にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんと読む「実在論を立て直す」

 今回のテーマは「媒介説」です。

 この実在論を立て直すという本は、あの有名な『有限性の後で』に比べてあまり知られていない気がしますが、こちらも一応、ポストモダン的なものの見方””媒介説””——あっちの言葉で言うと相関主義ですが――を批判した本になっています。メイヤスーのほうが知られているのは、著者が一人で呼びやすいし、書名がイケてるせいでしょうか。実在論を立て直す と 有限性の後で ですよ。まぁにんじんは実在論を立て直すのほうが好きですが……。小説ではないので、ストレートな名前のほうが誠実ですね。

 ちなみに本当のタイトルはRETRIEVING REALISMです。

 

媒介説という描像

  •   媒介説:外的実在を内的な表象(観念)をとおして捉えるのだという考え。

  著者はこの「媒介説」に誰もが捕らわれており、このもとでしかモノを考えられなくなっていると言っております。

 「目の前に鉛筆があるけれども、それは外界にある鉛筆それ自体とは違う。自分の目だとか脳だとかがこねくり回した結果であって、それ自体がそのまま映っているわけではない」と、こういう風に言うのも一つの例でしょう。私たちは決して外に出ることは出来ません。「内と外」の決定的な区別が、媒介説の構造です

  •  媒介説は実体二元論の心的・物的の区分に基づく。実体二元論を支持しているものは現在ではほとんどいないにも関わらず、その批判者のどれをとっても媒介説に囚われたままである。

 

 媒介説の特徴をまとめると、次の四つになる。

  1.  「介してのみ」構造 = 心/生物個体の境界を越えた外部の世界についての知識ないしアクセスは、 心/生物個体のなかの何らかの特徴を介してのみ成立することができる。
  2.  知識の内容は明確に定義される明示的な要素に分析できる。現代の一般的なヴァージョンでは、知識の内容は信念あるいは真とみなされた文によって構成される。(「知識とは正当化された真なる信念である」)
  3.  信念の正当化への試みは、この明示的に定式化された要素を越えたり、基礎となるものへさかのぼったりすることはできない。
  4.  心的・物的という区別。物理主義といえども、この区別は受け継がれており、彼らは単に「心的なもの=物理的なもの」を示そうとしているだけ。

 いまはやりの、人間をコンピュータだとみなすやり方もこの媒介説の特徴を持っています。(1)入力と出力、(2)計算は明確に定義された情報をもとに進む、(3)計算が世界への「指示」を獲得するのは、「入力」を介してのみ、(4)物理主義的

 

  •  媒介説に代わる「接触説」の提案と、媒介説がいかに不適切であるかを示すことが本書の目的。

 接触説は自己立証します。すなわち、「あなたがそこにいるなら、あなたはそこにいることを知っている」。けれど、媒介説ではこんなことはありえません。:媒介説ではまず信念があって、それが真であるかどうか考えないといけません。どういう正当な根拠があってそういうのかを考えないといけません。そのために、どうすればそれが真なのだかといった指標や基準を探し求めます。

 にんじんも今この文を読みながら「そりゃそうじゃねえの!?」と思ってますが、こういうのを媒介説にとらわれているというのでしょう。

 面白くなってきたので「( `ᾥ´ )だましやがったらゆるさねえゾ」という気持ちで読み進めていくことにしましょう!

 

【正当化にまつわる接触説と媒介説のちがい】

① 接触説「信念が真であるという確信は、有限の数の特徴をもって説明できる」

 上で書いたように、真だというためにはその正当な根拠を考えないといけません。人間なので無限個の根拠を考えるわけにもいきませんので、「コレがコウだから真なんでしょ」と言うことになります。

 しかし著者は言います。「このような要請が適切であることは直観的に自明だとは思われない」

 私は今日本にいる。にんブロを見ている。このようなことを読者は確信しているでしょう。そこに接触説の人が来て「どうして?」と訊いてくるのです。いやどうしてって……。「たんに、ひとつひとつ確認しうる手掛かりが山のようにあるということだけが問題なのではない。(略)それらは、ほかのものごとについて調べたり問いを立てたりする場合に、確固としたものとして受け入れられている背景に属する事柄なのである」

 世界はたった五分前にはじまったのではない。でも、どうして?

