にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんと読む「フッサールの志向性理論」

 現象学は志向性の理論として認められている。その議論の多くは意識作用(ノエシス)と意識対象(ノエマ)の内在的な連関にかんする記述である。一方、こうも認められている。世界を意識に還元する観念論だとか、心のなかを覗けばなんでもわかる内在主義だとかである。

 第一章では、デカルト観念説と対比する。それによって認識論の困難を浮き彫りになり、フッサールが自らに課した課題が明らかになる。フッサールは客観主義が陥る深刻な懐疑論に対して、「認識の可能性の条件」を反省的に記述する超越論哲学の綱領を示す。観念論から得られるものは無前提性の徹底と、世界や事物を意識作用によって構成された意識対象として見る方法である。

 第二章では、西海岸解釈(ドレイファス・スミス・マッキンタイア)と東海岸解釈(ドラモンド・ソコロウスキー)といった「ノエマ」という概念に対する立場を紹介する。一方はノエマを言語的な意味と解し、他方は感覚的な現出とみなす。それぞれの解釈には難点がある。現代の解釈は従来の認識論の枠組みにいまだ縛られているのだ。

 第三章では、これまでのノエマ解釈がもつ共通の前提を指摘した。それは『主観にとっての志向的な〈関係〉の実相を、体験される知覚や思考される意味といった所与の〈現前〉に帰着させる方針』(現象主義)である。フッサール現象学は「理論負荷性」「遂行的様態」といった知覚の本性を見出すことによって現象主義を根本から取り除くことに成功する。

 第四章では、認識の正当性を現実のかかわりから明らかにする。つまり現象学に外材主義的な視点を確保することを目的にしている。

 第五章では、真理という概念が経験に対して持つ価値について考える。

 

 

にんじんと読む「スピノザの方法」

第一章 方法の三つの形象Ⅰ

ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか。それともその暗闇のなかには道案内がいるのか。また道案内は可能か。

スピノザの方法

 この問いに関わって、スピノザが「方法」について論じているのは『知性改善論』=『知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文』である。ここでのテーマは、どのようにすれば知性を改善できるのか、どのようにすれば事物の真の認識へと導かれうるか、である。

 

【無限遡行の問題・道具の形象】

 どのようにして、とスピノザは問う。彼がまず指摘したのは、「方法」の探究にあたってまず注意すべき無限遡行の問題だった。すなわち、探求の方法を探求するのだから、その探求の方法も探求されねばならないし、その方法も探求されねばならないので、私たちには探求などできないのではないか―――こういう問題だ。彼はこの無限遡行があってはならないことだとしているが、論駁することはできておらず、ただ拒絶するだけである。そして話はだいたいこう続く。

 

 人間は生得の道具をもって易しいものを作り、だんだんと複雑なものを作れるようになり、難しいこともできるようになった。これと同じように、知性も生得の力でもって、知的道具を作り新しい力を得、さらに難しい課題に取り組むことができる。

 

 実際そうしてきたのだろうと思わせる記述だが、問題には答えていないし、じゃあどうすればよいかというそもそものテーマにも答えていない。なぜスピノザはこんな「もっともらしいが説得力に欠く」話をしているのか。その理由は著者によれば、『不可知なものの優位をちらつかせ、知に向かおうとする人々の意志を殺ぐ』ような相手の口をふさぐためであるという。「方法には方法が必要なのは確かだけど、今までずっと人は積み重ねて来てこうして今があるわけだよ。話続けてもいい? まさか茶化すために言ってるんじゃないだろうし……」というわけで、実は無限遡行の問題についてまず彼が語っていたのは、この口塞ぎだったのである。

 だが、ここには既にスピノザ独自の考え方もあらわれている。

 それは、生得的に持っている知性というものが最高峰へのぼりつめるために必要な力を十分もっている、という考え方である。実は道具について過去に言及した哲学者ベーコンは、生得的な力を貧弱なものとみなし仕上げられない者には優れた人が指導者として与えてやるべきだと考えていた。しかしスピノザは「外から与える必要はない」と言っている。

 とはいえ、実はこの方法観の転回について、スピノザデカルトから学んでいたらしい。デカルトも同様に、十分な知性について語っているからである。だが一方で、スピノザデカルトと違ったのは、方法というものが持つ無限遡行の問題に言及したことである。これを踏まえながら、スピノザはどのような「方法」へ至るつもりなのか?

