本日のテーマは「承認」です。
いつものことですが、にんじんなりの要約であって紹介している本の著者の主張とは異なるかもしれません。
「承認」が気になるので読みましたが
本の内容自体には低評価で、おすすめはしません。
途中で力尽きました。
承認とはなにか
承認とは、他者に認められる経験のことです。
他者とはなにか。それは自分以外の人あるいは人々のことです。つまり、他者、集団、組織、社会等々ですが、そもそも承認などというものを考察する価値はどこにあるのでしょうか。
なにしろ、他者というのはまず、邪魔をしてくる存在でもあります。こっちがのびのびやろうとしてるのにあれをしろだこれをしろだとやかましいのです。すなわち、こっちがどんどん成長して来ているのを、他者は押さえつけてくるのです。世間の目、世間の価値観とやらで!
―——私たちはこういう思想のもと、「自律性 vs 他律性」という対立を育て上げてきました。この考え方は「主体」「自由」といった概念にも大きく影響します。主体とは主体以外のものには影響されない主人公ですし、自由とは他者に邪魔をされないことをいうからです。
自律性vs他律性という枠組みの中にいる私たちは次のように考えます。
- 社会は恐ろしく面倒くさい。しかしどうしても関わらなければならない。
- ゆえに、社会の価値観にある程度、適応・迎合しなければならない。
- 適応とは社会に認められることだ。他者から承認されることだ。
- 承認されようとすることは、つまり「人目を気にする」ことを意味する。
このようにして、私たちは人目が気になってしょうがないのです。しかし私たちが持つ本来的な理想は自律ですから、「人目を気にするな!!」という現実と矛盾した助言が常に頭の中に渦巻いています。「人目を気にするな? できるか馬鹿野郎!!」そう思いながらも、この二律背反に振り回されながら生きている……。
人目を気にするなという声は、「自己実現」と結びついています。自己啓発本ではおなじみの概念ですが、それは次のように要約されるでしょう。:
「人生とは、個人が自己を実現する、一回限りのチャンスである」
しかし、
自律か他律かというのはそれほど自明な問題ではありません。たとえばある人が東京大学に入学したいと思うのは、自分で選んだ結果でしょうか、世間の価値観に合わせた結果でしょうか? むしろ、そうした欲求は「どちらでもある」のではないでしょうか。社会とのかかわりの中で生まれてきたものではないでしょうか。
冷静に考えてみると、そもそも大学というもの自体が他者によってつくられたものです。生まれた時、私たちはなにひとつとして持ってはいません。そうだというのに、「自己実現」というものは、「あなたが本来持っている才能・能力を開花させよ」と命じてくるのです。
ぼくはこのために生まれて来たのかもしれない……。
そう思うのは勝手ですが、恐らくそんなことはないでしょう。それはむしろ、社会とのかかわりのなかで育まれてきたものなのです。
承認という概念は先述した通り、「主体」「自由」などなどの様々な概念と繋がりがあります。世界に対する見方を変えていく意味でも、承認を調べていくことは重要なことなのです。
承認の分析
承認の基本的な構成成分として、著者は少なくとも以下の三つを挙げています。
- 気づくこと(何かの存在を無視しない、素通りしない)
- 肯定的な価値評価
- 受け入れる(拒絶しない)
ここに「肯定的な価値評価」が含まれている点が重要です。
承認を認識から区別した上で――ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に徹することを要請するのではなく、逆に、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより規定的・先行的である、と主張するのである。
理論的には、価値判断が含まれるものよりも、価値中立的なものを土台にしていきたいところです。しかしホネットという哲学者は、こういいます。:世界との向き合い方としては、価値中立的な認識・客観的な認識ではなく、価値評価を含んだもののほうが合っていて、むしろ客観的な見方はそれから逸脱したものだ。世界を客観的に見た時、既に私たちにとって世界は「疎遠」なものになってしまっている。
「価値評価を含んだあり方が基礎的なものだ」というのはわかるとしても、それは「承認が基礎的であること」と無関係です。何故なら、否定的な価値評価というものがあるからです。
肯定・否定云々の前に、関心を寄せるという態度があるはずです。
【関心を寄せる → 価値評価(肯定?否定?) → 価値中立的な認識】
なぜ肯定的な価値評価である承認が基礎的であるとみなされるのでしょうか?
