原的な直観。疑えるものを疑っていった結果、残る「確信」のこと。
ことばとしては「嘘かもしれない」と言えるけれど、その実、嘘とは思っていないような。人が車の存在を疑っても、その人は車がないと本気では思っていないため、道路に飛び出したりはしません。言い換えるなら、疑うことに理由がない、疑っても仕方がない、そういうもの。
これは知覚直観と本質直観にわけられます。
<知覚直観>
フッサールは主観の立場を徹底することにした哲学者です。彼にとって「知覚」というのは、客観的な事物から感覚器官に刺激が来て頭にそれが浮かぶ、というようなものではありません。彼にとって知覚とは、まったく思い通りにならないもの、でした。
想像であれば、わたしたちは好きなようにものを動かすことができます。しかし知覚はそれができません。いくら念じても物は動かないし、透視もできません。テレビの前に立たれたらどいてもらわないと見えません。なにが知覚されるかは選べません。
そういう感じを受けていること。これが疑い得ないものとして残るわけです。
<本質直観>
知覚によってみたものを「リンゴを見たよ」などと言うわけです。しかしそれを「リンゴ」と判断しているという点に、本質直観というものを見いだすことができます。知覚によって否応なく何かを見せられているときに、わたしたちは概念もいっしょに受け取っているのです。
この点は、少々奇異な感じがするかもしれません。概念というものは「与えられる」ものではなく、こっちから「与えてやる」ものだからです。実際、幼稚園児が見た世界と大人が見た世界ではやっぱり違うもんでしょう。しかしフッサールはこれを「知覚と似たようなものだ」と言うのです。どういうことでしょうか。
知覚というものは否応なく与えられるものでしたが、近づいてみようと思えば近づくことはできます。嗅いでみたり触ってみたりできます。「意味」というものもこれと同じように、「カマキリだと思ったらバッタだな」というような吟味ができるのです。しかし最初知覚したときは「あっ、カマキリだ」と捉えてしまう。知覚というものは意味も一緒に運んでくるのです。だからこいつも、知覚と同様に意のままにならない、わたしたちに与えられるものなのです。
このような所与性(与えられている)が、わたしたちの確信の基礎になっています。それが実際にそうかは知りません。しかしそれを元手にやっていくしかない、疑っても仕方がないものなのです。