にんじんブログ

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にんじんと読む「男性権力の神話」🥕 第一章、第二章のみ

第一章 男性の権力というのは本当に神話か? 第一の視点

 女性がいかに被害者であるかという言説はたくさんあるのに、男性が男性であることによる被害を主張するのはそれほど認められていないようだ。『なぜ女性のつらさは問題にされるのに、男性の生きづらさは問題にされないのだろう』(推薦のことば)。

  •  たとえばこうだ。もし黒人がたくさん集められて戦争に行かされたら差別になるし、女性やLGBTの人々が集められて戦争に行かされることは差別的なにおいがするのに、男性が集められたらそれは性差別ではなく「栄光」「国に尽くした」と言われる。
  •  たとえばこうだ。もし黒人が白人よりも7年も早く死ぬならその差は問題視されるだろう。だが男性が女性よりも7年早く死んでも男性が差別を受けていることにはならない。ちなみに1920年にはたった1年しか差がなかったので、純粋に生物学的な問題とは言えない。
  •  たとえばこうだ。九歳を過ぎると自殺率の差はどんどんひらいていき、いつしか圧倒的に男のほうが自殺するようになる。
  •  たとえばこうだ。女性は男性よりも暴力被害に遭うイメージがあるが実際には『男性は女性のほとんど二倍以上、暴力犯罪の被害に遭う(レイプが含まれていてさえ)。殺人の場合男性は女性の三倍以上も被害者になる』。
  •  たとえばこうだ。アメリカ合衆国国税調査局によれば、世帯主女性の資産は、世帯主男性の資産の1.4倍も高かった。
  •  たとえばこうだ。ショッピングモールは男性向けよりも女性向けの商品にフロアスペースが七倍も割かれている。また、いずれの性別にせよ消費は女性のためになされる。レストランでは男性は女性に圧倒的に多くの回数(10倍)代金をもつ。このときより多く稼いでいるほうではなく、男性が会計を払うべきだと期待している。その他どんな場面でも男性には支払い義務が生じる。
  •  たとえばこうだ。『昔から、夫は一日の大部分を収入源である彼の会社の上司の監視下で過ごしてきたが、妻は一日の大部分を収入源である彼女の夫の監視下では過ごしてはこなかった。夫が彼のワークライフをコントロールするよりも、彼女は自分のワークライフをコントロールしてきた』。
  •  たとえばこうだ。離婚の禁止は女性の収入源(夫)を確保するし、もしそれが絶たれた場合は慰謝料が支払われるが、夫はふつうに解雇されるし金も失う。
  •  たとえばこうだ。見知らぬ人を救うために危険にさらすボランティアの99%は男性。彼らの存在は無視され、事件ではたった一人の被害女性の、その加害男性がクローズアップされたりする。
  •  たとえばこうだ。女性は何時間も家内労働をする。だが男性はさらに何時間も家の外で働き、遠くへ出勤し、さらに家での力仕事などサービスを求められる。『平均的な男性は週に六一時間、女性は五六時間働いていることが明らかになった』。

 まだあるが、だいたい男性には上記のような「権力」があるそうだ。

 

 

第二章 ステージⅠからステージⅡへ

 男性と女性のパートナー関係はロールメイト=役割分担する仲間だった。これがステージⅠ。ところが第二次世界大戦後、今度はソウルメイトになろうとしている。つまり求められる水準がたいへんに高くなる。愛の再定義だ。ちょっとわかりにくいが、たとえばステージⅠの女性にとって弁護士の男は絶好のパートナーだが、ステージⅡになると離婚の候補になる。もしもその弁護士が話を聞くよりも議論することに長けている場合は! ステージⅠにいる場合は家事とか子育てとかお互いの役割をまっとうするので精一杯だったが、ステージⅡになると「精神的な結びつき」「相互の魅力」「相互の尊敬」を求めるようになる。自分がこれをしなくちゃいけないなんて誰が決めたの、ということになる。そうするとⅠの性質は邪魔になる。というか、離婚にふさわしい条件になる。

 社会的に成功するとモテるが、Ⅱに達すると離婚の原因になる。つまり成功のための努力は離婚の努力でもあるわけだが、第一章でも見たように男性には離婚の選択権はほぼない。女性は自問自答し、こんなに家事労働していると嘆き女性解放運動に参加することでその不満を表明するが、男性はアル中になったり胃潰瘍になったりすることでその不満を表明する。