 

スピノザの真理観・標識の形象】

真の観念はその対象と異なる或るものであり、それゆえに、ある観念はそれ自体が他の観念の対象となりうる。

スピノザの方法

 観念がその「観念対象」と異なる、と表現しよう。このこと自体は、たとえば「円」と「円の観念」が別のものであることからも明らかである。だが『観念はそれ自体が他の観念の対象になりうる』というと、少し事情が変わって来る。色々の観念と色々の観念対象があるが、観念というのはその観念対象にいつも付き従わねばならないわけではなく、いつだって観念がメタレベルで観念対象がオブジェクトレベルにとどまっていなければならないわけではない。観念それ自体も観念対象になることがある。

 というわけで、観念対象となった観念は、形相的観念と呼ばれ区別される。また形相的観念を対象とする観念は想念的観念と呼ばれる。おそろしくややこしい。たとえばここにニンジン🥕があるとする。🥕は実在的な或るものである。🥕を観念対象とする観念があるだろう(ニンジン)。ところでそのニンジンという観念を対象とする観念を形相的観念と呼び、この「ニンジンという観念を対象とする観念」を対象とする観念が想念的観念と呼ばれるのである。

 ところで当たり前のことだが、スピノザは指摘する。

  •  🥕を知っている人は、🥕の観念も知っているし、その観念の観念も知っているし、またその観念の観念も知っている。そしてこれはずっと続けることができる。言い換えれば、『何かを知っている者は、自分が何かを知っていることを知っている』。何ごとかを知っている人は、知っていることを知る必要はない。つまりその何ごとかを知っているかどうか判断する基準は必要ない。

 スピノザはさらに歩を進める。何ごとかを知っているかどうか確かめる必要はない。もし知っていることの正しさをなんらかの標識に求めたなら、その標識の正しさを議論しなければならなくなる。知っていることの確実性の根拠はただ、「いかにして知るに至ったか」ということだけである。すなわち、真理に到達している人は真理に到達していることを知っている。到達していない人には、真理が何たるか知ることができない。だからいくら真理を説明しても伝達できない。そこで「いかにして」そこに辿り着いたか、適切な様式をくぐりぬけたか、が問われる。

真理への到達はほとんど体験とでも呼ぶべきものとして考えられている。

スピノザの方法

 無限遡行の問題に戻ろう。スピノザは論駁できなかったというより、論駁しなかった。説得しようと思わなかったのである。そもそも彼の哲学の中に、論駁とか説得とかいう要素はない。だが当たり前だがこの立場は、議論の場では恐ろしく無力である。

 だがスピノザが学んだデカルト懐疑論者たちに対しても、むしろそういう人たちをも説得できるような、真理を求めた。だがスピノザはその必要を感じなかった。とうてい受け入れることができなかった。それはなぜなのか。

 

第二章 方法の三つの形象Ⅱ

〈前回の復習〉

 何ごとかを知っているということの正しさは、まさにその何ごとかを知っているということだけであって、その正しさをチェックする標識は無用である。真理に到達している人は真理に到達していることを知っている。到達していない人には、真理が何たるか知ることができない。だからいくら真理を説明しても伝達できない(スピノザの真理観)。

 本当に知っているのかと問うのではなく、いかにして知るかを問おう。だが注意しなければならないのは、ここで問われている「いかにして」という道は、真理にいたる道ではない。もし海こえ山こえ真理にたどりつくそうした道のことを行っているのなら、その道に到達するための別の道が必要になり、無限遡行の問題に再び戻ることになってしまう。ここで問われている道というのは、『諸観念がひとつひとつ獲得されていくことの連なりとして描かれる線そのもの』(スピノザの方法)である。知っているというのは、その道のうえで得られるのであって、道の先にあるわけではない。つまりスピノザにおいては、方法そのものと知っているという認識が切りはなされているわけではないのである。

 しかしそうなると、方法について考えるというのはまさに知ることそのものについて考えることになる。普通、「いかにして」と問うのはそれをするために指導的・制御的役割を期待するからであるが、スピノザの方法においては、知ることの前に方法などは存在せず、当然、指導もできなければ制御もできない。そしてまた当然、この方法は知ったあとにそれを改変するようなものでもない。前にも後にも使えない。これのどこが「方法」なのか? —――このことを指摘したのはジョアキムである(方法の逆説)。

 それにもっと言えば、そのような方法について語る(方法論について語る)こと自体に無理があるのではないか。真理そのものについて語る前に方法を語るということは、その方法論を紡ぎ出す推論を基礎づける方法論が必要とされてしまうのではないか。方法論は方法論である限りにおいて、無限遡行の問題を絶対に解決できないのではないか(方法論の逆説)。

 

 ヴィオレットは『知性改善論』に関して著した論文のなかで、方法を「創出的方法」と「創出された方法」のふたつに区別している。そもそも知識というものにも種類があって、ひとつはあらかじめ準備することで手に入れられる知識であり、ひとつは、漸進的にのみ手に入れられる知識である。前者の場合は道のりを自分以外の人に示してもらえばよく、後者の場合はその知識をそもそも先取りしておくことができず、その道のりの成立と知識の成立とは同時に起こる。ひとつめの道のりを「創出された方法」と呼び、ふたつめの道のりを「創出的方法」と呼ぶ。

