にんじんブログ

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『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』『なぜ世界は存在しないのか』

なぜ日本人は世間と寝たがるのか

 日本人には「世間」という人的関係が根底にあり、その上に建前としての「社会」が乗っかっている。一人ひとりは独立した個人だと建前としては認められているのだが、結婚式場に〇〇家✖✖家結婚披露宴と書いてあるように背後には集団が隠れている。

  •  世間の掟①:贈与・互酬関係 こんなことならどこの国にもありそうだが、お中元なるものを大規模に贈り合っているところはほとんどないし、そして、贈られたものと大体同じものを返すという慣習もない。ヨーロッパにも世間はあったのだが、キリスト教によって「善行すれば死後天国」といったようにお返しを現世のものでないところに移したことによって、見返りを一掃してしまった。
  •  世間の掟②:身分制 日本は年齢にこだわる。長女だの次女だの長男だの次男だのを区別するのは珍しい。YOUという言葉だけでも多くの言い方がある。
  •  世間の掟③:共通の時間意識 日本人は能力平等意識がある。私たちはみんな変わらない。だから努力というものが非常に重んじられる。ちょっと飛びぬけているとひどくねたまれる。また、いじめはどこの国にもあるが、みんなが一致してシカトすることなどない。一致しないからだ。

     

     

  •  世間の掟④:呪術性 恵方巻。大安の日に結婚。お盆。クリスマス。初詣。しかし一方で、別に何かを「信じて」いるわけではない。

 これらの掟は個人個人のなかで内面化されており、みんな当たり前だと思っている。これが「世間」が根底にあるということである。世間は外部からの圧力としては働かず、むしろ私たちの存在論的安心感をもたらす。逆に世間から弾かれると不安でたまらなくなるのだ。

 個人といえば「自由恋愛」であるが、これも明治に西洋から輸入されたもので、これより以前には恋愛はなかった(【メモ】明治20年代の愛 - にんじんブログ)。『西欧の悲恋や失恋は当事者の悲劇であったが、日本の恋愛の悲劇の多くは当事者のものではなく、親や周囲の干渉によって成就しなかった悲劇として語られている』。……

 

 

なぜ世界は存在しないのか

 形而上学とは、世界全体についての理論である。形而上学は世界を「現実に成立していることがらの総体」とするのだが、現実にそれが成立しているかどうかを知るために『認識のプロセスに人間が加えた作為のいっさいを取り除かなければならない』と考える。一方、ポストモダン的な思想においては、『わたしたちにたいして現われているかぎりでの事物だけが存在する』と考える。その背後になにかがあろうが、私たちには一切関知することができない。わたしたちはわたしたちの世界を生きるだけで、決してそれらの影響を受けないありのままの世界になどアクセスできないと考えるのである。

 ガブリエルの判ずるところ、ポストモダン的な思想は結局形而上学の派生形態にすぎない。ありのままの世界にどうやってアクセスしようかと考えて、「できません」と答えるのがポストモダンだからだ。私たちがありのままの世界を見る際にかけている色眼鏡の数はいろいろあるが、まあともかく、背後にある世界には結局到達できない。

 これに対して新たに打ち出さんとするのは、新しい実在論である。

 ここにおいては一体何が存在するか? まず目の前に見えている富士山そのもの。ふたつめに、あなたに見られている富士山。みっつめに、Aさんに見られている富士山。よっつめに、Bさんに見られている富士山。………要するに新しい実在論においては、ありのままの世界も、それぞれの世界も全部認めてしまう。あなたが見ているのは富士山の幻覚ではない。とはいえ、他の正しい見方もある。

 それはいいとして、こうなると腐るほどたくさんの存在があることになる。というよりも存在しすぎて「なんでもあり」のようにさえ見える。このままでは「存在する」と主張することに何の意味もなくなってしまう。逆に言えば、「それは存在しないでしょ」と言うことができない。どんな妙ちきりんなものでも存在していなければならず、しかもそれについては認めざるを得ないのはどうかしている。

