キリギリスの哲学
以前紹介した本をにんじんと一緒に読んでいく記事です。
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com
- キリギリスの哲学
- ゲームとはなにか?
- 批判1:前提的目標を特定することなどできないケースが存在する。
- 反論1:「ゲーム」と「ゲームの制度」
- 批判2:到底ゲームとはいえない例が存在する。
- 反論2:効率性についての定義
- 批判3:ルールのないゲームが存在する。
- 反論3:それは反例になっていない
- 批判4:非競争的なゲームが存在するため、反論3は不十分である。
- 反論4:「原理的な制限」による反駁
- 批判5:おままごとはゲームではないのか?
- 反論5:「オープンゲーム」「クローズドゲーム」
- 批判6:プロフェッショナルはゲームをプレイしていないのか?
- 反論6:ゲームが何であるかは動機とは独立している。
- 概観の終わり
- 論文「〈人生〉がゲームであるという可能性について」
- にんじん〈人生〉ゲーム
- 〈人生〉ゲームまとめ
ゲームとはなにか?
ゲームとは、
ルールの認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)。
のことである。一言でいえば、「不必要な障害物を自ら望んで克服しようとする試み」である。[第3章:定義の構築]
- 前提的目標とは、達成可能なある特定の事態であって、ゲームとは独立に記述されうるもののこと。これに対して、たとえば「勝利する」ことは、内部的目標といわれる。内部的目標は前提的目標を前提としているし、ゲームから独立に記述されない。
- ゲーム内部的手段とは、前提的目標を達成する試みにおいてルールに認められている手段のこと。
- 構成的ルールとは、前提的目標の特定と相まって、当のゲームのプレイにあたって満たされるべきあらゆる条件のことである。ボクシングはあるカウント数だけ相手を床に倒れさせることが目標であるが、その最も確実な手段は殺害することである。しかし、それは禁じられている。これに対して、ゲームをうまくプレイするためのルールを技能ルールと呼ぶ。ボールから目を離さないことはサッカーにおいて重要なことだが、構成的ルールではない。構成的ルールを破ることはゲームプレイに完全に失敗することを意味する。技能ルールを破ることはたしかにプレイを不便にはするが、失敗はしない。ボールから目を離して、味方を見ることだってあるだろう。構成的ルール=前提的目標に到達するうえで最も効率的な手段の使用を禁じるルール。
- ゲーム内部的態度とは、構成的ルールを受け入れることで可能になる活動を成立させるためだけに構成的ルールを受け入れることである。目標を達するためにまっすぐバイクで進めばいいものを、徒競走というゲームではわざわざ屈折した道を走らせる。そしてそうした非効率性をプレイヤーは受け入れている! この態度はゲームの定義にとって基本的である。
批判1:前提的目標を特定することなどできないケースが存在する。
- チェックメイトを、チェスのルール抜きでどういう状態のことだと説明する?
前提的目標はゲームから独立して記述できるはずなのに、チェックメイトはどうしたってチェスというゲーム抜きには記述できないのではないか。
反論1:「ゲーム」と「ゲームの制度」
次の三種類のプレイヤーについて考える。
- チェックメイトする気がまったくない。ルールには完璧に従っているが、チェックメイトにまったく向かう気がない疑似プレイヤー。 → 前提的目標を達成しようという気がまったくなく、ゲームをプレイしていない。
- チェックメイトしようとしてルールを破って来るプレイヤー。 → 前提的目標を達成する気はある。ただし、ルールを破っているのでゲームをプレイしていない。しかし、そのインチキはルールが守られていると期待しているからこそ手を出すもので、彼はゲームを放棄しても、ゲームの制度は放棄していない。ゲームの制度を踏まえて行動し続けることで、相手を出し抜こうとしている。
- ルールも目標もどっちも認めない荒らし屋。苦労の末チェックメイトしても「まだ私のキングは動けますよ」といって駒を空中で振ってみたりする。彼はゲームも、ゲームの制度も放棄している。
すなわち、チェックメイトの駒の配置が示され、それがなるほど前提的目標として「ふさわしい」と誰もが納得するのは、あの駒はこの方向にしか進めませんといったようなゲームの制度を参照しているからである。
繰り返すと、
🥕
たとえばチェックメイトはどうやって記述するの?