 ヴィオレットはスピノザの誤りについて次のように結論する。

約言すればその誤りとは、創出的方法と創出された方法とを混同し、後者に関して正しいと言えることが前者に関しても正しいと考えてしまったことにある。より正確に言えばスピノザ哲学は創出的方法に属するものであり、この種の方法を用いることによってのみ開花しうる哲学であるにもかかわらず、スピノザはみずからの哲学に対してイントロダクションを書き記すことができると、つまり創出された方法のスタイルで書かれた「方法序説」をこの哲学の前に置くことができると考えたのである

スピノザの方法

 「方法論」というのは、誰かがたどった道を後の人に教えてやることである。だが真理を探究しようとしている以上、真理がなにかなんてわかっていないわけで、その道のりを描き出してやろうとする創出された方法の設立は絶対に失敗する。スピノザは「生得の道具」と言っていたときは、私たちは誰かから「思考術」なんてものを教わらなくても自らの足で歩いて行けるはず、創出的方法で探求していけると考えていたはずなのだが、二つの方法を明確に区別していなかったために、序説を書き進めてしまった。

実際に観念を獲得していく活動である哲学体系に先立ち、その方法だけを説明することはできない。にもかかわらず『知性改善論』は、方法の何たるかを観念の獲得に先立って説明しようとしている。繰り返せば、これこそが、創出的方法でしか言えないことを創出された方法によって言おうとするという事態にほかならなかった。

スピノザの方法

 ヴィオレットの方法の二区別は見事に方法論の逆説を説明した。だが、方法の逆説については説明していない。スピノザが失敗を運命づけられていたのはまあいいとして、方法の逆説が言っているのは、方法は精神の指導と制御という役割を果たすことができないということだった。ヴィオレットが言うところでは、方法の逆説というのも二つの方法概念の混同であって、指導と制御の役割は「創出された方法」に属し、スピノザの方法は「創出的方法」に属するのだから、ふたつを繋ぎ合わせるなどどだい無理な話だったのだという。

 創出的方法というのは、「方法」と名はついているが、方法ではまったくない。スピノザも何ごとかがわかるようになる道筋をハイキングコースのようにお気楽なものであることは否定したが、方法から「精神の指導と制御」という役割をはぎ取ろうとはしなかった。言い換えれば、泳げないやつを全員海に叩き落そうとはしなかった。海に入ってもらう必要はあるにしても、「ちょっとまあその前に言っておくことがあってだな」と言いたかったのだ。

 

 

第六章 逆説の解決

〈これまでの復習〉

 精神は道を進みながら何ごとかを知り、知ったことが次の知ることを手助けする。何ごとかを知っているかどうかを問う必要はなく、ただその道をいかにして見つけいかにして歩めばいいかを問えばよい。だがこのような方法は道そのものであるのだから、地図のように事前に準備することはできない。ここで生じる問題は、「方法」として果たすべき「精神の指導と制御」という役割を果たせないことであり、泳げない者をとにかく海に叩き落すしかないということだった(方法の逆説)。ヴィオレットによって解決されたかに見えた「方法論の逆説」は、スピノザの方法に「精神の指導と制御」を導入することを拒んでしまう。

 さて、スピノザの方法は創出的方法であるから、手さぐりに進んでいくような道ならぬ道だった。つまりこの方法は方法の適用と区別できない。であるとすると、方法について論じるには、同時にその適用も論じなければならないだろう。私たちが得ようとしている「方法」は、「観念」に対して適用される観念獲得の道である。だがスピノザは「観念」ということによって何を言おうとしていたのだろう。

 『知性改造論』の次の一節を見よう。

このことから、方法とは反省的認識あるいは観念以外の何ものでもないということが帰結される。そしてはじめに観念がなくては観念の観念がないから、はじめに観念がなければ方法はありえない。このゆえに、与えられた真の観念の規範に従って精神がどのように導かれるべきかを示す方法が正しい方法であることになる。なおまたふたつの観念の間にある関係は、それらの観念の形相的本質の間にある関係と同一であるから、これからして最高完全者の観念の反省的認識が他の諸観念の反省的認識よりすぐれているということが生ずる。言い換えれば、もっとも完全な方法は、与えられた最高完全者の観念の規範にしたがってどのように精神が導かれるべきかを示す方法であることになる。

スピノザの方法

 まず観念同士の関係と、それら二つの観念の観念対象(形相的本質)の間にある関係について考えよう。スピノザ本人による注釈によれば、ここでの「関係」というのは、他方から生じ、あるいは他方を生ずるようなものである。つまり「連結」について話しているわけである。観念の連結は、観念から観念への発生連鎖のことだ。スピノザは観念の原因は観念のみだとし、事物の世界と観念の世界を切り離す。だがそれでもなお、その連結は、観念対象の連結と「同一である」と言われる。

 観念の世界と事物の世界は独立ではあるが、無関係ではない。ではどのような「関係」があるのか。それは対応である。たとえばA→B→Cという事物の連なりがあるなら、観念もA→B→Cと連なる。そして連結を支配する因果法則は事物においても観念においても同一である。……であるとするなら、法則の同一性が言われる以上、その法則の適用される対象群の間にズレがあってはならない。対象は観念と対応する。

