本編第一回はこちら。
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com
- Sein(ザイン)の訳について
- 現存在が選ばれたことについて
- 気遣いと世界内存在、道具
- 世人
- 存在は問う必要があるか?
- 開示性について
- 開示の構造
- 改めてはじめから
- 存在の意味
- 現存在の実存
- まとめ
- 頽落のこと少し
- 実存の三様態
- 内存在 → 実存カテゴリー
Sein(ザイン)の訳について
存在と時間は、もちろん元々は日本語で上梓されたものではない。
ドイツ語Sein(ザイン)が、「存在」と訳出されたものである。故に、これを理解するにあたっては、この差異を闡明しなければならない。端的に言えば、ドイツ語のほうが、含意が広いのである。
一般に、日本語で理解される「存在」は 机がある(机が存在する) である。これを実在判断とも言う。
しかしハイデガーの言うSeinはこれに加えて、属性判断も付け加わる。
空は青い(空は青いのである)
私は嬉しい(私は嬉しいのである)
Seinは主語と述語を結び付ける繋辞としての役割があるのだ。これは「存在」という言葉をもって換言するのは難しい。
要約すれば、
Seinには①事実的存在(「がある」)と②状態的存在(「である」)の二義がある。
「存在」は、『机がある』にとどまらず、それがどんな机なのかという存在の仕方をも含意しているのだ。
だから「存在者」といっても、それはペンとか机とか、物的なものに限られない。青色も、嬉しさも、すべて存在者である。別言すれば、存在者というものを考えたときには既に事実的にも状態的にも存在している。無の空間に、他とは全く独立して事実的にしか存在していないような存在者は無い。
存在はあらゆる存在者と異なる。その存在Seinとはいったいなんなのか、とハイデガーは問うているのである。
※もう最初からザインと訳さずに言って欲しいものだけど、定着しているのかそういう本は見かけない。
現存在が選ばれたことについて
存在の意味を探るため、存在者にアプローチすることに決め、その範例として「現存在」が選ばれた。それは現存在が存在了解を持つためであり、曖昧模糊としていながらも〈存在〉というものについて一定の理解を持っているからである。
他の存在者が存在了解を持たないことは、なんとなく納得できる。その他の動物や虫たちは人間と言葉を同じくしていないというのみならず、文化がまるで違うので、〈存在〉を同じように把握することは難しいだろう。
ただ、不可能だとまでは言い切れない。犬の言葉が発達し、ウォゥンという鳴き声がちょうど〈存在〉にあたるように翻訳されることだって十分ありえそうである。だから、「人間のみが存在了解を持つ」(ハイデガー「存在と時間」入門 (講談社学術文庫))と言いきられてしまうと、微妙な違和感が残る。
赤色という概念は人間だけが理解している、といって、確かに『赤色』という語を理解しているのは人間だけだろう。なにしろ自分たちで勝手にこしらえたんだから。けれど他の生物は赤色なんて見ていませんと言われると変な感じになるのと似ている。
「今のところは〈存在〉について知ってるのは俺らだけっぽいし、とりあえずこの路線で行くか」と思えばいいのだろうか?
※『存在了解を手掛かりに存在の意味を探求する』というのは、現存在は〈存在〉というものの意味をはっきり言い表せずとも持っているから、その漠然とした了解をかき分けて行けば答えにたどり着くでしょう、ということである。
このように、存在了解があることだけでは現存在の優位さは全く無い。だから現存在の特異さは存在了解にあるというよりも『実存』していることにある。これは本論ではまだ出ていない用語であるから、整理しておこう。
実存とは、「おのれの存在に対してなんらかの態度を採りえ、また常になんらかの仕方で態度をとっている」ようなおのれの存在のことである。おのれの存在を了解し、それに対して何らかの態度を採る。そしてそれが終わることなく続いていく。換言すれば、自らの存在了解をおのれで具体化しており、またしつつあるのが現存在なのである。
とはいえ、
こうして、存在問題は、現存在に定位して究明されるほかにないことが、明らかとなった
とするほど、現存在の優位性が示されたとは思われない。現存在が究明の手掛かりになることはわかっても、それ以外に道がないと言うほど強い主張が認められるだろうか。
気遣いと世界内存在、道具
本論ではまだ説明していないが、本論二回目の記事に向けてある程度準備をしておこう。我々は現存在の分析にあたって、現存在が存在了解を持ち、実存するということを見てきた。言い換えれば、現存在は存在の意味をおぼろげながらも理解しており、自らの存在を通してそれを具体化させており、またさせつつある。
現存在は自らの存在に常にかかわっている。
このことをハイデガーは、気遣いと呼んだ。様々な心配事や諸々の雑事に忙殺されているときも、それは究極的には、(自己の存在を)気遣っているのである。これは「自分のことしか考えていない」というようなことではない。いま我々はいちから話を始めようとしており、現存在はその基盤である。しかも現存在は実存するところに特徴があるのであるから、常に自分の存在にかかわっているのは当然である。
このさらなる基盤が、現存在が世界内存在しているということである。「現存在は世界を世界としてことさらに概念的に把握するより以前に、常にすでに世界のもとへ没入してしまっている」これが世界内存在するということである。これはつまり、「世界をおのれに対して外的な対象として認識しておいてから世界のもとへ出かけてゆくのでは決してない」ことを意味する。世界内存在することは、認識するよりも前のことなのである。
ところでそのようなことが可能であるためには、現存在は何かを何かとして区別できていなければならない。このように現存在が「おのれの世界内存在のうちで出会うかぎりにおけるもろもろの存在者とその存在を見てとる作用」のことを、ハイデガーは視と呼ぶ。これは認識作用とは明確に区別される。
現存在は存在了解しているために、視によって世界内存在している。存在了解が肝心で、もしそれがなければ視などできないだろう。なにしろ視は存在者とその存在を見てとる作用なのだから。
現存在以外の存在者には道具的存在者と事物的存在者の二種がある。われわれがまず出会うのが道具的存在者である。世界内存在するとは、常に道具的存在者とすでにかかわりつつあることである。玩具で遊ぶ子どもにとって、玩具は「遊ぶための道具」として出会われるのであって、玩具を構成する木材やプラスチック、金属、合成樹脂等と出会うわけではない。
しかしもちろん、玩具をそのように見ることもできる。道具的存在者とは、道具的存在性を持つ存在者のことであって、あるひとつのものにその性質が固定的に定まっているわけではない。
道具的存在者と事物的存在者を分かつものは配慮的な気遣いである。道具的存在者とは配慮的に気遣われるもの一般を指す。配慮的気遣いがいかなる意味を持つかはこの時点では明らかではないが、少なくとも理解しておきたいのが、「道具」という言葉は、玩具やハンマーなどのように手を使ってどうこうするものばかりではない、ということだ。たとえば雨は、単に空から降下してくる水滴ではなく、道具的存在者としても見られる。
この点をおいて、しばらくはわれわれの馴染みある普通の「道具」を典型例に見ていくとわかりやすい。
さて、道具というものはふつう、それ単独にあることはほとんどない。たとえば筆記具にしても、ペンだけではなく紙がなければ仕方がないし、机も必要だろう。道具はさまざまな道具全体の中にあって、初めて道具として役立つことができる(道具全体性)。
- 道具は「~するために」という手段性を持つ。~するために有用だ・~するために寄与する・~するために役立つ・~するために手頃である……といったような色々な手段性の在り方が道具全体性を構成しているのだ。
- また、釘は板を固定するため、板は船を作るため、といったように道具は他の道具に差し向けられる。こうした道具から道具への波及を指示と呼び、この指示連関もまた道具全体性を構成する。