 

 つまりこういうことだ。

私たちは性差別を、何世紀も女性を男性より権力のない状態にしてきたものだと考えて来た。しかし事実は、何世紀もの間、両性が力を持っていなかった。女性の役目は家族を創ることだ。男性の役目は家族を守ることだった。女性の役目は食べ物を集めて来て、男性の役目は食べ物を狩ることだった。/私たちは一方への性差別主義者の世界に住んでいるわけではない。両性への性差別主義者たちの世界に住んでいるのである。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 1890年代の女性は冷蔵庫を聞いたことがなく、馬車か歩いて買い物へ行った。九時ー五時に日用品を買い、もしそこで忘れればその日は手に入らない。毎回食器を洗い、ポンプで水を汲み、火を焚き、自分の手でごしごし洗う。ロウソクの光で縫物、二日がかりで、合計人数のためにその十倍の仕事をした。八人も子どもがいたからだ。

 1990年代の女性は技術によって仕事のプレッシャーから解放された。少なくとも1890年ほどにはこれらの仕事で苦労することはない。男性はどうか。家のそばで仕事をする機械から、家から離れて仕事をする機械に変わることができただけだ。もちろん「愛のために」割く時間は少ないが、女性にはたくさんある。もちろんすれ違う。これがステージⅡ。『それにもかかわらずフェミニストは』、『ダム建設によってもたらされた環境破壊のことで男性を批判するが、しかしダムの発電によって電力を男性が作ってくれていることを認めないか、または女性に、女性の電力消費量がもっと多くダムを建設させていることへの席にをとらせようとはしな』かった。フェミニズム運動の政治的に天才的なところは『責任の拡張を避け』るところだ。もし一八歳の少女を徴兵登録するために運動していたらより平等主義ではあるが、政治的に成功する見込みは低い。

 

 

 

男らしさの終焉

 

にんじんと読む「ACTハンドブック」🥕 第一章

第一章 機能的文脈主義とは何か

 アクセプタンス&コミットメント・セラピーは「機能文脈主義」という哲学的立場のもとで実践される行動療法である。機能文脈主義は、文脈主義のはじまりであるPepperによれば、世界それ自体についての仮説・世界観のひとつである。

  1.  世界は要素で構成されているか?
  2.  世界は一つのストーリーとして語ることが可能か?

 という二つの問いにとって四つの立場にわかれ、この二つに「NO」と回答するのが””文脈主義=文脈的世界観である。一つ目の問いに「NO」と答えることは、部分的な実在は捨て去られ、全体を基礎的な事実として取り扱うことを意味する。二つ目の問いに「NO」と答えることは、最終的に世界がなにかある特定の状態に達すると考えないことを意味する。文脈主義と真っ向から対立するのは、二つの問いに「YES」と答える機械的世界観=機械主義である。

  •  機械主義者は部分的な実在を認め、その部分間の関係を同定、さらにはその部分を起動させる原動力を同定するなどという過程を通じて世界と関わる。彼らにはまず認識するもの/認識されるものという二分法があるため、これにより、「真理の基準」というものが心の中の信念と外部世界の事実の一致になってしまう。
  •  一方、文脈主義は部分の実在を認めておらず、あるのはただ複雑な全体性だけである。そこには究極的な真理は存在せず、認識するもの/されるものもなく、因果律すらない。認識の可能性が生じるのは、『ある恣意的なゴールが設定される場合にのみ』である。つまりこの世界での真理基準はそのゴールが達成されたかどうかなのである。彼らはゴールのために機械主義者の理論を使うこともあるが、単に道具である。

 文脈主義者がなにかの分析を行うばあい、そこに設定されるゴールによってさらにふたつの立場に分かれる。ひとつは「記述的文脈主義」で、分析の目的は、対象や参加者を検討することによって彼らに対する全体的な評価をすることである。彼らはその評価に首尾一貫性を求めるが、それは別に客観的に正しいとかは意味しないあくまで個人的なものである。

 一方、「機能的文脈主義」者の分析ということを行う目的は、事象に対する予測と影響のためである。分析それ自体を目的とはせず、別に予測と結果が外れても全体的な視点からみてゴールに達していれば別に気にしない。

 

**

 

