本日のテーマは「存在」です。
- 作者: ティモシークラーク,Timothy Clark,高田珠樹
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/06/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
ハイデガーが生涯、問題とした「存在の意味への問い」。これをもう少し身近に感じてみようという記事です。
これまで自明視されてきた伝統的な考え方によれば、世界を理解し、その中で巧みに活動することができるのは、私たちが世界についての効果的な内的モデルを持っていて、そのモデルをひとつのコンテクストから別のコンテクストへ円滑に操作できるからである。そこには「理論主義」とでも呼ぶべきもの、つまり何かを理解するとは、その理解される対象について、陰に陽に何らかの理論を持つことであり、人間のあらゆる営みは何らかの形で一種の認識である、という根本的な想定が潜んでいる。
仮に、わたしたちの理解を首尾一貫した理論の形で示すことができるなら、それを具体化した装置も作ることができるだろう。それが「人工知能」だというわけだ。しかし、残念ながらそのように完璧に明示的な理論など提示することは出来ない。
次の文をモデル化することを考えよう。
Because of the strike, she was unable to repair the lock in time to be able to leave for her holiday.
(ストライキのせいで、彼女は休暇に出掛けるのに間に合うように錠前を修理することができなかった)
この文章をどのように理解するだろうか。どこにも明言されていないが、「彼女」は自分自身で錠前を修理することは出来ない。修理することができなかったのは「彼女」にその能力がなかったためではなく、ストライキのせいで休暇に間に合うように錠前屋に依頼できなかったからだ。
もちろん自分の腕前で修理することはできたがストライキがそれを邪魔したんだという風に解釈することもできる。しかし普通はそうしない。いちいち言わなくても「ストライキ」という言葉がある時点で、ほぼほぼ中身が決まるのだ。
さらに、当たり前だが「to be able to leave」のableというのは精神的なものだ。別に錠前を直さなくっても休暇には出掛けられるのだが、彼女はその危険を冒そうとはしなかった。つまり、この単純な文章を理解するのでも、恐ろしいほどの背景的知識が必要になる。しかもわざわざ言ってやらないと浮き出てこないし、これ以外にもまだまだある。盗難のことも知らなければならないし、財産というものについてもある程度了解がなければならない。どんどん、どんどんと、自明なことが掘り返され、とめどない。
理論偏重の立場に対して、そこからどのようなことが言えるのか。要するに、その立場は間違っている、ということだ。世界と関わる能力が、世界について自分が内に持つ理論を外に対して応用することであるとは限らない。人間の理解の多くは、漠然として主題化されないままに他の人たちと共有している存在様態に依存しており、休暇がなんであるかを認識するのにも、労働の意味するところを漠然と知っていなくてはならない。
だからこそ、単に「〇〇が存在する」というだけでも、そこには恐ろしいほどの含意がある。存在はひとつの大きな謎である。
『存在と時間』の中心的な議論のひとつは、実存するとは、常にすでにひとつの世界と関わっている、ひとつの世界の中にいることを意味するというものだ。
『存在と時間』凝縮
「実存するというのは、常にすでにひとつの世界と関わっているということ」である。そうして、そのさまざまな実存するという活動を「世界内存在」と呼ぶ。
人間の自己とは、何か一方の側にある閉ざされた内面領域で、それが他方の側にある外界と向かい合っている、などというのではない。
わたしたちと世界が関係する仕方は、観察的な意識だけではまったくない。それどころか、歩いたり、話したり、道具を使ったりしているとき、わたしたちはなにひとつ意識を集中させていないし、それが当たり前である。
私たちの理解は、常に特定の状況から立ちあがり、また常に何らかの気分による調律を伴っている。
なにか物・あるいは出来事といったようなことは、すべてぼんやりと、全体として感じられる。それがハイデガーのいう「気分」である。そのような色合いのなかで、あるものは重要、あるものはどうでもいいものとして現れてくる。壊れた錠前は女性に漠たる恐怖感をもってあらわれ、このまま家を留守にしないほうがいいと心に決める。
伝統的にはこうだ。:「なにかを理解しようと思うなら、それをばらばらに分解し、それらの相互作用を記述せよ」心をデータ処理装置と見る知覚の説明モデルはまさにこれである。
教室に入って来たハイデガーが「教卓」を知覚するとする。
まず中立的な知覚があり、別々の感覚データ(大きさ、色、距離など)がいくつかあり、心は素早く、それらを相互に関連付け、そこに働きかけることで、互いに直角に接している複数の茶色の面を講壇と解したり、色と形の特定の組み合わせを、自分の友人ヘンリーと解釈したりすると考えられている。しかし実際のところ、私たちはそんなふうにはものを知覚しない。
じゃあどう知覚するか? わたしたちにまず見えるのは「教卓」なのだ。まず「教卓」がある。もし望むなら、大きさや色など、そういった相互関係へと解きほぐすことができるが、別にそこから教卓が生まれるわけではない。バラバラにして個々の要素から出発しようというのを大雑把に〈還元主義〉と呼ぶとすれば、この還元主義を批判しているのだ。
事物全体を包括的に捉える感覚がまず先にあって、それによって初めて特定の部分の重要性やそれが包含する意味合いを把握することが可能になるというわけだ。
つまり、私たちは、まず多くの中立的なデータ、純粋に客観的な「外部のもの」に直面し、次いでそこから世界を構築するのではない。同じ理由から、私たちは、何か純然たる無垢の意識という「内部」領域に閉じこもり、遠くを眺めるように、自分を取り巻くものを眺めるなどということはできない。