あらゆる道具は道具全体性への帰属に基づいて存在している、と言える。つまりそれが道具として扱われるには少なくとも何らかの道具全体性と出会われているのでなければならない。これを見てとる作用もやはり視のひとつであるが、これを特に配視と呼ぶ。
配視もまた視であるから、認識作用に先立っている。たとえば鉛筆をナイフで削る場合、力学や物理学や生理学などの理論知識を頼りにして行えば、逆に円滑に削れなくなってしまうだろうし、削るというのがどういうことなのかもてんでわからないままだろう。配視はそれに先立って、より生き生きとしなやかに鉛筆を削るための手順を、それを削りながら見てとるのである。
世人
「道具」によって「道具」が作られているとき、われわれが配慮的に気遣っているのは後者の道具である。前者はむしろ本来的に使用されていればいるほど目立ってくることがない。こうした道具が目立つのは、使い勝手が悪いとか、材料が間違っていたとか、そういった場合である。そのような利用不可能性によって「道具」は姿を現し、時に事物的存在性が現れることもある。
普通、窓はその存在が目立たない。しかし家が火事になって外に出ようとしたとき、窓は邪魔なものになる。このとき、窓はおのれの事物的存在性をあらわに見せつけてくるのである。
必要な道具が手元にないときも同様である。道具のなさは配視によって既に見てとられている道具的存在者の指示の諸連関が破れることである。道具的存在者が有用性を失う時、そこで現存在は改めて道具的存在者と出会うのであるが、それと同時に道具的存在者の指示連関から構成されている世界が表立っておのれをあらわに示す。
適所性がえられるとは、道具的存在者にとっておのれの適用されるべき所がえられることをいう。道具的存在者の全体的指示連関のゆきつく最終目的は現存在である。ハンマーは打つことにおいて適所性を得、打つことは固定することで適所性を得、固定することはたとえば避難所建設において適所性を得、そして避難所建設は現存在がそこで存在するという目的のために存在している。
つまり結局、現存在の「存在しうること」が真の究極目標として、一切の道具的存在者の全連関を規整しているのである。換言すれば、あらゆる道具的存在者はこの究極目的によっておのれの役割を授けられているのである。
※このことが、恐らく道具的存在者と事物的存在者を分ける「配慮的な気遣い」にあらわれている。気遣いとは現存在がおのれの存在を気遣うことであった。
したがって、現存在がなんらかの道具を使用することができるのは、彼がこの究極目的へと収斂してゆくあらゆる道具的存在者の全体的な適所性の連関(適所全体性)を常に先行的に了解してしまっており、この先行的了解が適切な道具的存在者を指示するからにほかならない。そしてこうした「指示」を与える先行的な「了解作用」がそのうちで行われる場が世界と呼ばれるものなのである。
ハンマー → 打つこと → 何かを固定する → 避難所を作る、という適所性を逆にたどろう。現存在の存在しうることが、避難所を意義あるものにし、避難所が板などを固定することを有意義化し、固定することが釘など打つことを有意義化し、釘などをうつことはハンマーを有意義化する。ハイデガーはこの作用の連関全体を有意義性と名付け、これが世界の構造をなしていると言った。
ところで、世界内存在は常に空間性と共に構成されている。空間性こそ、世界の構造であるとはいえないのだろうか? 結論から言えばそうはならない。むしろ世界の構造が空間性の母胎であって、空間の内に世界が存在しているのではなく、空間がむしろ世界の内で存在しているのである。
さて、根源的な世界内存在にあたっては、現存在はまず道具的存在者と出会う。現存在が出会う道具的存在者の空間性は””近さ””である。
現存在が道具的存在者から遠ざかっているということは、現存在と道具的存在者が距離的に遠ざかっているということではない。健康な人はたとえ病院に住んでいるとしても、病院から遠ざかっているのである。入れ歯をしている人が食事をするとき、義歯は遠ざけられており、むしろ近づけられているのは食物のほうである。また、眼鏡をかけている人にとっては、ふつう眼鏡は最も遠いものだろう。より一般的に言えば、道具的存在者は支障なく用いられていればいるほど遠ざけられ、それらの道具によって製作されるべきものとか適用されるべきもののほうが近づけられているのである。
このように「遠ざかり」は現存在の存在様式の一つを成す。そしてここでいう遠ざかりは距離ではない。
では距離としての空間性とはなにか? それは現存在にとっては道具的存在性を離脱した、つまり事物的存在性に属する第二次的な意味の空間性なのである。われわれのよく知る距離の空間性は、世界内存在における空間性にとって二次的である。
さて、現存在は道具的存在者や事物的存在者だけでなく、他の現存在(「共現存在」)とも出会う。現存在は道具的存在者に配慮的な気遣いをしていたのに対して、共現存在には顧慮的な気遣いをしている。
顧慮的な気遣いの第一様式は、他の人々から気遣いを奪って、彼らの配慮的な気遣いを引き受け、彼らの代理をつとめることである。いわば他者の代わりに気遣ってやることだ。たとえば電車の乗客は運転の労を免れている。
顧慮的な気遣いの第二の様式は、代理をつとめるのではなく、他人にその他人自身の本来的な実存に目覚めさせることである。他人に実存を悟らせてやることである。
現存在が本来的に自己自身として存在しているのではなく、他の人々の意向が彼の存在を意のままに支配していることがある。このときその他の人々の存在の仕方を「世人」と呼ぶ。これは特定の他者ではなく、世間の評判や風評、流行、慣習であり、独特な個性・独創性・自主的な思索・独自の行動を容認しないものである。世人は出来合いの判断を前もって与えてやることで現存在が負うべき存在の責任を取り除いてやる(「存在免責」)。
日常的な世界内存在においては「世人」という様態こそが主役である。『世人という在り方は現存在の根源的な存在様式として、現存在の積極的な存在機構をなしているのである。』
※顧慮的な気遣いの第一様式は、いわば評判・風評・流行・慣習などの片棒を担ぐ、ということだろう。
世界の「内に存在する」こと。
内存在という現存在の在り方は、開示性という根本的な特徴を持っている。現存在は世界の中で存在者に出会い、それらを道具又は自然物として理解し、存在者を明るみに出す――逆に言えば、人間以外の石・植物・動物などは世界すら持たず、他の存在者と出会い、それを理解するという可能性は閉ざされている。
現存在だけが「この存在者」「あの存在者」と出会う。そしてそれはおのれの存在を明るみに出すということでもある。これを開示性という。
現存在がおのれの開示性であるとは、現存在がおのれの存在に対して了解を持つこと、そして自分と世界を自分に開示し、したがってまたその世界の中で他の存在者を照らし出す存在であることを表している。
現存在であるということは、おのれの開示の遂行状態ということである。開示性は現存在に固有のものであって、結局のところ認識作用や意識作用も開示性を基にした一つの派生でしかない。
現存在が存在しているときは、内存在の開示の場が切り開かれる。その場面を構成する第一が、情状性と呼ばれるものである。これはいわゆる気分のことで、これが根源的な開示性の在り方を指す。気分というのは浮かれていようが、ぼんやりとして無気分であろうが、ともかくもそういう気分にあることで現存在が存在しているという事実を端的に開示する。そういう気分であるというこの存在の事実は、回避しようとしても付きまとう免れ得ない事態なのである。
現存在は自分が選ぶ選ばないにかかわらずこの存在が自分に委ねられているという、まったく自分の意のままにならない情状的な事実性を「現事実性」と呼ぶ。現存在は自らが自らを創造したわけではなく、なにやらわからないままそこに存在している(被投性)。
要するに、『情状性は現存在を、被投性という在り方において開示している』。
存在は問う必要があるか?
ちょっと砕きつつ、そもそものところを書いておこう。
そもそも、「存在」の意味なんて問う必要があるんだろうか?