 そこで明らかにすべきは「存在する」とはどういうことか、ということである。それはつまり、「コレコレということなら、たしかに存在していますね」というコレコレを言うことである。無条件ではないが、厳しすぎてもいけない。

 

 ところで物理学という学問の上では、「惑星」は存在するが、「居間」など存在しない。物理学においては「居間」など俎上にあげられることがないのは、物理学において、居間で食事しようが、アイロンをかけようが、テレビをみようが関知しない。これを言い換えて、『居間と惑星は、けっして同じ対象領域には属して』いない、という。

対象領域とは、特定の諸対象を包摂する領域のことです。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 政治という対象領域には、有権者、地域のお祭り行事、一般党員、税金等々が属す。自然数という対象領域には、5とか、7とか、特定の算術的な基本法則が適用される。左手の五本指は、左手という対象領域に属す。左手の場合は、人差し指だけが置き去りにされて隣町に出かけることはない。一方、東京都知事は東京を離れようがどこに行こうが、空間的には囚われずに都知事のままである。このように、対象領域にはさまざまな種類がある。明らかなことは、

  1.  『どんな対象も何らかの対象領域に現れて』くる。
  2.  『対象領域は数多く存在』する。

 宇宙とは物理学という領域の話で、「世界」とは異なることは実感できるところだろう。ところで「世界」とはなんなのか。

 

……

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「唯識思想と現象学」🥕 第一部第一章第二節まで

 唯識とは、「唯だ識のみが存在する」ということである。いわば、われわれの思う外界というものはなく、唯だ「識」というはたらきのみがある。これゆえに唯識思想は観念論であるとする通念が根強くある。だがこれは誤解である。唯識思想はそもそも執着を除き、阿頼耶識(第八識・識という働きの最奥)によって執着の成立条件を解明するためのものである。識のみが存在するというのは、識のみが実在するといった観念論的主張を行なっているわけではないのだ。

  1.  形而上学的観念論 心的で非物質的な実在があらゆる存在者を作り出す
  2.  認識論的観念論 考えられ得るすべてのものの究極的根拠は認識主観である。
  3.  批判的認識論的観念論 世界が心から構成されるとは主張しないが、われわれの心的世界構成ないし世界解釈を世界そのものから区別することは不可能であり、その限りにおいて認識者が世界経験を構成していることを承認し、かつそのことを主張する。まったく他なるものは本質的に知られ得ないからである。

 観念論の三類型を上記のようにまとめてみた。

 まず唯識思想は形而上学的観念論ではない。唯識思想は世界が心から創造されるなどとは言っていない。唯識文献が語るところ、「われわれはわれわれが投影した世界解釈を世界そのものとみなしてしまっている」、「われわれは自らの心的構築物を世界であると誤って受け止めている」(唯識思想と現象学―思想構造の比較研究に向けて)。つまり、形而上学的観念論とは異なる。「識」というのは究極的実在であるどころか、それ自体が根本問題とされるところのものである。

 残る二つの立場は、一見するとまさに唯識思想の立場であるように誤認される。だが認識論的観念論はけっきょく、自らが投影した世界のなかに閉じこもってしまうがゆえに、唯識思想とは異なる。では三番目の認識論的観念論、つまり世界解釈を世界そのものから区別することは不可能だとする立場はどうか。だがこれもやはり、投影した世界に留まる点では変わらない。どうしても自らの世界解釈に執着してしまうという、『存在論的執着』を、これらの誤解は露呈させているともいえるだろう。まさに『知による世界の私有化』だ。

 もちろん唯識思想は、出発地点としては、われわれが自らの構築した存在論の中に閉じ込められているところにある。しかしそこから始まるのは、その根本原因の解明、そして治療である。それゆえに、唯識思想は存在論的主張を基本的には行わない。この存在論的沈黙は、『存在論的関心の括弧入れであり、遮断』であり、つまり、現象学的還元を意味している。