 この問いを「うるせえ!」と拒否した場合、このことは私たちが「世界っていうのはずっと昔っからあるんだなぁ」という信念を持ち続けていることを意味するでしょうか。著者は「むしろこう言うべきでは?」と書く。

 「無際限な過去にまで遡ることができる世界は、一種の枠組みないし文脈として機能しており、この枠組みのなかで、多くの問いを立てたり、意識的な探求を行ったりすることが有意味となるのだ」

 この枠組みは仮定だとか信念だとか、そういったものじゃなくて、そうじゃなかったら今までやってきたこととか、今やってることがなんやねんという話になる、ごく当然に受け入れられているコトなのです。

  でも、

 そういう枠組みを疑って本当に正しいことを知ろうとするのが哲学じゃなかったのかと、言いたくなりませんか? わたしたちは世界が五分前に始まったわけではないということを論証するか、理論の前提に組み込んで、前に進まなければならないんじゃないのか? これに対しては、「この種の基礎づけ主義的な試みは無駄」で、「わたしたちはつねに、また不可避的に、あらかじめ受け入れられた枠組みのなかで考えるのである」と答えられます。私たちのする何かが有意味であるのは、何らかの枠組みが働いていて、その枠組み自体を問題視するときもやはり枠組みが働いているのです。

「枠組みの内部においては、わたしたちはもちろん理由を与え、基準を引き合いに出して問題に対処する。わたしたちは表象を形成し、それらについて本当に当てはまるのかどうかを問題にする。しかしこれらすべては、当然と見なされている実在との接触というより広い文脈のなかで生じることである。当然と見なす想定は間違いかもしれないが、しかしそのすべてが間違いということは決してありえない。これが、接触説がとらえ、媒介的説明が見逃していることである」

 

② 「わたしたちがどこに/いつ存在しているか、何をしているのか、などのような事柄についての一般的な感覚は、経路依存的である。わたしがここローレンシャンにいることを知っているのは、ここに来たからである」

 これは①の接触説・自己立証的性格の一部になっています。

 たとえば夢。わたしたちの人生は誰かの夢なのかもしれません。しかし「目覚め」がないので夢かどうかはわかりません。

 

【上のまとめ】

 個々の意識や個別的なものの把握はそれらを含むより広範な枠組みを受け入れることの中に埋め込まれており、そのなかで意味を与えられている。この枠組みの受け入れは全体論的である。この受け入れを個別的な把握の集まりに分解することはできない。

 そして①受け入れは不可避。絶対枠組みは受け入れないといけない。②受け入れは時間的な奥行きを持っている。「私がいまここにいるのは、ここに来たから」

 

 接触説は、何らかの問題に対して基準を用意して答えることは認めています。特に枠組みの内部では。でも全部が全部そうであるわけじゃない、と言っています。

 媒介説は、信念に理由を与えることができるし、もしできないとしたら最下層に突き当たったからだと考えます。最下層は訂正不能なものです。「枠組み」というのもやはり最下層に属し、理論の仮定に組み込むしかないような、訂正不能なもののひとつです。 

  しかし接触説は、枠組みはその時々によっていろいろ変わってくる、と言います。この点が、媒介説には意味不明なものに見えます。

 

 媒介説はただ単に哲学上の巨大な一流派というにとどまらず、その姿勢は哲学以外のもの・たとえば倫理にも派生していることが指摘されます。媒介説vs接触説の対立は、こうしてわたしたちの人生全てを背負った思想戦争となるのです!

 媒介説を乗り越える

 歴史的に、媒介説は乗り越えられようとしてきました。媒介説に対する反論の軸は次の二つにまとめられます。

  1.  世界を把握する仕方は、表象を介してとは限らない。
  2.  世界の把握は初めから共有されており、それが特定の言語・文化によって個人に分け与えられていくに過ぎない(媒介説の独語的過程の否定)

 2番目が少々わかりづらいかもしれませんが、知識=真とみなされる信念 といわれるように、まずは個人の信念から始まって一般的なものに進むわけですがそうではなく、そもそも世界把握は共有されていてそれが個人に分割されていくのだ、というものです。

 

<1>表象が一番先ですか?

