にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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原稿用紙一枚・日記 #1~#10まで

ピアノ発表会の比喩(人間関係の完璧主義) #1

 

にんじんは昔、友達と「完璧主義」について話したことがあります。

「完璧主義というのは何事も完璧にこなそうとするのは良いけれども、もちろん完璧になどできない。だから成功ということが起こらない。それで全部嫌になる。完璧主義なのに完璧とは真逆の結果になる。これは人付き合いにも害があって、ある反応に対して正しい反応があるという幻覚を見ているから、誰と話すにもまるで試験されているみたいな気持ちになる。人と話す前はピアノの発表会の直前に似ている。ただ楽譜のことだけを考えて、客席のほうなど見ない。ただ楽譜が追えたか、キチンとできたか、ばかり見る。踏み外したたった一音のことをいつまでも悔やんでいる。けれどもあるときふと客席を見てみて初めて気づく。誰も演奏を聞かず、ジャン! と音が鳴れば機械的に拍手している。完璧主義ほど馬鹿馬鹿しいものはない」

 

性格は状況によって変わる #2

 その人は大体どんな人かというのを、まぁ大体「性格」と呼ぶ。筋肉質な人はこんな人、みたいなのを類型論、ビッグファイブみたいなのを特性論と呼ぶわけだけれど、この頃は性格というものが状況に応じて変わるものだということがはっきりしてきたらしい。性格の人称性である。一人称的性格はいわば自己像、二人称は関係の中で生まれるもの。恋人なんか思い浮かべよう。で、三人称はそこでの役割といっていい。要するに人は状況に応じて性格を変えている。しかも、役割は人を変えるというように、それぞれは相互に作用しあっている。もはや彼はどんな人だという簡単なことを言うにもいくらかの注釈が必要になったわけだ。ややこしいことだ。

 

 男と女の脳の違い #3

 男女平等という声が盛んだからこういうタイトルはある種の人々を刺激する。けれども注意しなければならないのは、これから述べるのは統計的な違いであって、個々人がどうとかいう話ではない。詳しくは下の本を参照。

 男性・女性は統計的に見て、それぞれシステム化・共感が優位であるらしい。システム化というのは分析とかそういうやつで、共感は相手の立場に立って考えることだそうだ。なんというか概ね「男性的」「女性的」なイメージと重なっている。とはいえ、男性がみんな人の気持ちがわからん頭脳明晰なやつなわけではないし、女性がみんな理屈を知らぬ聖女なわけではない。両方の能力が欠如してそうなやつはどちらの性別であろうがきっと一人は思いつくことだろう。しかしながら一応男を見かけたら理屈が好きで、女を見かけたら共感能力があると思うほうが当たる確率が高いのはたしからしい。まぁ、「所詮確率でしょ」という感じも否めないが。

 

 時間は巻き戻らない #4

 夢を見た。叔父家族が家に訪ねてきた。叔父が「うまい飯があるけどお前食べにいくか」と訊くからただうんうんと頷く。叔母も従妹も叔父が話すのを受けて、楽し気に言葉を返したりする。にんじんはその光景に、途中から泣いていた――どうしてって、叔父は数か月前に死んだはずだからだ。口数の多い人だった。彼が死んだせいで今年の正月は静かだった。「お前なんで泣いてんの」と叔父が言うと、叔母も従妹もまったく不思議そうに顔を覗き込んでくる。にんじんは「なんでもない」といって、ともかくその場を離れた。「なんで生きてるんだ」とはとうとう最後まで言わなかった。にんじんが気が付くと、いつもの自分の寝床にいた、あれは夢だったのだ。起き上がって、歯を磨く。そのときに思った。時間は巻き戻らない。仮に巻き戻っても、きっと命だけは置き去りにする。

 

 カテゴリーミステイク #5

 私たちは相手の心を推測する。相手が怒っているのを見て、怒りっぽい人なのだと思う。こういうのを属性推論と呼ぶらしい。議論はあるようだが、相手が怒っているという同定から、怒りっぽいという帰属の連鎖はほとんど自動的に行われるのだそうだ。相手が今特別な状況にあるとは考えないのである。ところで相手が子どものとき、私たちは相手を「子ども」というカテゴリーに属すものとして見る。これも属性推論と似たようなものである。これの特徴はカテゴリー間の区別は重視しても、カテゴリー内では扱いに差がないことだ。そうするとカテゴリーの数はやはり多いほうがいい。

 他人に対して「敵」と「味方」しか語彙がない人は、きっと世の中のほとんどが敵に見えるに違いない。学ぶことの意義は、ひとつ、ここにもあるのだろう。

 

