朝起きると親戚の訃報が届いていた。
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死すべき定め
他の親戚のときもそうでしたが、訃報に接したときに実感は湧きません。訃報が誤報であることなどほぼ無いわけで、亡くなったことは間違いない、間違いないけれどもどうにも亡くなった気がしない。というよりも、もし眼前で亡くなったとしてもそんな実感は湧かないものです。
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生物というのはどうやらいずれは死ぬようです。もちろん自分が超生物で不老不死だという可能性はありますが。こう書いているにんじんもいずれ死ぬのでしょう。Twitterとブログがピタリと止まったら死んだ合図です。
死んでしまうのは自分を乗せている体が劣化するからで「体というものはなんて不自由」と嘆きたくもなりますが、一方でそういう物質がなければ自由というものもありえないわけで、厄介でありながら、無いと何もできないみたいな、つらさがあります。エヴァンゲリオンの最終話は「おめでとう」で有名ですが、にんじんはむしろシンジくんが真っ白な空間に浮かんでいるところが印象に残っております。体がないとどうにもならん、地面がないと落ち着かない、『物質』というものはそういう存在としてあるようです。
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誰もいない廊下
ちょっと忘れものをして学校まで取りに行く。職員室で挨拶して教室まで走っているとき、橙色の光線が窓から射しこんできている、なんだか別のところみたいな気がする。いつもは気を付けている曲がり角を、いつものように気を付けて通ったけれどももちろん誰もいない。教室から見慣れた顔は現れない。がやがや騒ぐ声もない。教室ではただ整然と机だけが並んでいる。どうにも落ち着かない。忘れ物を携えて教室を出る頃には変に早足になっている。うしろに誰かのいる気がする。いるはずもないのに。
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椅子というのは座るものとしてある。誰もいない荒野で椅子を発見したとして、たぶん周りをきょろきょろ見回してしまいます。本棚があっても、本があっても。人工物というものの特性のようです。
たとえば今まで一度も行ったこともない建物に入る。ずっと先まで廊下が続いている。廊下があるんだから、そりゃ普通は通路として使われているはずで、なんとなく向こうから人の来ることを予期してかかっておるものです。もし一本しかない鍵を使って入った場所でも、どうも向こうから誰か来る気がしてならないみたいな、妙な気分になるもので。にんじんはそういう廊下を歩きながら幽霊の正体を発見したような感じが致しました。
しかもこのケースの場合「予期してかかっている」といっても、意識的なものでない場合がほとんどです。廊下の使用法を体得している者にとって、廊下におるという時点で無意識的に発生せざるを得ない一種の緊張ですね。シニフィアンというのでしょうか、「廊下」という言葉自体に引きずられている。どれだけ人のいないことが明白でも、いや、むしろ明白であればある分だけ、ふたつの差異も明白になって気味が悪くなってしまう。
死んだんだなという実感
お葬式というのは、もちろん故人は参加できません。遺体のままで参加というなら別ですが。宗教的意味合いで故人のためになると思ってやる場合であったり、ひとつのけじめとしてやる場合であったり、ともかくお葬式というのはやることになっております。にんじんとしては故人のためよりも、むしろ故人関係者のためのものだと思ってきました。死んだ人に何かしてあげることなどできません。もしなんらかの反応があるなら、その人を死んだとは言わないでしょうし、反応がないならしてあげたかどうかもわからないですしね。
お葬式をひとつの節目であり、終わりだと思ってきました。ですがこの頃はむしろ「葬式以後」を考えることが多くなりました。その人が亡くなったことを明確に知り、その影響を受けていく最初の儀式だからです。
たとえばオフィスに行く。いつもならその人がいて「おいす」と言う。けれどももうおらんわけで、誰も挨拶などしてはくれません。たとえばその人の家に行く。こっちは葬式の後でもその人がいると無意識に予期してかかっていくわけですが、当然死んでいるのでいません。しかし家にはまだ遺品が残っている。確実に「いる」痕跡はあるのに事実としては亡くなって、そこにはいない。そういうギャップを少しずつ埋めていき、いないことが当たり前だという習慣に変えていく作業が葬式の時点から始まるのです。
最初はアレッと思い「あぁそういえばそうだった」となるのでしょう。
そう見てみると、なんだか「あの世」に行ったのがどっちだかわからない。
向こうが逝ったんだけれども、こっちも違う世界に来たような気がする。
これからは「〇〇は走る」という言葉の〇〇にその人を入れたらテストしなくてもすべて偽になるのです。
家にその人の車はある。
そんじゃあ家にいるだろう。
いや、死んだからいないんだよ。
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その後・・・
陥穽
本当に書くこともないぐらいで、しばらく記事編集画面の前でぼうっとしていたんですけども「つらいですなあこの世は」と思うばかりです。特に今回の場合は「あぁそろそろ覚悟しておいたほうがいいかもしれないな」とかそういうのが一切なく、突然のもので絶対に死にそうにない人が死んだので、生物である以上死なざるを得ないということが突き付けられたような気がします。
これはブログであって独り言ではないので簡略に事情をご説明しますと、
- 親戚一番といってもいいぐらい元気な人がいた。
- 病院に行ったことが全くないほど健康体。病気なし。
- 仕事から帰ってきてモリモリご飯を食べて「寝るわ」と普通に部屋へ。
- 死亡
ということでですね、本来は最も「死」から遠いような人だったわけです。数年先の話までしていたぐらいで、やりたいこともそれこそ腐るほどあったと思うのですが、死んでしまった。人間は死ぬんだな、それも別に70とか80とかになるまで年をとらなくても。そんなことを再認識した途端にですね、とても恐ろしくなってですね、それ以来ずっと震えております。
マジで頭が痛い
— 厭世にんじん🥕 (@carro_lanthanum) 2018年11月6日
頭痛ひとつとっても「あれ? これ死ぬんじゃね?」と考える始末。自転車でどこかに出掛けようとしても「いや、転倒して死ぬのでは」とおもったり。それで行動不能になるほど精神的に来てはおらんのですが、そういうことばかり考えてしまう。最初は「交通事故だろうな」と思ったのですが、違うんですよ。「ウッ」で死亡ですわ。正直今でも頭が回っていません。仕事行きたくないなとばかり思っています、まぁそれはいつものことですが。
「死」に関する本を挙げます。
- 作者: シャーウィン・B.ヌーランド,Sherwin B. Nuland,鈴木主税
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- 作者: ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ,仲澤紀雄
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追記
にんじんはいま「いたみ」というものに興味を持っています。
殴られて痛い、頭痛がする、胃が痛い、いやなことを考えて胸がずきりといたむ。全部いやですね。けれども一方でドMな人は痛みを快感に思うことがある。でもいくらドMといったって癌になって全身が強烈に痛むことを望むことはないでしょう。
にんじんが痛いのが嫌です。たぶんみんなそうだと思うのですが、他の人のことはわからない、好きな人もいるかもしれない。ドMだけじゃなくて、痛いのを我慢してピアスつけたり、タトゥーを彫ったり、『蛇にピアス』みたいなこともある。
痛みというのは不愉快なもんです。不愉快だから避けようとする。
どうもにんじんは「死」というものに「いたみ」というものを関連付けて考えるきらいがある。そこで巷では痛まずに死ぬ方法とか、眠るようにして死ぬ方法とか、そういう本が出回る。痛みは「わたしの死」への恐怖に関連しているのは間違いなさそうです。