 たとえば視線を机の上に向けてみましょう。

 そこには何があるかというと、まぁ色々あるでしょう。たとえば鉛筆も。鉛筆を未だかつて一度も見たことがない人向けに、なんかこう「シュッとしたやつ」があるとしてもよろしい。

 こういうことをもとにして、媒介説はこれがあるとかないとか言っていくし、確かめていきます。しかし、シュッとしたやつがあるという表象って本当に基礎的なものでしょうか? それより下はもう掘り進められない? —— そんなことはありません。どうしてって、シュッとしたやつをあなたはもう見てるじゃないですか。

 「なんかあるな」となった時点で、もう「なんか」は切り分けられているのです。その「なんか」は既にあなたにとって、世界の中に位置を持っているのです。我々はそのなんかについて、考えています。

 今あなたが探索しようとしている世界はまったく未知のものかもしれません。しかし、完全完璧に未知であるわけではありません。「なんか」は世界の中にあるし、ある以上は他のものとの関係の中にあります。他のものと一切関係を持たずに「なんか」がそこにあることはできません。「なんか」だ、と思うためには、「なんか」でないものがないと駄目だというわけです。たとえ名前とかがわからなくってもね。

 もしそういう関係とかを一切取り去ったら、

「知覚は、その場合にはいかなる経験にも属せず、したがって対象を欠き、表象の盲目的戯れにすぎず、夢にすら及ばぬものとなってしまうだろう」

 表象っていうのはまぁあるにしても、そこがすべての出発点であるわけではないのです。これで媒介説をバコンと叩いたのがあの有名なカントだそうです。

 

 それで今度はウィトゲンシュタイン

 カントがやったのが「認識論の原子論」を叩くことだったとすると、ウィトゲンシュタインは「意味の原子論」を叩きました。それをやっているのが『哲学探究』の冒頭のところ。アウグスティヌスの言語観を間違いの典型例として紹介し、叩き始めます。

 私たちがものの言葉を知るのは何かのモノが「にんブロ!」として名指され、モノとにんブロが結び付けられることから始まる……いやいや、そうじゃないでしょ、と彼は言います。「リンゴ5個~」と言われた果物屋の店主が店の奥からリンゴを出して持ってくるのはなんだ? 今までそういう風にやってきたっていう流れがあるからで、まずリンゴという名詞を覚え、5個という数詞を覚え、リンゴ5個という言葉の組み合わせを覚えて行ったのか? そうじゃないでしょ?  ……というわけ。友達と会話していていきなり相手がリンゴ5個と叫んだらあんたは店の奥からリンゴ持ってくるのか? 文脈というものが大きく影響を与えているのです。

 それに、まず最初に「これがリンゴでね」と言われる場合だってそう。指で「はいコレ」と言われたものがなんで色ではなくて物体の名前だとわかった? それはもうその子がそういう感じのことをわかってくれているからなのです。

言葉の直示的定義が成功するのは、言葉を学ぶ人が、言語のさまざまなはたらきや、いま使っている特定の言葉が言語のはたらき全体のなかでどんな役割を果たすのかについて、すでに相当なことを理解しているという条件が満たされたときでしかない。

 たんに「これリンゴやで」と名前を教えるというだけなのに、その事前準備が恐ろしいほどかかってるんだよ、ということです。

 

 ※表象を基礎にして進むのをやめて、推論っていうものを中心に据えねえか、と書いたらしいのがロバート・ブランダム。たとえば池袋に老人の運転する車が突っ込んだという事実を知るやいなや、「今池袋は騒然としているだろうな」とか「さすがに逮捕されるだろう」とか「あそこが通行止めになるから渋滞が発生するな」とか「ネットが荒れるな」とか色々分かります。要するに、推論による繋がりを断った孤立した存在なんかないんだよ、ということです。

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

 

 

 この議論だけでも何かを基礎にして進もうぜという媒介説的な姿勢にちょっと疑問がもつようになると思う。媒介説はもうかなり振り捨てられて人気がない。けれども、そうだというのにまだ誰もがこの説にとらわれている。そうしてとらわれている者同士が「お前まだとらわれてんのかよ」と言い合っている。私たちは一体、どうすればいいんでしょうか。

 まず確認することとして、言い争ってる私たちってどういう点が同じなのでしょうか。媒介説は蹴飛ばしてるぜと双方が思っている2人の共通点は、一体どこ?

 

 それは、2人ともが全体論的に考えているっていうこと。

 基礎づけ主義は、たしかなものを積み重ねていこうよというけれど、まずそうやってコレとコレとコレがたしかだよって分離していくのが無理なんだよ、いろいろ関係しあってるんだからさァ……とどちらも思っています。

 

 でも「全体論」っていってもいろいろあるのです。

 ● クワインデイヴィドソン的な全体論じゃないよ!

 あの人たちの全体論=検証の全体論=ある議論領域の命題・主張は単独では検証できない。けれどここで言っている全体論はそういう派生的な事柄に対するものじゃない。

 → クワインデイヴィドソン全体論は、さっきまで話していた原子論を受け入れたとしても通用するテーゼだっていうこと!