唯識派にとっては、すべてが存在論的関与を遮断された現象性に還元される

唯識思想と現象学―思想構造の比較研究に向けて

※ 私見であるが、現象学的還元と存在論的沈黙はちっとも同じではないのではないか。沈黙する点では同じかもしれないが、現象学の場合は「まず沈黙」する。これが現象学的還元である。一方、唯識思想は少なくとも「唯だ識のみ」と言ってから沈黙する、つまり、主張が先、沈黙が後なのだ。

 

 

 

(メモ)ヤスパース ——— 「哲学とは何か?」の人

主観と客観

 「抽象的で無益、空理空論、考えることに汗の匂いなく、実生活に役立たぬ。」

 これが、哲学というものに対する一般的描像。若きヤスパースは大学の講義を受けながら、失望していた。これは本来的な哲学ではない、本来の哲学とは、『自然科学から独立した存在意義をもち、自律的な方法を用いて、人間や世界の現実の根幹を探究する学問』(ヤスパースの実存思想: 主観主義の超克 (プリミエ・コレクション)p.3)なのだ。

歴史を顧みると、哲学が退潮していった過程は、近代自然科学の発展を底流として、個人が自らの「主観」を頼りにして人間や世界と向き合うという姿勢が劣勢になっていく潮流と重なる。

ヤスパースの実存思想: 主観主義の超克 (プリミエ・コレクション)

 つまり、時代が客観に傾き過ぎたのだ。主観とは、個人の意識のはたらきの基点・個人の意識の流れが投錨する場である。客観とは、個人の意識のはたらきの対象であり、存在そのものが個人の意識の流れに映って現象に転化したものである。近代科学は主観性というものをできるだけ排し、あるいは軽視することで成果をあげてきた。そこには〈普遍性〉〈論理性〉〈客観性〉の三つの原理があったが、この原理に基づき組み上げられてきた科学は、たとえば生命現象や、対象との相互交流といったものを見えなくしてしまった。科学も徐々にそのことに気づきはじめ、客観性を謳うすべての科学理論も、結局は主観を関わらせざるを得ないことが明らかになってきた。

 だがこのことは認めるにしても、主観主義に陥ってはならない。その骨子を定式化すると、こうなる。

  1.  真の実在は個人の内面にある。根源的実体は個人の意識である。個人の自己を規定するのは当人の意識であって、身体や社会ではない。
  2.  真理の問題を個人個人の私的領域に位置づけ、真理について合理的に議論する可能性を排除する。主体的真理に基づく個人の行動は、その成否が自己言及的に決定されるため、無制約的に正当化されうる。
  3.  価値は個人の恣意によって内在的に決定される。個人の主観的な価値判断は、合理的なあるいは外在的な根拠がなくとも、それ自体で妥当性をもつ。

 ヤスパースは主観と客観を統合し、両者の関係を追及しようとした。

 

中心的な思考対象

 ハイデガーが熟考したのが「存在忘却」ならば、ヤスパースが熟考したのは「自己忘却」である。それは、哲学というものが哲学を忘れている、という意味であった。彼は大学時代に講義された哲学に対する失望をこう書く―――哲学は見向きもされなくなった。哲学自身が自らを忘れ、自らの課題を果たさないから。

 

 哲学とはなにか?

 

 彼がまず排するのは「科学」と「宗教」だった。哲学は宗教でも科学でもない。ではなんなのか。哲学がはじまった2500年前を振り返ってみることは助けになるだろうか。当時、哲学をはじめるきっかけは驚きであった。時を下り、デカルトの時代には懐疑が哲学を始めさせた。だが現代、哲学の根源は驚異でも懐疑でもないのだとヤスパースはいう。彼によれば、哲学の根源は限界状況にある。

