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「国家」について考える

 本日のテーマは「国家」です。

 国家というのは目に見えて存在しているわけではないが、税金だ刑罰だ、なんだかんだとところどころに顔を出してくる。一体国家とはなんなのだろうか。

 

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

 

 国家の定義

 マックス・ウェーバーはこの問いについて、『国家も含めて、政治団体というものは、その団体的行為の「目的」を挙げて定義することは出来ない』と言った。すべての国家が求める普遍的な目的などというものは見当たらないからだという。

 目的によって国家が定義できないなら、手段によって定義しようとは自然な話だ。

 国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。

『国家とはなにか』

  物理的暴力とはボコったり牢屋にぶち込んだり殺したりする、実際的な暴力のことである。「この馬鹿野郎」とののしることは物理的暴力ではない。国家とは、この物理的暴力を正当に認められ・その他の物理的暴力行使を不当なものとするような団体である。国家以外が暴力を振るうと、トイレの張り紙と違って、ポリスメンがやってくる。国家による暴力の独占は口だけじゃない。これが「実効的」という言葉の意味である。

 しかしながら、日本在住のサイタマさん(仮名)が一人で日本を壊滅できるパワーを持っていたら、国家は成り立たない。実効的に要求できないからである。そうすると、国家というのは必然的に、最強の暴力を備えていることになる。もちろん、ある一定の領域の内部での話で、別に宇宙戦争までしなくていい。

 

 ひとつめの問題(別の定義)

 そうとはいえ、普通、「はい、国家を定義してください」と言われて、「暴力です」なんて言う奴がいたら「( `ᾥ´ )お前……””知って””んな?」となってしまうだろう。当たり前だ。

 領土がどうとかはもちろんだが、国の話をすればたとえば憲法がどうとか法律がどうとか、いわゆる政治機構の話になる。これを小難しく表現すれば、『国家とは人間共同体における政治機構である』とするのが自然なところである。なぜウェーバーはそうしなかったのだろう。実はこの定義においては、

 

 共同体 → +政治機構! → ~国家爆誕

 

 しかありえない。だから定義的には、侵略をしてそこの人たちを国民にしたら、

 

 ~国家Chapter2:爆誕

 

 が始まってしまう。国家が変わるし、なにより、侵略された人々も『共同体』になってしまう。

 一方、ウェーバーの定義ではChapter2は始まらない。A国がBという大陸にいた先住民を従わせ「ここは俺たちのものだガハハ」というとき、A国と先住民はまったく共同体的ではないが、国家というのは暴力の独占を要求すればいいんだからA国は変わらずA国のままである。B大陸の先住民やその土地を取り込んでも、やはりA国はA国なのだ。

 

ふたつめの問題(定義が広すぎないか?)

 さて、定義をしたら考えないといけないのは、その妥当性である。暴力を手段にする人間共同体なら、国家以外にも腐るほどありそうなものだ。たとえばマフィアや革命集団がそれである。彼らは武力によって一部地域を統率したり、一部地域の経済的権益を守ろうとする。

 

 暴力行使という点だけ見れば、これら組織と国家の壁は全くない。しかしもちろん、実際にはこのような組織と国家は異なる。国家は、暴力を手段とするこうした組織の特殊例なのだ。サブグループである。

 国家が特殊なのは『正当な暴力行使の独占を実効的に要求する』点である。国家の暴力は正当なのである。この正当という言葉は①道徳的に、②法的にという二つの意味があるが、この場合は②の意味である。国の行う暴力が道徳的に正当でないことはつねに起こりうる。国家の暴力は合法化されているのだ。*1

 国家の暴力の合法化は、暴力が恐怖であるからだ。命令だ。暴力によって自分の決定を相手に課すことができるからだ。暴力は法律によってお墨付きを与えられる。暴力と決定の結びつきは強固である。

 

【にんじんメモ「説明しきれてなくない?」】

 でも、マフィアだって規律ぐらいはあるんじゃねえのか?