 「リンゴ5個!」といってリンゴを手渡してくれるのは、相手が果物屋さんで、こっちがお金をちらつかせていて、けっこう通ってて……そういったいろんなことがあるから、なんだけれど……検証の全体論はそれ以上には踏み込みません。要するに「リンゴ5個と言っている」「果物屋である」「お金をちらつかせている」「割と常連だ」という要素が与えられていて、さぁそれを合理的に解釈するには全体を見回さなきゃいけませんね、ということしか言っていないのです。

 

 ここで言っている全体論っていうのはもっと根源的なもので、著者はゲシュタルト全体論と呼んでいるそうです。全体を単なる部分の総和とはみなせないっていうような意味がこめられています。たとえば曲のサビ部分っていうものの特徴は構成されている音の中にはなくって全体との関係によって決まるんです。そうしてさらにその要素とみなしているポーンという音自体も他との関係で定まるわけで、そもそも要素を単独で同定することがまず不可能なのです。

  全体論の次のふたつが原子論を拒否します。①何をとってもより大きな全体の中でどういう位置を占めるかで決まる、②そのより大きな全体は要素の単なる寄せ集めではない。—————反基礎づけ主義者たる私たちはおおむね合意されたことではあるが、そこから食い違いが生じてくるのは、この全体論から異なるものを導くからなのです。注意して進んでいかなければなりません。

 次の引用はすごく立場がわかりやすいので、そのまま書き抜きたいと思います。

 基礎づけ主義において知識を再構成する「要素」は、明示的な情報(略)である。しかしこれらの情報が当の意味をもつことを可能にしている全体とは「世界」である、言い換えれば、社会的実践によってつくられた、共有理解の場である。わたしは、林や林の前の空き地を安定した背景とし、そこからウサギを取りだすから、ウサギに気がつく。わたしがこの[理解の]場にすでに足場をもっていないかぎり、ウサギを見ることはできないだろう。気を失う寸前のように、いわばクラクラしていて、ウサギがかけだす場面の全体がぼんやりしていたら、「ウサギがいる」といった明示的な情報を受け取ることはまったくできなかっただろう。ただし、わたしがすでにこの場所に足場をもっていたということは、わたしが明示的な情報をさらに手に入れたかどうかとは何ら関係がない。たしかに他の明示的情報が何らかの役割を果たすこともあるが、だからといって、そうした情報を入手すればこの理解の場に足場をもてるというわけではまったくない。わたしがすでにここに足場をもっているのは、わたしの対処能力、すなわち、この文化のなかで育まれたこの身体的存在としてのわたしが獲得してきた能力が発揮されているからに他ならない。

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) P71 

 

ゲシュタルト全体論

 さて、ひとまず全体論は反基礎づけ主義者にとってはおおむね合意されたテーゼとなっております。

わたしがすでにここに足場をもっているのは、わたしの対処能力、すなわち、この文化のなかで育まれたこの身体的存在としてのわたしが獲得してきた能力が発揮されているからに他ならない。

  この対処能力の理解にあたっても、一方の極には「心の中に所有する信念」があり、一方には「世界の中で動き回り、周囲のものごとに対処する能力」がある……この二種の能力『内と外』として捉えられてしまうが、この二つが繋がり合っていることを哲学は明らかにしてきました。

 「事物を非明示的に把握すること」

 「言語表現によって明示的に理解すること」

 このふたつをはっきりと区別することは出来ません。説明書を見ながら必死に取り組んでいたソフトであっても、手足のように扱えるようになったりします。逆に今までぼんやりとやっていたことを、意識してコウ、コウ、コウと表現してみせることもできるでしょう。

 「昨晩、●●町に住む名無しさんが遺体で発見されました」近所で殺人事件が起きてまだ犯人が捕まってないとなったら、私たちの周囲の様子は見た目をまったく変えていないにもかかわらず様変わりします。ここはヤバい、両脇が茂みだここで襲われたら間違いなくやられる………。

 個別のものごとを理解し、情報を取り込む場となっている全体は、わたしの世界の意味をなしていて、多数のメディア・媒介者によって担われている。それら多数のメディアとは、言語的に定式化されたさまざまな思考はもちろん、さまざまな対処能力に内在する理解だけでなく、一度も疑問視されたことはないが言語的思考が当の意味をもつための枠組みとなる事柄である。