存在というのは、まぁ一応把握されていた。すなわち、『物とか事象とかが、なんかまぁまぁの間、そこに現前していること』である(恒常的現前性)。
- 机が存在する――おぉ、これが机か、ほぉなるほど、バンバン、おぉあるある、というような。
- 犬が存在する――おぉ、これが犬か、ほぉなるほど、ポンポン、おぉあるある、というような。
- 川が存在する――おぉ、これが川か、ほぉなるほど、パシャパシャ、おぉあるある、というような。
もうええやんこれで、と何故いかないのか。「存在してるってそういうことやん」。
たとえばひとつ問題がある。:この状態だと、存在するって全く大した概念じゃない。机があろうが犬があろうが川があろうが、はいはい存在してますね、であって、存在はそれ以上何も言わない。ただ目の前にある、それだけ。
でもそれだと「犬が存在する」も「机が存在する」も「川が存在する」も同じことになってしまう。犬がいるのと、露出狂がいるのはやっぱりちがうだろうが、現前してる点では変わらない。
「あっ、露出狂(露出実践中)がいる!」と言ったとき、
ふむふむ露出狂がいるな。露出狂とはどうしても露出しなくっちゃ気が済まない人のことだ。よし、逃げよう。
とはまぁならない。そもそも露出狂が存在してる時点で、私たちは露出狂との接し方を心得ている。逃げたり、じっくり観察したり、「俺も露出が趣味でね」と言ったり対応は様々だろうが、大体存在してる時点で既に決めてしまっているのだ。
要するに、恒常的現前性だけでは種別性を捉え切れない。ハイデガーが問題にした「存在」はそのような種別の「在り方」や「働き」だといえるのである。
彼が不満だったのは
『存在する以上そいつは他のものとのかかわりにおいて存在している』のに、
上の単なる「現前してます✌」という意味での存在だと、
そのかかわりをすべて切り離してしまう
ということだ。
そいつが存在するということは、そいつが生きている・生きてきた環境と切り離して考えることはできない。だからハイデガーのいう「存在を了解している」というのは別に神秘的なことではなくて、
こっちに露出狂がいます
と言われて、うへぁどうしよ……となる、アレである。私は露出狂の存在を了解している。なのでそっちからは帰らない。
そしてその存在を了解するということは、別の道の存在を了解することでもある。いざとなれば懐に忍ばせた防犯ブザーの存在も。
存在を了解するということは存在者の緊密な網の中にダイブすることである。
開示性について
「存在」とは単に目の前にありますという話ではない。それが存在していると知ることは、様々な存在者の連関に放り込まれることである。そういう「存在」っていうのがどういうものなのか分析して行こうよ、という話なのであるが、今回はそれをもう少し掘り下げて行こう。
目の前にあるっていう場合もそうだが、目の前にないっていう場合もある。単なる想像だって存在者のひとつだ。というわけで、あなたの家の最寄り駅をちょっと想像してみよう。これに対してハイデガーはふたつ質問を投げかける。
「想像において自分はどこに向けられているか?」ちょっと妙な質問だが、要するに何について考えていますかと訊いていると思ってよい。いや、最寄り駅を考えろって言ったのアンタだろと誰もが思う。「最寄り駅について考えてんだよ」その通り。あなたは最寄り駅について考えているはずだ。それは決して、あなたはあなたの妄想について考えているわけではない。最寄り駅そのものについて考えている。これが第一に重要なポイントで、その想像において最寄り駅の屋根の色を間違って記憶してようがなんだろうが、ともかくあなたは最寄り駅そのものについて考えている。
ところで、事情は最寄り駅が目の前にあったとしても同じことである。いまあなたは現に最寄り駅にいて、最寄り駅を眺めている。まさか全部が幻想ということはおよそありそうもないが、可能性としてはありうる。あなたは砂漠でオアシスを見つけた時のように、最寄り駅の幻を見ているのだ。……としても、そのときあなたの意識が向いているのは最寄り駅そのものであって、あなたの頭ン中ではない。
最寄り駅そのもの、というのは最寄り駅全体ということでもある。あなたが想像した最寄り駅が、どこから眺めた景色になってるんだか知らないが、まさかハリボテではないだろう。ある程度奥行きを見込んでいるだろうし、中にある弁当屋がゴッソリ引きちぎられてそこだけ穴があいてることもなかろう――わかるだろうか? 多分意地悪な人なら、こう言われてすぐに売店を破壊したことだろう。ほら、破壊できました。穴が空きましたよ、と。いや、でも言いたいのはそういうことではなくて、われわれは事物を見る時には一側面しか見ることができないが、見えない側面も加味して事物全体として見ているということである。
ところで、この点ももちろん目の前にあったって変わらない。「やあ」と言って友達が話しかけてきたとき、彼の背中は見えないが、まさか背中がないなんて思っちゃいないだろう。意地悪な人なら「思うぜ😎」と言ってくるだろう。いや、思う人なら思う人でいいが、もしあなたが誰かを見た時に背中がぶった切られていると想像している危険人物だったとしても、そのときはぶった切られている背中、つまり見えてない部分のことも考えているだろう。
ハイデガーの発するもう一つの問いがこうである。「こうした想像はそれを遂行している限りにおいていかなる性格を持っているのか」と。
ハイデガーには悪いが、こんなこと質問するようなゼミに参加していなくて良かったなと思えるぐらい、なんて答えていいかわからない。どういう答えを生徒に求めて発問したんだ? 『マクドでポテトを購入した、その遂行はいかなる性格を持っているのか』と問われて、『いや知らねえよ、腹減ってたんじゃねえの』と匙を投げたくなるぐらい、『どういう性格?』って曖昧な質問である。
文句を一通り述べたところで、ハイデガーの答えを見よう。
「想像は~のもとでの存在(Sein-bei)という性格、より正確には、われわれが駅のもとで存在するということという性格をもっています」
一口にはよくわからない。にんじんもずっとわからなかった。しかしこの記事の冒頭を思い出していただければわかるように、彼の言いたい「存在」とは、単にそこにあることではなかった。駅という存在者は、他の存在者との連関の中にある。そして「~のもとでの存在」というのは、それを私たちに引き受けさせた表現なのである。
駅を想像するとき、『私たちは駅「のもとで存在する」』。あなたにとって駅は通勤に使うものかもしれない。あるいは電車には乗らず、そこで働いているのかもしれない。あなたしか知らない使い道もあるだろう。まぁどんな使い方にせよ基本は電車に乗るところだろうし……という、あなた連関の中にあなたは立っている。そのもとで、駅を想像しているだろうということである。
にんじんなりにかみ砕いていれば、その駅は骨だけではなくてあなたなりの肉付けがされている、ということだろうか。
この「~のもとでの存在」というのは、私たちにしかできない。*1
つまり、机がドアのもとで存在する、といったことはできないのだ。いや、できるだろうが、と机をドアのそばに引っ張ってみても、それはドアのもとで存在していることにはならない。それは上述の存在の意味を考慮していただければ、すんなり理解できると思われる。机はドアの連関に飛び込めない、ただの物体なのだ。現存在だけが、この「~のもとでの存在」という存在の仕方をすることができる。
さて、我々はなにか存在者のことを思うとき、この存在者をその思った通りのやり方で与えたわけだ。お前が思うんならそうなんだろう、お前の中ではな、という可能性もないことはないが、少なくとも全力は尽くした。そいつはそういうやつなのだ―――ここに、『存在者をその存在において見る』という可能性が開かれている。
その存在者はいろいろな仕方で現れてくることだろう! しかしともかく、その現われが「存在者の存在」と表現されるものなのである。存在者の現れ方はいろいろ変化するため、それを存在者そのものによって基礎づけることはできない。現存在のふるまいと、それに相関した事物の現れ方(存在)を見なければならない。
逆に言えば、存在者と出会えるのは現存在だけである。ここにこういう存在者がおるで、と言ってやれるのは現存在だけなのだ。ハイデガーはこの点を重く見て、「現存在はおのれの開示性である」と言っている。要するに、現存在は存在者の照明である。
開示の構造
開示性とは現存在の本質であり、存在者を「こいつはこういうやつなんだ」という存在者の連関に引きずり出すことだった。この開示性は情態性、了解、語りという三つの構造を持っている。
情態性はいわば気分である。現存在はつねに何らかの気分にある。気分というのは恐れとか、怒りとか、喜びとかそういったもののことだ。これが開示性となんのかかわりがあるのだか、ふつうには分かりづらい。しかし「恐れ」を取り上げることで、少しわかりやすくなる。
