にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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今年も色々あったね【2019年まとめ】

 どもじんです。٩꒰๑╹ω╹๑ ꒱۶

 

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 2019年は案外、長かったような気がいたします。にんじんコンテンツの大まかな振り返りなどはYouTubeを見ていただくとしまして、哲学的にはハイデガーに手を出したり、ウィトゲンシュタインでいう「生活形式」に、「存在の意味」を通じて踏み込んで行ったり色々しました。

 唾液が飲み込めないという謎の症状も社会不安の発露であったことがわかり、「あっ、社会不安だこれ」と理解できた途端に治りました。人に聞かせられる大病にはかからない割りに、意味不明な病気にはよくかかります。一年に一回はかならず毎朝激しい頭痛のする時期があったのですが、今年はなかった?ように思います。

 

 

 

 まあ、2019年のまとめとか言いつつ書いてるのは10月……

というわけで、本当に12月31日に考えていることではないし、若干訂正したり付け加えたい部分もあるのですが、日記感覚でお読みください。

考えたことはいずれきちんとまとめられればなと思ってますが、いつになるかはわかりません。書いてます。 いま17ページです。

 

 

お知らせ

  •  元旦のにんじんブログはおやすみだよ♪L( ^ω^ )┘└( ^ω^ )」♪
  •  2020年からにんじんブログは「月曜日」「金曜日」がおやすみになるよ。

 

 以上2点、よろしくご愛顧お願いします。

 

存在と時間

 ハイデガーの哲学を筋道立てようとすれば、やはり最初に来るのが存在忘却であろうかと思います。それは要するに西洋哲学に対する大きな批判でありました。

 存在忘却とはこれまでに組み立てられてきた存在論が、本当の意味での存在をまったく捉えていないことを意味します。本当の存在というものをあなた方は忘れているんですよ、というありがたいお言葉です。一般的にいえば「本当のファン」とか「本当の友達」とか、本当の〇〇という類は大体真面目に考えないほうがいいのですが、ハイデガーの指摘は大変に的を射たものだったと思います。

 存在(Sein)には二つの意味:実在判断+属性判断があります。実在判断とは「~がある」で、属性判断とは「~である」です。属性判断については日本語としては捉えづらく、たとえば「空が青い」も「空が青いのである」とすることによって属性判断になります。Seinとはいわばbe動詞のようなものであり、The sky is blueだから属性判断とされるわけですね。大変広範なものです。

 ハイデガーは「存在」の扱われ方に「ちょ、待てよ」と言います。

 たとえば『鳥が存在する』といったとき、その鳥というものはなんらかのあり方をしています。たとえば飛んでいたり、木にとまっていたりするでしょう。一般に、このような存在者のあり方のことを存在様態と呼びます。存在のあり方というよりも、漢字同士が接着していてひとつのまとまりになっているため、存在様態と呼ぶ方が好きです。

 『存在者はつねになんらかの存在様態を伴ってあらわれる』

 このことはつまり、①まず鳥がいます、②木があります、③木の上に鳥が! という順序で鳥の存在を了解しているのではないということです。まず一番最初の①の時点で、既に鳥はなんらかの存在様態を伴っているのです。このことは、鳥が存在するといっただけで、たとえば他に木の存在も了解していなければならないことを意味します。木は宙に浮いて飛んで行ったり突然消えることはありません。鳥がとまることができます。根を下ろしているでしょうし、地面もあります。このように、単に『鳥が存在する』といっただけで、鳥も含む様々な存在者との関係が浮上してくるわけです。われわれはそのように存在者の存在というものを理解している。

 上のテーゼは存在者が独立なものではないことを指し示しているわけで、これだけでも伝統的哲学に対する随分な批判になります。注意しなければならないのは、『鳥が存在する』といったときに、鳥がいる→存在する、という風でもないということです。鳥というものが実体としてあったあとに、存在という不思議なものがくっついているわけではないのです。当たり前だろうという気がしますが、ここが案外見落とされがちになって、伝統的哲学の中に居続けるひとつの楔になるようです。

 また、重要な点は上のテーゼだけではありません。再び『鳥が存在する』ことについて考えてみましょう。鳥が飛んでいるとします。当然ですが、鳥というのは普段からずっと飛んでいるわけではありません。離陸も着地もしないなら飛んでいるというより浮いているに近いでしょう。言葉だけの問題ではなく、飛び立ったり着地したりといったもろもろを含めて鳥というものを捉えているわけです。つまり、

