本日のテーマは「退屈」です。
嫌い嫌いも好きのうち、といいますがこの正反対の二極を結合せしめるものはなにかを考えてみましょう。結論からいえば、それは〈退屈〉です。
ハイデガーの退屈論①
まずは暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)を見ながら、ハイデガーの退屈論を追う。ハイデガーは退屈を二種に分けた。:
- 何かによって退屈させられること(退屈の第一形式)
- 何かに際して退屈すること(退屈の第二形式)
第一形式 はわかりやすい。「田舎町の古い駅舎、次の電車は一時間後、なんにもできない、退屈だ~」私たちは何度も何度も時計を見る。じれったい。いらいらする。こういう状態は〈退屈〉によって引き起こされる。
今度は、退屈したわたしたちの状態ではなく、退屈したわたしたちが退屈とどうかかわるかを考えよう。気晴らしだ。電車を待っているとき、わたしたちは景色を見たり、うろうろしたりする。空を見たり、時には1+1、2+2、4+4……と計算を始めたりするかもしれない。すべて気晴らしである。
しかし、その気晴らしのなかに、ひとつだけ際立ったものがある。時計を見ることだ。時計を見ることは多くの場合、気晴らしではない。時計を見ることは、「あとどれぐらいこんなことを続けなければならないのか」を知るために行われる。
退屈するわたしたちはのろい時間によって困らされている。これが退屈の第一の要素である〈引きとめ〉である。のろい時間によってわたしたちは引き止められている。
しかしなぜ、〈引きとめ〉られると困るのだろうか? ――――退屈は〈引きとめ〉の要素をもつが、別に〈引きとめ〉られるだけならなんでもいい。これが話題にあがるのは、そうなると困るからである。なぜ困るのか?
それをハイデガーは〈空虚放置〉と呼ぶ。退屈しているとき、人は気晴らしのためにやらなくてもいいことをやる。やることを探し、なんでもいいからやろうとする。やることがないと、「人はなにもない状態、むなしい状態に放って置かれる」からだ。それが嫌なのだ。
だが、厳密には「なにもない状態」などない。駅舎はあるし、木もあるし、道もある。それなのに「なにもない」とはいったいなにか? それは、そこにあるものがわたしたちの望むものをなにひとつ提供してくれない、ということを意味する。
〈退屈〉 —— 〈引きとめ〉、〈空虚放置〉
さらに深く掘ろう。なぜ〈空虚放置〉されてしまうのか。なぜ望むものをなにひとつ提供してくれないのか。決まってる! 電車が来ないからだ。電車さえくれば私たちはこんな目に遭わなかった!
ハイデガーは物にはそれ特有の時間があると言う。今回の駅舎の場合は、列車の発車時刻だ。これを〈理想的時間〉と呼ぶ。われわれがこの時間に適合しなかったが故に、われわれは〈引きとめ〉られ、〈空虚放置〉させられている。
第二形式 は少々わかりづらいかもしれない。しかし、一度も感じたことがないという人は少ないはずだ。ハイデガーが例としてあげているのはパーティである。美味しい食事、楽しい会話、とても愉快だ。このパーティにはなにひとつ退屈なものはなかった。そんなパーティでさえ、「自分は本当は退屈していたんだ」と気づくことがある―――パーティのなかで私を退屈させるものはなかった。それなのにパーティ自体に退屈していたことに気づくことがある。
パーティは実際楽しかった。だからここで問題なのは、わたしは気晴らしなどどこでもしていなかった。ここがまず第一形式と大きく異なる。気晴らしが簡単に見つからない。……しかし考えてみれば、貧乏揺すりしたこともあった。無意味に窓の外に目をやったこともあったかもしれない。あれが気晴らしだったといえないこともない……。
第二形式における気晴らしは、パーティに参加している自分の振る舞いのうちに埋もれている。だから、気づけない。あれが気晴らしだったのかわからない。
「気晴らしの定義はなに?🤔」という言語的な定義づけがないと辛抱ならない読者も、まさか第一形式において、道を行ったり来たりするのが気晴らしではないと言い張るつもりはないだろう。第一形式は気晴らしであるかどうかはっきりわかったが、第二形式ははっきりわからないのだ。気晴らしである気もする、だけで。