 

 と言われたらどうするのだろう。マフィアというと想像しづらいから「俺はこの町を支配している〇〇一味さ」と言っているアニメキャラでも想像しよう。彼らはたとえば「ボスに許可なく銃を持っていたら死刑」などと定める。これのおかげで『ルパン三世』の次元は命を狙われるハメになるのだが(ルパン三世 PART IV Vol.1[DVD])あれなどまさに、国家ではないか? あの一味の殺人が「合法」なのは、ルールを決めてるやつと、合法/違法の区別をするやつが同じだからだ。まさに国家である。国家と何が違う?

 

 国家によるふたつの暴力

 さて、その国家おいては国家だけが正当な暴力を振るえる。

 自らの暴力を正当なものだと決めてしまう暴力を「法措定的暴力」といい、違法な暴力を取り締まり、俺だけが暴力を振るえるんだとわからせてやるのが「法維持的暴力」である。

 このように考えてくると、どうやら国家というものは「殴り合い」の勝者だとわかる。国家となるのは他の暴力を圧倒しねじ伏せられる暴力を持ったやつらなのだから。そして、チャンピオンになった以上は防衛をしなければならなくなる。その手段として考えられるのは、

  1.  もっと強くなる
  2.  他の奴らが強くなるのを止める

 である。とはいえ、国家となるには力が強いだけでは仕方がない。あんまり上品でないことばかりしていると「なんなんだよコイツ」と民たちから睨まれてしまう。そこである程度、道徳的に正しいという意味で正当な暴力を用いなければならない。「あいつらは悪いんだぜ、だから殴るんだぜ」といえば、民たちも「なるほど、そりゃそうだ。とっちめろ」と味方してくれる。暴力を正当化する暴力は、反暴力的な暴力だけなのだ!(予防的対抗暴力)

 

 そういうわけで、国家というのは実際のところは法措定的/法維持的暴力によって成り立っているのだが、「いやこれは予防的対抗暴力なのですよ」とすりかえる戦略が用いられる。そうしなければ民たちにボコられる。

 また、他の戦略としては「私は暴力を振るってもいいんですよ」に訴えるやり方である。上の戦略が予防的対抗暴力の道徳的正当性に基づくものなら、こちらは正統性に訴えるやり方だ。たとえば国民国家というものは国民の総意で法を作りそれを執行するが、「国民から授権されていますので殴りますね」と言って殴ってくる。昔は「神からOKって言われてるんで殴りますね」だった。

 まとめると、

 

 国家というのは実際のところは法措定的/法維持的暴力によって成立する。しかしその維持のために、それらが予防的対抗暴力であるとすりかえられる。その戦略は予防的対抗暴力の道徳的正当性と正統性のふたつがあって、これが組み合わされる。

 

 ということになる。国家は『暴力が社会のなかで行使されるあり方のひとつ』して存在している。

 

国家のはじまり

 暴力は、誰かに何かを強制するのに確実な手段だということは前回見た。「従わなければどうなるかわかっているだろうな」というワケで、命知らず以外は強い暴力には支配されちゃいます。

 たとえば、社会契約説というのは、人間というのは放っておくとどこへやっても争いばかりして困るので、こういう無秩序な状態を国家になんとかしてもらおうぜというものである。秩序を作るために国家がある……要するに、野放しにすると暴れまわってしまうので、暴力を組織して必要に応じて取り締まる国家が必要となる……これが社会契約説でした。

 

 秩序を受け入れない『敵』に対して力を行使する活動 → 国家爆誕

 

 あっちに『敵』がいるぜ → ボコす → ウェァ という流れがある。なるほど、わかりやすい。しかしそうとはいえ、単に相手をボコすだけでは国家が作られそうもない。どういうことか?

 

 それは、たとえば命知らずマンは暴力には屈しないからである。たしかに命知らずがいくら出てこようがボコしてしまえば秩序は維持できるだろうが、支配はできない。「こういう決まりを作ったんでヨロシク」と言っても「誰が従うか」命令のたびに百姓一揆を起こされていたらたまらない。もちろん歯向かってきたらボコせばいいのだが、単にボコしているだけでは永久に支配はできない。

 つまり、暴力行使は秩序維持はできても、支配ができない。なぜなら「従うぐらいなら死んだほうがましだ」と思われたら終わりだから!