 任意に選択されたゴールの達成という目的に資すればそれでよいのだが、選択されたゴール自体の正当性は帰納的文脈主義において証明されることはない。ゴールの選択は価値の表明であり、ACTというセラピーにおいてはセラピストという存在が権力性を帯びることがあり注意を要する。

 機能的文脈主義に基づくACTにおいては、『クライエントの価値を顕在化させ、その個人的な価値の選択に基づいてセラピーが行われる』。

 

 

 

にんじんと読む「フッサール現象学の理路」🥕 第一章のみ

第一章 現象学の理念と方法

 根本的に新たな始まりを求めるデカルトの指導理念は、デカルトにおいては主観へと転じられた哲学において達成されなければならない。なぜか。第一に、哲学の全面改革は個人の中に生じるしかないから。もし共同研究をしているにしても、共有する真理はあらゆる段階で自己自身の洞察によって確認し続けるべきであろう。『まして新たな哲学をうち立てようとするにあたってはまず自己の洞察以外のどこに立脚できようか』。第二に、このような孤独な始まりを選ぶものは必然的に究極的な根拠づけをなす絶対的洞察をめざし、懐疑の方法によって遂には不可疑なるエゴに到達する。

 だが、第一段階である理論的自律性を求めることになったものが、すべてエゴへの道を進みだすわけではないだろう。だというのになぜデカルトフッサールの徹底した思考はエゴへと至ることになったのか。なぜ主観主義をそれほどまでに徹底することになったのか。この点にフッサールに対する批判が集中するのであるが、この成否はエゴというものをどう理解するかに懸かっている。

 

 デカルトを引き継いで新たな歩みを始めようとしたとき、まず疑われるのは彼が目指した一般的理念である。つまり、根拠づけられた学問、普遍的学問という理念である。なぜこれを問題視するのかというと、デカルト幾何学を理想とした演繹体系を真の学問の例と前提して話をしてしまったがために、公理主義的な構造を無批判に取り入れてしまったからである。私たちは新たな歩みを始めるにあたってあらゆる学問を保留することにする。とはいえ、実際の学問の妥当性はどうであれ、『その学問的努力や取り扱いの中に入り込み、それが本来狙うものを明晰判明にすることは何の差し支えもない』と言われる。つまり、一般的理念は正しいものとして前提はしないが、ともかくその方向に歩いてみようというわけだ。そうしているうち、『曖昧な一般性のなかで念頭に浮かんでいただけの指導的理念を、明瞭にする』(デカルト的省察 (岩波文庫 青 643-3))ことができるだろう。

 さて、そもそも「根拠づける」ということに関して考えよう。「判断」というのは『他の判断を含み指示している間接判断と他との連関を含まぬ直接判断があるが、前者の真理性は、その中に指示される他の判断の真理性を前提にしており、最終的な前提を後者の中にのみもつ』と考えられる。判断を「根拠づけられた」ものにするためには直接判断にさかのぼり、さらにこの直接判断の正当さを確認させるような事態を明示しなければならない。このような事態を意識にもつことが「明証」と呼ばれ、かくして、根拠づけとは『あらゆる判断において最終的に明証に到達すること』なのである。もちろんこの「明証」は命題的な内容をもたないから、命題の内容を持つ判断を他人に示してみることなどできようはずもない。とはいえ、『明証から、すなわち該当する事象や事態がそれ自身として私に現在的であるような経験から汲みとっていないいかなる判断も下したり妥当させたりしてはならない』だろう。これが第一の方法的原理となる。

 明証からはじめることがわかったとしても、明証であればなんでもいいわけではない。それは単純に「不可疑」というわけではない。たとえばサイコロを知覚するときに、わたしたちはすべての面を同時に見ることはできない。このように、私たちがものごとの一部しか捉えることができないということによって、そこに疑いの余地が入り込む。明証はいつも「非十全的」なのである。だが私たちが求める「不可疑」というのは、非十全的であるがゆえに疑おうと思えば疑えるにしても、仮に疑ったところで疑うことになんの甲斐もないようなものである。これが私たちの求める「必当然的明証」である。では、その必当然的明証とはどのような内容をもつものなのか。

 世界の存在はどうだろう。私たちがいつもたしかに実感しているこの世界の存在は必当然的明証なのか。だがこれはデカルトとともに、留保される。なぜなら『そのつど統一的に見渡しうる経験連関全体もまた脈絡ある夢という名のもとに仮象と判明することがある』からである。*1ではどうするのか。