- 現存在は恐れる。恐れているからには、そこには現存在を脅かす有害性をもった存在者がいる。
ここに自分の存在を気遣う現存在と、恐れている対象である存在者が開示されている。上の順序から言えば、恐れることは恐れているものに先行する。恐れというものは「将来の悪」を確認して、次にそれを恐れるといったことではない。恐れる→恐ろしいものが恐ろしいものとして浮かんでくる。
しかしこの点は、恐ろしくわかりにくい。
たとえば光が一切入らない真っ暗な空間にいるとする。どこかを目指して歩いているが、ふと後ろから何かが来ていると思って恐れるとしよう。この場合、シザーマンみたいなヤバい何かが来ている→だから恐れているのではないのか? しかし事情はそうではないという。根源的には、まず恐れる、それから、自分を追いかけてくる存在者の存在を明るみに出す。
ハイデガーが言いたいのは、何かを意識したり、想像したりなど、『すべての志向的作用(~について、の作用)はそれ自身でその対象に関係する』ということである。感情だって同じことで、恐ろしいと思う以上は何かが恐ろしいんだろう。「何かある、あれはトラップだ。引っ掛かったら八つ裂きだ。恐ろしい」という理性的な認識は、感情というものが客観化を土台にして成り立っていると思っている。しかしそうではなく、むしろそれは状況を単に捉え直しただけの二次的なものであって、より根源的なのは単に「気分」なのだ。より根源的なのは「そういう気分にあること」(情態性)なのだ―――と、ハイデガーはこう言いたい。
そうして、そのような気分は常に「身体を以って」起こる。即ち、身体というのは気分が起こるための前提条件・基盤のようなものなのではなく(身体→気分)、身体は常に気分に影響される(気分↔身体)。これは情態性という段階で、人間を身体を含めて全体的に捉えていることをも示す。
了解とは、ハイデガーの言葉を引けば、存在可能性の存在遂行のことである。現存在が、現存在に与えられた可能性を存在する仕方である。
開示というのは存在者の連関に放り込む、または飛び込むことであった。情態性は存在者と現存在を明るみに出したが、これを明るみに出すということは、これと関わる連関をも明るみに出すことなのである。ここに情態性が了解と表裏一体であると言われる所以がある。
開示、開示といってもどのぐらい開示できるかは人による。それはまさにその人の能力であって、いわゆる無能な人は徹底的な開示をしていないために、存在者同士の連関、裏を返せば、それに対するおのれの振る舞いを心得ていないということなのだ。『了解は何かがどういう立場にあるかということの被発見性であり、環境、私固有の存在、そして他者の存在の事情の被発見性である』。(被発見性は開示性のことと思ってよい)
たとえば、恋人のことを理解している、わかっているというのはどういうことだろうか。端的にいえば、その人がどういう立場にあるのかを知っていることであるし、裏を返せば、適切に対処できる(可能性)ということである。そうした可能性の中にあるのが、つまり了解なのである。
現存在のこの「可能性」は、ふつうの意味での可能性とは少し性質が異なっている。たとえば、木というものは伐採すればテーブルになる可能性があるが、テーブルになったらもはや木ではない。だというのに、現存在は可能性を遂行してもその可能性は消滅せずに可能性のままであり続ける。これが現存在固有の可能性である。
さて、了解とはいわば事情をわきまえることである。正確にはおのれの可能性という存在の仕方であるが、たとえばゴムボールがあれば当然投げる可能性も出てくる。しかしその可能性はおのれとゴムボールだけでなく、部屋の状況も関係しているのは当然である。「このように了解はおのれの可能性を周囲の状況を含めて描きだすという性格をもって」(存在と共同―ハイデガー哲学の構造と展開)おり、ハイデガーはそれを企投と呼んだ。
この企投はもちろん、了解と同様に、意識に思い描くこととは違う。可能性とやらは頭の中でこういうことだ、こういうことだとするものではなく「そのような空間に投げ入れられている」という種類のものだ。だからこそ企投と呼ばれる。私たちは投げ入れられている。
※しかし現存在がおのれの存在を計画によって規制しようとすることもある。このとき現存在は自らの可能性を、自らをただのモノの可能性のごとくに理解している。これが非本来的な了解であり、これは本来的な了解と対置される。しかし今は気にせず、開示性にのみ着目しよう。
さて、われわれは情態性において存在者とおのれを開示し、さらにそれは裏返せばおのれの存在可能を了解するということだった。このとき、存在者はいわば世界から切り分けられている。この切り分けられたものが「意味」である。
現存在はすでにある一定の可能性の空間のうちにある。これが現存在の了解しうるもの(了解可能性)であり、語りとは、その可能性のうちから特定のものを現実化することである。語ることは、(1)語られているもの、(2)語られたことそのもの、(3)伝達、(4)表明の四つから構成される。
たとえば「椅子がクッションつきだ」といったとき、語られているものは「椅子」であり、「クッションつきであること」が語られたことそのものである。ただし、(1)別に主語である必要はなく、それどころか多くの場合そうではない。(2)述語というわけではなく、語られているものを「~として」見ることがこれにあたる。
ここにおいて、他者と「椅子のもとでの存在」が別れる(それぞれの「~として見る」)。そして語りは本質的に伝達であるから、分かち合う他者がいる。そして語りは常に音調・抑揚・テンポ・話し方を伴うものであり、世界について語るとともに、おのれについて語ることでもある。これが(3)と(4)である。
※ここには「言語」が既に用いられている。
※語りにも本来的/非本来的という区別があり、本来的な語りは「詩」であるとハイデガーは言った。理論的な語りはむしろ非本来的で、詩の言葉は情態性をも語りだす。『詩的言語こそがあらゆる言語の始源であって、日常的言語はそれが平板化されたものでしかない』(存在と共同―ハイデガー哲学の構造と展開)
改めてはじめから
不用意な言い方をするかもしれないから、個人的な感想というぐらいで、参考にとどめてもらうのが良いと思う。
〈存在〉一般について記述しようとしたのが「存在と時間」という本だった。
その〈存在〉というのは、いわゆる日本語の「存在」とは少しだけ意味が異なっていることも今まで見て来た。椅子が存在する、椅子がある、という「~がある」の〈存在〉に加えて、空が青い(のである)という「~である」の〈存在〉もあった。
空という存在者は青いという〈存在〉の仕方をしている、と言い換えれば、存在者というものはなんであれ、存在するという以上、何らかの〈存在〉の仕方をしている。椅子の場合も、椅子が存在している、といえば、茶色だったり、机の上に乗せられていたり、あるいは誰かに担がれていたり、変な臭いがしたり、彫刻刀でバカと彫られていたりするだろう。このように、椅子という〈存在〉は他の存在者と緊密に関係し合っている。その連関の構造を解き明かさんとするのが、〈存在〉一般の意味を考えるということである(これは「世界性」とは少し違う)。
ハイデガーのスタート地点は『現存在』である。これがまたわかりにくい。確認しておかなければならないのは、現存在というものはそこへ置いた時点で他の様々な存在者と関係を持っている。いちからスタートしたいと思うのに、『現存在が存在する』と言っただけでとんでもないほどのことを前提しなければならない。「世界」も既に考えられていなければならず、それを指摘したのが世界内存在という現存在の存在の仕方である。スタート地点からすでに関係の渦の中に飲み込まれているため、飲み込まれているということも含めて、そこをスタート地点にしなければならない。現存在が世界内存在しているということが、出発点である。
ところでこの現存在という登場人物はなんだろうか。①コイツはそもそも何者で、②コイツはなぜスタート地点に選ばれたのだろう? どちらも厄介な問題で、『存在と時間』やその解説を読みながら考えなければならないことであるが、特に鬱陶しいのが①だとにんじんは思っている。現存在って結局なんなのか、ハッキリしないのである。
一般的に現存在というのは人間のことだと言われている。実際、インタビュー記事でも、轟孝夫さんという方が、
Q: では本題に戻りましょう(笑)。言葉遣いの難解さの1つの例として解説していただきたいのですが、『存在と時間』でハイデガーは「人間」のことを「人間」とは呼ばずに「現存在」と呼びます。でも、なぜ「人間」ではいけないのですか?
