にんじんブログ

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にんじんと読む「人はなぜSEXをするのか?」 第三章

第三章 恋に落ちるメカニズム

 相性は遺伝子に刻まれており夢中なときには他の人の性的魅力などどうでもよくなるのだが、おそらくこれは「運命の相手」の存在とは関係ない。というのも、時期によって変わるからだ。女性が好みの男を月経サイクルに従って変えることは明らかにされている。たとえば排卵の前後で彼女たちはマッチョな男に性的欲望を感じ、排卵期以外だと草食系に魅力を感じる。つまり排卵期にはセックスを待ち望み、排卵期以外では配偶者を探している。逆に言えば、排卵期には女は浮気性になる。ただ人間は排卵期のみに突き動かされるわけではないので、結局本人の責任ということにはなるだろうが。

 女性は自分がにおいで欲情することを知っているかもしれない。しかし、フェロモンの存在を裏付けるものはほとんどない。しかし実は女性が遺伝子型をかぎ分けているという説がある。つまりブラッド・ピットの体臭を手に入れても女性全員の目がハートになるわけではない。自分の遺伝子との適合性が問題だからだ。とはいえ、一方で、嗅ぎ分けられるならパートナー選びに失敗などなさそうなもので、実際、これは間違うことがある―――ところで、逆に、男のほうも女のにおいに敏感だ。特に排卵期の女のにおいである。

 男が女に感じる性的魅力は世界中いたるところで「ボンキュッボン」と決まっているが、女のほうも「背が高い、浅黒い、ハンサム」と決まっている。これは月並みなモテ要素で、要するに健康なら良い。対称性が好まれるのもそうのためだ。だが男女には違いがある。男は性的興奮に敏感だが、女はまったく気づいていない。彼女らは自分が性的興奮を覚えていることに気づかない。もし男女にセックスシーンを見せたとき、男のほうが女の性器に興味津々で、女のほうが相手の顔ばかり見ていると思っているならばまるで誤解である。また、女性はサルの交尾を見ても興奮する幅広い性的イメージを有している。

 

 

にんじんと読む「人はなぜSEXをするのか?」 第二章

第二章 少年、男になる

 ペニスは亀頭と竿でできている。亀頭は女性でいうクリトリスのようなもので、神経がみっしり詰まっていて感度が高い。男は尿と精液を同じ管から出す。竿の部分はスポンジで、血液が流れこむと固くなる=勃起。もちろん勃起しているとき以外は干からびているわけではなく、性的興奮すると一酸化窒素が分泌されて血管が拡張するのである。実はたいていの哺乳類にはペニスに「骨」が関わっているが、ヒトのペニスはスポンジで固く膨らむ。これのありがたみはセックスが長くなることだ。骨のある動物たちは勃起しなくていいので前戯など必要なくスッと入れてスッと出せる。

 しかし、ペニスは折れる。医学的には「ペニス骨折」というが、正確には勃起の強度を支える厚い組織層が破損する。挿入しようとして相手の恥骨にペニスを突き立てたときに起こったり、掃除機の吸い込み筒に突っ込んでうっかり掃除機が倒れたりすると起こる。もちろん激痛が走るが、生殖能力はタマに詰まっているため子作りには問題ない。が、自然な射精はできなくなるかもしれない。すぐに氷で冷やして泌尿器科へ走らなければならない。……とはいえ、まぁめったに骨折しない。

 男性諸君はよくご存じの通りペニスには皮がある。タートルネックのような皮の内側では、めくりやすいように粘液が出ている。あれが汚いカスのようになって出てくるのだが、あれを放っておくと有害な細菌がもぐりこんで繁殖できる最高の環境になっている。どうせめくるくせに進化様がペニスを全員ズルむけにしておかなかったのは「ペニス保護説」や「皮かむりのほうが分泌液が行きわたってヤるとき気持ちいい説」などがある。しかしよくはわからない。多くの文化では割礼する。割礼して快感が増すことはないようだが、とりあえず病気の予防にはなる。だがエイズ予防に割礼するよりワクチンを打ったほうがよさそうだ。

 思春期の男はタマがでかくなる。それが思春期のサインである。タマは精子製造工場で、工場内が熱くなりすぎると精子にダメージがあるのでいつも体温より2,3度低くなっている。だから精子数が少ない人は風呂に入らないことをすすめられる。また、車のシートでタマが熱くなるのもよくない。当たり前だが、適正温度というものがあるので冷やせばいいわけではない。寒いとタマはきゅっと身体のほうに身を寄せ温まろうとする。

 ところで勃起したペニスの最終目的は射精でありオルガスムである。要するに「イく」と、ペニスは勃起のメカニズムを逆にたどり縮んでいく。それなら、もしイかなかったらどうなるのか。このときに感じる精巣の不快や痛みを「ブルーボーイズ」と呼ぶ。痛みを感じる理由については血圧の変化で敏感になっているとかいろいろある。肝心なのは、この症状は女のほうも同じということだ。最後はイったほうがいいのである。ちなみに精子の味はふだんの食い物を表す。フルーツばっかり食べさせていると精子の味がまろやかになるし、シーフードばかりだと魚みたいな味がする。

 ところで人間は昔から一夫一妻だったわけではなく、セックスパートナーは男女ともに身近にたくさんいた。精子の運動性が上がるのは一対一よりも乱交モノのポルノを見た時である。

 

 

 

にんじんと読む「悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治」 第一章①

第一章 愛国者博徒

 明治の世となって西洋を模範として法整備が進められる中で、戸惑った農民たちが起こした一揆や反乱のなかで有名な秩父の困民軍の指揮官と副指揮官である田代栄助と加藤織平は「博徒」だった。1884年のことであるが、実はそれ以前には彼らのようなヤクザが農民一揆や政治反乱の首謀者になったという話は伝わっていない。