 するとこういうことになる。「事物と観念は存在としてはまったく同一である」のだが、「同じひとつの存在が別の仕方で現れたもの」である

 いろいろな「ひとつの存在」があるだろうが、もっともすぐれているのはその存在だけですべてを現わさせるような存在である。そこに「最高完全者」が登場する。

 あらゆる観念は最高完全者の観念から導き出されねばならない。そこから溢れ出す観念の連結それ自体が、精神を「指導・制御」し、みずからで連結を導くことでみずからに固有の知性の諸法則に出会う。すなわち精神は最初から方法論をその身に宿している。方法論は適用に先だって存在せず、方法と同時に方法論が現れる。「方法という名の道を歩くことで、精神はいかなる方法が用いられるべきかを学び、それをみずからに示す」。

【チェック】

 この考え方はのちにライプニッツによって平行論と命名された。

 神は無限に多くの属性を有する唯一の実体である。存在するのはこれだけであり、それがぐねぐねと蠢いている。その蠢きが延長の属性において考えられれば「事物」、思惟の属性において考えられれば「観念」と言われる。

 というわけで、本当にそうなら一刻もはやく「最高完全者」を見つけなければならない。ならどうするか。そもそも「最高完全者」は、ともかくなんでもあるのだから、適当なものを手に取ってそこから出発すればいいのではないか。一旦、最高完全者にたどりついたらこっちのもので、あとはそこから流れ出していく真理の流れをたどっていけばよい。

 では適当に手に取ってみよう。それはなにか。定義が必要だ、というより、本当に適当に始めたのでは手間がかかってしょうがないから、定義規則のはっきりしているものから「最高完全者」を目指したい。私たちは既に、曖昧ながらも「真なる」ものを持っている。私たちは太陽についてすっかり説明できるわけではないが、太陽のなんたるかを知っている。

 

「与えられた真の観念」から出発するとは、われわれの所与の諸条件のなかにある真理性を手がかりにするということである。たしかにわれわれは最初の時点では真の認識(十全な観念)を手にしていない。しかし、所与の状態でわれわれに与えられている観念のなかにもなんらかの真理性が見いだせる。

スピノザの方法

 

 とはいえ、私たちにはその真理性がどこにあるのかわからない。だから太陽からはじめることはちょっとできそうにない。スピノザが頼りにしたのは「純粋精神から生ずる観念」、たとえば幾何学的図形である。これならばどこが真理でどこが真理でないのか明白である! たとえば球というのは半円が中心のまわりを回転して生ずる図形である(発生的定義)。だが、自然における球はどれも半円が回転してできたわけではないのはわれわれにとって当たり前である。球の定義には「半円」という球とはある意味で関係のないものが紛れ込んでいる。だが、私たちはそれが理解できる。

 スピノザ哲学は定義に重きをおく。特に発生的定義に重きをおく。というのも、「連結」に興味があるスピノザ哲学においては、それがどのように生じたかを記述する発生的定義こそふさわしいからである。もっといえば、真の認識=十全な観念の獲得=完全な定義、である。出発点にある発生的定義は、精神を観念の連結のなかにおいてくれる。

 だがスピノザには不安があった。「純粋精神から生ずる観念」からはじめるのはいい。それはどこが真理なのかはっきりしている。だが逆にいえば、真理でないものを頼りにして進んでいくことになる。半円の回転をして球になった球などどこにもないし、いわれている半円の回転というのはなんで回転してるのか原因がいまいちわからない虚構の、仮想のものである。虚構だとわかっているだけましだが、わかっていること以外に「虚構」と「虚偽」を区別する手段はない。ちょっと危うくはないか。

 

 

 

 

 

第七章 スピノザの方法

 『エチカ』における定義は、発生的定義(=対象の最近原因を含むことでその対象の発生を描き出す)とは異なり、名目上のものとなっている。たとえば『自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する』という風に、「~と解する」と結ばれる。あくまでスピノザ自身が決めたものであり、恣意的なものである。一方、発生的定義は実在と結びついており、勝手気ままには決められない。

 だが名目的定義を利用して、ただ論理的操作を行う「証明」には違和感が残るのではないか。スピノザの定義に関してはさまざまな議論が繰り返されてきたが、これをスピノザの戦略だとする見方がある。スピノザの定義は、定義された段階ではその対象の実在を主張しているわけでもなければ、その定義がまさに本質を捉えているのだと主張しているわけでもない。冒頭の定義の時点ではそもそも「真理」という概念さえ登場してはおらず、「定義の時点ではその実在はいわば宙づりにされており,定理 7 の証明以降の議論をまってはじめて実体の実在がその本質そのものであることが示される」のであり、「実体の実在が語られてはじめて,『エチカ』において「真理」概念が登場する」のである(CiNii 論文 -  スピノザ『エチカ』における定義の問題 : 実体の定義と真理概念を中心に)。