A: 「人間」というと、あの人もこの人も「人間」ということでは同じになってしまうでしょう? でもハイデガーに言わせると、人間にとって本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、絶対的に異なった存在であることなんです。
と答えておられる。現存在というのは、個別的な、私たち人間のことなんですよというわけだ。しかし当たり前のように「現存在する」などという言葉を使ってくる。人間するってどういうことなのだかわからない。また「そのつどの現存在」という言葉も出てくる。そのつどのワタシ・カレということなのか? しかも現存在は事物的存在者のように捉えられてはいけないともいう。少なくとも哲学を専門にやっている人が気軽に言う「現存在と人間はまぁ同じですね」というのは、多分感覚が違う。
だから、現存在とは普通の人間のことではない。もし現存在がただの人間なら、生まれた時からもちろんそいつは現存在ということになる。だが赤ん坊は、徹底的に未分化であって、『公共的振る舞いのうちに社会化』などされていない(世人自己)。要するに現存在はある程度社会化されている必要があるのであって、単なる有機体としての人間は「現存在」を「獲得する」のである。現存在を持たない人間もいるのだ。
だから現存在というのは正確には人間というより、
人間が「人間」になった
といったような意味での「人間」のことであって、単なる人間のことではない。現存在といった時点で既に社会化されているから、当然他の現存在がいることも前提されているし、存在者間のネットワークについてもある程度理解している(存在了解)。
人間という有機体は、社会化されて存在して初めて、そのうちに現存在を持つ。
ハイデガーはこの「現存在」の「世界内存在」というごくごく当たり前のことを精緻に分析していって、かき分けるように前に進んでいく。現存在がなによりもまず「世人自己を持つ」などといったことは社会化された人間だということを思い出せば、ごくごく当然の指摘である。けれど現存在=人間だと考えると、まるで社会性が添加されたように感じてしまい、「でもそれ証明できるの? 机上の空論だよね」と思ってしまう。
ハイデガー自身、自分の言ってることが証明できるかということについて話すことがあるが、ちょっとベクトルが違う。たとえば「世界の世界性」つまり実業界とか、学界とか、そういう色々な世界が共通して持つ構造……これを指摘するとき、ハイデガーはその共通構造を別の知的生命体にわかるように伝えることは無理で、似たような現存在相手だからこそ理解し合えるというようなことを言った。
けれど、現存在が世界内存在しているとか、存在了解があるとかは、「そうですよね?」という内容であって、ある程度、もとの現存在という言葉に前提されていたことを明示したに過ぎない。ハイデガーは上に組み上げているのではなく、下に掘り下げているのだ。いろいろ勉強してみて、にんじんはそう感じるようになった。公理的に、こうで、こうで、こうなって、と言ってるのではない。「人間」ってそうですよね? と言っている。
私たちの活動の地盤である『生活』を理論的に基礎づけようとしているのではない。そんなことは無理で、おそろしいほど複雑だから、それを体系化しようとする努力をやめろと警告したのがウィトゲンシュタインであるが、ハイデガーは「構造がある」といった。地盤を理論化してやろうというのは無理だから、その通り記述してやろうということで、そこにハイデガー流の現象学が出てくる。
現象学というのは元々、見えているものを見えている通りに記述していこうという思潮である。ハイデガーはこれを改良した。そう綺麗にことが運んだはずはないが、こう考えると随分すっきりする。
- 作者: ヒューバート・L.ドレイファス,Hubert L. Dreyfus,門脇俊介,貫成人,轟孝夫,榊原哲也,森一郎
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 2000/09/01
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存在の意味
机が存在する。そう言っただけで、その背後に様々な関係が潜んでいる。周りのものと一切関係なく独立に存在しているようなものは、それこそ存在しない。
「存在」の意味を明らかにするためには、
- 「コレが存在するよ」といったと同時に展開されていることが判明する様々な存在の仕方を、分けてやること。これとこれは同じ存在の仕方、あれとそれは同じ存在の仕方だな、と言えるようにすること。 机が存在している―――目の前に机ガアル。机は茶色デアル。机の上に椅子が乗っているのデアル。その机は木から作られているのデアルーーその様々な存在の仕方を区別してやること。グルーピングすること。
- 分けられた様々な存在の仕方が、すべて「人間」(現存在)に関係しているということ。そうして結局それが「時間」に関係するということ。 この「人間」というのは単なる生物としてのヒトではない。これについは補論⑧を読んで欲しい。
この二つのステップを踏もうとする計画があった。結論からいえば『存在の意味とは時間である』なのである。現存在分析は、その道の途中であり、ハイデガーの主著である存在と時間はここにおいて絶筆となった。しかし彼はその後も、存在の意味について考え続けた。
「人間」に関するこれまで積み重ねられてきた分析には、問題点がある。その問題とは、ドレイファス/テイラーの指摘する媒介主義という考え方である(にんじんと読む「実在論を立て直す」 - にんじんブログ)。われわれの多く、というよりほぼ全員はこの考え方に縛られており、今もなおその支配下にある。概略を述べれば、媒介主義=内-外構造のことで、
- 私という独立した主体と、それに対して発生する客体としての世界。
- それが交わるには主体の客体の間になんらかの媒介が必要であり、「表象」「言語」など様々なバリエーションを主張する哲学理論が作られてきた。
ここには大まかに言って、
(1)明示性 → はっきりとした基礎。はっきりとした導出。明確な出発点。
(2)心的表象 → 入力・出力というコンピュータ的な心のモデル
(3)理論的全体論 → どんなものにも主観/客観に基づく理論がある。
(4)第三者性と客観性 → 第三者的な理論的見方 > 実践に参与する見方
(5)方法論上の個別主義 → 「私」を基礎的な所与とみなす考え
という伝統的勘違いが含まれる。
(1)’ 我々の日常の了解を全面的に明示することはできないし、
(2)’ 表象・形式化がともに不可能なものが存在するし、
(3)’ どんなものにもこのやり方が通じるわけじゃないし、
(4)’ 実践に参与することを軽視しているし、
(5)’ 究極的基底はむしろ社会的な文脈にあるのだ。
というわけで、このあたりを回避しつつ、人間存在についてもう一度練り上げていかなければならない。
現存在の実存
現存在 = 「人間」。
この「人間」を単なる有機体としての人間と考えるのは誤りであって、社会性のある人間のことだということは前回の補論⑧において確認したところである。けれど、その社会性というのは明らかに程度の問題であって、どこからが現存在だという決まりはない。人間というものが世界にあると仮定して→それから社会性というものを考えているわけではなく、初手から「現存在」に向かっていることは注意しなければならないと思う。
さて、次の状況を想像してみよう。
現存在が黒いものを身にまとって箱に入った人を「見てあげて~」と言っている。
こういう風な振る舞い、つまりは現存在の存在の仕方のひとつをしていたとしよう。上の文を見た私たちは、これがどんな状況なのか理解できる。誰かが亡くなったんだろう。葬式をするんだろう。みんな黒ネクタイをしてる。葬儀場かどこか知らないが、通夜をやって坊さんが来て、火葬するんだろう……。
上の文を見てこういう想像ができなかった人でも、この記事が読めている以上は日本語がある程度使えるわけで、
人間は、自らの存在することの何であるかの了解を自らの存在の仕方によって具現している点で、特異な種類の存在者であることがわかってくる。
つまり、自分はこういう連関の中にいます、こういう繋がりがありますと自らが了解している通りのことを、実際にする。「お焼香お願いします」と言われて作法がわからん場合も当然あるわけだが、わからんならわからん通りにやる。けれどそれがわからんというのがわかるのは、葬式という文化に自分がいることを照らしたうえでのことである。そうでなければ、なんで灰を指でつまんで移しかえるなんてことをするだろう? 『焼香』じゃなけりゃ到底やらない所作だ。
しかしながら、にんじんはハイデガーのこの点が理解できないポイントでもある。これってそれほど特異なことだろうか? たとえばコウテイペンギンは極寒の南極で寒さをしのぐため、全員で円陣を組む。彼らだって『自らの存在することの何であるかの了解を存在の仕方によって具現している』のではないのか?
