にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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哲学

にんじんと読む「フッサール現象学の理路」🥕 第一章のみ

第一章 現象学の理念と方法 根本的に新たな始まりを求めるデカルトの指導理念は、デカルトにおいては主観へと転じられた哲学において達成されなければならない。なぜか。第一に、哲学の全面改革は個人の中に生じるしかないから。もし共同研究をしているにし…

にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第三章

第三章 基礎づけ主義から外在主義へ 基礎づけ主義者を打ちのめす五つの前提は次のようなものだった。 前提(1) 基礎的な経験的信念が存在するとする。 前提(2) 信念が認識論的に正当化されているためには、それが真であるとすべき何らかの理由がなければなら…

にんじんと読む「はじめてのスピノザ」🥕

コナトゥスと欲望 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。 はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) エチカ、第三部定理七 ここでいう「努力」をコナトゥスconatusといい、つまり「自分の存在を維…

にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第二章

第二章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ 【どの推論でいく?】 命題QがPから推論されるとき(P⇒Q)、演繹には三つの特徴がある。 真理保存性:前提が真なら結論も真 単調性:正しい推論にいくら前提をつけたしても真なものは真 情報量は増えない:…

にんじんと読む「知識の哲学」🥕 第一章

形而上学 …… 世界とはどんなふうにできているのか 認識論 …… 世界がどうあれ、私たちはそれを知り得るのか 第一章 なにが知識の哲学の課題だったのか 知っているとはどういうことか。これについて哲学はこういうふうに定義してきた:「それを信じており、そ…

にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第七章

第七章 スピノザの方法 『エチカ』における定義は、発生的定義(=対象の最近原因を含むことでその対象の発生を描き出す)とは異なり、名目上のものとなっている。たとえば『自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考え…

にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第六章

第六章 逆説の解決 〈これまでの復習〉 精神は道を進みながら何ごとかを知り、知ったことが次の知ることを手助けする。何ごとかを知っているかどうかを問う必要はなく、ただその道をいかにして見つけいかにして歩めばいいかを問えばよい。だがこのような方法…

にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第二章

第二章 方法の三つの形象Ⅱ 〈前回の復習〉 何ごとかを知っているということの正しさは、まさにその何ごとかを知っているということだけであって、その正しさをチェックする標識は無用である。真理に到達している人は真理に到達していることを知っている。到…

にんじんと読む「スピノザの方法」🥕 第一章

第一章 方法の三つの形象Ⅰ ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか。それともその暗闇のなかには道案内がいるのか。また道案内は可能か。 スピノザの方法 この問いに関わって、スピノザが「方法」について論じて…

(メモ)龍樹、空、言語批判

釈迦が「我っていうのは五蘊から成るんだよ」と言ったので、五蘊について熱心に研究し始めたのが、小乗仏教といわれる人たちだった。あんまり専門的になりすぎ、学問的になりすぎてしまい、やがて大乗仏教といわれる人たちに批判を食らう。それが『般若心経…

(メモ)輪廻思想の三型

インダス文明の栄えたのち、アーリア人たちが進出してきた。そこでできたのが『リグ・ヴェーダ』などの「聖典」である。ここに生じた階層制度に現代のカースト制の起源を見ることができるそうだが、仏教の基礎にある「輪廻転生」の考え方もアーリア人との混…

(メモ)梵我一如、無我

西洋と東洋の思想の違いは「光あれ」で分かたれるという(新編 東洋的な見方 (岩波文庫))。前者は「光あれ」から、後者は光が射す前も射程に置く。理論theoryのもととなったテオリアという言葉は、見るという動詞の名詞形であるが、東洋は真理探究のために…

にんじんと読む「〈つまずき〉のなかの哲学」🥕 第二章

第二章 ヴィトゲンシュタインの人生論 ヴィトゲンシュタインは〈謎〉を、次の形式を持つものであると言った。 私が答えとして受け入れたくなるようなことをしなさい。ただし、私自身はそれがどのようなものであるか知らないが。 おとぎ話に出てくる王様がお…

にんじんと読む「〈つまずき〉のなかの哲学」🥕 第一章

第一章 つまずきとしての〈謎〉を考える 哲学は、「幸福とは何か」など色々な問いをつづけてきたが、どうにもこの問いというのは、ちょっとふつうの問いと性質の違うものなのかもしれない。それは〈謎〉である。たとえばそれは、「ダンプカーがカーブで落と…

にんじんと読む「ささやかながら、徳について(アンドレ・コント=スポンヴィル)」🥕 1.礼儀正しさ

礼儀正しさ 礼儀正しさは、すべての徳の源である。だが徳の源であるからといって、それが徳であるとは限らない。このことを説明するために、個人の成長段階を追ってみよう。新生児には徳行は見られないしそんなことが問題になることはない。乳児でも変わらず…

にんじんと読む「ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ(ラッセル・B・グッドマン)」🥕 第三章

