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〈行為〉の哲学 モデルのひとつ

〈行為〉の意味を求めて

 「手をあげる」と「手があがる」の違いは何か?

 機械によって無理やりに手を持ち上げられる場合と、いわばフツウに手をあげる場合は一体何が違うのだろう。このように〈行為〉という言葉の意味を明らかにしようという哲学の分野を行為論と呼ぶ。そうして一般には、この違いには〈意志〉という言葉が用いられる。先ほど「フツウに」という言葉を使ったが、これは意志という言葉を避けるためである。こういう妙な言い回しをしないといけないぐらい、意志というのはわれわれにとって当たり前のものである。

 だから〈行為〉の意味を明らかにしようとするとき、〈意志〉を調べることなしには済まない。結局のところ、〈意志〉とはなんなのだろうか。

 

〈意志〉の分析

 われわれが普通、次のような順序を想定する。:

 「手をあげる意志をもつ」→「手をあげる」

 つまり、意志とは行為を生起する原因として取り扱われる。

 

 しかし一方で、意志を持ったからといって行為が起きるとは限らないという奇妙な性質がある。たとえばトップアイドルになろうと思っても普通はなれないし、ペコポンを侵略してやろうと思っても侵略できない。クラスの学級委員になろうとしてもそううまくいくとは限らない。

 このように考えてきたとき、「~しよう」「~したい」という二つの意志の姿を見る。それぞれを意図欲求と呼んだ時、二つはまったく同じことなのだろうか。もちろん違う。矛盾した欲求を持つことはできるが、矛盾した意図を持つことは不可能である。

 たとえば私が、「今日のお昼はカツ丼を食べようと思っているし、それからカレーも食べようと思っている。どちらかしか食べることはできないんだけどね」と言ったとしよう。これを聞いた人は私が何を言っているのか意味が解らないだろう。

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

 そしてもちろん、意図をもったからといって、欲求を持ったからといってそれが行為を引き起こすわけではない。自転車に乗ろうという意図を持っても、駐輪場に入ってみたら盗まれている場合もありうる。

 先ほどから特殊な状況が意図を阻んでいるが、逆に言えば、そのような状況だとわかっていれば人はそのような意図を持たないということでもありうる。駐輪場の自転車が盗まれたことを電話連絡された人は自転車に乗りに駐輪場になど行かないだろう。つまり「自転車がある」ことを信じているのでなければ、自転車に乗る意図は持たない。これを信念と呼べば、信念は意図を持つために必要なものである。

 

 意図、欲求、信念の三つによって、意志というものが少し細かく分析されたことになる。

  1.  (手はあげられる)、手をあげたくないが、あげよう
  2.  (手はあげられる)、手をあげたくて、あげよう
  3.  手をあげられるが、あげたくないし、あげない
  4.  手をあげられるし、あげたいが、あげない
  5.  手をあげられないし、あげたいが、あげない

 

 手をあげること と 手があがる ことの違いは〈意志〉の違いであった。そうしてそれはもっと詳しく言えば、〈意図〉といえた。

 

意志の問題点

 行為とは何か。意志が原因になるような出来事のことですね。

 

 しかし〈意志〉の分析を済ませても、結局のところいまだに〈意志〉がなにやらわからない。たとえば「自転車に乗ろう」と意志するとはどういうことなのだろうか。何をすることなのか。また、たとえそれが何をすることであろうとも、意志することを意志する必要が出てくるのではないか?

 そこで、そもそもこのモデル自体が疑われることになる。つまり「〈意志〉を持ち、行為する」というモデルである。行為の原因は、〈意志〉などというなんだかよくわからないわれわれの内側のはたらきなのだろうか。