 『存在はコンテクスト性を持つ』

 ということです。いわば、「今そこ」だけでなく、それまでも、これからもある程度含めて把握している。鳥もボールも飛んでいますが、鳥はキャッチボールに使われることはありませんし、仮にあったとしても「飛んでいる」などとは言いません。一方、ボールはバットで打ち上げられて高く飛ぶことがありますが、鳥のように飛ぶことはできません。ある程度幅をもって把握しているからこそ、「飛ぶ」ことの違いも明瞭に理解できるわけです。

 

  この複雑な存在というものは、一応様々な存在者間の関係のことだといえそうです。存在についてみるためには具体的な存在者にあたらなければなりません。そこで注目されるがわれわれ人間です。人間というものは上記のような「存在」についての一定の了解をもっています。そして了解をもったうえで、それに対して自分がどう振る舞うか、どういう立場をとるかを決めている存在者なのです。いわば、存在了解を持ち、実存している存在者です。ハイデガーはこのような人間を現存在と呼びます。

 赤ん坊から老人まで、いつの時点からどの時点まで存在了解を持ち実存しているかは問題となりません。現存在といった時点で、ある程度のことは仮定されているのです。現存在はある文化のなかに生き、社会性を持ち、様々なことを了解している、ごく普通の平均的な一個人です。現存在は集団のことでも、抽象的な概念でもない、まさに「その人」であることを、現存在は各自性をもつ、ともいわれます。今を生きているそれぞれ各人が現存在であって、存在と時間においてはそのうちのひとつを取り上げ、それについて調べます。彼を彼自身において調べるわけで、彼を外側から観察することではないため、『存在と時間』においてはその現存在と「他の現存在」については語られても、具体的な国家であるとか政治であるとか、人間同士のシステムが話題にのぼることはありません。

 

 現存在の実存の基盤は世界内存在であると言われます。そこで(「自己」が)「世界」に「内存在」する、という「自己」「世界」「内存在」の3契機についての話が始まります。そうして世界内存在というものは実のところ現存在の気遣い、つまり関心の構造であることが明らかにされ、その気遣いの底に時間性があらわれるのです。ハイデガーは最後に「存在は時間である」と結ぶつもりが、『存在と時間』は続きが書かれず、結局そこには至れませんでした。

 

生きる意味=倫理

 「なぜ生きているのか?」そう尋ねられれば、訳知り顔で「人生に目的なんてないよ。ずっと続いていくんだよ」と答えられることでしょう。その通り。人生に達成しなければならない目的などはないようです。しかし、それを理解できたとしたとしても、納得できるひとはそういないでしょう。もやが残っているのです。

 

 たとえば、あなたが死んだとしましょう。世界はそれでも続いていくでしょう。この事実を理解し、納得し得たとします。しかし、「あなたが存在しない世界もありえたのだ」と言われたらどうでしょうか。もちろん彼の言う意味は理解できるでしょう。しかし、納得はできないでしょう。まるで存在論的な崖でもあるように、到底その事実を事実として受け入れることができません。この感覚を知った後で、改めて最初の確認に戻ってみてください。「あなたが死んでも世界は続きます。その世界にあなたはいませんが」自分がいない世界などという概念は、わたしたちにはいわば””キツすぎ””で、一切頭に入ってきません。

 わたしたちはふたつの視点を持っているようです。人生に目的なんてないよと言われて「たしかにそうだ」と思うのがひとつ。「そうかな」と思うのがひとつ。わたしたちに生じるもやは、この二つの視点の調停失敗によって引き起こされます。すべてではないにしても、ほとんどの哲学的な問題はこれによって生じるのかもしれません。

 

 人生に目的地はないのかもしれません。しかし、向かう方向はおおよそ決まっているのではないかと思われます。うまく言葉にすることができませんが、それは「住まう」ことです。心地よく、くつろげる場所を探しているのです。

 ここまで読まされたのに、ありきたりでつまらないと思われたかもしれません。

「要するに快適さを求めてる、幸福を求めてるって言いたいんでしょ?」

 そう思われたなら、少々誤解があります。にんじんが思うところ、人間は快など求めてはいません。かといって、不快を求めているわけでもありません。じゃあ何を求めているかというと、