 ドラマで学ぶコミュニケーション #6

 最近海外ドラマを見ている。彼らを見ていると面白いのは、とんでもない行動を平気でとること。敵地でセックスするのなんて「なにをしてんの?」としか言えないし、それは百歩譲って認める(?)にしても、敵のいる場所に入り込んで何かを発見しても、彼らは仲間にそのことを伝えもせずに一人で勝手に行動する。「ちょっとは相談してくれる?」と思わずしゃべりかけそうになるんだから、なかなか臨場感のあるいいドラマである。その他にもいろいろあるが「何をそんな」「なんで怒ってんだよ」「大丈夫かコイツ」と感じることは多い。それでは翻って、自分の生活はどうだろう。他人と話すとき「こんなこと言っていいのか」と気にして、声が出ないとする。そんな自分のドラマを見た自分は言うことだろう。「さっさと言えよ」

 ドラマを見ると、短期間ながらも対人能力に良い影響があるという実験もあるらしい。

 

 学校で繋がれた鎖 #7

   偏差値を上げるための基本的な姿勢を述べよう。受験生諸君はきっと何度も聞いていることだろう。それは「とった点数よりも、間違えたところに注目すること」である。テストで98点とろうが喜んではいけない。何故ならひとつ間違えているからだ。テストには「ダメ」か「百点満点」しかない。そして良い大学に入り、社会に近づくにつれ、何の意味もなかったことを知るだろう。「誰も100点なんて求めてない」まぁ大体6割ぐらいできれば普通。ちょっとできなくて笑ってるぐらいは愛嬌だ。「間違えないでね」そんな風に言われることもあるかもしれない。でもそう言ってる人も間違える。みんなほどほどを知っている。でも既に誰かの脳は「ダメだ」と囁く声を聞いているかもしれない。「60点とれりゃ上出来だ」と、誰も教えてくれなかった。言ったのは二つだけ。「もっと上へ」「そのままの高さを保て」

 

 

 なやみ #8

 

 初期ステータスを攻撃力にガン振りすると「守備力が心配で。やっぱ守備力があるほうが有利だわ」と悟る。実は守備力にガン振りしたら攻撃力に憧れるのだが、自分の状態を重視してしまうものだから、ちょっと気づきづらい。ところが両方にバランス振りすると今度は特技がないと言って悩むことになる。八方ふさがりである。

 レベルが上がると、全体的にステータスが上がる。それでレベル1守備力ガン振りのやつに追いつくのだけど、スライム相手ならともかく、敵も強くなっているし、やっぱり守備力は欲しいと思う。数値の大小なんてあくまで相対的なものだから、たとえステータスをあげても、なんか不満が残る。そこで自然な流れとして「自分の強みを生かそうよ」という論調が出てくる。なるほどもっともなことと思う。

 

 

 下限幻想 #9

 

 昔は真賀田四季に憧れた。すべてがFになるに登場する、天才博士である。すべてを見通すような発言は本当にかっこよかった。達観した意見は常識はずれだった。ところが時を経るにつれ、そんな人間は実在しないことを理解した。みんなそうだろう。

 ところが下限については存在が広く認められている。要するに、能力というものを一切感じないような存在である。時にはそれを自分自身に当てはめて、生きる価値ないわなぁと言う人もいる。価値なんて主観的だからそういうなら構わないのだが、普通は一定のプライドがあるので「但し、あいつよりはマシだけど」を言う可能性を残しておこうとするものだ。話を聞いてみるとまだけっこうその人の下に人がいたりする。「自分より上だ」と思っていて、かつ面識がある人はきわめてまれだ。いつのまにか世界のうちで五本の指ぐらいには入っている。悲観的なはずが、たいへん楽天的である。

 

 モテる #10

 

 モテるための本は結構出ているし、モテたいというパオン(男)も結構いる。にんじんは長年いまいちその気持ちを理解しかねていたが、この頃はちょっとわかるようになってきた。モテているという状態になると、向こうがこっちを好いてくれるらしい。「惚れたほうが負けなのよ」理論で行けば、勝ちまくりである。なるほどモテたいわけだ。

 ところが「万人受けはないよ原理」を適用すると、いかなるモテ体質でも統計的に優位ぐらいで満足することになる。記録でも取ってない限り自分がモテかどうかわからないし、しかも嫌ってくる人もいるわけだからなお不安になる。そこで違うタイプのモテ本がでて、そんな不安を持った人々を啓発する。時代によっても改訂が必要だろう。なるほどモテ本が溢れるわけだとまた納得する。マナー講師と同じでモテ講師にでもなれば、仕事はなくならないかもしれない。