 私たちはいつも何らかの状況にある。そして絶対にそこから逃れることはできない、つまりどんな状況でもないような自分などありえない。状況にはさまざまなものがあり、私たちはそれを渡り歩いているが、一方で、変化しないような状況も存在する。たとえば、私が死なざるをえないことがそうである。これが限界状況と呼ばれるものだ。限界状況は回避できない。たいてい、そこで目をつぶって過ごす。しかし、私たちは積極的にその限界状況に足を踏み入れることもできる―――このことこそ、哲学の根源なのだ。科学はいつも対象性と結びついているが、哲学は対象性ではなく、対象の「向こう側」を見据える。

 

 

 

にんじんと読む「自尊心の育て方」🥕 第三章、第九章

第三章 批評家を武装解除する

 批評家をなんとかするためにはまずはそいつを発見しなければならない(第二章)。発見したら次は、その目的を明らかにすることだ。なぜそんな訳の分からぬことをささやいてくるのか? 実はこの目的こそが、批評家の「秘密」である。というのも、なぜそんなことを呟くのかを知ってしまえば、彼の批評の影響は激減するからだ。

  1.  目的を明らかにすると、批評家のことばは一気に信憑性を失う。こうさせたいんだなという意図がわかってしまえば、無理やりに理屈をこしらえていることが一気に明らかになる。こうなれば、批評家に従えばどんな未来が待っているかは明らかだ。いったいその批評家のために、今後どれだけの代償を支払わなければならないのかを思えば、とうてい言うことなど聞いてはいられない。「お前のおかげでひどい目にあった」と言い返すのだ。
  2.  二つ目は、批評家の目的を明らかにするとともにより明瞭になる、あなた自身の目的である。そこで目指されているものはある種の「価値」であり、その価値を得たいのに、いままでは批評家に邪魔されてきた。批評家を叩きのめすためには、その価値をもつ自分を肯定しなければならない。

 

 

第四章 正確な自己評価 ~ 第八章 「~すべき思考」

 略

第九章 自分の価値に沿って行動する

 あなたのなかにいる色々な批評家たちは、まともに自覚すれば非合理的な「~すべき思考」を持ちその実現のためにおかしなことをわめきたてている。私たちはひとつひとつそれを発見し、名前をつけ、またこいつが出たとため息をつかなければならない。もし批評家の言う通りに行動すれば、自尊心を下げてしまう。もっとわかりやすくいうと、みじめな気持ちになる。

 私たちの有する「価値」と、批評家の有する「べき思考」には違いがある。

 後者は頑ななルールであり、親や同世代の仲間から手渡された検証されていない信念であり、非現実的な命令である。一方で、前者は柔軟性に富む手引きであり、自分自身によって選ばれ、人生の方向を与える。ここで「価値」のいくつかの領域をリストアップしてみよう。もしかすると、あなたには必要が無かったり、付け加えたくなったりするものもあるかもしれない。

  1.  親密な関係
  2.  親であること
  3.  教育と学習、つまり学ぶこと
  4.  友達と社交
  5.  健康
  6.  家族
  7.  スピリチュアリティ
  8.  地域生活
  9.  余暇
  10.  仕事と経歴

 どんなことを望むのか、考えてみよう。何が障壁になっているだろうか。それを潰すためには何をすればいいだろうか。次にあなたがすることはなにか?

 

 

にんじんと読む「自尊心の育て方」🥕 第一章+第二章

第一章 自尊心の性質

 『人間は自分がどのような存在であるかを定義し、そのアイデンティティが好きか否かを決める能力がある。自尊心の問題とは、人間のこの判断能力の問題である。』(自尊心の育て方―あなたの生き方を変えるための,認知療法的戦略)。アイデンティティは私たちを支えるものだが、苦痛をも与える。まず肝要なことは、「ではどんなアイデンティティがよいか」といったようなことではなく、「判断の問題」だということだ。解釈の問題といってよい。