 

  •  秩序の保証 → ボコる(暴力の具体的使用)
  •  支配の保証 → ?  (ボコってもしょうがない!)

 

 暴力による服従を求める時、むしろ暴力は表に出てこない。「殴るぞ」という脅しと、それを恐れる相手がいてこその支配である。

 

 フーコー暴力権力を区別する。:

 「暴力は人間の身体に直接はたらきかけるもの」

 「権力は人間の行為にはたらきかけるもの」

 

 たとえば相手の頭に拳銃を突き付けてキタキタ踊りを踊れと命令することにしよう。これは実は暴力ではない。暴力はいま、あくまでも行使可能性にとどまっており、行使されてはいない。相手は「服従するか、死ぬか」という選択肢が与えられる。そしてそれを能動的に選ぶ。これが権力である。

 そうすると、先ほどの二つはこう言い換えられるだろう。

 

  •  秩序の保証 → 暴力
  •  支配の保証 → 権力

 

 次の問題は、相手をボコること→相手を従わせる にどう向かうか、である。

 

暴力と権力の関係

 まとめよう。国家とは暴力を手段とし、自らの暴力を唯一正当なものとする人間共同体である。国家は『敵』に対抗する活動を通して生まれてきた。暴力によって無秩序を排斥するのだ。しかし、暴力行使だけでは秩序維持はできても支配はできない。支配ができなければ法律を作りましたといってもむなしい。支配のためには権力が必要であるが、それは暴力とどのように結びつくのか?

 

 当たり前だが、デコピンを脅しの道具として「恋人を殴れ」と命令したって誰も言うことを聞かない(恋人に私怨がある場合は除く)。要するに暴力が脅しの道具になるからには、「ヒエ~、それだけはご勘弁」という範囲に収まる程度の暴力・命令の内容でなければならない。

 権力は「ご勘弁してくれるなら」という相手の「同意」によって生まれる

 当たり前だが、脅されたほうは本当にやりたくないんだから「同意」といってもいわゆるフツーの同意ではない。しょうがないやるしかない……という「同意」である。ここを勘違いすると「お前同意したじゃん」という妙なことを言い出すやつが現れる。別に同意なんかしてない、嫌に決まってる。あくまで「同意」が理論語であることや、「仕方ない同意」であることを理解しなければならない。

 著者はここでレイプについて注釈を加えているが至極まっとうなことだと思える。「同意」という言葉は脅迫の正当化のために使われるものではなく、理論化のためなのだ。

 

 さて、命知らずがたまにいるとはいえ、普通は殴られるのも殺されるのもイヤである。そこに生まれた権力が「人びとのあいだで特定の行為関係の布置」をうむ。いわば制度である。

 あれやれこれやれと言っているうちに権力が生まれ、

 それぞれの権力が関係をもち、

 制度が生まれる。

 その制度の内部で、

 外部への優位性を確保するために

 暴力がより強大に組織され、

 その強大さがさらに権力にはたらきかけ、

 その権力がまた暴力を増強させる。

「国家は権力諸関係の制度的統合の上に成り立っている」

『国家とはなにか』

 

 より強大になった暴力も、内部においては徹底的に抑制され、外部において爆発する。こうした機制を「暴力の加工」と呼ぶ。暴力に一定の方向が生まれているわけだ。

 

 あらゆる軍事組織や暴力集団において規律や同胞愛があれほど重視されるのは、暴力が暴力の加工をともなっているからである。

『国家とはなにか』

 

 スピノザは、この暴力の加工に〈類似をつうじた感情の模倣〉が使われることを指摘した。つまり、似ている人間に降りかかる暴力のほうが、似ていない人間に降りかかる暴力よりも感情を刺激するのだ。というより、むしろ自分と似ていないものに対して降りかかる暴力はもはや「暴力」としては知覚されづらくなる。暴力だなんてそんなひどいこと私たちはしていませんよ、ということだ。

 

 

