わたしたちは「理由」と「目的」と「意味」がそれぞれ異なることに対してどれぐらい敏感でしょうか。にんじんはこれらの違いをあまり深くは考えたことがなかったのですが、『目的にかなうように行為することは、理由にかなうよう行為することである』(『意味の探究』)を読んで、あれ、もしかして違うことなのかと思い至りました。
たとえばこうです。「生きる理由」「生きる目的」「生きる意味」これらみっつは同じ事柄でしょうか、それとも違うでしょうか。もしもこれが違う意味であるなら、この三種を区別しないことは、問いのうちに複数の問いを抱えることになります。
- 理由 物事がそのようになった、わけ。筋道。また、それをそう判断した、よりどころになる、またはする事柄
- 目的 得ようとしてねらう対象。到達したい状態として意図し、行動を方向づけるもの。めあて。
- 意味 行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するにふさわしい、価値。
辞書を引くとこのようになっております。
わたしたちは理由と目的において、ある種の系列を見いだすことができるのでしょうか。つまりこうです。われわれは生き続けるという目的のために、水を飲む。水を飲むという目的のために蛇口をひねる。蛇口をひねるという目的のために手を伸ばす。蛇口をひねる理由は水を飲むという理由のためであり、水を飲むというのは生き続けるという理由によるものであるからです。わたしたちはここに一種の「方向」を感じていますが、生き続けることと手を伸ばすことはどのような点で真逆であるのでしょう?
それは時制において説明されることが多いようです。
- 「これから」生きていくために、水を飲む。水を飲むという行為に対して生きていくことは後になります。これが目的である、という。
- 水を飲んだために生きていくことができる。生きていくということに対して、水を飲むことは前にある。これが理由である、という。
なぜわたしは生きているのか、と問うとき、わたしたちは「何故」という言葉を用います。故とは、白川静『字訓』(初版)によれば、
ことの由来するところについて、本質的な理由のあること。事物のうちに、その結果を招くべき要因として存するものをいう。原因・理由。
とあります。そうとはいえ「なぜサッカーをしているんですか?」と質問して、本当に理由を説明されたら面食らうでしょう。ふつうは「健康のため」とか目的を答えるのが普通です。
αという目的を伴うAという行為が意味(価値)あるものかどうかはわかりません。本人がαという目的を持つ以上、本人にとっては価値があるのが当然ですが、客観的に「正しさ」が認められるかという点が問題です。「その行為をするべきか?」
以上まとめると、たとえば「なぜ生きているんですか?」という言葉は、
- 生きてきた理由はなに?
- 生きていく目的はなに?
- 生きているべき?
という少なくとも三つの内容をもつことになるでしょうか。