にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「MIND 心の哲学」

 にんじんと読む記事です。

 

実体二元論

「世界はそれ自体で存在しうる二種類の実体または存在者に分かれて」おり、「心的な実体と物理的な実体が存在する」という考え方。

 

  •  この実体二元論は我々の直観に合致する。この世のすべてのものは物的なものか心的なものだ、と言われたら(哲学をやっていない限りは)思わず聞き流してしまうことだろう。
  •  「実体」とは真に実在するものの意である。また「Aの本質」とは、AがAであるために最低限備えていなければならない性質の意である。実体二元論において、物的なものの本質は空間的な広がりをもつ(延長)とされ、心的なものの本質は意識(思惟)であると考えられている。

 

 しかし、この実体二元論には多くの問題がある。

 

  1.  心身問題  = 心的、物的なものの間の関係は?
  2.  他者    = 他人には心があるか?
  3.  動物    = 動物には心があるか?
  4.  外部世界  = すべて私の心なのではないか?
  5.  知覚    = なぜリンゴが目の前にあることがわかる?
  6.  自由意志  = 世界のシナリオは既に決まっているか?
  7.  自己同一性 = 昨日と今日の自分は同じか?
  8.  睡眠    = 寝てるとき私は存在していないのか?
  9.  志向性   = どうして遠くにあるもののことを考えられるのか?
  10.  因果    = 物的な因果に心的なものがどうやって絡むのか?
  11.  無意識   = 無意識的にしていることは普通にあるのではないか?
  12.  説明    = 心理や社会現象をどうすればうまく説明できる?

 

 12個もあるが、すこしまとめてみよう。

「この世のものが物的なものか心的なものかいずれかです」と言われたとき。

  • 「そもそもどちらか片方だけでは?」 → 4番と6番
  • 「心的=意識でいいの?(無意識のこと忘れてない?)」→ 8番と11番
  • 「心的って世界の中のどこにもないくせにどうやって影響を及ぼし合うの?」→1番と5番と10番

 だとすれば、「心身問題」「心的なもの=意識?」「心的のみ・物的のみ」でかなり問題が見やすくなる。これら3つはまだ二元論を受け入れていない。残りは受け入れた上でここどうなるのと言っているタイプで、調べればきっともっと出てくることだろう。

 二元論は現在では相当に評判が悪い。二元論を擁護している本を見たことがないほどである。しかし、我々は気を抜くと二元論的な見方をしている。二元論を採用すれば肉体が滅びても魂は残ってくれるので宗教的にはありがたい教えとなっている。

 

唯物論

 二元論は評判が悪いので、心的のみ・物的のみかのどちらかだという考え方が出てくる。前者を観念論と呼び、後者を唯物論と呼ぶ。観念論によれば、この世界のすべては心的なものである。しかし現在において、それほど有力な立場ではない。

 これらに対する反論まで、この本では幅広く詳しく扱っており、しかも反論に対する反論まで紹介し、さらにそれを反論で返す徹底ぶりである。これに関しては是非、本を見てほしいが、決定的な反論はやはりこれだろう。「唯物論の分析は心的現象について十分条件を与え損なっている」。その心的状態にある時、物的にそういう状態であるとしても、そういう状態だからといってその心的状態にない場合が十分考えられる。

行動主義

 最初期の行動主義は、「心とは身体の行動にすぎない」とする唯物論の一種だった。心の科学=人間行動の科学として刺激と反応を研究したのは方法論的行動主義であり、彼らは二元論が科学の方法として誤っていると批判した。その一方で、二元論が方法という以上に論理的に誤っていると主張した論理的行動主義もあった。

 論理的行動主義は、心的状態に関する言明は行動に関する言明に翻訳できると主張した。たとえば「にんブロを読むのが楽しい」という心の状態は定期的なご愛顧や、記事に対するコメントなどなど多数の言明に翻訳できる。「ある心的な状態をもつということは、ちょうどある種の行動への傾向性がある」ことにすぎない。つまり、もしAならBという行動がつづく、という風に。

 