ここでいまや我々は、デカルトに従って、正しく遂行されれば超越論的主観性へと至る大きな転換を行う。すなわち、あらゆる根本的哲学がそこで根拠づけられるべき地盤、必当然的に確実な究極的な判断地盤としてのエゴ・コギトへの転回である。

デカルト的省察 (岩波文庫 青 643-3)

 世界は失ってしまった。だが『すべてが現象としてそっくり残されている』。「存在」は失ったが、目の前にそのように立ち現れる「現象」は残っている。ここで得られる現象は「純粋」と呼ばれる。純粋な現象とは、それが存在するとか、仮象だとか、そうかもしれない、そのように思われるとか、そんな決定に先立つ意識されたままの現象を意味している。それがエゴという地盤に導かれるのは、そのような現象、世界のすべてが、『私にとってある、すなわち私にとって、しかも、私が経験する、知覚する、想起する、何らかの仕方でそのことを考える、判断する、評価する、欲する、等のことによって、妥当している』からである。世界は、『私に妥当するもの以外のまったく何ものでもない』。

 

 ここでは、

  •  二分法的枠組みが破壊されている フッサールが「内」に閉じこもったように誤解するのは、外部世界と内部世界という二区分を前提しているからである。フッサールの現象は純粋現象であり、そもそも何かが何かとして現れるということそのものである。これは心理的内部世界や感覚与件と混同されがちであるが、「それは私の感覚だ」とかそういう定立をする以前の段階なのだ。外界とか内界とかいう区分、実在なのか仮象なのかという区分、そうしたものが初めて意味を持つことになるような意味の地盤こそ純粋現象であり、そこには未だどのような判断も挟まれてはいないのである。二分法を差し控えること、心の内か外か、現実に存在するかしないかといった判断を停止することで純粋現象を省察の手段とすることが「超越論的現象学的還元」と呼ばれるものだ。

 

 

 

 

*1:ところでデカルトは、感覚から数学へと懐疑を進めたが、これは数学が感覚よりもたしかなものとして受け取られていたからである。一方フッサールはまず学問を疑い、次に経験世界を疑う。「悪しき霊」がわれわれを騙して1+1=2だと思い込ませていると考える必要はない。

にんじんと読む「はじめてのスピノザ」🥕

コナトゥスと欲望

おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) エチカ、第三部定理七

 ここでいう「努力」をコナトゥスconatusといい、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことである。スピノザコナトゥスこそがその物の本質であると述べている。これは伝統的哲学が、牧場の馬と野生のシマウマが同じ””ウマ””だと考え、まったく生態の違うものを同じとして扱うのとは対照的である。どれほど””形””(見かけ、外見)が同じ(ウマ)であろうと、両者はまったく違う存在だと捉える。

 

たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。

スピノザ (平凡社ライブラリー)

 

 ここで説明される情動とは、広い意味での感情のあり方のこと。そして「触発される力」とは、ある刺激を受けてそれに反応し応答する力のことである。どういう刺激に対してどう反応するかは、それぞれ違う。

 

異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができる。

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) エチカ第三部定理五一

 

 反応=刺激による変化のことを「変状」と呼ぶ。変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることである。触発される力とは、変状する力のことであり、これはコナトゥスを言い換えたものでもある。そしてこの力は「欲望」ともいわれる。

 

 

 真理の獲得と主体の変容

 真理の基準というものがあるとすれば、それはその基準にあてはめればそれが真理であるかがわかるようなものであるに違いない。ではその基準を誰かが見つけたとしよう。だがそのとき、いったいその基準の正しさを何が証明してくれるのか―――こう考えすすめれば、真理の基準とは真理自身以外にありえないことに思い至る。つまり真理を獲得すれば、それが真理であるとわかる……。

 ここにはデカルトなどのふつうの真理観とは違うものがある。

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) 第二部定理四三

 もちろんなんでもありというわけではなく、「真の観念」には条件があって、それは根本原理から演繹されたものではなければならないのだが、ここで触れたい問題はそこではない。スピノザは自分と真理の関係だけを問い、デカルトは説得を重んじた、ということだ。『真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるのかは分からない』。

