にんじんブログ

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暗記の効用(日記)

2022.09.14記

 「暗記は大事だ」ということがひとつの意見となってしまうほど、暗記は軽視されているが、おぼえなければなにもはじまらない。図鑑に載っているものの名前を覚えてみたり、『菜根譚』で自分が重要だと思う人生訓を拾ってみたり、小説で見つけたいいフレーズを覚えると、けっこう気晴らしになるし、アンテナも広がる(気がする)。

 『ハムレット』でオフィーリアが兄の言いつけを受けてこの胸の内に、しっかり錠をおろして、鍵はそちらにお預けしておきます」と言ったのが好きで覚えている。まあ絶対使わないのだが。

 これが好きだ! というような人のインタビューを見ていると、いかに自分に好きなものがないか気づかされる。「この人に比べると自分はどれほど『嫌い』という消去法で人生の選択をしてきたのだろう」と暗澹たる気持ちになる。ちなみにこの””暗澹たる””は『涼宮ハルヒの憂鬱』で覚えた言葉である。

 好きなものと出会うにはあまりにもものを知らないようだ。好きになるためにはまずそれがあることを知らなければならない。というわけで今日図書館で気になる図鑑を仕入れてきた。「図鑑には図があるなあ」と考えながら読むと、ふと小学校のことを思い出した。ページをめくると気色悪い生物の写真が出てきて、写真のところを触るのがいやなのである。それは今も変わらない。が、興味を持ってみるのはやはり、そういう目立って気色悪い生物だ。ちょっとずつ自分という人間がなにを好ましく思っているのか、研究していきたい。

 

 

 

 

にんじん映像庫「メイドインアビス」

 巨大な縦穴「アビス」の底にいるはずの母とあるはずの自分の秘密を求める二人の物語。地上への帰還は深度に比例して””アビスの呪い””と呼ばれる身体異常あるいは死が起きる。だが上昇などなくても単に地上の街から離れるほどにアビスの環境の厳しさから多くのものを失ってしまう。それは自分たちの身体だけではなく、地上ではあたりまえの常識をひとつひとつ解体され、物語初期の時点で「時間」にすら地上との大きなズレがあることが明かされている。気が変になりそうなほどひどい目に遭いながら進んでいく姿は、地上で幸せに過ごしてほしいと感じるほどだが、二人の目的はいずれも自分たちの出自であり、それに死すら覚悟して挑むのは、アビスでの二人の冒険を象徴なものにしている。

 

 

 

(読書メモ)おしゃべりな脳

 

 

翻訳本にありがちな、各章冒頭はかならずよく知らんやつのエピソードを挟む形式のために、なんだか読む気が起きないのだが、「内言」という、いわゆる頭のなかの声という興味深いテーマを扱っている本。だが読む気が起きないため、読んだ人の記事を読んだ。読んだ読んだ。

 要はDESという研究方法を用いてやっていくわけだ。DESというのは、ブザーが鳴ったときの被験者の内言を教えてもらう(あるいは内言がなかったことを教えてもらう)という手法である。内言には「対話的」「凝縮」「他者」「評価的」なものがある。

  1.  あれどうだったっけ~
  2.  ものすごく省略された内言。通常の発話の十倍とか、単語が切れていたり、早い。
  3.  他者から聞こえるような声。あんまないがある人もいる。
  4.  あれは馬鹿だったよなあ

 の四つだ。人によって色々あって、中にはまったく内言がない人もいる(!?)。にんじんは内言だらけなので、ものすごく興味深いが、前述したようにまったく読む気になれない。

 

 

 

 

【資格】登録販売者①

医薬品概論

医薬品に共通する特性と基本的な知識

 医薬品は人体に取り込まれて効果を発現させるものである。しかし人体には異物であり、その作用のすべては解明されていない。有益な効果(薬効)をもたらすものもあれば、好ましくない反応(副作用)もある。つまり有用性が認められてはいるが保健衛生上のリスクを持つものでもある。

 薬局で簡単に購入できる「一般医薬品」のリスクは、医師によって処方される「医療用医薬品」よりも低いが適正に使用されなければならない。よってこの販売に薬剤師または登録販売者が関与し、適切な情報提供を行い、相談に対応する。たとえば医薬品には「効能効果」「用法用量」「副作用」など必要な情報がたくさんあり、添付文書や製品表示に記されている。市販後もリスク区分が見直されたり新たな情報が付け加わるため、専門家が必要なのである。最もリスクが高いものから「第一類」「第二類」「第三類」の医薬品として分類されている。品質の悪いものは製造販売業者による製品回収がなされる場合がある。

 医薬品のリスクは「用量ー反応関係」に基づいて評価される。投与量を増加させていくに従い効果が発現していくだろうことはもちろんだが、やりすぎると有害な反応が起こる治療量上限というものがある。

