影響を受けているという意味で、間接受身文はバットマンから「間接的に」影響を受けているという意味で、それぞれこうした名称になる。

 間接受身文において特徴的なのは、能動文において「ハーレイ」が現れていないということである。言い換えれば、能動文において影響を受けるヲ格成分がなければ直接受身文を作れないのに対して、間接受身文は目的語のあるなしには一切関係せず作ることができるということである。このことは、英語などの他言語と異なる

 

「雨が降った」

 ⇒ 「雨に降られて、困った」

このような発想は英語などの欧米語にはまったく考えられないものです。自分がどうする、または相手にどうされるという人間中心の発想ではなく、身の回りに起きたことで私たちはさまざまな影響を受けているという考え方ですね。そこには、人間に関わる出来事も大きな自然の流れのなかで受け止め、起きたものはしかたがないと淡々と受け入れるいさぎよさが感じられます。

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

 事実を受け止め、それをどう感じたかをあらわすのが間接受身文!

 

  間接受身文が出来事を受け入れ、その影響を述べるとすると、使役文は出来事への関与を表す。

子どもが部屋を掃除する

⇒母親は、子どもに部屋を掃除させる。(積極的関与)

生徒が好きなことをする

⇒先生は、生徒に好きなことをさせる(消極的関与)

 

  •  相手との関係で形が変わる「あげる」「くれる」「もらう」
  •  可能形「れる/られる」納豆を食べる➡納豆が食べられる
  •  自発動詞「見える」「聞こえる」など。富士山を見る ⇒ 富士山が見える

 

 

ボイスのほかにも、アスペクトやテンスなどがあり、日本語文の「コト」を形作る。

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

 

 

 

にんじんと読む「日本人のための日本語文法入門(原沢伊都夫)」🥕 ①

日本語の文法

 言葉の使い方が移り変わる以上、文法もまた移り変わる。また、その時代の文法を構築するにあたってもさまざまな違いが生まれる。大まかに分けると、いわゆる古文などとの接続を意識した伝統的な文法〈国語文法〉と、外国人などに日本語を教育する際に使われる古文との接続を排した〈日本語文法〉とがある。

 

〈日本語文法〉概説

日本語文はたった三種類しかない - 主語は重要ではない

 動詞文と形容詞文と名詞文、この三つしかない。例えば「こたつでみかんを食べる」は動詞文で、「俺がバットマンだ」は名詞文、そして「あの花は美しい」「なんだか入あっちが賑やかだ」はそれぞれ形容詞文ということになる。後者はいわゆる形容動詞などと呼ばれるものであるが、〈日本語文法〉では””ナ形容詞””として一括される。前者は””イ形容詞””である。動詞、形容詞、名詞をそれぞれ””述語””といい、「こたつで」とか「みかんを」とか、その他のものを””成分””という。ちなみに「親父の尻は」は「親父の」「尻は」ではなく、「親父の尻は」で一つの成分となるので注意。

 国語文法においては「俺がバットマンだ」などというとき、「俺が」が主語と呼ばれ述語とのつながりによって文が構造を持つが、日本語文法においては主語をこのように特別扱いせず、他と並んですべて””成分””と言い表す対等なものになっている。もちろん「俺が」バットマンなのでその意味的な重要性は疑いないところだが、文法的にはそれほど重要なものではない。

 

成分と述語を結ぶ「格関係」

 単語を並べても意味が通らないのが日本語である。そこに合計9つの”格助詞”というボルトが入り込むことで、意味を掴むことができる。本に書いてある例だが「ティジュカでジョキアンがフェジョンをシキンニョと食べた」という文は、半角文字の単語の意味を知らなくても、格助詞によってそれがなんであるか、述語とどういう関係にあるのか把握することができる。

 ガ格に始まり、ヲ、ニ、デ、ト、ヘ、カラ、ヨリ、マデ

 この合計9つが格助詞であり、「鬼までが夜からデート(ヲ・ニ・マデ・ガ・ヨリ・カラ・デ・ヘ・ト)」と記憶する。

 

 成分には述語との関係において省いてもいい”随意成分”と、省くことのできない”必須成分”がある。これは述語に応じて決まっており、たとえば「食べた」というのは「ガ」と「ヲ」という成分を省いてしまうと文として成立しなくなる。そしてこの必要最小限の組み合わせのことを”文型”と呼び、述語に応じていくつかのパターンに分類できる。

  1.  動詞 ~ガ、~ガ~ヲ、~ガ~ニ、~ガ~ト、~ガ~ニ~ヲ(5つ)
  2.  イ形容詞 ~ガ、~ガ~ニ(2つ)
  3.  ナ形容詞 ~ガ、~ガ~ニ(2つ)
  4.  名詞 名詞+だ(1つ)

日本語文には二つの階層がある

 「きっと今晩雨が降るにちがいない」という文章には「きっと~ちがいない」という部分と、「今晩雨が降る」という部分がある。前者を”ムード”、後者を”コト”という。日本語文はコトで事実を伝え、ムードで話者の気持ちを言い表す。「あいつがバットマンだなんてありえない」というのもやはり、コトとムードから成っている。これまで解説してきたのはすべて”コト”について分析したものだったのである。