 「自尊心の問題」には、状況的なものと性格的なものの二種類がある。前者はまさにその状況という特定の領域にだけ姿をあらわす。ふつうは自信があっても、仕事では失敗しがち。社会的にまったく無力なのに自分のことを有能だと思っている人もいる。こういうのは認知が歪んでいるのが問題で、メガネが曇っている。一方性格的なものは、人生の初期に経験した虐待や遺棄などに端を発する自己否定的なアイデンティティにもとづくもので、いくら眼鏡を拭いても自己否定の感覚を取り去ることができない。治療の方針が変わってくるわけだ。

 まずはメガネに気づくことからはじめよう。なぜそれをわざわざ使ってしまうのかも理解しよう。そして次にそのメガネをどうすればいいか、正確な世界の見方を考えよう。それらをすべて把握した後は、みずからを受け容れることを、学んでいく。

 

 

第二章 病的な批評家

 病的な批評家とは、「内なる声」のことだ。彼は『他者と比較し、あなたに欠けていることを探し出す。完全でなければならないという不可能な基準を設定し、ごくわずかな失敗についても、あなたを叩きのめす。批評家はあなたの失敗をつねに記憶しておき、あなたの長所や達成したことを思い出させようとは決してしない。批評家にはあなたがどのように生きるべきかのシナリオがあり、その規則を少しでも破ろうとしようものなら、あなたが誤っていることを声高に叫び出す。批評家はあなたが最高でなければならないと命じ、もしも最高でなかったらあなたは何者でもない。批評家は、馬鹿、無能、ブス、利己主義、弱虫と悪口雑言を吐き、それがすべて真実であるとあなたが信じるように仕向ける。批評家はあなたの友達の心を読み、彼らがあなたに退屈させられ、興味を失わされ、失望させられ、嫌悪されると、あなたに信じるように働きかける』(自尊心の育て方―あなたの生き方を変えるための,認知療法的戦略)。

 批評家は合理的で、正しいように見える。だから私たちはいつもそれを信じる。批評家が使うのは言葉ばかりではない。イメージもある。記憶も。私たちは批評家のことばから利益を得ているから、それによって信じるという行動が強化される。批評家のことばによって、危険から逃れることができるからだ。安心できるのは人間にとって非常に重要なことで、つまり、批評家にしたがって何もしなければ、不安にさらされることがない。

 「強化」という過程には正と負のものがある。もしなにか手伝いをして妻があなたを抱きしめてくれたら、また手伝おうという気になるかもしれない。これが正の強化だ。あるいは知らない人をこき下ろすとまるで自分が強くなったように感じる。これも正の強化だ。一方、負の強化は『身体的あるいは心理的苦痛に置かれた時にだけに生じ得る』。そして、逃れられれば、すべての行動は強化される。面倒くさい試験勉強から逃れるためにした部屋の掃除は、試験勉強という負荷から解放してくれるので、また掃除をすることになるだろう。ストレスを感じた時にブチ切れると、ストレスが発散されるので、余計にキレやすくなる。要約すると、「キレない方法はキレないこと」だ。強化という観点で、このことが説明される。批評家に従うことも。批評家は正負の両方の強化にかかわる。

  1.  批評家はあなたに「正しいこと」をするように迫る
  2.  批評家は(ごくまれに)あなたに「あなたは正しい」と感じさせてくれる。たとえば他者と比較して、あいつはカスだなあと言ってみたりして自己価値を高める。あるいは完璧すぎる基準を設定する。この第二の方法は自己価値を高めるにあたって障害になるように感じるかもしれないが、偶然に、奇跡的に、完璧主義的な要求を満たす行動に成功することがある。まるでスロットマシーンに当たるかのように。そしてあなたは完璧な基準をむさぼるジャンキーとなる。
  3.  批評家は無価値感をやわらげる。高すぎる設定は「必死にがんばればすべてのことは実現できる」という全能感を生む。
  4.  批評家は失敗の恐怖をやわらげる。たとえば転職の機会を一年後にすれば、不安はやわらぐ。話しかけるのをやめれば、話す不安はなくなる。
  5.  批評家はあなたが拒絶されないようにする。「嫌われている」とあらかじめ思い込んでおけば、本当に嫌われていたときにショックが少なくて済む。批評家はマインドリーディングを頻繁に行い、「相手はきっとこう思っているんだ」と伝え続ける。