 

 無作用量 → 最小有効量 → 治療量|中毒量 → 最小致死量 → 致死量

 

 致死量は動物実験において確かめられ、投与した動物の半数が死亡する量をLD50といい、毒性の指標として扱われている。動物実験で安全性が確認されるといくつかの基準「GLP」「GCP」「GPSP」「GVP」といったものによって臨床試験が行われる。まずGLPは動物によって安全性を改めて試験する、次にGCPによってヒトを対象に臨床試験を行い、製造販売後にはGPSPによって調査を続け、販売中はGVPによって監視体制が整備される。

 一方、副作用は薬理作用によるものとアレルギーによるものの二つに分けられる。

 

 

 

にんじんの書棚「猫に学ぶ いかに良く生きるか FELINE PHILOSOPHY Cats and Meaning of Life」

 恐怖に追い立てられてできた宗教、そして哲学。ヨーロッパ哲学の三大潮流、エピクロス派は「病後療養所」のような雑音を一切許さない心休まる静寂だけが支配する「神経衰弱的幸福」に論じ、ストア派は合理的秩序を見出し宇宙と一体であることを認識し救われようとしたがそこに待っていたのは「忍従と諦念にみちた葬式」だった。ピュロン派はすべてを懐疑し判断を保留したが結局そこにも救いはなかった。ではどうすればいいのか。猫を見よ。「猫にとっては人間から学ぶものは何ひとつないが、人間は、人間であることにともなう重荷を軽くするにはどうしたらよいかを、猫から学ぶことができる」。

 

人生の目的は幸福になることだと言うことは、自分は惨めだと言っているに等しい。

哲学は治療を標榜してはいるが、じつはそれが治すと称している病の症状にすぎない。

われわれ人間は自分自身の思索という牢獄から解き放たれ、必死に幸福を追求してもかならず失敗するのはなぜかを、猫から学ぶことができる

 

古代の哲学者たちのなかでも、エピクロス派は、欲望を抑制することで幸福を手に入れることができると考えた。

じゅうぶんに手入れの行き届いた庭園の静かな場所に身を潜めることで、苦痛と不安から逃れ、静謐(アタラクシア)を達成することができる。

しかし、果てしない飢え、過労、迫害、貧困で苦しんでいる人びとに対して、エピクロスに何が語れるのだろうか。

 

ストア派の考えでは、思考をコントロールすれば自分に身に降りかかるどんなことをも受け入れられる。頭のなかで、自分が必須の部分であるような合理的な体系を組み立てることで、アウレリウスは不幸や死と和解しようとする。

その結果は忍従と諦念にみちた葬式である。

夢から人生へと引き戻された彼は、哲学という身にまとう屍衣を、最初からまた編みなおさなくてはならない。

 

これら古代の哲学にはすべてに共通する欠陥がある。いずれも、人間の理性によって人生を秩序だてることができると夢想しているのだ。

人生のほとんどは、そして哲学のほとんどは、その事実から目を逸らさせようという企てにすぎない。

猫は自己イメージをつくりあげたりしないので、いつかは自分も死ぬという事実から目を背ける必要がない。もうすぐ死ぬことを悟るときがくるかもしれないが、死の到来を恐れながら生涯を送るということはない。

時間のなかを進んでいくというわれわれの自己イメージは、われわれはいずれ死ぬという認識を生む。そのために人生の大半を費やして、自分自身の影から逃げ回る。

モンテーニュにとっては、人間の不安は人間という動物の欠陥に由来する。

人間は、自分の死を思い出させるものを片っ端から恐れ、その経験の多くを、自分の内なる無意識的な部分へと押し込む。人生は、闇のなかでじっとしていようという闘いになる

猫は人生の計画などは立てず、なるがままに生きている。人間は自分の人生をひとつの物語にせずにはいられない。

人間生活の大半は痙攣の連続である。仕事、恋愛、旅行、変わっていく人生哲学、これらはすべて心の痙攣であり、それを落ち着かせることはできない。パスカルが言ったように、人間は静かに部屋に座っていることができない。ジョンソンは、自分がどこへ行っても静かに座ることができないのはわかっていたが、それでも自分の不安を解消することはできなかった。他のすべての人間と同じく、彼もまた想像力の奴隷だったのである。