 そして実は、「~は」という”主語”と呼ばれるものも、実は”ムード”を表す。「~は」は、そこに当てはめられたものを主題として提示し、それをコトによって解説しようとする。

 

「父親が台所でカレーライスを作った」

⇒ 「台所では、父親がカレーライスを作った」

⇒ 「父親は、台所でカレーライスを作った」

⇒ 「カレーライスは、父親が台所で作った」

 

 原文から何を主題とするかは話者が選ぶのであり、”ムード”と呼べる。

 

 

 

 

哲学の三層構造 受動性の層ー「過去把持」から【現象学関連過去記事】

 

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受動的志向性 - 時間意識の分析から

 はっきりと自覚して働くような意識を「能動的意識」、そうした自覚がなく自己意識を伴わないで起こっていたことがただ受けとられていた場合の意識を「受動的意識」と呼ぶ。ただし、受動という言葉には自覚的なニュアンスがあり、事発(コトから発する)的と呼び直すのが適切だろう(p.116現象学ことはじめ 第2版)。これは能動/受動の前に働いている意識の領域である。

 こうした領域の典型的な例は、時間意識の分析において現れる。

 私たちは「時間」というものについて客観的時間というイメージを持っている。言い換えると、物理的で客観的に同じ速さで流れている時間をそれぞれが主観的に短かったり長かったり感じる、という風に考えている。だが本当にそうだろうか。

 「ド・ミ・ソ♪」と鍵盤を叩くとき、「ソ」のときに前の二音が”残って”いなければドミソを正しく弾けたのか弾けてないのかわからない。あるいは「いちご」と声に出すとき、「ち」の時点で「い」が頭から完璧に消えていたら日常会話は覚束なくなる。このように過去のできごとを保っておく意識の働きを〈過去把持〉と呼ぼう。過去把持は覚えていようと努力してそうするものではないことはいうまでもない。

 現象学者の主張は、この過去把持によって過去が作り上げられているということだが分析哲学者はそうではなく、想起という自覚的な働きによって過去が作り上げられるという。まずは見たり聞いたりすることが「いま」を作り出し、想起が起こると過去という時間意識が生じると考えるのである。現在というものは食べているとか見ているとかと表現され、過去というものは食べたとか見たとか表現される。過去の意味はこのように過去形を使って表現したときにまさに与えられ、意味付けられ、意識されるというのである。言語使用により過去と現在の区切りができるのだ。

 分析哲学者は言語に注目するが、《ここで問題にしなければならないのは、当然、感覚の変化そのものと言語による表現の関係》(p.58)であり、《言語以前の「感覚の変化や持続」という事態をそれとして認めなければならないのではないか、そして、言語の使用以前の感覚の変化と持続にこそ、過去と現在の時間意識の区別の源、つまり、出発点があるのではないのか、感覚が先であり、言語はその表現なのだから、感覚の変化にこそ、時間の意識の源泉があるはず》(p.58-59)だろう。つまり〈なまの痛み〉だ。

 知覚と感覚の違いはなんだろうか。

 たとえば目の前にフクロウの像があるとしよう。フクロウの見え方はさまざまで、その対象をどこからどう見ているかなどに応じて多くの姿を現す。その見えのひとつひとつが現れることを〈射映する〉といい、その現われを〈射映〉という。ここで重要なことは見えている側は見えていない背後をもあわせ持っていることだ。つまり私たちはさまざまな射映を通してものを一つの対象として見ている。この取りまとまりを〈綜合〉という。

 次にフクロウの像を触ってみよう。温かかったり、冷たかったりする。硬かったり、柔らかさがあることもあるだろう。その感じは先ほどの見えとは違い、変化こそすれ、さまざまな角度から感じているわけではない。いわば指先にそのまま感じているのである。このような身体の特定の部位に結びついている感覚を〈感覚態〉というが、もちろん、身体の特定の部位と結びつかないような、はっきりしない痛みもある。前者には部位の間違いがありうるが(痛む歯を間違える)、後者の間違いはありえない。

《この感覚は、外に在るとされるものの知覚、「外的知覚」にたいして、内にそのまま与えられて在るという意味で、「内在的知覚」と呼ばれます。この内在的知覚と外的知覚の区別は、感覚と通常の意味での知覚の区別と見ることができ》る(p.47)。

 〈なまの痛み〉というのはまさにこの内在的知覚のことだ。

 

 さて、〈過去把持〉に戻ろう。過去把持は、何かを思い出すといった随伴意識をともなう普通の意識作用ではない。過去把持はむしろ原意識と性格づけられる随伴意識と同じようにはたらき、「感覚」に類似している。

つまり、過去把持は、なまの感覚がそのまま原意識として意識される、ちょうどそこに、同様に原意識として、その感覚に直接結びついています。感覚が与えられた瞬間、原意識としてそのまま与えられますが、その新鮮な印象は、もし同一の感覚がつづいて生じなければ、次第にうすれていき、感覚内容はぼんやりしていきます。この保たれ、残され、次第に感覚内容が薄れていく過程全体が過去把持です。