 

「あぁ~、やっぱりウチが一番だわ」

 

 を求めています。旅先から帰ってきて「やっぱり家が一番落ち着くね」といいながらソファにだらりとして、疲れに任せてぼーっとする。あれを求めているのです。

 

 「住まう」ことは、住まわないこと、外出することも共に含んでいます。夢を見ることは、目覚めることと共に理解されねばなりません。「この世界はすべて夢ではないか?」という疑問は「あぁ、そう。それはよかったね」で済ませばよいのです。夢だといっておきながら、起きることを考慮していないならば、それは夢という言葉を乱用しているに過ぎないからです。

 人は住まおうとします。はっきり言って、「考える」だとか「学び」だとか、そんなものはやりたくないのです。世の中には勉強好きを自称してはばからない方が大勢いますが、にんじんにはちょっと理解できませんし、勉強そのものが好きであるはずはないとさえ思います。多くは生計をたてるためですし、あるいはもっと広く、危険に対処するためです。「ウワッ!(´⊙ω⊙`)」と驚かされたくないのです。

 と、同時に、人間は驚こうともします。上のタイプの驚きとは、少々種類を異にする驚きです。ホラー映画をわざわざ見に行って怖がるのは、現実に戻るためです。「あぁ~、やっぱウチが一番だわ」原則がここにも効いています。

 

 この原則は、二種の自己矛盾的な性質を内包しています。刺激されるのはイヤなのに、刺激されずにはいられないのです。この自己矛盾的な性格が「不快を避けながら、不快に飛び込んでいくやつがいる。不快が好きなのか嫌いなのかどっち?」という戸惑いを生みます。けれども、もはや答えは明瞭で、原則の名前に現れています。わたしたちは「戻ってきたい」のです。「あぁ、やっぱりウチが一番だわ、いろいろあったけど!」

 

 私たちは快適に、心地よく、住まおうとします。そこには食べたいときに食べ物があり、眠りたいときに肌触りのいいベッドがあり、温度は調整され、刺激がほしければ外部へのアクセスできるようになっています。しかし、こんな空間なんて誰も用意してくれません。はたらいて、おかねを稼ぎ、自分で実現しなければなりません。住まうためです。住処がある程度整ったら旅行へ行きます。楽しいね楽しいねとSNSに写真をアップロードして「いいね」をもらい、気分が高揚します。そしてすべてが終わり、落ち着いた、静かな住処に戻ってきて、言うのです。あぁ~、やっぱウチが一番だわ―――私たちは死ぬまでこれを繰り返します。年をとるごとに身体的に変化し、社会的な状況も変わってきます。政治が乱れれば運動に参加して、住み心地良い環境を整えさせなければなりません。ある人はその国を捨てて、外国に国籍を移すかもしれません。いずれも、住まうためです。

 最後は、死にます。どこにもたどり着かずに。

 人生をかけて「家を建てた」わけではありません。家を「直し続けてきた」のです。

 

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

 

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い

草枕 (岩波文庫)

 

理論の作り方――「掘進/組立」パターン

 わたしたちはどこからはじめなければならないのでしょうか?

 自らの哲学理論を打ち立てる時、つまり「はじめから考えよう」としたとき、恐らくほとんどの場合、世界とワタシという二つの実体を仮定してかかるでしょう。そうして世界の中にある様々な物体をワタシがいかに認識するかという話に発展していくに違いありません。しかしこのようにして世界を統一的に説明しようとする試みは失敗し続けてきました。

 わたしたちの理解は常に常識的な知識を背景にしています。にんじんがニューヨークにいるとき、にんじんの右腕もまたニューヨークにあります。この、普段明示化されない極めて当たり前のバックグラウンドによって人はあることを真だとみなしたり、偽であるとみなしたりします。誰もが「まぁそういうもんよ」という部分を基礎にしているわけです。

 わたしたちは、常に「いまここから」話を始めなければなりません。

 たとえば水というものがある。研究対象を、それを調べる前からわたしたちはある程度知っていなければなりません。何が水であるか? その大まかな様子を知っているからこそ、研究というものもできる。水を触ってみる。冷たい、あったかいときもある。温度がある……。他にも様々な観察ができるでしょう。