著者はピアノ発表会における我が子の演奏を例にあげて、「認識に先立って、すでに取捨選択が行われている」といいます。私たちは視界のすべてを見ているのではなく、関心のあるものを切り取って、そこだけを見ているのです。
※しかし、たとえばペンギンが広い海の中でシャチに注目するのはシャチの実力を肯定的に認めているからでしょうか? 関心を寄せることが本質的なことであってそれを承認するかどうかはその一側面に過ぎないように見えます。
いや、それどころか、上の図式における価値評価は余計にすら思えます。価値評価云々ではなく、関心を寄せること自体が問題で、価値評価をあいだに置く理由がよくわかりません。ピアノ発表会にしても、関心を寄せるのが我が子だというだけで、別に我が子に対して否定的価値評価をしててもやっぱり他の子どものことは見えないでしょう。
議論が不明確になるのは価値評価ということの実態が謎だからです。価値評価するというのは一体どういうことなのかよくわからないのです。「肯定的な価値評価をする」がわからない以上承認も当然わからないのですが、こういうところを気にしながら読み進めていきましょう。
つまり今のところ、なんで承認の話をするのに「認識に先立つ」話を持ってきたのか理解できないということです。
承認と社会性
人は絆を求める一方で、個人的な願望を充足する・自由に生きたいと思うものです。誰かを繋がりたいと思う反面、それが煩わしくもある。実際、人間と関わるのは面倒なことばかりです。
しかし、人間は無視されることや軽視されることを恐れています。いかに個人的な生き方が優先される社会に見えても、無視される不安があるために繋がりを求めずにはいられないのです。無視される・軽視されることの反対物が「承認」であり、哲学者のホネットは社会生活を「承認をめぐる闘い」だといいます。
※ここでもまた微妙に論点がずらされている気がするのですが、この話の流れでいくと、社会生活はむしろ「孤独との闘い」というのが本質的である気がします。なぜかといえば、基礎となるのはあくまで無視・軽視される不安だからです。この不安を解消するために承認に向かうというのはやや単純で、この不安に対抗するためには承認を求める以外にないのでしょうか? たとえば、無視や軽視をされないためには他者がいなければ問題ないので、不安の解消として自分以外の人類滅亡を目論むことも可能なはずです。そしてそれは承認を求めることとは違います。
もちろんそれは平均的なありかたではないのかもしれません。普通は不安の解消をするためには承認を求めるでしょう。しかしそうだとしても、承認はやはりここでも「選択肢のひとつ」であり、不安以上に重たい存在にはなっていません。
承認の三つの型:愛・人権尊重・業績評価
- 愛とは、「相手から認められようとするいじらしくも苦しい相互の闘い」
- 人権尊重とは、対等な人間として認める/認められること。
- 業績評価とは、業績を公平に評価する/評価されること。
この三分類において、一番目の「愛」は究極の依怙贔屓であると書かれます。二番目の「人権尊重」はそうした依怙贔屓を許さない平等なものです。三番目の「業績評価」は平等な基準であることが求められ、フェアであることが要求されます。
①愛について
恋愛、親子愛、人類愛などさまざまな「愛」があります。
これらは「同じ一つの愛なるもの」の様々に異なる現われなのか。そうではなくて、「愛」という言葉のルーズな使用に起因する混乱した思考の産物でしかないのではないか。
これはつまり、恋愛と親子愛、あるいは人類愛などはそれぞれ別種のものであり、「愛」というものの一様態ではないということです。「親に対する愛が親子愛だ」というような単純なものではないということですね。
この記述にはびっくりさせられます。「なるほど、そういう考え方もあるな」という驚きももちろんあります。しかしそれ以上に、「じゃああなたが最初に書いた『愛』ってどの愛だったんだ」といきなり手のひらを返されたような気がするからです。*1
私たちが取り上げて来た「愛」とはどの愛なのか?
著者は「恋愛」と「博愛」を比較して、博愛が普遍性を志向していることを指摘します。一人を愛する恋愛とは異なり、博愛は広く愛するのです。*2
そういうわけで、承認の三つの型における「愛」とは特別扱いの愛です。*3
|ω╹ ) ちょっと読み進められません。おしまい。