🐳
これがチェックメイトだと、駒を並べてみることによってだよ。
🥕
でもそれがチェックメイトなのはゲームのルールですよね。
🐳
違うよ。 駒の配置自体は実際に置いてみることができるでしょ。たとえば子どもが適当に並べた駒がその形になっていることは物理的に十分あり得ることだよね。でも子どもはチェスをプレイしていないよね。
🥕
でもどうしてチェックメイトの駒の配置を示されて、それがわかるの?
🐳
「ゲームの制度」を参照しているからだよ。駒の動きだね。
🥕
ゲームの制度は、ゲームの定義にはなかったようだけど?
🐳
徒競走にはゲームの制度がないよね(明確に必要とされてない)。速度を上げるとか、追い越すとか、そういうのはゲーム自体から離れて存在しているよね。走り方を知らない人はまず徒競走ができないでしょ。でもチェスをする人は駒の動きをチェスで知らないといけないよね。
ゲームにも制度がはっきりある場合とない場合があるから、定義にとっては本質的ではないんだよ。
前提的目標はゲームとは独立して記述できるが、
制度から独立しているとは限らない。
批判2:到底ゲームとはいえない例が存在する。
🥕さんのおうちから🐳さんのおうちには2つの道があります。
🥕 < じゃあ僕は遠い方から帰るよ。
- 遠いほうから帰ることがゲームだとはとても思えないし、我々は普通そんなものをゲームとは呼ばない。よって、ゲームの定義が広すぎる。
反論2:効率性についての定義
- 結論:遠回りして家に帰るのはゲームではない。
しかし明らかに遠いほうから帰るのは定義に合致しているように思われる。前提的目標は家に帰ることであるし、遠回りすることは近道をするという最も効率的な手段を排除しているからである。
- 効率性について子細に見ておく必要がある。
効率性とは、所与の目標を達成するのに必要な、限られた資源の支出が最小限であること。すると、遠回りした人物はどのような限られた資源の支出を多くした(=非効率)のだろうか。帰りつく時間か、靴底か。様々な場合がありうるだろう。たとえば徒競走の場合、限られた資源は時間である。数百メートル先に行きつくのにわざわざ走るなんて、自転車に比べたら非効率である。
よって先ほどの例はゲームと判じるに足る情報がない。
逆に言えば、限られたものが示されれば遠回りすることもゲームになりうる。
もしも彼にとって時間が限られているとしよう。夕飯までには帰りたい。そうすると遠回りすることは確かに近道するよりも非効率であるといえる。
批判3:ルールのないゲームが存在する。
🥕
なんか人生飽きたな。
🍎
ゲームやろうよ。気晴らしにさ
🥕
いいけど、俺は面倒なルールは嫌いなのさ。効率性isGOD
🍎
それならいいゲームがあるよ。殺し合うこと。
🥕
なるほど。それじゃあ明日の朝からね。
🥕さんと🍎さんは互いが死ぬまで闘うことにしました。
これはルールのないゲームではないか?
それぞれのプレイヤーはそれぞれの人生に飽きてしまい、ゲームで気晴らしをしていた。でも前提的目標をクリアするために非効率的な手段をとるなど考えられぬことだった。だれがA地点からB地点まで行く目標を掲げながら、バイクで行くことを選ばないだろう。非効率性を避ける唯一のゲーム。それは相手が死ぬまで闘うこと。
このゲームには効率的な手段を制限するいかなるルールも存在しないように見える。なぜならどんな手段を使っても、相手を殺しさえすればいいのだから!