では〈引きとめ〉はどうか。こちらも似ている。パーティにおいてわたしたちを引きとめるものはなにもなかった。だって楽しかったのだから。時間はのろくなかった。〈空虚放置〉もされなかった。そこにあったものたちはわたしたちを楽しませた。
つまり、わたしたちは「完全にパーティに参加していた」。
「パーティに没入していた」。空虚なのは外界ではなく、わたしたちのほうだ―――言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、そうではない。その中に没入するということはその場の状況に応じて反応をすることだ。この「没入」という感覚がつかめないと、自分自身が空虚であるという感覚も理解しがたい。たとえば親密さやその他さまざまな要因によって、相手との距離は一定に保たれる。わたしたちはいわばそのことを身体的に理解している。明示化することは決してできない知識である。そういうレベルでも、徹底的にパーティに没入している。偉い人が煙草を取りだす、ライターに火をつける……そんなことが慣行となっているパーティもあるかもしれない。
パーティに没入しながら「いやしかしこのパーティというのはそもそも」などと考えたりしない。もちろん、パーティについておしゃべりすることはできる。
〈引きとめ〉についてもそうだ。時間はのろまではない。わたしたちが楽しむのに合わせて進んでくれる。一切介入してこない。しかし、私たちは時間から完全に逃れることはできない。「時間は私たちをたしかに放任している。しかし、放免しているわけではない」(暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator))は非常にわかりやすい言い回しだと思う。ここで起きている引きとめは、時間というものの、根源的な〈引きとめ〉なのだ。わたしたちが決して時間からは逃れられないという、根源的な。
そうすると、実は退屈の第二形式こそ、われわれが人生で最も多く出くわすタイプの退屈なのではないか。そして第二形式の中にいることこそ「正気」であるとハイデガーは言っている。
第一形式の中にいる人間は、時間を失いたくない、何かやらなければ! という気持ちに縛られている。
ハイデガーの退屈論②:退屈の第三形式
第三形式は第一、第二のいずれとも異なる。
第一、第二の場合は「あれは退屈だったなあ」と言えるものだった。第三形式はそんなことが全く言えない。それは
なんとなく退屈だ
という感覚である。ふと感じる、あぁ退屈、という感じ。これは第一、第二のどちらの形式をもってしても説明できない。どれが退屈だとか、そんなことがまったくいえない。とにかく、なんとなく、退屈なのだ。
この第三形式は気晴らしをまったく許さない。どうしようもない。しかも、わたしたちはこの感覚をもつとき、どんな気晴らしも許されないことが、わかっている。むなしい。あぁ、退屈だ。だからといってどうしようもないのだ。
- 第一形式においては、何かを探して退屈の声を聞かないようにする。
- 第二形式においては、退屈の声を聞こうとしない。
このように見れば、第三形式においてはわれわれはむしろ「退屈の声に耳を傾けることを強制されている」。
次に〈空虚放置〉であるが、これはみやすい。すべてが空虚なのだから。一律同然にどうでもよい。だからこそ、気晴らしなどできない。自分が空っぽの空間の中にぽつんと置かれているような状態。
このような状態に置かれると、人間は自分自身に目を向けることを強制される。これが〈引きとめ〉であるとハイデガーはいう。
第一形式と第二形式、そして第三形式はすべて異なるものではない。むしろ第三形式があるからこそ、第二形式が生じ、第三形式があるからこそ、第一形式が生じる。
第一形式は時間を失いたくないという仕事の奴隷である。
仕事の奴隷になるのは、なんとなく退屈だという声を聞かないためだ。
第二形式はパーティ自体が気晴らしになっていた。