 批評家はいろいろな手口で、いろいろとあなたを「助ける」。だが彼がもたらす回避行動によって、あなたは著しく制限される。この批評家をなんとかするには、まずは批評家を捕まえることから始めなければならない。そして捕まえ方は、やはりこれしかない。:メモすることだ。自己攻撃をしていることに気づき、書き留めること。とにかく、気づくこと。自分が「そうすべきだ」と感じながら、それを回避するためにした言い訳を、すべて書き留めること。

 なにがすべきことで、なにが批評家の言い訳か、あなたは理解する。

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「ACTハンドブック」🥕 第二章まで

機能的文脈主義とはなにか

 アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)は、認知行動療法の一種である心理療法である。この心理療法は「機能文脈主義」という世界観を前提とする。

  1.  世界は要素で構成されているか? 部分的要素が実在し、それによって世界は構成されている vs 部分は実在せず、全体のみが実在する
  2.  世界は1つのストーリーで語ることができるか? 最終的に世界がある特定の状態に達する vs そうとは言えない

 この二つの問いによって世界観は四つに大別される。そしてまず、二つにNOと答えるのが「文脈主義」である。正直、二番目の意味はとりづらいが、たとえば””この世は原子の運動です””などといえば、まさにこの問いにYESと答えることになる。つまりなんらかのものたちを基礎とみなし、その基礎はそれぞれに因果的関連があるために、それに沿って行きつく未来が少なくともある程度は決定されているだろうという意味だ。つまりなんらかの意味で決定論に関わっているのが二番目の問いではないだろうか。

 文脈主義はこの二つにNOと答えるのだから、「世界それ自身のみが実在」し、かつ、「(決定論的と言えるほどの)因果はない」ことを主張する。そもそも実在しているのが世界だけなので、認識するもの/認識されるものという二分法の両項ともに実在していない。これの意味するところは、両項が独立して存在してはいないということである。ふつう、真理というのは認識されるものが認識されるとおりに世界のなかにたしかにあることなのだが、文脈主義においてはそのような規定には意味がない。ここには通常の意味での真理探究はありえない(ふつうの意味で「正しい」といえるのは世界そのものだけだから)。

 二つの問いにYESと答える機械主義者は、世界というものを『機械』のように見る。一方、文脈主義者は世界というものを『進行中』として捉える。いままさに起こっていることは歴史を形作る新たな一歩なのである(あらかじめ定まった歴史があるとは考えない)。この直感的な世界観から生じる、特に重要視される「正しさ」というのは、各行為者が恣意的に設定したゴールへの貢献である。いま起きたことはそのゴールに寄与するかという基準で、正しいとか正しくないということを語るのだ。

 文脈主義者はゴールを決めるだけでなく、世界のなかで分析ということも行うだろう。その分析は過去を振り返って「これがこうしてこうなった」という風にまとめるためにあるかもしれない。この『歴史家』のような分析を行う立場を、記述的文脈主義という。だがそのように形成した「歴史」が、首尾一貫はしているものの結局のところ個人的な見方にすぎず、完全な記述などありえないと自覚している点で、二番目の問いにNOと答える文脈主義者でありうる。

 また、その分析の目的が事象を予測し、打ち立てたさまざまなゴールを達成するようにするためにこそ分析をするのが、機能的文脈主義である。彼らは分析のための分析などは行わない。その予測が的外れなものであろうが、ゴールさえ達成するうまい道具になっているなら別に気にしない。その分析の際に登場する「これがこうなって、ああなるから」という理屈は、「これ」も「こう」も「ああ」も、こっちが手前勝手に設定した便宜的なものであり、決して実在するとは考えない。それが正しいものであるかどうかはどのぐらいゴールに関与するかで決まる。