 そもそもスピノザの定義は、被定義項の語義の領域を定めるものであり、この領域の定めは『エチカ』の読者層として想定されていたデカルト主義者たちも同意するものである。そのようにふわっとした区画割りをしてもスピノザのいう実体の本質が導出される、と言いたいわけだ。

【定義】

  1.  自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。
  2.  同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有言であると言われる。
  3.  実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
  4.  属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
  5.  様態とは、実体の変状、すなわち、他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する
  6.  神とは、絶対に無限なる実有、言い換えれば、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体、と解する。
  7.  自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
  8.  永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に考えられるかぎり、存在そのもののことと解する。

 にんじんなりにまとめると、

 この定義の羅列は別に「実体」とかじゃなくても「♨」とか「☀」とかでも問題はないはずだろう(用語を定めるだけなので、記号自体はなんでもよい)。で、ともかく議論を進めていくと「♨」が実在することが証明される。それで最後には「あら、♨というのはあなたがいう実体のことだったんですか」となって、なるほど実体というのは実在するのだなと相手も納得する、……みたいなことだと思われる。とはいえ、

 次に導入される「公理」は、「☀」や「♨」がまともに機能するための前提を明文化したものである。

【定理】

  1.  実体は本性上その変状に先立つ
  2.  異なった属性を有するふたつの実体は相互に共通点を有しない
  3.  相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない
  4.  異なるふたつあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって互いに区別される
  5.  自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有するふたつあるいは多数の実体は存在しえない
  6.  ひとつの実体は他の実体から産出されることができない
  7.  実体の本性には存在することが属する
  8.  すべての実体は必然的に無限である
  9.  およそ物がより多くの実在性あるいは存在をもつに従って、それだけ多くの属性がその物に帰せられる
  10.  実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ
  11.  神あるいは、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する

 定理4までは定義の論理的操作によって成立する。そして定理5がそれまでの結果の総動員によって成立する。これが対象とするのは「ひとつの属性を有する実体」であり、「属性Aに対して、存在するとすればただひとつの実体しか存在しない」ことを言っている。というのも、ふたつの実体が共通属性を有することはないというのが定理5であるから。このことからひとつの実体は他から産出されず、存在することは自己原因であり、しかも無限であることが論証される。

 そして定理9からは趣が異なる。「定理7」において存在することは実体の本性だとされながら、「定理11」において実体として定義されている神がまた存在すると改めて証明されている。この点については、定理8までの論証がいつも、「ひとつの属性を有する実体の存在」を仮定してきたことを考慮に入れなければならない。実際、定理7が定理6から証明されている。この過程を証明してしまうのが定理11の役目である。

 定理11において辿り着いた神の存在によって、定理8までの仮定つきの論証は確定し、その後の『エチカ』は神の観念から流れ出るに任せる。

 

 

 

 

 

 

自己啓発という思想

 変えられるのは自分だけだ、という。だから変わらなければならないと。

 

cir.nii.ac.jp

 アリストテレスは、幸福というものを万人のものとしては見ていなかったように思える。彼は人間というものの本質を「知性」に見た。人間の幸福とは知性をよく働かせることにある。そして、それ以外ではない。あまりにも極端な考え方に思える。知がないと幸せになれないなんてエリート主義だ。だというのに、私たちは「知」がないと駄目だと毎日躍起になっている。何かを知らなければ駄目だと思い、知らないことを恥と思う。

 アリストテレスは知っていた。よく生きるためにはある程度財産に恵まれていなければならないと。「そんな状況に陥ったのは努力しなかった自分の責任では」と平気で言える人間は、自分がいかに恵まれた環境にあるかわかっていない。不幸なことに、恵まれている人ほど恵まれていることに気付かない。英語話者が自らの持っている言語の圧倒的な優位性に無自覚なように。日本人が海外に行くのと、英語話者が海外に行くのとでは言語的なハードルはまったく異なる。努力主義の人間は『人は生まれながらにして平等』だと思っている。まさか、平等であるはずはないのに。誰の影響なのか、日本人は割合、人間は生まれたときはみんな同じスタートラインにいて、努力でその先が決まるのだと考えているところがある。お金持ちはアホで、刻苦勉励する者こそが出世するのだと思っている。苦労は買ってでもしろというわけだ。そうとはいえ、この頃、一部のお花畑はともかく、スタート地点が違うことにだれもが薄々気が付いてきている。だから「親ガチャ」などという。親が暴力を振るってくるとかヤバすぎるパターンでない限り、あまりにも品がない言葉だが、親の経済状況が学力に影響するのは周知の事実である。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 認知行動療法もたいへん人気である。