ヒナは海の冷たさに耐えられる羽毛がまだできていない。ふわっふわで、直に水が触れたら凍死する。だから当然のごとく、親とは異なる存在である。それはたとえば水を目にしたときに、親みたいに飛び込もうとしないという『存在の仕方』で明らかになることだろう。
現存在の活動――現存在の存在の仕方――は、現存在として存在することの何であるかについて現存在がとる立場を表明しているのである。
なぜこれが「人間」に特異なのだろう? ここがいまいちわからない。ペンギンだって存在了解を持って、つまり、『ボクは海に飛び込んだら危なそうだな』とでもいうべき存在の仕方をとるはずだ。そうしてそれは、そのヒナペンギンのとる立場を表明している。そうではないのか?
だからにんじんとしてはむしろ、現存在というのは「人間」だけではなく、どこまでかはわからないが、少なくとも「生物」……存在了解を持っている生物、ぐらいに言ってしまっていいのではないかと思う。つまり、ぼんやりとした『存在者ネットワーク』ができあがっている生物は、全部現存在だ。
ペンギンはあんまり身近ではないから、犬を考える。父親が話しかけると喜ぶが、自分が話しかけても喜ばない。母の言うことは聞くが、父の言うことは聞かない。血が出るほど噛むのは父だけだ。存在了解を持っていないのか? これで存在了解を持っていないのだとすると、むしろ人間が持っているかすら疑わしい。
このことを以て、以後にんじんは生物も含めて〈現存在〉と呼ぼう。
とはいえ、現存在を〈現存在〉に広げた時、ちょっと怪しくなるのが実存である。
「現存在が何らかの仕方でそれへと態度をとることができ、つねに何らかの仕方でそれへと態度をとっているその存在を、われわれは≪実存≫と呼ぶ。」
とハイデガーは言っている。我々は冒頭の議論のように、自分たちがある種の「日本文化」にいることに自覚することができるが、はっきり言って犬ですらそれは怪しい。
たとえば、犬が『ン~、そろそろこのドッグフードは食べ飽きたワン』みたいなことを感じることはあるかもしれない。しかし、『食べること』それ自体について考えをめぐらすことはないだろうし、まだ与えられてもいないエサについて「ちょっとこの一時間は宗教的な事情で飲食は制限しています」と考えることもちょっとなさそうだ。エサを出されてようやく「今はいらねえよ馬鹿野郎」と思うことはあるにしても、エサが出てくる前から「俺はもっと塩味がきいてねえと食わねえんだよ」とこだわりを見せることはありそうにない。エサが出て、塩味がきいてないので「いらねえよ」と思うことはあるかもしれないが……。
<文化が実存?>
現存在を人間としたのは行き過ぎだとは今も思うが、実存まで条件を入れられるとちょっと人間の他は思い当たらない。というか厳密にいうと、われわれはわれわれ以外のことを知らないので、実存しているかどうかなんてわからない。
しかしながら、驚くべきことが書いてある。
人間と同様に文化も実存する。文化の振る舞いのうちには、ある文化であることが何を意味するかについての解釈が含まれている。ハイデガーによれば、科学のような制度もまたその存在の仕方としての実存を持つし、……(略)
なんと文化や科学も実存しているのだという。いよいよ実存がなんだかわからない。
話のついでだから、ちょっと「葬式文化」について考えてみよう。葬式文化のふるまいってのは、たとえば焼香をすることだ。焼香をする意味など知らんし、今の筋ではどうでもいいが、それが『なんか雰囲気出るし』だったとする。ちょっとつまんでチロチロやると良い感じに煙が出て雰囲気が出るわけだ。所作は大事である。
で、葬式文化のひとつである焼香という振る舞いを行うのは、明らかに人間である。文化というオッサンがいるわけじゃあるまいし。
焼香をする意味は、ここでは『煙が出てなんかいい雰囲気』だったことを思い出そう。参列したボクはそんな宗教的な意味合いなんかどうでもいいから、煙のことなんか無論関心がない。ピッピッと適当に済ます。すると煙が立たない。
その行いをツイッターで呟いたら炎上してしまったとしよう。なんか偉い感じのインターネット坊主が出て来て、ご丁寧に焼香の所作を教えてくれた。そうしてあなたのやり方は間違ってるんですよ、と教えてくれた。
……にんじん版焼香文化の振る舞いのうちには、にんじん版焼香文化であることが何を意味するかについての解釈が含まれている。
そう言われればそうであるような気がする。煙が立たない所作をとったのは文化理解が薄いせいだ。だがこのままでは、何かになったとしても、あくまで「ボクの実存」になってしまう。
※「ボクは葬式なんてどうでもいいんだよ。そういうのを気にしない男さ」と思って焼香を適当にやったんなら立派な実存だと思う。空気は読めないが。
文化が実存するんだから、多分集団的なことに違いない。そうすると、『典型的な振る舞いのうちに何を意味するかについての解釈が含まれる』ということになるのが自然である。そして恐らく、文化が実存するというのはこの意味である。
もしも、大抵の人が焼香を棺桶にぶつけるとしよう。それも、いたるところの葬式でそれが見られる。坊さんがいくら止めても聞かない。いやいや焼香というのは伝統的にこういう意味がありまして~ などといっても駄目だ。『典型的な振る舞い』=『棺桶にぶつけること』になってしまっている。
普段はあどけない顔して世間話してるあの娘
貴方が片想いしているあの綺麗な女性
貴方にもし年頃の娘さんや姉・妹がいて、いま葬式に出ている場合
貴方と別れたあの娘
貴方の将来の恋人や結婚する相手
貴男が憧れているあのお兄さんやオジサマ方
全員でないにしても、たとえば上記の大抵が棺桶に焼香を投げつけるわけです。しかも当たり前のように。典型的な振る舞いと呼ばれるぐらいに、フツーにそれが行われているのです。
たとえば焼香を投げつけて帰って来たママンに息子が「なんであんなことするの?」と純粋な瞳で訊いたら、たとえばママンはこんなことを言うのです。「出航する船からテープ投げをすることがあるでしょう。死んだあの人はもう先には進めないから、前に進む私たちが、テープと同じように灰を投げるのよ」
……なんて言説がバーッと広がり、みんなそういう風に言い始めたら……:『典型的な振る舞いのうちに何を意味するかについての解釈が含まれる』
そして文化は変わっていくのです。
そういう意味では実存とは、変化の契機といえるかもしれません。そこにあるネットワークを変えてやろうとする、その可能性をもっている、そういうのが実存というのでしょう。
※焼香の意味
※焼香を投げつけるなんて信長ぐらいしかやりませんので、真似しないでください。
焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第9話 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
まとめ
現存在 と 〈現存在〉
存在了解は他の生物も持ってそうだけれど、実存しているのは人間だけっぽい。というか、他の生物の実存についてはちょっとよくわからない。
存在了解は存在者連関をおぼろげに把握することであり、
実存はその連関のうちにいる自分の立場に態度をとることで、その存在者ネットワークを変化させる可能性を秘めている。たとえば「この文化は本当はこうなんだ!」と言って活動して実際に変わっていくかもしれないし、「俺は勇敢な男なんだ!」と言って実際にそういう振る舞いを無理に続けるうちに本当にそうなるかもしれない。
そして当たり前だと思うが、
ある存在者が実存する ⇒ その存在者は存在了解を持つ
が成り立たないとおかしい。存在了解を一切持たずに実存するなんてありえない。なぜなら実存するというのは、存在(つまり存在者連関)に態度をとることなのだから。存在がなにかわかっていなかったら実存できない。
- 現存在は実存する。そしてそれは存在了解に支えられている。
これが前回見たことだった。ここで今一度注意しておきたいのは「存在了解」についてである。たとえば鳥の存在の了解があるというのは、鳥が様々なものに関係しているその関係について、ある程度ぼんやりとではあれ理解していることだった――枝に止まる。何か知らないがエサを食べる。飛ぶ。ピーピー鳴く。色々ある。
ところで、自分の持っている存在了解というのはリストアップできない。実は自分の見ていないところでは鳥が人間に化けているとか「自分の知らないことがある」からリストアップできないのではない。ふつうリストアップしようとしないから、リストアップできないのでもない。数が多すぎるのでもない。重要なのは「枝に止まる」などといった言葉ではなく、振る舞いなのであるが、この振る舞いを記述し尽くすことは到底できないし、その記述は必ずなにか他の存在了解を背景に持っている。到底追いつけない。
わかりやすいのは、たとえば人と話すときの距離である。親しい人には近く、まぁまぁな人にはまぁまぁな距離をとる。私たちは自分のその振る舞いを知っている。普段まったく意識にのぼることなく、これをやってのけている。