 そうして、上のふたつが区別できないということは媒介説の「内と外」をも一挙に葬り去ります。

 明示的な信念というメディアだけに注目するなら、内部と外部の分離は当然だと思われるかもしれない。(中略)しかし、世界のなかを動き回り、対象にはたらきかける能力に含まれるものごとを把握するはたらきの場合には、信念のような内部と外部の分離は不可能である。月についての信念とは違って、この身体化した能力は、主体がはたらきかける対象が存在しなければ現実化できない。野球のボールを投げる能力は、ボールが存在しなければ発揮できない。

 表象なしに身体が環境に応答する。これを表象的な志向性(表象志向性)と区別するためにメルロ=ポンティは「運動志向性」と呼びました。運動志向性は表象志向性に先行するのです。

 運動志向性が発揮される対処活動は、それがうまくいっているかどうかの感覚を伴い、最適なものに位置取ろうとします。サッカー選手は頭の中で常に「ゴールにいれるぜ」と表象し、その目的に合わせて体が機械的に動いているわけではなく、サッカーをしている、相手がボールを奪いにきているなどなどの全体的状況が次の対処活動を教えています。

 したがって、対処活動は、それが続いているあいだ、あらゆる目的志向的活動の基盤を与え続けている。さらにいえば、運動志向性は物理的因果の用語を使って解明できない。なぜなら、運動志向性は、なすことがふさわしいと感じられる動作をするよう迫る感覚を常に伴っているからだ。

 仕事終わりに駅まで同僚と歩くことになったとき、頭は何を話すかでいっぱいいっぱいです。でも前から来る自転車は避けられるし、でこぼこの位置もわかるし、横の人が歩く速さに合わせているし、道も譲る。自分の歩むべき道を見出しているのです。

 周囲のものごととともに生きることには、ある種の理解(「先行理解」略)が必ず伴う。

 あるものをXと名付けることによって私たちは「これってX? ほんまかいな」と吟味できる。しかしたとえ言葉をもたなくとも、わたしたちは世界の中を生きているのです。「先行理解は非概念的である」

 概念以前の活動を理解するには、先行理解のようなものを手段とするしかない。(略)

 

 わたしたちはふと気づくことがあります。何気なく普通にアイツ(誰かさん)と話していて「あっ、アタシ、あいつのこと好きなんだ……」となったとき、今までは一度もそんなことを意識したことはなかったのに、意識してみれば、そういえばずっと好きだったような、なんか腑に落ちる瞬間……💖

 このときの好意は、「知ってること」「知らないこと」の中間にある。

概念的な思考活動は、日常的な対処活動のなかに「埋め込まれている」

 

 最後にまとめ。

 

 したがって、世界についてのわたしたちの理解は、クワイン全体論とは異なる意味で、最初から全体論的なのである。単純で独立した知覚内容のようなものは存在しない。より広い文脈の内部におかれなければ、何かが知覚内容のような身分をもつことはできない。そして、この文脈は、理解され自明視されながらも大部分は注目されないままにある。さらにいえば、この文脈すべてに焦点を当てることができないのは、文脈が非常に広範囲にわたって枝分かれしているからという、ただそれだけの理由によるのではない。文脈のすべてに焦点を当てることができないのは、文脈が決まった数の部分から構成されてはいないからである。このことは、自明視された背景が特定の状況でうまくはたらかなくなるとき、背景がはたらかなくなる方式は何通りあるのか反省してみればいい。そうした数をはっきりと定めることなどできないのだ。

 

 

関与と離脱

 このようにして主体というものは身体化されます。媒介説というのは関与するということを捨てて、自分たちを離脱的な思考者をみなすのです。この見方は次のような見通しをわたしたちに持たせます。

 主体は、世界を知覚するときに自分の周囲から情報の「断片(ビット)」を取り込み、次に、それを何らかの仕方で「処理」することで、世界についてまさに自分がもっているような「像」を成立させる。そして次にこの像に基づいて、その個人は自分の目標を達成するために,手段と目標に関する「計算」を通じて、行為を行う

 しかしこの見通しはうまくいきません。

 

 媒介説を捨て、接触説へ向かうとき、それはわたしたちのものの見方の抜本的な変更です。「この世界ってほんとにあるん」「5秒前に世界ができたんじゃないのか」といったような懐疑はこれまではなんとなく筋が通っているような気がしていましたが、これからは不整合なものとみなされるのです。

 接触説の本質は、

 「もっとも基礎的で前概念的なレヴェルにおいて、わたしが世界に関してもつ理解は、わたしによって構築ないし規定されただけのものではない」

 という事実で、

 「世界についての理解は、わたしと世界が「共同的に作るもの」」

 なのです。

 

 続く!

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