 つまり、なにか悪いことが起きたら悪い風に考えてしまう自分の思考の癖が問題なので、それを直しましょうという。たしかにそういうケースもあるだろうが、全部がぜんぶ、こっちの認知が歪んでいるわけではない。アンガーマネジメントだの、ポジティブ感情だの、やたらと冷静顔か笑顔かにしたがるか、怒ったり泣いたりすること自体はきわめて自然な反応である。それは「感情」とか「情動」とか言われる。それは出来事に対する構えである。理性は感情に付き従い、彼がいなければイカれたコンピュータのように何もすることができなくなる。私たちは日々いろいろなことを経験しながら、適切な情動能力の発揮を学んでいく。問題なのは「怒るべきときに怒り」「悲しむべきときに悲しむ」ことである。怒らないことではないし、ニコニコしていなければならないわけではない。もちろん、アンガーマネジメントなどの専門家もそれは認めることだろう。だが、本当のところ、「そういう嫌な感情はなければないほうがいい」と思っているのではないか。

 知性にもいろいろある。哲学や数学をやっている奴だけが「かしこ」なわけではない。どうも「試験に出るよ」と言われるようなものでなければ知性と認められないようなところがあるが、大工も立派な知者であると思う。もちろん微分の定義が言えるかはわからないが、それはまた知性の種類が違うのだ。世の中にはいろいろな種類の知性があり、協同して社会を組み立てている。一部だけを取り上げるのがエリート主義である。

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 なんらかの意味で「スキルアップ」したほうがいいというのはたぶん正しい。

 しかしスキルアップ「しなければならない」という強迫観念にまで醸成するのが自己啓発という思想である。知性に引かれた幸福/不幸のラインを求めて、進歩せよと絶えず責め立てる。いったいいつまで頑張ればいいのか? 人生には限りがあり、与えられたものを十分に活用せよと迫る。時間術は、いかに効率的に過ごすべきかを教える。人生には限りがあるから可能な限り経済的に、合理的に、というわけだ。その競争の先に得られる幸福もある。得られない幸福もある。

 幸福という言葉は幸福というものを固定した実体だと思わせる。まったく違うものを同じ名前で呼ぶことに対する言語的な混乱は、些末なものから深刻なものまで、多くの混乱を生みだしてきた。特に数学は、この傾向が強い。はじめて虚数というものを聞いたとき、「虚な数です」と説明されて、一体何人が納得したのだろう。数学の先生は虚数の誇大広告を貼るのが好きなので、実にめんどうくさい。ただの方程式の便宜的な解のくせに、『虚』とはおおげさなことだ。それは私たちがこれまで数と呼んで来たものとはずいぶん違うものだが、同じ「数」という言葉を使う。

 幸福への道が一本なら幸福もひとつだろうと考えるのは自然である。ともかくそこには、数えられるものだという前提がある。指差し確認ができるようなものではないのに。私たちはだれしも幸せになりたいと願うが、なにになりたいと思っているのか誰もわかっていない。私たちは提示された道を、とりあえず進んできた。別に正しい道というわけではなかった。単なる時代のトレンドだった。そのトレンドは政治的にも、制度的にも、たいてい支えられている。今はみんな頑張る時代だ。「もっと」と誰もが思っている。

 YouTubeで見たある老人へのインタビューで、「若い人たちはいつも幸せでなければならないと思っている」という発言があった。「人生にはいいことも悪いこともある」そういうものなのに。がんばってもどうしようもないことは腐るほどある。私たちの幸福のありかたには、幸福でないような状態、どうしようもない状態を許容するような懐のふかさがなければ生きづらい。どうしようもないことは、どうしようもないので、努力ではどうにもならない。努力をやめてしまっていいというわけではないが、やらなければならないというほど切羽詰まったものでもない。

 

 

 

減点法(日記)

2023.1.16記

 にんじんはLINEをしていない。

 この前「LINEで連絡を取り合っているのですが」と言われ、「いやLINEはしてません」と答えたら、「あ、じゃあメールですね」と返事があった。LINEじゃなかったら駄目だといわれたらどうしようかと思っていたのでたいへんよかった。だがそのすぐあと、「あ、メール……ってやってますか?」と言われた。LINEをやっていない人間はメールも知らないとみなされるらしい。

 にんじんが知る「最近の曲」はほぼすべてアニメのOPかEDなので、音楽番組でやるような曲は何も知らない。Netflixで洋画しか見ないので日本の俳優を言われてもわからない。「何も知らないなあ」と実家でよく言われる。ところがうちのもんと来たら『マトリックス』さえ見ていない。洋画は一切見ないらしい。『男はつらいよ』も見ていない。いったい何を見ているのか。尋ねたが、まあ、案の定にんじんには何かわからない。ジャニーズのなんとかというグループが好きらしいが、にんじんには魅力がよくわからなかった。クラスにいた””やんちゃ””な人がそのままデカくなったようにしか見えない。同様に女性アイドルにも理解がない。まず区別がつかない。途中で入れ替わっても気づかないと思う。だがアニメと来たら、可愛い連中ばかりである。しかしたいていの人にとって、そこまで執心するほどのものでもないらしい。チョッパーとかアーニャとかを見てヒャ~とは言っても、能力がどうとか、経歴がどうとか、大した問題にはならないようだ。ところでにんじんはアーニャよりベッキーのほうが好きだ。ビジュアルが。