第二章 ウィトゲンシュタインと『宗教的経験の諸相』 略 第三章 ウィトゲンシュタインと『心理学原理』 ウィトゲンシュタインはジェイムズのことを幾度となく言及し、最晩年に至るまで彼を批判し続けている。だがだからといって、彼から何も学ばなかったわけ…

にんじんと読む「ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ(ラッセル・B・グッドマン)」🥕 第一章

第一章 プラグマティックな経験の諸相 ウィトゲンシュタインは、その生涯の最後の年にこう書いた――「つまり私は、まるでプラグマティズムのように聞こえることを言おうとしている。ここで私は、ある種の世界観(Weltanschauung)によって妨げられているのだ…

にんじんと読む「現象学ことはじめ」🥕 第一章 第二章

第一章 数えること いったい「なぜ」「何が」「どうなって」いるのか。事象の根拠、本質、構造。それは現実問題「何が必要か」「何が役に立つのか」にアプローチすることでもある。 何かを見ているということと、見えている何かは区別されなければならない。…

にんじんと読む「わたしは不思議の輪(ダグラス・ホフスタッター)」🥕 第七章まで

第七章 ズ~イ伴現象 シンボルは、シグナルを濾過して活性化する。これが結果的に、動物が密接に世界と関わることを可能にしている。成熟した人間は適切な場面で適切に反応することができるが、それは長年写し取って来た外界の現実性を整理してきた結果であ…

にんじんと読む「道徳の自然誌(マイケル・トマセロ)」🥕

同情と公平。これは協力における二つの形「利他的な援助」と「相利共生型の協同」の二つの違いを説明するものとされる。道徳性と呼ばれる協力形態においても無論である。そして同情とは道徳性において基礎的なものであり、血縁選択に基づく子への親の世話が…

にんじんと読む「わたしは不思議の輪(ダグラス・ホフスタッター)」🥕 ~第四章

第三章 パターンの因果的影響力 本書を読み進めるためには、思考する存在が複数の記述レベルで説明可能なこと、およびそのレベル間の相互関係がどのようなものかをはっきり理解する必要がある。 わたしは不思議の環 逆説的にすら聞こえるだろうが、ごく当た…

にんじんと読む「わたしは不思議の輪(ダグラス・ホフスタッター)」🥕 ~第二章

本書を通じて自分の考えが哲学者たちに伝わるのを望みはするが、哲学者のような書き方はするまいと思っている。わたしには、多くの哲学者は数学者と同じで、自分の正しさを実際に証明できると信じていて、そのために非常に厳密で専門的な言葉を多く用い、場…

にんじんと読む「徳倫理学について(ハーストハウス)」🥕 徳であるための客観的基準

徳であるための客観的基準 ある特定の性格特性が徳であるといえるための客観的基準は存在するのだろうか。徳倫理学を説明するためには「徳とは……」という、……の部分を補完しなければならない。それは義務論が、何を正しいルールとするかを決めなければならな…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第二章② ここまでで中断

誤解がないようにもう一度、はじめよう。第一章で見てきたのは『論理学研究』における現象学であった。しかし『イデーン』においてはより一層、心理学との差別を明確化させている。そこでは現象学はいかなる意味においても、「心理学」ではなくなる。 心理学…

にんじんと読む「徳倫理学について(ハーストハウス)」🥕 義務論、功利主義、徳倫理学

徳倫理学の位置づけ 行為功利主義者が「正しい行為」について記述するならば、《行為は、それが最善の結果をもたらす時、またその場合に限って、正しい》(p.39)となるだろう。功利主義者は正しい行為と最善の結果という二概念を結び付ける。そして次に《最善…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第二章①

第二章 現象学の展開 フッサールは「現象学は記述的心理学である」と書いている。これは第一章で見たように、論理学的認識一般の解明のために意識を研究するのだからこう呼ばれるのであるが、しかしそれはやはり通常の意味での心理学ではない。現象学は心理…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑦

さて、問題はこうだった。 心理的・実在的な存在者である我々が、いかにして理念的なものと関わりうるのか。 心理的なもの、それゆえ実在的なものと理念的なものとはどうして一種の内的統一を持ちうるのか。 理念的なものがどうして実在的なもののうちに現象…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑥

直観において対象が与えられること。この「与えられる」という現象的性格をフッサールは「所与性(Gegebenheit)」と名づけた。この概念は充実化の観点から理解されるべきものである。というのも、ある対象が与えられるというのは、ある志向に充実化が実現す…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章⑤

「雨が降っている」という文を理解するために、カーテンを開ける必要はなく、想像してみる必要すらない。ゆえに意味作用は知覚や想像といった直観的な表象作用とは区別されなければならない。だが、本質的ではないにせよ、実際に見て確認することはできる。…

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 第一章④

「雨が降っている」ということで雨が降っていることを意味し、またその文を読むことによって雨が降っていることを理解する。この意味し、理解するという体験もまた、雨が降っているという事態に方向づけられた志向的体験である。 紙の上に垂らされたインク自…