にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

現象学の2つの問題について

 果たして、目の前にあるあの「ドア」は実在するのでしょうか?

 デカルトはすべてのものを疑い尽くし、とうとう我へと到着したように、彼はやはりあのドアの存在も認めないことでしょう。疑い得る、なぜならまぼろしかもしれないから。ここに「果たしてそうでしょうか」と現れたのは、現象学でした。現象学フッサールが創始したもので、意識にあらわれたものから出発する哲学です。

 確認しておかなければならないことがあります。現象学というものが「あのドアは意識にあらわれてるので、疑いなく実在してますね」とするものではない、ということです。「あのドアが本当に実在しているかどうかは、まぁ、とりあえずわからんわな」とするのが現象学なのです。しかし、実在はわからないにしても、わたしたちはドアが実在していないとはふつう思いません。というのも、あれに向かってタックルしてみるやつは誰もいないからです。

 あれが実在しているかどうかはわからん。

 でもわたしはあれが実在していると確信している。それは何故だろう?

 そう考えるのが「現象学」なのです。

 あくまでこれは出発点であって、現象学はものの実在の問題についてあきらめたわけではありません。「わからん」とはしたものの、「あそこにある、という確信」を元手にその問題を解明しようという意欲はあります。ゆえに現象学は、大きくふたつの問題圏を持つといえるでしょう。

  •  ひとつは「ものが実在するかどうか」という問題。この問題のことを、フッサールは超越論的問題と呼び、この問題に適用される現象学を超越論的現象学と呼びました。
  •  ひとつは「なぜそのように確信できるのか」という問題。この問題には名前はないようですが、これを考えていくことは〈生活世界の存在論〉と呼ばれました。わたしたちは普段の生活において、つまり哲学なんてしていないときは、ドアの実在を疑うことなどありません。それはなぜだろう、という問題です。

 一見すると、生活世界の存在論なんてクソどうでもいいような気もします。このどうでもいい感じは、実はあのゲーテも不満を漏らしているほどです。そんなことを知ってどうなるんだという不満です。超越論的問題を扱うほうがよっぽど哲学らしく思えます。

 しかし、それがそうでもないのです。とりあえずもう一度手近なドアを見てください。わたしたちはあれを「ドア」と言う。あれを壁だというやつはいない、あれはまさしくドアであって、壁ではないし、壁に書かれた落書きでもないわけです。あれは「ドア」なのです。わたしたちはいわば〈意味〉を捉えている。壁ではなくドアだと思っている。何故!?

 「ドアが見えている」というありふれた事実をなぜかと考えていく、と言われた時、だからなんやねんと思ったでしょう。それぐらい、わたしたちにとって、あれがああ見えているのは当然のことになっています。わたしたちの意識にあらわれるアレは、わたしたちにとって〈意味〉を持ってあらわれており、わたしたちはそれを一瞬で一気に捉え、疑問も感じさせないほどに、それをわたしたちに叩き込むのです。現象学が扱おうとしているのは目の前にあるアレ(物体)ではなくて、たとえば「ドア」という〈意味〉なのです。

 

 現象学は意識にあらわれたものを絶対視する、というと「じゃあ無意識は扱えないんだな」と批判するのが通例になっているようです。それに対する回答は、現象学があつかっているのが意識にあらわれた〈意味〉であって決して具体的な形をとった物体ではない、という説明からなんとなく察しがつくかもしれません。無意識は「意識されていなかったもの」として意識にあらわれるのです。わたしたちのさまざまな発見がすべて観察から生まれることからも、現象学の射程がめいっぱい広いことがこれでわかるかと思います。

 

現象学ことはじめ 第2版

現象学ことはじめ 第2版