 アイドルのライブ映像かなにかを、実家の大きいテレビで見せられて思った。まさかここまで内容のないものとは。同じようなショットが延々と続き、断続的に高さの違う音がツーツーツーと聞こえ、時折イェ~と言い、ひとつも面白くない小芝居を挟んでくる。ツーとイェ~とおふざけしかない。誰が見ていられるのか。しかし、にんじんもそのテレビを使わせてもらってアニメを見ることがあるが、なんと思われているのだろう。やたら高い声の女と、甘ったるい声を出す男が、時折完全に停止したり口だけ動かしたりするみたいな、……なんかそういうものとして見えているのではないか。というか、そもそも見えているのか。

 どちらもきっと「仕上がった」「良い」ものには違いない。だが、何が良いのかまったくわからない。たぶんあまりにも、ライブとかダンスとかアイドルとしてのふるまいとか、作画とか背景とかストーリーとかいろいろなことについてお互いに知らなさすぎるのだ。そして特に知ろうともしていない。もしも『価値』が普遍的なものであると信じるならば、言葉を尽くし、時間をかければ、きっとそのものの良さはわかるはずだと考えるだろう。そこで否定してしまうと、価値が結局、「人それぞれ」になり、世の中はもっとばらばらになる。別に知らなくても構わないが、一番奥にある価値の可能性は残しておかないといけないかもしれない。

 

 

 ……と、きれいなことを言ったところで、にんじんは『運がアップする!』とかわけのわからんことが書いてある本を一切読まない。あれの価値などまったく感じないからだ。運はどうにもならないから運なのだし、どうにかできると考えるほうがどうかしている。

 そう思うと、「人それぞれだよね」が進むのはむしろ、価値を信じないことからではなくて、信じることからくるのではないかとさえ思える。純粋無垢に「なんにでもいいところはあるよね」というと、自分にはどう考えても理解できないものにも価値があることになる。だからどちらかというと「価値がある」と信じるよりも、「価値を見極めることができる」ほうにこそ、普遍性の意味を見たほうがいいのではないか。ちなみに、なにかが長年残るのは私たちがいうところの『価値』とはなんの関係もない可能性もあるので、歴史の長さは関係ない。重要な要素には違いないが。

 つまり価値は「ない」ことがわかっても、「ある」ことは一生仮説に過ぎない。理解できないそれに価値があるかどうかは保留。我々はアニメに価値があるから見ているというよりも、好きだから見ているのだ

 

~糸冬~。

 

 

 

 

 

にんじんと読む「入門講義ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」🥕 ②

論考の中身①

 論考の記述は独断的である。著者の解釈によると、冒頭の形而上学的記述は「語り、考えること」に伴う常識の明示化が目的になっている。前理論的な考えをあぶりだし、

  •  世界は成立していることがらの総体である。
  •  世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 世界はモノの寄せ集めではない。なにしろモノを単に集めてきただけではそこに無数の組み合わせができてしまい、いま目の前にある世界が出来上がらないからだ。

 世界が事実の総体であることがわかると、それに反する事態は成立していないこともわかる。事態というのはものの結合であり、私たちはこれによって世界の可能なあり方について考えることができる。成立している事態が事実である。つまり事態とは「成立/不成立」が問題となるようなものである。

 ものとものとの組み合わせが無数にある、といっても「ポチは営業中だ」などと言うことはできない。対象は事態に登場する可能性込みで存在する。この可能性を「対象の形式」と呼ぶ。さらにウィトゲンシュタインは対象が単純でありそれ以上分解できず、それが存在しないというようなことが考えられないものであることを要請する。

 

 次に、彼は「思考」に踏みだす。像である。像は模型であるといわれる。たとえば部屋の模様替えをするときに、本当にタンスを動かすよりも紙切れにタンスと書いたほうがよいだろう。紙切れに書かれるタンスや机、観葉植物などは対象の代理をしている。しかし〈タンス、机、観葉植物〉というリストだけではもちろん駄目で、像が像として成立するためには対象との対応だけでなく要素間の関係がきちんと描写されたものでないといけない。つまりタンス、机、観葉植物が模様替えであるためにはその空間的関係が現実の空間的関係と共通していないといけない。たとえばタンスが上側にあるというのは現実の部屋の北側にあるということだ。―――このような現実と像が共通してもつ関係の可能性のことを写像形式という。

  • 〈北海道、滋賀、沖縄〉の位置関係といって滋賀をてっぺんに持ってきたらそれは誤っている。しかしそのような像はつくりうる。像は正誤関係ないのである。像の真偽を知るためには、現実を見てみなければならない。
  •  像は自身の写像形式を写し取れない。つまり「位置関係」のようなものは要素に現れない。「 下 ↑ 上 」という像は上と下がたてに並んでいるところを表すとしよう。しかしこれがもし「上 ↑ 下」なら、下のほうが上側に来てしまう。つまり位置関係が要素に入っていないからといって、要素に組み込んでみても、結局””こういう風に並んでいるから””という仕方での提示が不可欠になる。

