自己啓発とは何か
自己啓発(じこけいはつ)とは、自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。「より高い能力」、「より大きい成功」、「より充実した生き方」、「より優れた人格」などの獲得を目指す。
仕事に関する知識,技能,経験などを他律的な形式に支配されずに自主的に向上,啓発していくこと。
言葉を見ると、別にいささかも否定するべきところはない。「自己を人間としてより高い段階へ」というあたりに宗教的な臭いがするが、そっちのビジネスは抜きにすれば、より良くなろうとするのは悪いこととは思えない。自己啓発に興味がない人も、日々自らのスキルを高める活動はしているだろう。
「自己啓発病」社会 という本では日本に氾濫する自己啓発に疑問を付している。問題はどういう点で疑問なのか、だ。著者の宮崎学さんが違和感を懐いているというのは、自己啓発ブームの中心にある「差別化」という言葉だそうである。
この言葉を私なりに解釈すると――他人と同じことをしていては競争に勝てない。だから他人と違うところが人にわかるように努力しなくてはいけない。もっとはっきり言うと、地位と財を得る競争に勝つためには他人を蹴落としてでも前に進め、というのが、この「差別化」の意味するところだ。そして、そのために「自己啓発」に励み、他人より優位に立つためのスキルを身につけろ、というものなのである。
この本の基本的な主張は、サミュエルスマイルズ「自助論」のよく知られた翻訳が、実は全訳ではないということが書かれた第二章によく表れていると思う。
大学
察するに、いわゆる自己啓発の問題点は「利己主義と個人主義をはき違えている」部分にある。利得の最大化を目指す、他人を蹴落としてでも、という競争。見られるのは結果のみ、失敗したら自己責任という窮屈さ。たぶん、「上へ上へ」という思想は向上心ではなくて、恐怖心から来る防衛になっている。
結果じゃなくて過程を見ろ、というようなこととも違う。競争なんてよくないですということでもない。それはそれで一つのはき違えだと思う。この点を理解していただくために、にんじんなりの言葉で説明すればそれは「本末転倒」ということになる。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。
其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。
其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは、物を格すに在り。
物を格して后知至る。
知至りて后意誠なり。
意誠にして后心正し。
心正して后身修まる。
身修まりて后家齊う。
家齊いて后國治まる。
國治まりて后天下平らかなり。
なんだ古めかしい、と思われるかもしれないが「大学」という本に上のような言葉ある。天下平らかのために国を治め、国を治めるために家、自分とくる。
ここには天下→国→家→自分という流れがある。
本と末を違えることを、「本末転倒」と呼ぶ。
自己啓発ブームによって目指されるのはまず何よりも自分であって、世の中や国、家族など、その他のことは手段に過ぎなくなっている。自分の利得を高めない他人は大目的にとっては不必要である。
それが著者のいう「自己啓発病」の言いたいことだろう、とにんじんは思う。というのも、こう考えると本のよくわからないところが少し読めるようになるからだ。
はっきり言って「自己啓発病」社会という本には冒頭からわけのわからない記述がある。最初の引用に続けて、こう来るのである。
「差別化」が、つまり「自由競争」が貫徹した社会が、殺人事件の50パーセントにおよぶ親族殺人を生んだのだ。
最初読んだときは何を根拠に言ってるんだかわけがわからなかったが、本末転倒という文脈で読めば理解できる。本と末が逆になっているから、一番身近な仲間のことでさえもおざなりになっている、ということだ*1。
競争はいけないとか、そういう話ではない。
「自分しか見えていないんじゃない?」というちょっとした警告だと読める。
たしかに思い返してみると、そんな気がする。自分は「めんどくさいから」といってやってやらないことを、他人にはするように要求したことがないだろうか。しかも、もっともらしい理屈をつけて。
学問を身に着けても、自分のわがままを通すためにしか使えないようなら、何の価値もない。屁理屈がこねられるようになっただけだ。このブログでは何回も引用しているからもうやめておくけれど、哲学者のウィトゲンシュタインも友人のマルコムに宛ててそんな手紙を書いている。マルコムは哲学というものを学びながらも、言葉を不適切に扱い、『国民性』に関わる理屈をこねた。「お前は今まで何を学んでいたんだ?」というウィトゲンシュタインの叱責である。
みんなのため?
ではすべてはみんなのためか。
利他主義をすすめているわけではない。アリのように働けということでもない。我々は人類という一個の生物であるから、細胞たる個人は全体に奉仕すればいい、ということではない。
今までの
論旨 をかい摘 んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂 げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴 う責任を重 じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍 云い換 えると、この三者を自由に享 け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他 を妨害する、権力を用いようとすると、濫用 に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈 するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。
スパイダーマンにもありますが「大いなる力には大いなる責任が伴う」。
その責任というのは自分以外のほかの人たちに対する責任だ。「(スキル)アップ!」には、そうした視点が欠けているのかもしれない。
<にんじんが好きな夏目漱石の朗読>