なぜそんなことをするのか。なんとなく退屈だという声を聞かないためだ。
第二形式は第三形式を払いのけるために文化が準備してくれていたのだ。
ハイデガーの退屈論③:人間と動物
さて、重要なことを書こう。
ハイデガーにとって「退屈する」のは人間だけである。
彼は人間と動物のあいだには決定的な差異があると考えている。しかしそうだろうか。たとえばユクスキュルの環世界論はたいへん有名である。
生物には生物の世界がある。機械ではない。彼らは彼らの器官をもって彼らなりに世界を見ているはずだ。
しかしハイデガーはこれを認めない―――――たとえばミツバチを見よう。彼らは蜜を吸うと飛び去る。彼らは「あっ、蜜がないや。帰ろう」と思うのだろうか。いやそんなはずはない。蜜でいっぱいの箱を用意しよう。とても吸いきれない量の蜜だ。そして次に、ミツバチの腹に穴を空ける。これで様子を見るのだ。
するとどうだろう。ミツバチは蜜を吸い続ける。ミツバチは「吸いきれない蜜でいっぱいだあ」と思わないどころか、「腹に切り込みが入ってるぞ」とも思わない。彼らの蜜をすいきりましたシグナルが発せられないとずうっとそうしている。切り込みがどうとかじゃない。何も考えていない。こんな奴らのどこに豊かな世界があるんだ?
ハイデガーはこいつらのような人間以外の生物を〈とらわれ〉た生き物だという。ミツバチは蜜にとらわれている。衝動に突き動かされ、シグナルを受け取ると衝動が停止し、次の衝動を促す。これを永久に繰り返す。ミツバチは「蜜がいっぱいだ」どころか、「あっ、蜜があるぞ」とすら思わないのだ。蜜を蜜として受け取らない。ただ衝動に任せて動いているだけだ。
ハイデガーの言いたいことはこうだ。人間はそうではない。とらわれていない。動物は〈世界貧乏的〉(せかいひんぼうてき)だが、人間は〈世界形成的〉なのだ。人間だけは蜜を蜜として、ものをものとして見ることができる! 動物ときたらどうだ、シグナルを受け取って衝動的に動くだけで、ものを見ようとしない。世界に関わることができないのだ。
しかし、この意見には暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)の著者も、そしてこの記事を書いているにんじんも賛同しかねる。人間がそれほど特権的なものか。われわれが「蜜を蜜として見ている」というが、われわれのたとえば科学的な見方がどうして「蜜そのもの」と関係しているといえるのだろう? それはけっきょく、われわれなりに蜜を見ているということで、結局ミツバチと変わらないのではないのか?
にんじんはこの考え方をすっかり受け入れる。所詮人間も動物と同じだ。何も変わらない。
だが、人間と動物が異なっているのも事実である。たしかに人間はそれぞれの人間として生き、動物もそれぞれの世界で生きている。しかしここまできて「人間も動物と同じだよ」というのは行き過ぎである。では何が違うのか?
この違いについて著者は〈環世界移動能力〉という言葉を用いる。人間は動物と違って、この能力に長けている。もちろん、ミツバチにだってこの能力はあるが、人間ほどではない。人間は椅子をさまざまな視点から見ることができる。椅子を椅子として、座るものとして見ることもできれば、時には殴ってみたり、あるときはバラバラにして他の何かの材料にしたりする。複数の環世界をいとも簡単に移動するという事実は、ある時は「一家の大黒柱」として生き、「どこかの組織の部下」として生きる、ということからも見て取れる。
同じ人間でも、この移動能力の優劣はある。たとえば天文学者は夜空を見ながら「あらキレイ」以外にいうことがたくさんある―――――あそこにあれがある、まさか、どうしてだろう?
環世界移動能力という概念を用いれば、人間と動物の違いが「程度の差」になって、結びつきが生まれる。二つのあいだに断絶がなくなる。
そして次のようにいうこともできる。
人間が退屈するのは何故か?
それは〈環世界移動能力〉が高いからだ。
人間の「自由」はここにある、と思われる。そうしてその自由が、われわれをどうしてよいかわからない地点に導く(退屈の第三形式)。