富の我有化

 国家は、そもそも〈敵〉に対するものだったわけだが、そのような関係を生み出すものはなんだろうか。これまで「秩序と支配の保証」について書いてきたが、国家において語るのに〈敵〉の区別を生み出す根源も見ておかなければならないだろう。

 〈敵〉を生み出すもの。

 それは、有益であると判断されるものを自分のものとすること。

 いわば、富の我有化が〈敵〉を作り、国家を誕生させるのだ。

 我有化は、自ら富を生産することとは違う。生産しなくても奪えばいい。奪った富は先ほどの『暴力の組織化』を助け、そしてさらに『富の我有化』を進める。国家とはこの二種の運動体なのだ。

 

 

 

 このように、国家は自己の保全を常に考えるそこらへんの地域で最強の暴力集団だが、一般的にはそうは考えられていない。『外敵から守ってくれる』という意識が根強い。こうした考えの原型は、社会契約論から来ている。次はここを検討しよう。

 

 

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

 

 

それ以降

 ホッブズの社会契約説は、「自然状態の人間は争ってばかりで危険なため国家などの共通権力が生まれた」とするものです。危ないから力を合わせていこうぜ、ということですね。

 とはいえ、ここからつぎの問題がただちにあらわれてくる。なぜ人びとは、自然状態があるにもかかわらず、特定の人格へとみずからの力を委譲することをたがいに申し合わせ、信約することができるのか。

『国家とはなにか』

  争ってばかりいる人間たちが力を合わせるのって無理なんじゃねえの、というツッコミですが、確かに放っておいたら争うようなやつらが互いに信頼しあうのは無理そうです。何故かって、裏切られるかもしれないからです。この完璧に合意設立の国家を「設立によるコモンーウェルス」と呼びましょう。

 一方で、争ってばかりいる奴らの背後にボスがいて裏切ったらボスにボコられるとなれば、裏切られる心配は少ないでしょう。こういう場合は完全に合意とはいえません。こちらのケースを「獲得によるコモンーウェルス」といい、私たちがまさに話していた国家そのものです。

 

 とはいえ現実的に起こり得るのは後者だけだろう、というのがここでの話。信約が裏切られないためには既にバックに誰かが控えてないといけませんよねと来るわけだ。

 ―——でも自然状態とはいえ、全員が全員、争っているわけではなかろう。少なくとも暴力を手段にするにも数がいる。その数を作るためには「信頼し合えるやつら」から始まるんだから、むしろ根源的なのは前者ではないかと考えられないだろうか?

 著者は答える。「設立による国家」図式が根強いのは、実際、国家がそこの住民を結果的に保護しているからだと。

 

 

 ……これは答えになっていないのでは?🥕

 例えば親がいる、子がいる。たくさん産まれた。彼らが結託してよそを襲う。……というようなシナリオは一切考えられないだろうか? 人間は一人で生きていけない以上、ある程度の結託が最初からあるのは自然なことのように思える。

 「獲得による国家」図式だと、人間ひとりひとりがタイマンしてどちらかが勝って、一方が舎弟になり……という風にどんどん大きくなっていくしかない。

 ただ、まぁそもそも自然状態という状態自体が仮想のものだ。それぞれの人間に力の差がないし、お互いになんの関係もない奴らの集まりだと仮定されているのかもしれない。本の中でも人間それぞれにはあんまり力の差がないと書いている。赤ん坊と青年が殴り合ったら勝つのは青年だろうし、力の差は歴然とある。

 とはいえ、お互いになんの関係もなく力の差もないなら、一度タイマンで負けようが次は十分勝てる可能性はあるんだから、舎弟になる必要はまったくない。

 ……というわけで、どうもこの点が腑に落ちないのでした🥕

 

 

*1: ちなみに、おまわりさんの役目を「悪い奴らをやっつけることだ」と言うのはヴァルター・ベンヤミンによれば「自然法的な誤解」である。『適法な暴力と不法な暴力とを区別することの意味は、自明ではない。その意味は、正しい目的のための暴力と不正な目的のための暴力とを区別するところにある、とする自然法的な誤解は、きっぱりとしりぞけられねばならぬ』