もしこれを記述しようとすれば、親しい人には〇メートルとる、などになろう。しかし、まさか相手の声が馬鹿でかいのにそんなに近づいてもしょうがないだろうし、相手の声が小さいのにあまり親しくないという理由で一定の距離を保ち続けることはしない。そういうわけで、そうした事情もまた記述しなければならない。しかし、声の大小だけで決めているわけではない。相手がマジで臭かった場合は、いくら親しくても離れるだろう。相手が異性なら? 異性でも好みがあるだろう。それで、親しい場合、声の大小それと組み合わせて、どの要素が優先されるのか? いつもそうなのか?--絶対にそんなことはない。こっちの体調の問題もある。天気もあるだろう。車が通っていたら? ……というわけで、距離をとるという振る舞いは端的にいって、「そういうもの」なのであって、明示的な信念システムに支えられているわけではない。
どれくらいの近さまで距離をとるのかは、身体、親しさ、社会性についての了解と一緒になって進んでいくし、結局は、人間であることは何であるのかについてのその人の了解を反映している。
距離をとるという単なる振る舞いも、実はわれわれの了解の「総力戦」である。この複雑極まるネットワークを一言、簡単に、存在了解と呼んでいるのであって、ソンザイリョウカイと言ってしまえば数文字だが、我々の生きている基盤そのものである。ハイデガーが掘らんとしているのは、この基盤で、構造を見つけ、そのどこかにある存在の意味を見つけようとしているのである。
存在了解は、「親しい人に対しては近くに行くじゃん?」であるとか、そのような存在の仕方に関する問いを理解するための前提であることから、前存在論的と呼ばれる。明示化できる存在了解は氷山の一角であり、そのほとんどは明示化できない。たとえば男だ女だというわれわれ自身が持つ解釈は同性と異性に対する対処をはじめ、様々なことを決めている。そうして、この了解を共有している人に「これあるあるだよね」と話したりもできる。しかし、明瞭に説明してやることはできない。きれいな女性には優しく振る舞うことはありそうなことだが、実際はそう単純ではない。相手の態度、立場等々、影響を及ぼしていると思われることは非常に多い。
存在了解が総力戦であること。何かを説明してもまた違う何かを説明する必要が生じること。こうした事態に行き当たり、哲学者たちの対応は異なって来る。たとえば何かを説明しようとするとその背景について説明しなければ済まなくなるなら、逆にその背景を前提にしてしまえば、少なくともその何かは明瞭に説明できるのではないか?
ハイデガーはそうは考えない。あるのはただ技能と振る舞いだけである。それは「信念」「ルール」「原理」から生じてくるものではなく、まさにそのようにするのであって、それ以上でも以下でもない。まさに、そのようにする。説明すべきことなどなにもない。
われわれが与えうるのは、すでに振る舞いのうちに存している解釈についての解釈だけである。
自分が男/女であることについて私たちが持っている解釈。←これを解釈することしかできない。それは「振る舞いの原因」を追い求めるものではなく、あくまで「私たち」の研究である。
現存在の存在の仕方には様々なものがある。距離をとることもそうだし、異性と同性で接し方を変えるのもそうだ。そうした様々な存在の仕方の中で特別な地位を占めるのが、実存である。実存しない存在者は、ただ存在者連関に没入するだけで、存在自体に態度をとることはない。現存在は実存するので、ネットワークを見て、それを解釈し、そのように振る舞う。生物学的にオスだったとしても「私は女なんだわ!」と解釈していればそのように振る舞おうとする(もちろん、存在者連関のほうからの抵抗を受けるかもしれない。「変だなあ」と言われたり、「なんで!?」と世の中に違和感を感じることも多いだろう)。
現存在は実存することに特徴を持つ。これは、「人間ってのはね、理性的動物なんだよ」などといった従来の人間観を部分否定する。つまり「そうでないこともできる」のが実存である。私は理性的なんだと解釈して振る舞う人もいれば、理性はカスだと思って生きたり、何も考えず生きることもできる。人間は本質的に理性的なのではなく、理性的であることもできるという点が特異なのである。多分、犬は「ボクは勇敢なので」と解釈して行動しない(実際はわからないが……)。
われわれは現存在の本質を、その事象に属しているものの「何」を申し立てることによって定義することはできず、その本質は、この存在者がそのつど自分の存在として存在しなければならないということのうちに存する。
現存在の「本質」は、その実存のうちに存する。
とハイデガーがいうのはこのことである。ハイデガーが「人間のうちなる現存在」というのも、やはりこのことである。現存在は単なる人間ではなく、「人間」のことなのである。
次の文章も、これによって理解できる。
ホモ・サピエンスは他のものと同じように事実性(つまり雄か雌か)によって特徴づけられるが、「実存」し自らのうちに現存在を持つ人間は、例えば男性とか女性のようなジェンダー化されたふるまい方としての現事実性において了解されなければならない。
現事実性は、「そう解釈しているところの事実」といったような、解釈がそれを支えている事実のことだろう。私たちが存在了解を掘り進める上で追っているのは、現事実性だと言えそうだ。
そしてまた存在了解を明示することができないように、現事実性についても明瞭に知ることはできないことを確認しておこう(言葉を変えただけで同じことを言っている)。現事実性を構成するのは文化的に定義された特徴であり、単なるホモ・サピエンスと人間はこの点において異なる。
そしてまた、このことも確認できる。現存在はその現事実性によっては決して定義されない。これもまた、先ほど言ったことを言いかえただけである。人間は本質的に理性的な振る舞いをするわけではない。理性的である、そのような現事実性をもつことも可能である、ただそれだけであって、それ自体は現存在の本質でもなんでもない。……次の引用の意味はまさに、これである。
ここで明らかになってくるのは、現存在の存在の仕方が現事実性を可能にするまさにそのゆえに、現存在はその現事実性によっては決して定義されないということ、これである。
頽落のこと少し
さて、現存在は実存する。「本質」なるものを「コレコレです」と言わせない。それは今まで議論してきた通りで、たとえば人間は理性的動物だというのもひとつの解釈であって、そうでないこともできるため、本質的ではないのだ。しかし、『理性的だと解釈しているそいつ』にとってはどうだろうか? これまでわれわれが話し合ってきたように、理性的だと解釈しているそいつは、
いや、まぁね。俺のこれって本質じゃなくてただの解釈なんスけど(照)
と解釈しているのだろうか。俺が自分を理性的だというのはひとつの解釈に過ぎないと解釈しつつ、自分のことを理性的だと解釈しているのだろうか? そんなはずはない。われわれがそんなことを考えるのは、たとえば今のように哲学しているときぐらいであって、普段はちっともそんなことは頭にのぼらず、ただ、行為をする。
- 自分は理性的であるという立場を引き受けて、そのように行為する。
- 自分は医者であるという立場を引き受けて、そのように行為する。
- 「この村の若い女は南の洞窟にある化け物の生贄となって村を守る」という昔からの伝統を引き受ける。
「これはただの解釈で、これが実存っていうことなんだね」などとは考えない。この傾向を、ハイデガーは頽落と呼んだ。このことは、また詳しく見るだろう。ただ、今は、「そういうものなんだよ」をすんなり受け入れてしまうということが実存にもあるということを頭に置けばよい。実存は可能性を選べるが、「選んだ」かどうかは定かではない。
たとえば、赤ん坊は最初、すべてを「そういうもんだ」と受け入れざるを得ない。成長し、彼女の中に現存在が芽生えても、「若い娘はねぇ、生贄にならなくちゃいけないんだよ」というのをすんなり受け入れて、命を落とすこともある。命を落としたことが問題ではない。それを「自分で選びました?」というのが問題なのだ。
実存の三様態
……という上の段落で三様態については説明してしまった。
- 赤ん坊は、たとえば文化に対して立場をとらない。成長し、現存在になるのがいつかはわからないし、個別的なことになるだろうが、もしそうなっても、しばらくは受動的な姿勢が続き、立場などとらないだろう。
- 二つ目は当然、「選ばなかった」パターンである。社会的に承認された一定のアイデンティティを、自分と同一視する。非本来的な在り方
- 最後は当然、「選んだ」パターンである。本来的な在り方
注意しなければならないのは、非本来的だからといって本来的より駄目ではないということである。というより、日常に溢れているのは非本来的な在り方であって、若い人ってのはこういうものだからね~、となって、あ~そうだよね~たしかにね~ となるのは普通のことだ。
この「本来的」「非本来的」というのは、ハイデガー哲学において大変につかみ難い概念であることが知られている。ひとつは、上記のように「価値」について話しているのではないかと誤解されるということもある。しかしやっぱり一番わかりづらいのは、
生贄に捧げられる女の子は自分で選んだんですか?