反論3:それは反例になっていない
- 開始時間より前には殺さない、というルールがある。
一方が一方をゲーム開始時間より前に殺せば、ゲームをプレイしたことにはならない。これがゲームになるためには、相手にも競ってもらわなければ困る。すなわち、相手も自分を殺せる状況で相手を殺せなければ意味がない。
開始時間を設けることは非効率的である。合意した瞬間に殺せばよかったのに、わざわざ開始時間まで指定してやるのだから。
ゆえに、あらゆる競争的ゲームには少なくともひとつこのような構成的ルールが存在する。
批判4:非競争的なゲームが存在するため、反論3は不十分である。
単独での登山は非競争的なゲームであって、また、効率的な手段を禁じるルールなど存在しない。登山をゲームだと認めないつもりなら別だが。
反論4:「原理的な制限」による反駁
- 登山はゲームであり、批判4は反駁できる。
- 「原理的な制限」をもつゲームがある。
原理的な制限は次の言葉で十分説明していると思われる。
🥕
いやあ、昨日はキャロランタン山に登ってきましたよ。
頂上の景色は最高でね。
🐳
ああ、私も昨日ヘリで行って見たわ
しかし実際、エヴェレストに登るためにヘリを使うことはできない(とする)。そうした現実的な点でみれば、エヴェレスト登頂者は最も効率的な手段を使ったことになる。そのように依然として主張することができるだろう。
だが「行くことができる」としても、挑戦者たちはヘリで行こうとはしないだろう。
批判5:おままごとはゲームではないのか?
先述の定義はいわば「目標支配型ゲーム」であって、「役割支配型ゲーム」とでも呼ぶべきごっこ遊びには適用できない。
反論5:「オープンゲーム」「クローズドゲーム」
- 目標追求型、役割支配型という分類は適切ではない。なぜなら役割支配型のゲームも結局は目標追求型のゲームだから。
- オープンゲームとは、それを達成するとゲームが終わるという内在的な目標がないゲーム。そうした目標があるゲームをクローズドゲームと呼ぶ。
卓球のラリーを考えよう。0vs0のまま、試合は一切動かない。彼らはずっとラリーを続ける……。これと同じ構造がごっこ遊びにも存在する。
つまり、ごっこ遊びの前提的目標はそうした「プレイ状態を維持する」ことである。ラリーを続けること、それがごっこ遊びの目標である。
また、ごっこ遊びは効率性が制限されている。ごっこ遊びには脚本というものがない。もしプレイ状態を維持する目標をより効率的に達成しようと思えば、脚本あるほうがよいだろう。
ゆえに、あらゆるゲームは目標追求型ゲームに分類され、そのうちでオープンゲームとクローズドゲームと分けることが可能である。
批判6:プロフェッショナルはゲームをプレイしていないのか?
- あるサッカー選手について考える。彼は生計を立てるためにサッカーをしている。起業は彼を雇い、お金を与えてくれる。彼はそのために、サッカーをする。
- ところでゲーム内部的態度とは、次のように定義されていた。「構成的ルールを受け入れることで可能になる活動を成立させるためだけに構成的ルールを受け入れること」
反論6:ゲームが何であるかは動機とは独立している。
- ある行為Aを行う理由がRであるとする。
- 「Rだけの理由によってAする」を(1)Rは常にAを行う理由である。(2)Aを行う他の理由はあり得ない という意味だと解釈すると、なるほど、たしかにプロフェッショナルはゲーム内部的態度を持たない。
- しかし、(1)は同意するが、(2)はそうした解釈をとるべきではない。むしろ、(2#)Aを行う他の理由は必要ない と解してほしい。他の理由も許容している。
もちろんゲームをプレイすることにより、お金を得るといったゲーム外部的な目的を達することもできる。しかし、そのゲームをプレイするためにそうした目的(おかね)を持つ必要はない。
- プロとプロでない人はゲームに対して異なる態度をとるが、ゲームのルールに対しては同じ態度をとる。ゲーム内部的態度が排除しようとしている例を検討してみよう。
「ゴール地点に爆弾がセットされていることを知った。しかしショートカットしようにもそこには人食い虎がいる。声を出すこともできないとしよう。彼はなんとか先にたどり着いて爆弾を解除するしかない」
彼は徒競走をプレイしているとはいえない。しかし、他の競技者と同じようにトラックを走り、ゴールすることを目指す。だがルールに対する態度は他の競技者とはまったく異なる。人食い虎がいなければ彼はトラックを横切っただろう!