 明治の混乱期、志士と博徒は装いを一新し、暴力専門家の先駆となった。

 志士を代表するは下級武士である。とはいえ、徳川時代において彼らが領土防衛の任につくことはまれであり、彼らが武器を取ることとなったのは西洋列強に対する幕府の対応に強い失望を抱いたからである。それが志士だ。一方、博徒徳川時代のギャンブラーであるが、自身のビジネスを守るために体を鍛えていたことから幕府から直轄地の警備の助力を求められていた。博徒を兵として取り立てた藩さえある。

 志士にとって暗殺という暴力戦術は当たり前であり、西洋人の言いなりになっている者は暗殺の対象となった。彼らの目的は日本人を罰し、外国人排斥の流れをつくって不愉快な条約を叩き壊すことだ。志士の暴力時代は1860年桜田門外の変で幕が開く。外国人にとって志士は日本人の野蛮性そのものだった。彼らは自らの暴力を天誅として正当化し、喧伝し、逆らう者に脅しをかけた。とはいえ、彼らの暴力は恐怖を与えはしたが倒幕にはつながらないし外国人もいなくならないのがハッキリし、しかも幕府軍によってねじ伏せられるため志士の限界も明らかになってくる。だが彼らが残したものは大きい。志士はテロリストとしてネガティブにみられる面もある一方、天皇への忠誠ゆえに称えられもする。これにより志士は理想化され、自由と抵抗の象徴として祭り上げられる。

 

 

にんじん映像庫「イエスマン YESは人生のパスワード」

 なにか訊かれるたびに必ずイエスと答えるという誓いをたてさせられた男に起こるいろいろは、予想外に啓発的である。ほとんどやけくそともとれる陽気さは、「イエス」しか選択肢がないにも関わらず解放的であり、自由だ。結婚さえその一言で簡単に決めてしまう彼にとうとう襲い掛かるのは恋愛であり、我を通したいたった一人の存在であった……という映画として妥当な結末を迎える。彼は大切なことで「ノー」が言える人間になったわけだが、「イエス」の姿勢が消えたわけではないだろう。イエスはただ、大切なことに沿うようにして流れるようになっただけだ。大切なことはイエスの流れをわずかに滞らせる。その停滞が我である。

 

 

にんじんと読む「小さな死生学入門」

「小さな死生学入門」

 どうにもならないことだが、私たちは誰しも最後は死んでしまう。これは私というものの最大の喪失であろうが、老いてくると病気がちになるなど、単に喪失体験というのならばこれ自体はひじょうによくあることである。これを大きな死/小さな死と呼んで区別することにしよう。

 死生学において「小さな死」という概念はふつう、喪失体験として語られることが多く、「大きな死」を意識させる、いわばリハーサルのような意味合いを持っている。もちろんそれら喪失体験によって新たな自分自身が形成されていくという側面はあるだろうがそれは結局喪失であり、しかもその場合、小さな死の積み重ねによって大きな死に至るという連続性がなくなってしまう。小さな死でいくら新しい自分が見つかろうが本当の死ではない以上、結局それは死という言葉を使った比喩に留まる。

 そうした小さな死というものが「リハーサル」「喪失」といったような意味合い以上に、「新しいいのち」に繋がるという宗教的意味を持たせているのが渡辺和子氏である。小さな死によって変わっていく私がこれを積み重ね最後に大きな死によってまったく新しい私になる、という。自分を表すいくつもの箱の中身がすべて入れ替わった先にあるものが大きな死だというのだが、しかし、それはもはや小さな死を経験する私では絶対にありえない。著者はこれを良寛の辞世の歌を引いてこう締めくくる―――しかしながら、小さな死と大きな死に経験的な断絶があることに間違いはない。ただ「意味」を付け足しているのだ。

「大きな死」における「全く新しい私」への「変容」というものは、自己が自然の中に立ち返り、自然の中に同化する「私の変容」であると考えるのである。そう考えれば、自己の「無」化と、「全く新しい私」への変容は、「大きな死」によって両立するのかもしれない。

小さな死生学入門

 

 

にんじんと読む「悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治」 イントロダクション

イントロダクション

 「暴力」は近代日本政治における原動力であり、そもそも近代日本の誕生からして暴力的だった。明治新政府の樹立は暴力が猛威を振るった結果である。また、誕生後も暴力がなくなったわけではない。むしろ荒々しい時代が始まった。抗議の声は暴力による活動となり(自由民権運動)、その後も特にロシア革命後の数十年は左翼活動家が国家主義団体や国家と衝突し、暗殺も頻発、そして軍の政治力が増大していく。

 こうした暴力と密接に絡み合ったのは、物理的暴力の使用に心得があり、暴力的であることが主たる存在理由となっている人々―――つまり無頼漢やヤクザである。彼らのことをまとめて「暴力専門家」と呼ぶ。

 本書は、日本の政治史の中心に暴力を置くことで、政治とはしばしば危険なものであり、従来考えられてきたよりはるかに暴力的なものであることを証明しようとするものである。

 本書で扱う一八〇〇年代から一九六〇年代初期までの日本は、「暴力的民主主義」というダニエル・ロスの言葉を使って表現しても差し支えないだろう。

悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治 (朝日選書)

 暴力専門家は、物理的な損害を加えることをもっぱらとする人間を指し、兵士・警察・武装した衛兵・犯罪者・ギャング・テロリスト・山賊・準軍事組織などを例とする。しかしここで注目しているのはむしろ、暴力の合法/非合法という枠組みを揺るがすような、暴力によって身を立てた非国家的主体である。