 何かを知るとはどういうことか。

 それはその何かを認識するだけではない。それによって、確かさを知る。自らの認識する力を知る。自分のことを知る。それが、自分に何らかの変化をもたらす。主体に、変化をもたらす―――何かを認識することによって、私たち自身が変化する。スピノザにおいて認識は主体の変化と結び付けられている。

 

フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体の変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

【にんじんブログお知らせ】2021.12.18

 今日はお知らせです。

 2022年より、にんじんブログの更新は「月」「水」「金」がお休みになります。

 だんだんと考えがまとまってきまして、乱読というよりは重ための本を精読しなくてはならなくなってきたからです。それから、いまはどうなるかわかりませんが、来年からは『小説』の公開も考えています。公開場所ははてなブログではなく別の場所をと思っています。くわしく決まり次第、お伝えします。

 

 

 

にんじんと読む「自己評価メソッド」🥕

 自己評価などを気にするのは道徳的に責められてしまうことのようで、変に気が引けてしまうかもしれない。だが、自己というものを適切に評価できていないことが、逆に自分というものに囚われてしまう、《自分というものを気にかけすぎ》てしまうという結果に陥ることは、大変に皮肉である。不適切な自己評価の具体的で、しかもよくある例を挙げると、「成績+物質的な豊かさ+身体的な外見」というものだろう。この三つの尺度ではかると本当にろくなことにならない。

 

 自己評価とは「自分についてどう思うか」「他人からどう見られていると思うか」という二つの柱によって成り立つ。その自己評価自体をはかる尺度としては六つある。

 ①自己評価が高い/低い というまずシンプルな尺度。自己評価が高いと積極的に行動できるようになる。それは「自信」である。だが、社会心理学的にも、人は困難な状況に置かれていないときはいつも、自己評価は高く出ることが知られている。その場にいないとなんとでも言えるというわけだ。②自己評価の安定性 が重要になってくる。何かあったときにズドンと落ちてしまうような不安定な自己評価では役に立たない。

 ところで、一口に自己評価といっても何についての自己評価であるかによって話が変わる場合もあるだろう。種々の分野に話を一般化させるなら、③各自己評価の調和 も欲しい。自己評価を支えているものがたったひとつなら、それが傷ついたときに受ける全体へのダメージははかりしれない。また、核となる自己評価が他人からの評価に傾いていると周りの状況に応じてどう転ぶかわからないので、④自律 に重きをおくほうがよいだろう。また、徳を含めて実践的技能というものは「手入れ」が必要であり、⑤無理のない手入れ ができることが望ましく、その目標が高すぎず低すぎず、⑥適度な位置づけ にあるのが望ましい。

※後者の三つは「核」に関わる話であり、いわば各論であるから、最初の三つと同列に語るのは、個人的にはどうかと思う。

 

 もしも自己評価が歪むと、最初に挙げた二本の柱のことが気になってしょうがなくなるため、自分に囚われてしまう。自分を守るためにとる戦術は「回避」であり、余計に活動しなくなるが、自己評価はさらに歪む。

 

 自己評価を立て直すことはひとつの技能であり訓練が必要で、最初のうちは楽譜を見ながら必死に鍵盤を叩くような気持ちで、「意識的になること」が重視される。状況をありのままに受け止め、どうにもならないことをどうにかするのではなく、そこからどうするかに意識を集中する。自分を批判する必要はまったくなく、活動に焦点を当てるのが重要で、自己批判はまったく意味がない。

  •  自分と話すべきなのは「何がしたいのか」だ。それは自分が何を重んじているのかを確認することでもあり、いままさにどうするかを問うことでもある。大切なものはなんなのか、人生で重きをおくことはなんなのか。個々の活動はその実現を目指すものであり、そのために嫌なことがあるなら、たとえどんな嫌な気分になろうが、実践するしかない。
  •  望むことがすべて実現するような人間は存在しない。望まないことが起きた時に対応するのが大事。「不完全なまま生きる」ことを受け容れ、では具体的にどうするかを考える(ミスらないようにする! ← そんなのは無理)。

 

感想

 そもそも疑問なのだが、「自己」を「評価」する必要などあるだろうか。どちらかといえば「自己評価」などしているからおかしなことになるのであって、「自分にとっての価値を考える」といったことに重きを置いたほうがよいという話になるのではないか。その活動に専心せよというほうが、自己評価というワードを出すよりスッキリ話がまとまるのでは?