ジョンソンにとって、想像力から逃れる最良の方法は、誰かといっしょにいることだった。

人間以外に、孤独に耐えられない動物はいるのだろうか。

道徳が他の何よりも大事だという人びとは多い。

良い人生とは、生きる価値があるというだけではなく道徳的でなければならない。

どのような人間も、何よりもまず道徳的でなければならない。そのように考える人たちは、道徳が何を命じるかを自分は知っていると思いこんでいる。。

だが実際には、道徳を実行する人間にとって、まったくもって曖昧模糊としている。

古代のギリシャや中国には、今日道徳と呼ばれているものとはおよそ無関係な倫理的伝統があった。

どちらの思考法も「道徳」を前面には出さない。

そうではなく、良き人生とは、与えられた本性とともに自力で生きることを意味した。

合理主義の欠陥は、人間は理論を適用することで生きていけるという思い込みである。

われわれは何かを触らずに見ることができる。だが良き人生とはそういうものではない。よき人生はそれを生きることによってのみ知ることができる。

ソクラテスの言葉とは裏腹に、検証された人生は生きるに値しないかもしれない。

良く生きることはできるだけ意識的になることではない。いかなる生物にとっても、良き生とはそれ自身でいることである。これは、われわれは誰しも唯一無二の個性を自力でつくりあげなければならないというロマン主義者の考えとはちがう。

自分個人の本性を実現するという倫理は、自己を創造するという考え方とは違う。人間がみずから自己だと思っているものは、じつは社会と記憶がつくりあげた物である。

人間以外の動物はそうした幻影を抱きながら生きたりはしない。

もし猫に人間たちの意味の探究が理解できたなら、彼らはその馬鹿馬鹿しさに、うれしそうに喉を鳴らすだろう。いま生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味をもっている。それに対して人間は自分たちの生活を超えたところにある意味を探すことをやめられない


捨てられる荷物のひとつは、完璧な人生はありうるという思い込みだ。人間の人生は必ず不完全なものだという意味ではない。人生はどのような完璧な観念よりも豊かだ。良き人生とは、これまでに送ったかもしれない、あるいはこれから送るかもしれない人生のことではなく、今すでに手にしている人生のことだ

  1.  人間に向かって理性的になれと説教するのは、猫に向かってヴィーガンになれと説得するようなものだ。
  2.  目的に役立つことを、あるいは、それ自体が面白いことをしなさい。そうやって生きれば時間はたっぷりあるはずだ。
  3.  苦しみに意味を見出すのはやめよ
  4.  他人を愛さなくてはならないと感じるよりも、無関心でいるほうがいい
  5.  いちばん興味のあることをやれば、幸福のことなど何ひとつ知らなくても幸福になれるだろう
  6.  人生は物語ではない
  7.  行動する前に考えろと教わってきたことだろう/だが時には、闇のなかにちらりと見えた暗示に従ったほうがいい。
  8.  目が覚めたときにもっと働けるように眠るというのは、みじめな生き方だ/楽しみのために眠れ。
  9.  幸福にしてあげると言ってくる人には気をつけろ

     

  10.  猫のように生きるということは、自分が生きている人生以上には何も求めないということだ。

猫に学ぶ――いかに良く生きるか

(メモ)考えごと

  •  「生命体はいろいろなものを分節化している。分節化はコトバ以前にも行われているし、言語的なものは非言語的なものをもとにしている。非言語的なところで分節化以前のものと出会っている。それはなにも分節化されていないので、区切りのない世界である」 その世界は存在の流出する源であるとされる。そこで分節化する意識の働きを削ぐために、意識を抑え込むための技術を東洋では求め続けてきた。
  •  が、なぜ意識を抑え込んだなかで見えた世界が「真の」世界なのか? それもひとつの世界のありかたではないか。世界はいつもなんらかの形で現れている。しかしかといって””もやもやとしたカオス””が真の世界というわけではない。真の世界などない。そう考えるのがむしろ自然ではないか。そのとき、むしろ世界の姿とは実体的なものではなく、単に””流れること””に過ぎなくなる。流れではない。流れること、である。

ほかの生物たち、蟻や蝙蝠やアメーバや松の木や水仙…には、それらが生きていくのに必要なかぎりでまた別の姿を以って世界は姿を現わすだろう。しかし、それらもまたそれらの生物にとってのものに過ぎない。唯だ一つ確かなことは、それらがどんな姿で現れようと、それらの現われの根底に「ある=存在」という事態が横たわっていること、そのことのみなのだ。

「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦 (講談社選書メチエ)

 少なくとも、もうこれは現象学とは関係ないだろう。そして考察は遂に、こうした世界の物語を語り始める。すべての主語は「世界」になったので、この世界がどうして自らを分けるようになったのかといった話になるのである。

  •  なにも分節されていない世界には「存在エネルギー」が満ちていて、それがどうこうなることによって……と説明され始め……。これはビッグバン以前の、宇宙のない、無を考えるときと似ている―――あれは無といっても、正負のエネルギーが拮抗している状態でゼロになっているだけなのだ。確率的にものすごく小さいものの、偶然に一方が跳ねることでビッグバンを起こしたのだ、という……。