 たしかに心理学において実際の行動が有力な手掛かりになるのは間違いない。しかしそれを心そのものと同一視するのはおかしい。言語学者チョムスキーはこういうことを述べた。:「心理学を研究するために行動を研究するという発想は、物理学を研究しようとして計測を研究するのと同じぐらいばかげている」。計測結果は物理学において証拠になるが、研究対象そのものではない。

 また、A→Bという条件文のAをどうやって知るんだという批判にもさらされた。「にんブロが更新されているだろう」というあなたがたの信念について考えよう。論理的行動主義によれば、この信念は別の言葉、つまり行動に翻訳される。ありがたいことに、あなたはにんブロが更新されていたら記事を読みに行くひとだとしよう。しかし、にんブロが更新されていて記事を読みに行くのは、記事が読みたい人だけである。更新されていると知っていようが、だからなんだ俺はにんブロは読みたくねえんだという人はいる。心的状態を翻訳すると行動 + 欲求 が出てきてしまった。

 さらに考えてみる。にんブロが読みたいという欲求とはなにか。それは少なくとも目の前に記事があったら読むことを含むだろう。もしそうでなければ到底「読みたい人」としては扱えない。だが、目の前に記事があるとまったく思っていない人は記事など読まないのだから、目の前に記事があるという信念を仮定してはいないだろうか? こうして、分析したつもりがまた余計な邪魔ものが出てきてしまった。

 そして、行動主義は直観に反する。にんブロをご愛顧したいからご愛顧していると読者は思っているのに、行動主義はその因果関係を否定するからである。ご愛顧したいという願望はたとえば目の前に記事があったら読むことだし、更新してたら読むこともである。先ほどの困難は脇に置いても、この条件文に当てはまればご愛顧してしまう。それが欲求だと説明される。欲求は内的な経験などでは一切ない。この点が気持ち悪く感じられてしまうのだ。

 行動主義者になるには「知覚麻痺のふり」をする必要があると、はやくも一九二〇年代にI・A・リチャーズは指摘している。

 ある行動主義者のカップルを想像してほしい。ベッドをともにした後、男が女に向かってこう言う。「君はすごく楽しんだ。僕のほうはどうだろう?」

 

物理主義

 「人が心だと考えるものは脳に他ならない」

 行動主義が心的というものの定義に攻撃を加えたのに対して、物理主義は違う。心的なものはまぁいいとしても、その心的なものって実は脳のことなんですよと主張した。

  •  論理的行動主義 : 心的状態の概念の分析
  •  物理主義    : 心的状態がどう存在しているか → 結局は脳と同じ

 これにも批判がある。物理主義によれば「イカ娘がまだ連載を続けている」という信念に対応する脳状態があるはずである。これをTKヘブン状態と呼ぼう。TKヘブン状態は、つむじのちょっと下あたりの脳がビンビン来てることだとする。だが、これを「同じことだ」と判ずるためには、イカ娘連載信念とTKヘブン状態をそれぞれ見比べて精査してみないといけない。だが当のイカ娘連載信念とはいったいなんなのか。何を見ればいいのかさっぱりわからない。結局、後退してしまうように思われる。

 それからこれはにんじんが勝手に付け足したものだが、イカ娘を全く知らない人間がつむじのちょっと下あたりを刺激されたらTKヘブン状態に達するのだろうか。ファンファンファーマシーを知らない世代がファンファンファーマシー脳状態にさせられたらファンファンファーマシーが見たくなるのか? 何かも知らないのに? それとも、イカ娘を知っている脳状態というのがあって、イカ娘既知脳状態になった上でなければTKヘブン状態になれないのだろうか。そうすると、にんじんはファンファンファーマシー既知状態でもありイカ娘既知状態でもありグレンラガン既知状態でもあることになるが。

 

機能主義

 次に現れたのが機能主義である。

  •  物理主義が心的状態を、脳状態だとしたのに対して、
  •  機能主義は心的状態を、ある機能を持つなんらかの状態のことだといった。

 つまり「どういう状態かは知らないがそれより機能について研究しないか」ということで、読んだ限りだと完全に匙を投げているように見える。 

 ある意味行動主義に戻ったように思われるこの回答は、行動主義の難点を大きく改善させた(らしい)が、心というシステムがなんなのかはさっぱりわからなないものとして放り出された。