いわば彼は、反論1における2種類目のプレイヤーなのである(目標は共有するが、ルールを破る)。彼がその2種類目と異なる点は「実際には破らなかった」点だけである。
概観の終わり
ゲームの定義に関わる「キリギリスの哲学」における論争はここまでにする。
このあと、キリギリスたちは生の理想を探ってユートピアに赴くことになるのだが、興味のある人は買ってもらうか、図書館で借りてほしい。
以下はキリギリスの哲学に関わる論文を紹介しよう。
- 〈人生〉がゲームであるという可能性について
On the Possibility that Life is a Game
論文「〈人生〉がゲームであるという可能性について」
バーナード・スーツのキリギリスが「ゲームをプレイする人生こそが生きるに値する、よき人生である」とするのに対し、「人生それ自体はゲームなのか?」と問う論文。そして人生はゲームだと言っている。定義を確認しよう。
〈人生〉ゲーム
- 前提的目標:「死」
- 構成的ルールの例:「自殺」
生じる疑問はいくつもある(にんじんが真っ先に思い浮かべたのは他殺である)。
- 論文でも触れられているが、〈人生〉ゲームは空虚なゲームである。何故なら死ぬという目標は放っておいても達成されるからである。蛇口をひねって水が出るかどうか賭けようぜというゲームをするとき、出ない可能性があるからこそゲームをするのであって、水道料金を払っていてインフラがまともに機能していれば出るに決まっている。そうした空っぽの目標が、果たしてゲームに値するのかは検討の余地がある(〈人生〉ゲームが、ゲームの定義の反例になっているかもしれないではないか)。
- また、川谷さんは〈人生〉ゲームに対して勝敗という言い方をしているが、そもそも勝つとか負けるとかそういうものが存在するゲームなのだろうか。ごっこ遊びには勝敗が存在しないように思われる。うまく演じられたほうが勝ちだと思ったとしよう。しかし他の誰もそんなことは考えていない、ただ楽しければよいとする。彼は同じゲームをしているのだろうか? また、幸福が人生の勝利条件というのも納得がいかない。仮に幸福になった途端ファーンとラッパが鳴って昇天するにしても、アニメ見てにへらと笑うのは幸福ではないのだろうか。最高善を持ち出しても事情は同じことである。最高善の場合、そもそも記述できることなのかどうかも怪しい。
スーツがユートピアを描いたのに対して、川谷さんのこの論文はディストピアを描いているような印象を受ける。他殺が禁じられる理由も、「勝利」を達成するために他のプレイヤーがいないと困るという納得いかないものだ。実際、戦争で恐ろしいほど人間が死んでいるし、虐殺もされている。これらはチェスでルール違反者が出るのと同じ例外だろうか? 本当に?
にんじん〈人生〉ゲーム
もし〈人生〉というものをにんじんが定義しようとするなら、オープンゲームとして定義するだろう。「死」は目的ではないし、「億万長者になったら勝ち、ハイゲーム終わり」というような内在的目標もない。何を達成しようがどうしようが、人生は続いていく。
何を「勝ち」と呼ぼうがその人の人生は終わらない。死ぬことが勝ちであって自殺を禁ずるのはわかるが、それなら人に憎まれて憎まれて刺し殺されたら「あがり」なのかといったらそんなことはないだろう。つまり、こうである。:
にんじん〈人生〉ゲーム
- 前提的目標:生き続けること
だがこの場合、構成的ルールはなんだろうか。ごっこ遊びの例に戻ろう。ごっこ遊びの構成的ルールは脚本がないことだった。では〈人生〉ゲームにおいての構成的ルールはなんだろう。人生計画表がないこと、だろうか。生き続けるために、最大限寿命を延ばし続ける最適なプランを放棄することだろうか? たしかにそんなプランを手渡されたら、「いや、いらねえよ……」となるに違いないし、そのプランに完璧に従っている人間はもはや生きているとも言えないだろう。
すると、自殺はゲームを下りることである。他殺はゲームを下ろすことである。他殺が禁じられる理由は明らかで、殺されると目標が達成できないからである。ではなぜ自殺は駄目なのか? それは、同じプレイヤーとして痛みを感じるからではないのか……と答えるのはあいまいかもしれないが、それぐらいしか思いつかない。ただ、他人が痛みを感じるからといって死んではいけない理由はない。
※にんじんが言いたいのは、自殺しないことは構成的ルールなどではない。自殺と他殺との間に構成的・派生的といった区別はなく、まったく同等のもので、まったく同等に「やめたほうがいい」と言われているものである。もちろん、にんじん〈人生〉ゲームでも目標を放棄する行為であることには違いはない。ゲームを下りることでもある。この点は変わらない。
- 前提的目標:死 → 構成的ルール:自殺しないこと[川谷さんゲーム]
- 前提的目標:生き続けること → 構成的ルール:人生計画表の放棄(死への接近)[にんじんゲーム]
にんじん〈人生〉ゲームにおいて構成的ルールが完璧な人生計画表の放棄である以上、不完全な「生き方」を自らに強いている(なぜなら、パーフェクトプランを提示されても我々は断るから!)。それは死への接近ともいえる。不意の事故で死んでしまったりする。パーフェクトプランに従えば、何億歳と生きられたかもしれないのに!
