この瞬間、あなたは欲望を経験している。さもなければこの本を開いて、書かれている文字を追っているはずはない。
このように言うとき、欲望とは行動の原因としてある。欲望を生み出すものは生物学的なシステムであろう。「欲望生成システム→欲望→行動」というモデルは極めて自然な考え方であって、多分このモデルをもってモチベーションに関わる心理学の本を見ても困ることはほとんどないだろう。
ただし欲望の源泉は脳に求められ、そのうち「脳がわれわれを操っている」という言説に出会う。欲望という語彙は必要ではなくなるのである。脳が直接に行動を誘発するから、途中に欲望などという不可解なものを想定せずに済む。しかしそうすると、やはり自然に「われわれには自由などない」と言いたくなる。われわれは機械なのだろうか?

- 作者: ウィリアム・B.アーヴァイン,William B. Irvine,竹内和世
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: 単行本
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ポイントが溜まったので交換してもらおうとしたとする。商店へ行くためには自転車を走らせなければならない。……このとき、ポイント交換という欲望のために形成される自転車に乗ろうとする欲望を「インストルメンタル欲望」と呼ぶ。
論理的にいって、欲望のすべてがインストルメンタル欲望であることはありえない。われわれは最終的な欲望にたどりつく。それを「ターミナル欲望」と呼ぶ。ターミナル欲望はヘドニックとノンヘドニックに分けられる。
ヘドニックとは、快を得ようとするもの&不快を避けようとするものである。
ノンヘドニックとはただそうしたいがために形成したものである。これといった動機がないものである。
- この定義を聞いただけでいくつか疑問が浮かぶ。インストルメンタル欲望だけでないことは論理的に明らか(もしそうでなければ、欲望の鎖は永遠に終わらない)だとしても、何かをターミナル欲望だと確定するのは困難である。たとえばいまあなたがこの記事を読んでいるのはどの種類の欲望だろうか。
- 第二に、それがヘドニックなのか、ノンヘドニックなのか確定するのは困難である。というか、そもそもノンヘドニック欲望なるものが存在しているのかさえよくわからない。「はいどうぞ、ノンヘドニック欲望形成して」と言われて形成することはあり得ないし、何気なくペン回しをしたとして、それがノンヘドニック欲望かはわからない。その人がペン回しをとてもカッコイイ行為だと思っており、特定の異性がいる場合にのみペン回しをしていることもありうる。
あくまでこの分類は理論的なものであって、われわれの欲望をこれらの引き出しの中にすべてしまい込むのは不可能である。上記のペン回しの例のように、それがペン回しそのもののためなのか、それとも異性のためのものなのかは永久にはっきりしない。たとえば実はそれが将来的に「無意識に体が指を運動させ、病気を予防していた」と発覚することもありうる。それそのものの場合はノンヘドニック・ターミナルで、異性のための場合はインストルメンタルで、最後の例はヘドニック・ターミナル欲望である。
欲望の源泉
欲望の源泉として「情動」と「知性」のふたつが挙げられている。
情動はターミナル欲望を形成し、知性は主にインストルメンタル欲望を形成するがターミナル欲望が作れないわけではない。しかし知性が形成するターミナル欲望のモチベーションは情動に比べてはるかに小さい。
情動と知性はぶつかることもある。拒否権を持つのは情動のほうである。
たとえば私の知性が、飛行機で大陸を横断したいと思ったとする。それが一番安全で、一番便利な方法だからだ。だが、もし私に飛行機への恐怖があるならば、私の情動は反対するだろう。そしてその反対が十分に強ければ、飛行機に乗りこむことさえできなくなるだろう。
リベットの実験:われわれに自由意志はない?
われわれは情動の奴隷だろうか。
神経科学者のベンジャミン・リベットが被験者に装置を取り付けた。それは脳内の電気活動を検知するための装置だった。彼は被験者に手首を動かしてくれと指示した。いつ手首を動かすかは被験者自身が決める。
手首を動かそうという決定は当然、手首の実際の動きよりも前になされるはずである。実験でもやはりそうなった。しかし驚くべきことに、被験者が手首を動かそうと意識的に気づいた時点より前に、脳の中で活動が高まるのが検知されたのである!
リベットはこのことから、
自発的な行為の第一歩は脳のなかで無意識に始まると思われる――本人が行動したいと思っていることを知るよりずっと前に!
と言っている。
われわれは自由をあきらめるべきだろうか。結局のところそれは幻想であってビッグバンの時点からすべては連鎖的に決まっているのだろうか。あなたがこの記事を自由意志で読んでいると思っているが、これまでの人生であるとか歴史のすべてが、いわばこの記事を読むための「伏線」だったのだろうか?
にんじんはまったくそうは思わないし、脳がすべてを決めるとは思っていない。この実験のポイントは「手首を動かそう!」と意識しているという部分である。「意図することと、意図を意識することは別のことである」(それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門)。被験者は自分の意図を意識したのであって(心の中でのひとりごと?)、意図を意識した瞬間が、意図した瞬間ではないだろう。よし歩こうといくら言ってみたところで、歩かないこともできる。
※意図を意識する、というのもよくわからないし、意図することに明確なはじまりがあるかどうかもわからない。