と言われて「ウン」とはっきり言える何かがないことだろう。たとえば、「ものを大切にするぜ」と思っていても、それって、ただ文化を引き受けているだけで、自分で考えたものじゃないんじゃないの? と言われたら……どうやって反論しろというのか?
しかしこの区別は非常に重要だと指摘されている。考えなければならないところで、なぁなぁにはできない。本来的/非本来的 については、以下の著作が詳しい。
現存在は実存する。それには存在了解という下支えがある。存在了解は前存在論的で、机を机として出会わせてくれるのも存在了解のおかげである。目の前にいる女を女として出会わせてくれるのも存在了解である。女性というのは単なる生物学的なメスと異なる、われわれの文化的解釈の結果、即ち現事実である。
さて、現存在という存在者について、その性格は「実存」に基づいていることも確認した。というのは、たとえば人間は本質的に〇〇というわけではなく、〇〇であるようにもできるし、しないこともできる、という可能性……存在に対して自分の立場をとれる=実存にこそ現存在の本質があったからである。だから現存在について語ろうとすれば理性的だとか云々ではなく、実存に基づいて語らなければならないのだ。
このような性格をひっくるめて、実存カテゴリーと呼ぶことにしよう。まぁ、単なる名前である。逆に現存在とされるにふさわしくない存在者の性格についてはカテゴリーと呼ぶことにする。
内存在 → 実存カテゴリー
現存在の存在の仕方として挙げられるのは、「内存在」である。これは何らかの空間の内に活動している、ということではない。というよりも、現存在がある状況の中に住み込んでいることを意味する。
たとえば、演劇界にいるといったときがそれにあたる。恋愛中である、実業界にいるというのもそれである。空間的にどうこうではなく、参加しているという言い方が近い。現存在はいつも何らかの状況に身を置いている。何らかの状況に身をおいて、そのように振る舞っている。たとえば階級意識もそうだ。あいつは上司で、俺は部下。これもやはり内存在のひとつの形である。あいつは友達。あいつは恋人。
……このような例をみれば、内存在が実存カテゴリーに属するのも当然だろう。なにしろ、上司だろうが部下だろうが、所詮一人のオスかメスなのに、「上司」あるいは「部下」として振る舞っているのだから。
もっと例をあげよう。
「彼女は労働者階級に属している」ことが実存カテゴリーに属すかどうかは、彼女が労働者階級と呼ばれるものの集合に単に属しているか、または、自身をその役割において了解しているかによる。後者が内存在という在り方に属している。
たとえば「He is at work」という文を考える。これを単なるカテゴリー的に考えるなら、「彼は仕事場にいる」であるが、実存カテゴリー的に捉えるなら「彼は仕事中である」といえる。そしてもちろん、その仕事中であるというのは仕事に従事しているという意味で、実際に仕事はしていないが労働契約における労働時間にあたる、というようなことではない。彼は現に仕事をしているのである。
以上、本論と補論によってハイデガーの『存在と時間』のおおよそのところが把握できたと考える。ただし、終わったのは現存在の実存論的分析(現存在の実存を考えるパート)であって、それが時間性とどう関わるのかについては再び研究を続けなければならない。
いままでのこのブログの記事を要約すれば、存在とは、存在者の複雑な関係のことである。鳥が存在するといったとき、枝にとまったり、エサをついばんだりといった様々な存在の仕方が含まれるが、その「様々」な関係・関係の関係といったような、恐ろしく膨大で深遠なネットワークがあらわれる。それが『存在』である。
こうしたネットワークにおいて、特に他と際立っているのが現存在を持つ人間である。彼らは実存、つまり存在に対して立場をとる自己解釈的な存在者であり、つまり朧気ながらも複雑な『存在』というものを了解しているのである。これを頼りにすれば、この複雑な『存在』を理解できるかもしれない。→現存在の実存についての分析が始まる。
現存在の実存は、世界内存在という性格をもつ。現存在はまず根源的にそこに住み込んでいる。この住み込んでいるという在り方のうちには、まず道具との交渉があり、その道具との交渉ということを可能にするのが道具全体性=道具的存在者のネットワークであり、それを反対に現存在の立場から見た時の適所的全体性・つまり世界の世界性である。つまり、世界内存在より根源的なものとして世界性がある。
世界性は適所的全体であり、現存在の目的となるものによって定められる概念であるから、当然現存在なしにはありえない。世界という現象がもつ『世界性の曝露』(こんな適所性の関連があるんだ)は、現存在による『開示性』によって先行される。
一方、その開示性は「情状性」「了解」「語り」の三契機によって構成されるものであるが、これらすべてを下支えしているものは現存在の『気遣い』である。
現存在の実存は結局、気遣い→開示性→世界性→世界内存在→実存に行きつく。これは観念論(「結局全部おれたちの頭ン中」)ではなく、「現存在それぞれの世界」の背後にある「世界」それ自体の存在を示し、さらに伝統的哲学が答えられなかったいくつかの疑問に答える。……
ということになろうと思われる。
ただし
「じゃあ実存は気遣いから組み立てられるわけね」
と思ってはいけない。われわれは組み上げられたものの一番下にたどり着いたのではなくて、エンジンを見つけただけだからだ。道具的全体性のところで説明されたように、エンジンは他の部分がなければエンジンたり得ない。ペンがあっても紙がなければ書けない。エンジンを見つけても、動かすものがなければエンジンではない。じゃあこれを動かすかと思って増やしていくと、結局存在全部が必要になる。「ペン→紙」だけでは駄目で、紙をおく台も必要だし、風で飛んで行っても困るし、台は固定されていなければならないし、紙にインクが付着しないと駄目だし、読めないと困る。
……というわけで、われわれが行ってきたことは「基礎を見つける」ことではないことが理解できる。われわれはエンジンを見つけ、同時に主観/客観図式による支配を脱却できるところまで来た。
※「世人」「頽落」など言えてないことはたくさんあります
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