 最近になって、脳はコンピュータであり、心というのは一つ又は複数のプログラムの組み合わせであって、心的状態というのは脳の計算的な状態であるとされる立場が出て来た。これをコンピュータ機能主義という。この考え方は非常に一般的になりつつあるようににんじんは思う。「適切にプログラムされたコンピュータは心をシミュレートするだけではなく、心をもつ」のである。

 

消去的唯物論

 行動主義は心を行動であると読み替え、物理主義は心を脳と同一視した。機能主義もまた物理主義の派生のひとつといえる。

 これ以外にもまだ答え方はある。「心的状態などというものは存在しない」これが消去的唯物論である。心というものは人々の行動を説明するために用意された前提である。にんブロをご愛顧している人は、ご愛顧するという欲求を持っているからご愛顧したのだと説明される。欲求なんてものは本当は存在しないのに、説明のために便宜上置いたものに過ぎない。

 消去的唯物論の目標は前提が誤りだと示すことである。

 私たちが普段持っている常識(「民間心理学」と呼ばれる)は誤りだらけ。私たちの心に対する常識はことごとく科学によって覆されてきた。だから、そもそも前提が誤っている、というわけである。

 

非法則的一元論

 「心的な記述 と 物理的な記述は法則のような仕方では関わっていない」というのが非法則的一元論である。これはつまり、心的なものはすべて物的なものである(一元論)のだけれど、たとえ物理学が完成しすべてがわかるようになったとしても心的状態は予測できない、という意味である。

 逆に法則的一元論は物理的なことが全部わかれば心の働きも全部わかるはずだ、と主張する。

 

生物学的自然主義

  ここまで見て来たのは心的なものと物的なものの二元論と、その片方をとろうとする一元論だった。この両者には共通点がある。二元論は当然として、一元論の立場においても「物的なもの」と「心的なもの」を区別している、という点である。区別したうえでそんなものはないと言ったり、実は心的なものは脳なのだといったりしている。

 この本の著者は、次の四つを誤った仮説として否定する。:

  1.  心的なものと物理的なものの区別
  2.  還元の概念(AがBに還元されるなら、AはBに他ならない)
  3.  因果と出来事(原因は結果より前に生じる)
  4.  同一性の自明視(水=H2O か?)

 彼自身の立場「生物学的自然主義」は、これらの仮定をもたない。生物学的自然主義は次の4つのテーゼから成る。:

  1.  意識状態——主観的、一人称的存在論をともなった意識状態――は、現実世界における現実の現象である。意識が錯覚であることを示すだけではそれを消去的に還元することはできない。なぜならそのような三人称的な還元は、意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。
  2.  意識状態は、もっぱら脳内におけるより低レヴェルの神経生物学的な過程によって引き起こされている。従って意識状態は、神経生物学的過程に因果的に還元できる。意識状態には、神経生物学的な基盤から独立したそれ自体の活動というものはまったくない。因果的に言えば、意識状態は神経生物学的な過程「とは別の」なにかではない。
  3.  意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている。従って、意識状態はニューロンシナプスよりも高レヴェルで存在している。個々のニューロンは意識を備えていない。だが、ニューロンから成る脳組織の諸部分は意識を備えている。
  4.  意識状態は、現実世界の中の現実の性質であるから因果的に機能する。たとえば私の意識にあらわれる喉の渇きは、私が水を飲む原因となる。

 

 還元には二種類ある。因果的な還元存在論的な還元が。

  •  Aの現象をBの現象に因果的に還元できるというのは、Aのふるまいが完全にBのふるまいによって因果的に説明され+AがBを引き起こすさまざまな力の他に因果的な諸力をもたないその場合に限られる。
  •  Aの現象をBの現象に存在論的に還元できるというのは、AがBにほかならない場合に限られる。たとえば物質的なものは分子の集合に他ならないとか、日没は太陽に対する地球の地軸における自転によって生み出される感覚上の現象にほかならない。