 

 機能的文脈主義の哲学的位置は「形而上学的な社会構築主義」「徹底的行動主義」と重なる。形而上学的な社会構築主義は、(1)現実とは社会的に構築されたもの、(2)現実は言葉によって形づくられる、(3)現実はナラティブによって組織され維持される、(4)本質的な真実というものは存在しないという四つの前提を持つ。これは現実や、客観性、科学的知識の実在を否定する。また、徹底的行動主義は、(1)この立場における研究の対象は行動それ自体であり、行動を通して心とか意識とか認知とか脳を研究しているわけではない、(2)行動にかんするすべての出来事を、同一の理論的枠組みとできるだけ共通の原理で分析する、(3)行動の原因を、個体の内部にではなく、個体をとりまく過去および現在の環境のなかに求める、というスタンスをとる。

 このことは言い換えれば、

機能的文脈主義は、ある問題解決に対して積極的に影響を及ぼし、その責任を負っていくという社会的構築主義の立場であると言えるだろう。しかも、そのような実証的なスタンスではあるが、研究者と独立に世界が先験的に存在するという認識論的な立場を採らない。さらに、機能的文脈主義は、問題解決や研究・分析における自らのゴール選択や価値といった文脈や機能に対して徹底的に自覚的であろうとする徹底的行動主義の立場であるとも言えよう。

ACTハンドブック 臨床行動分析によるマインドフルなアプローチ

 

 

機能的文脈主義における言語観

  1.  言語は単なるラベリングではない たとえばそのものの本質や属性に「犬」という記号をあてがうような、そんなものが言語ではない。
  2.  言語の成立は複数のヒトの間で生じる円滑な相互交渉を基盤としている
  3.  その円滑さは、言語共同体のメンバーにおける相互交渉パターンの共有によって保障されている
  4.  文化的に規定された相互交渉のパターンを越える「円滑な相互交渉が新規かつ個別に生じる可能性」は常に存在する。それ故に、文化的に規定された相互交渉のパターンは変動する可能性を常に持っている

 このことは行動分析学的に記述すると、こうなる。

  1.  言語も行動と捉える
  2.  言語行動とは、「同じ限度共同体に属する他の成員のオペラント行動を介した強化によって形成・維持されているオペラント行動。そして他の成員による強化をもたらすオペラント行動は、その言語共同体特有の行動随伴性のもとでオペラント条件づけされたものである」。

 行動分析学には「行動随伴性」というものがあり、これを用いて円滑な相互交渉のパターンを記述しようとする。行動随伴性とは三項随伴性のことで、「弁別刺戟……行動……結果」という三項から成る。ここで重要なのは「行動……結果」のほうであり、この関係のことを「機能」という。

【事例】

ある発達障害の生徒が教室の壁に自らの頭を繰り返して打ちつけるという自傷行動を生起させると、必ず先生のうちの誰かが「ストレスが溜まっているのね、大丈夫よ」と言って肩をさすという対応をとっていた。そうすると、その生徒は、すぐに自傷行動を止め、先生に促されて席に着く。しかし、その先生が他の生徒の対応に追われ、その場を離れると、先ほど自傷行動をしていた生徒は再び自傷を始めるようになった。

ACTハンドブック 臨床行動分析によるマインドフルなアプローチ

 自傷行動は言語行動である。その機能は先生からの注目を集めることである。言語行動とは他の成員の行動によっても支えられる極めて社会的な行動であり、先生から「のどが乾いたら手をあげて教えてね」と言われている生徒がコンビニで手をあげはじめても、そのコンビニにおいては言語行動になっていない。店員は「なにをしてるんだろう」と思うだけで何もしないからである。言語行動とは言語共同体への参加である。

 この意味で、行動分析学においては一回限りの行動は分析の対象にはならない。何回も生起するからこそ、その三項がひとまとまりのものと見なせるのだし、分析もできるのである。