 事実の論理像が思考である。論理像とは写像形式が論理形式である像だ。地図は二次元的な位置関係にかかわる写像形式、楽譜は音の高低や時間的進行などを表す。このように特定の写像形式は像によりけりなのだが、『論理形式』だけは像が像である以上必ず持っていなければならない。たとえば地図においても、市役所が駅の北にありかつ北にないようなものを書くことはできない。楽譜においても、ドの次がミでありかつミでないようなものを書くことはできない。

 すべての像は論理像なのだから、思考とはなんらかの事態についての像を作ることである。

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「入門講義ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」🥕 ①

論考とはなんだったのか

 ウィトゲンシュタインは「前期」と「後期」に大きく分けられるが、そこには連続性がある。彼は哲学を治療として捉え、哲学的問題を問題としてしまうのは言語に対する誤解のせいだと診断する。哲学者たちはなにか意味のある議論をしているわけではなく、問題も答えもそもそもがナンセンスだというわけだ。

 論考という「哲学の書物」をどう理解するかについて、いろいろ解釈がされてきた。論考はいきなり、世界は成立していることがらの総体である、と始まるように形而上学的である。それは彼自身がナンセンスだと断じる対象なのだ。そこでたとえばピーター・ハッカーは『論考』が最後に「私の諸命題を葬り去る」ように書いていることから、こう結論づける。『論考』自身形而上学であり、捨て去る対象であり、最終的に放棄されることでこそ意味を持つのだと。放棄はされるが、ウィトゲンシュタインが生みだしたナンセンスは私たちに言語や世界についての本質に気づかせてくれるのだと。

 しかしそうするとナンセンスのなかにも啓発的なものと啓発的でないものの区別があることになってしまう。そこでコーラ・ダイアモンドやジェームズ・コナントは、『論考』というのはただのナンセンスで、別に啓発的なものでは特にないと主張した。『論考』はただのナンセンスであり、それを認めなければならないのだと。その代わり、この本はナンセンスを口にすることによって、これを読む者を反省させる、という。要するに反面教師みたいなもので、ウィトゲンシュタインの身をもってそれを演じていることになる。だがこう解釈すると、序文において「本書に現わされた思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」という言葉が理解できなくなってしまう。

 そこで著者が提起するのは「ガイド」役としての論考である

 ウィトゲンシュタインが問題としているのは、私たちがどうしてもナンセンスな哲学的問題を口にしてしまうことだ。本来ならば、そういうことを口にする奴がいるたびにそいつに注意をしてやるのが一番だ。それこそが””厳格に正しい哲学の方法””なのだ(6.53)。彼は論考において「命題の一般形式」を導き出し、この正しい哲学の方法を実践する道具を開発した………だからこそ『問題はその本質において最終的に解決された』という言葉に繋がる。

 論考は記号言語の研究だった。

 この解釈の難点は明らかに、論考が著者自身によって最後にナンセンスだと放棄される点である。しかしこの点は、この書物のナンセンスの扱われ方に注意すれば問題ない。啓発や反面教師の解釈が間違っていたのは、そもそも論考のなかにある「ナンセンス」には””あのほらけ””のようなまったくわけのわからないだけのものもあれば、ガイドとして機能するものもあるということだ。たとえば因果法則や倫理的言明が後者の例になる。因果法則は「ものごとには原因があるよ」というが、ウィトゲンシュタインの分析ではこれは命題の一般形式をもって記述できないナンセンスなものである。しかしそれは私たちを法則的説明へ促すガイドとなる。同様に、論考において書き綴られてきたことは、彼自身が生み出した命題の一般形式をもって記述できない。だがそれは単なるナンセンスではなく、記号言語へと読者をガイドする役割を持っている。

 

 誤解してはならないのは、ウィトゲンシュタインが「最強の記号言語を開発!」したと言っているわけではないということだ。論考自体は特定の記号言語を与えている訳ではなく、その作成は私たちに委ねられている。たとえば論考内において「対象」「名」という言葉が一体何を指し示すものなのか問題となることがある。対象というのは単純で存在し続けるものであり、名は必ず対象を表すもの………なのだが、もしウィトゲンシュタインという人物がケンブリッジのお偉いさんが捏造した人物なのだとすると常識的に対象とされている彼でさえ対象でなくなってしまう。

 ふつうのコミュニケーションにおいて、ウィトゲンシュタインはもちろん対象として名として扱われる。しかしひとたび「そいつって本当にいたんすか?」と言うやつが現れるやいなや、そういう取り扱いはできなくなる。この二つの対話場面における記号言語はウィトゲンシュタインという人物の分だけ異なったものになるだろう。つまり対話のたびに記号言語の作成に促される。

 

 

 

そこで彼は記号言語を精密に研究することで命題の一般形式を見つけ出すことにした。