 また、文中にある「消去的還元」とは、たとえば日没が地球の自転によるわれわれの錯覚であることによって、日没を消去するようなことを指す。

生物学的自然主義の検討

  •  心的と物的の区別について

 まず生物学的自然主義においては、二つを形而上学的にまったく異なる存在としては捉えていない。意識とは脳の性質であって、物理的世界の一部としてある。

 それは「主観的」「質的」「志向性がある」といった特徴を持つ。肝心なことは、この三つの特徴は「延長をもたない」「物理的過程によって説明できない」「因果的に作用できない」という伝統的に物的なものの性質として捉えられていた性質を、含意しないということである。また、逆に「客観的」「量的」「志向性がない」といった物的なものの特徴は物理的な宇宙の一部であるための必要条件ではない。

 言い換えると、こうなる。

 伝統的な物的と質的の区別は「主観的」―「客観的」、「質的」―「量的」、「志向性がある」―「ない」によって与えられてきた。この区別は完全に誤っている。なぜなら主観的・質的・志向的といった状態を物理的システムが備えているはずはないと考えるのには根拠がない。意識の程度についての計量法がありえないという理由は何もない。

 だからこそ、生物学的自然主義は二元論でも一元論でもない。これらは心的なものと物的なものの区別を受け入れることを前提として議論しているから。

 

  •  還元

 還元には混乱がある。物質の三態として固体・液体・気体があるがこの現象は、分子のふるまいによって説明される(因果的な還元)。しかし、人はこれをもとに存在論的な還元を行い、固体というものを分子のふるまいから因果的に定義する。

 「意識のばあい、因果的な還元を行うことはできるが、私たちが意識という概念をもつというポイントを失うことなく存在論的な還元を行うことはできない」

 意識は神経生物学的な過程、たとえばニューロンのふるまいなどによって因果的に説明できるが、意識はニューロンのふるまいにすぎないと証明されたわけではない。

 

 たとえばここにフォロワーを連れて来て、脳の細かなふるまいを検知する装置を脳に取りつける。計測によって次のようなことがいえるかもしれない。「装置によれば彼は痛みを感じているはずだ!」同じように、このようにも言えるかもしれない。「これは固体に見えるかもしれないが、実は液体だ」

 どちらの例も、因果的な還元によって痛みと液体を再定義している。しかし、

「意識という概念をもつことのポイントは、その現象の一人称的・主観的な性質をとらえることであるのだから、意識を三人称的・客観的な言葉で定義しなおしたら、この論点は失われてしまう」

 のである。

「一人称的な実在はすべてその三人称的な因果的基盤への因果的に還元できる。しかしそこには非対称性がある。(中略)もし一人称的な存在論を切り離し、意識を三人称的な用語で再定義したら、私たちが意識という概念をもつこの意義を失うだろう」

 

 AによってBを還元したからといって、Bが不要になるわけではない。消去的還元とそれ以外の還元を区別しよう。消去的還元は、「Bが実は存在していなかった」ことを示す。日没は地球の自転による錯覚である。

 意識は実際に存在する。だから消去的に還元することなどできない。

  •  因果と出来事

 多くの場合、原因は結果と同時に起こる。この記事を読んでいるあなたが宙に浮かばないのは重力を受けているからだが、重力は持続的に作用する力である。

「私たちは自然の因果的な秩序について議論している。その秩序は、時系列の中で連続する離散的な出来事の問題ということはめったになく、システムのマクロな性質を因果的に説明するミクロな現象の問題なのである」

 

  •  同一性

 私たちが水だと呼んできた液体がH2O分子から構成されるとわかると、私たちはH2Oを水の定義の中に繰り込む。水=H2Oなのではなくて、繰り込んだ結果なのである。

 

 

 

 

 意識とは脳過程である。この点で唯物論と同じ主張をしているが、生物学的自然主義は、脳過程でありながら主観的・質的・志向的なものだという。