 にんじんはこのような営みを、〈掘進〉と呼びます。それは文字通り、掘り進めることです。水というものがどんなものであるか、その核を探すような、そんな営みです。それはたとえば、車というものを見た原始人が「これは何故動くんだろう」と、あの手この手でいじくりまわすことに似ています。掘進の特徴は、掘り出されたものが研究対象と関連付けられていることだと言えると思います。いくら車をばらばらにしてエンジンを取りだしても、それは「車」というものの一つの部分であると認められるわけです。

 ですが、車はエンジンではありません。車をエンジンと同一視することはできません。エンジンはその他さまざまなパーツがあってこそ、駆動します。

 理論というものは、いわばこの事実を完全に忘却することで、成り立ちます。「個々のパーツが存在する」「パーツにはこのような連関がある」「この組み合わせが””車””である」ここでは、部分をもとに全体を形作ろうとしています。にんじんはこれを〈組立〉と呼びます。組立の特徴は、先に述べたように掘進によってばらばらになった部分を組み上げて、全体へ向かうことです。こう考えれば〈掘進〉は全体から部分へ向かう営みであるといえるでしょう。

 この〈組立〉と〈掘進〉という言葉はにんじんが勝手に考えた言葉なので、検索しても出ません。

 

 〈組立〉は、パーツというものをこちらで勝手に特定して、勝手にその繋がりを定めてしまう極めて乱暴な方法です。(実は詳しくストーリーを知らんのですが)フランケンシュタインのようなものでしょうか。死体の部分をツギハギして、人間をつくるような、そんな妙なものです。

 人工知能は、ロボットが人間に達することができると期待させました。これは、〈組立〉によって全体を再現できるという一種の妄想です。残念ながら人工知能にはそんな力はなさそうに思えます。〈組立〉は決して、全体に近づくことはできないのです。

コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判

 

 わたしたちは常にいまここからスタートしなければなりません。どんな場合であってもそうです。科学理論は〈組立〉によってさまざまなことを可能にしましたが、その製作物の存在は予定通りにはいきません。ものにならないこともあれば、思わぬ影響をもたらし人間に害になることもあります。

 しかし科学は役に立ちます。役に立つからこそ、〈組立〉続けられるのです。その通りのものを生み出せないにしても、違う価値を生み出すことができるともいえるかもしれません。なんにしても、科学理論の価値は減じることはありません。まぁ増すこともないですが。ただこの理論が「世界全部を記述できます!w」とイキりだすと少々厄介ですが。

 

 わたしたちはどこから来てどこにいてどこに向かうのか。わたしたちは最初からここにいて、きっと死ぬまでここから動かないのでしょう。ただ、ちょっと建築道具のハンマーがお手頃価格になったり、性能が上がったりするだけで。もしかしたら休憩に良さそうな椅子に新しい機能がついたりするかもしれません。でも、ずっとどこかに住んで、たまに出掛けて、またここに帰って来るのです。

 

 わたしたちは〈組立〉を過信しがちです。ハイデガーが「現存在の実存ってのはつまりまぁ気遣いで~」などと言おうもんなら、「よし、んじゃ気遣いから出発する理論を作って世界を記述したるw」となります。〈組立〉たくてしょうがない、人間のさがかもしれません。

 

 わたしたちは〈世界〉と〈私〉を発見する。

 しかし、そこから始めることはできない。

 

 

 「おいでませ!湖中町」とは?

 にんじん放送局で絶賛(!)更新中の「湖中町シリーズ」です。現在のところ、

  •  理由 (相田佳奈視点)
  •  ふたりじめ (楠田実里視点)

 と二作来ています。是非朗読をお聞きになるか、pdf版をご覧ください。

www.youtube.com

carrot-lanthanum.booth.pm

 

「理由」は、

相田佳奈が小学四年生の頃、しかもその終わり、春休みの出来事です。

佳奈の隣の家に真実(まみ)家が引っ越してくるあたりから物語が始まります。

普通の話に見えてやや構造が面倒くさいのが「にんじん」感の出ている第一作目にふさわしい内容になっています。

「ふたりじめ」は、

楠田実里と相田佳奈が小学五年生になったばかり、四月から物語が始まります。

小学五年生ということは卒業まであと2年ということで、楠田実里はそのことを強く意識してしまいます。

この話も「にんじん」感溢れる第二作目にふさわしい内容になっています。

 

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com