現象学ことはじめ 第2版

 

 

 

 

にんじんと読む「自尊心の構造(森口兼二)」🥕 ごく一部のみ

 

 

  •  ヒトはほかの動物と違って、独立して生きる能力が低いままで母体から出てきて、依存期間が非常に長い。たとえばチンパンジーの子どもは十か月で依存を脱する。ところが人間の赤ちゃんはいつでも保護者のやっかいになるし、保護者の目を振り向かせる努力をしたり、差し迫っていることなどをアピールしてはじめて欲望が満たされる。そうした事情から、子どもは保護者の目を自らのうちに内面化して、それをもとに自分の欲望を訴えるようになる。そうして依存は一生続く。

だから、基本的には他の人の評価に依存しなければ私たちは生きていけない。つまり自分を規制するために、他者の自分に対する賞罰や、自分に対する評価反応というものを内面に取り入れて、自分の行動を律していくということである。

自尊心の構造

  •   私たちが身を寄せるはじめの「他者」は最も近しい保護者であり、家族とか、そういう人たちだが、やがて幼稚園の友達とか、先生とか、遂にはそうした特定の誰かとしてではなく、より広く「一般化された他者」になっていく。それはたとえば習慣や社会通念である。仲間内での””頼れるやつ””と、一般化された範囲における””頼れるやつ””は随分違っているだろう。わたしたちが持っているいわゆる常識というものは自分が所属する集団のもつ基準であり、たいていそれで自分を判断することになるだろう。
  •  自分を照らす基準には二つの発達がある。まず第一に、より普遍的なものを目指す方向。第二に、その内面化をより深くし安定化させていく方向。技能的方向ともいえるかもしれない。

 

 

 

 

にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 第三章~第八章まで

第三章 勇敢であることへの躊躇い

 フィリップ・アリエスは「従順な死」から「隠された死」への変化を「嘘の始まり」と呼んだ。隠された死の重要な要素は””死にかかっている人間にどう事実を隠すかであること””だと云った。そうして重症患者もそれを知りたがらない。

死が近い人間の周囲の行動の多くには感傷と忌避という特徴がある。

現代の死に方: 医療の最前線から

 家族は本人に死を隠し、希望を与えるために医療効果をわざとらしく話す。医師は現実をわかっているが、それでも希望を失わせないために患者に嘘をつく。こうして《死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界》(p.73現代の死に方: 医療の最前線から)に住むことになる。

 

第四章 貧しき者の最後

第五章 死亡学(デソロジー

 私たちのほとんどが死ぬのは急性期病院だが、そこには安らぎや礼儀正しさなどない「尊厳死」とは程遠い現場である。近年、そんな現場でもホスピスの規則を採用しようという動きがあり、アイルランドの『病院での終末期医療の基準(Quality Standards for End-of-Life Care in Hospitals)』という方針書などが挙げられる。この方針書のロゴマークが病棟に掲げられると職員や訪問者に閑静と礼儀を守るように注意を促すことになる。とはいえ、現地からは効果の乏しさを指摘されているのだが。他にもリバプール・ケア・パスウェイ(LCP)というのもある。死の床にある患者の医療の指針である。ところがLCPを適用されると後戻りできないうえに、「飲食の中止」を促すものだと一般に理解されており非難を浴びた。死にかかっている人間に栄養をとらせてもあまり効果はないが、それでも食べることには象徴的な意味がある。とはいえ、無駄な医療をすることへの歯止めにはなったが、やはり人々の不安は払しょくできなかった。

 ICU(集中治療室)は一般病棟と空気がまったく異なる。いつもサポートを受けられるし、苦痛をやわらげる麻酔も得意だ。だから《ICUで終末を迎えるのは最悪の病院死ではないだろう》(p.92)。だがほとんどの死は一般病棟で起きる。

 じゃあ自宅で死ぬのはどうだろう。一つの理想にはなっているが、病気による失禁・意識の混濁・恐怖・苦痛の負担を自宅では対処できない人は多い。

私は急性期病院で数多くの死を見て来たので、自分の時が来たら、ホスピス医療を心から受け入れてメアリーマウント・ホスピスの穏やかな医療に身を置くつもりである。自然治癒療法と運動療法を喜んで受け入れるつもりでいる。体力があれば、趣味の教室にも出たい。神に祈りもする。モルヒネが必要になればすぐに頼む。だが、医師に自分の抱える不安について尋ねたり、自分の心に共感を求めたりはしない。

現代の死に方: 医療の最前線から

 

第六章 有名人癌病棟

第七章 コントロールへの情熱

 

第八章 哲学するとは、死に方を学ぶこと

昔から(ほぼ変わりのない)哲学の主張は、死を心静かに受け入れる心構えである。ソクラテスセネカは、死を恐れてはならず、つねに念頭に置くことで恐怖に打ち勝てると説いた。私はそう思ったことはない。

現代の死に方: 医療の最前線から 下線部「変わらのない」になっている(初版)

 

 教養があろうがなかろうが、死について考えていようがいまいが、悲惨な死から逃れることはできないし、逃れることができる者もいる。