死に接近すること。それによって生き続けるという目標を達すること。この一見パラドクシカルな感じは、ゲームそのものではないだろうか。そうして「どう生きるか」が問題になる。まさに人生という感じがする。にんじんとしては、このオープンゲームとしての〈人生〉ゲームの定義を気に入っている。
※ここでは「生きること=死なないこと」と言い換えても構わない。
だが、もっと踏み込もう。
そもそも〈人生〉ゲームの定式化は複数個存在するのではないのか。前提的目標に「死」を選ぶゲーム、「生き続けること」を選ぶゲーム、あるいは「利得を得続ける」ことを選ぶゲームもありうる。つまり〈人生〉はゲームである、というより、成り得るのであって、それは〈人生〉に対してどのような態度をとるかという表明に他ならないのではないか。
〇〇し続ける、というオープンゲームの形ならいくらでもゲームを量産できる。〈人生〉の終わりはただひとつ、死によってもたらされる。〈人生〉がクローズドゲームたりうる前提的目標は恐らく死ぬことしかないだろう。
- オープンゲームを選んだとき、「死」はゲームの失敗を意味する
- クローズドゲームを選んだ時、「死」はゲームの成功を意味する
にんじんは生き続けるというオープンゲームを選んだ。にんじんは死を肯定的なものとして捉えてはいない、ということがわかる(かもしれない)。肯定的な意味を持ちうるとすれば自殺である。なぜなら、古来いろいろな哲学者の言う通り、それは「ゲームから下りる」という積極的な行動であるから。だがもちろん、ゲームの失敗であるという点には違いはない。迫りくるチェックメイトを前に、投了するのと同じである。だから実際は、積極的な行動であるわけではない。見かけだけ、積極的で、実質的には何の違いもない。自殺をしました、えらいですね、ということもなければ、しなかったんですか、えらいですね、ということもない。
クローズドゲームプレイヤーにおいては、死は「達成」である。宗教では〈人生〉ゲームを道具として利用し、天国に行くための条件であるように捉えていることもある。達成だと捉えるとなんだかいい感じがするが、先述したように、その空虚さに耐えかねる。だからこそ、道具的にゲームを用いようとするのだろう。死が達成だなんて、そんなゲームをプレイする気になれるだろうか。
〈人生〉ゲームまとめ
ゲームの定義:
ルールの認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)。
- 人生ゲームには本質的に二種類のゲームしか存在しない。
- クローズドゲーム(目標:死)
- オープンゲーム(目標:死なないこと)
利得を得ること、といっても本当にそれだけで生きている人間がいるとは思えない。だからそういう例はオープンゲーム内で行うゲームであるとして見れば、人生ゲームには上の2種類しかないと思われる。
だが、にんじんはもっと強く、こう言いたい。
- 人生ゲームはオープンゲームである。
たとえば死ぬために、必然的ではないにしても素晴らしいプランを思いついたとしよう。自殺でも、他殺でもない。何らかの事件をきっかけで、数パーセント程度の確率で死ねる。死が目的なら、乗らない手はないはずだ。しかし、これに乗っかる人間の姿が、全く想像できない。
もしそのようなプランを実行することは「遠回りな自殺」であるとして棄却している人を想像してほしい。そんな人間が「私の前提的目標は死ぬことですね」と言うことに、どんな意味があるというのだろう?
要するに、クローズドゲームのプレイヤーは目標などどうでもいいプレイヤーなのであって、チェックメイトをするつもりだよといいながら勝手な手を指すやつと同じなのである。