対人的理想主義者
人間関係とは人と人との間の関係を指します。そのうちには自分がいて、様々な社会集団にいる個別的な人、人々に対してどのような態度をとればよいか悩むとき、わたしたちは人間関係の悩みに直面しているように思えます。
人間関係が人対物の関係と異なるのは、人がわたしたちの自由にならないからだと真っ先に考えられるでしょう。しかしコップだって、いつでもわたしたちの自由に振る舞うとは限りません。浮かび上がれと思っても浮かびませんし、色よ変われと念じても変わらないでしょう。その意味では、コップも自由にならない。人間というものを単なる物理的なものだとしてもコップと同じような不自由さを持っています。しかし、「私たちが言いたいのは、そういう自由にならなさではない」のも確かです。わたしたちは、いったい何が自由にならないと感じているのでしょうか。自然主義的なままならなさをはぎ取った不自由さとは、なんなのでしょうか。
人間と物は、何が異なるのでしょうか。わたしたちは、差し当たりそれを「生きていること」といえるかもしれません。同僚の遺体と、わたしたちは人間関係を取り結ぶことはありません。空間的な関係は依然として有しながらも、人間の関係は結べない。これはどういう事態なのでしょうか。人と物を区別する「生きている」とは、一体どのようなことなのでしょうか。
こう問うこともできるかもしれません。生きていることをわたしたちはいかにして知るのか、と。もちろん、その「知」は偽りでありえます。生きていると思っていたが、実際には生きていなかったということもあるし、生きていないと思っていたがどうやら生きているらしいということがわかることもあります。ここで問題とされるべきなのは主観と客観の一致という意味での真偽判定ではなく、「どうして生きていると思ったのか」ということです。わたしたちは何によって彼が生きていることを信じることができたのでしょう。
たとえば、すやすや寝ているかと思っていたらほんとは息をしていなかった人のことを考えてみましょう。部屋を通り過ぎる、あらよく寝ているわね。彼はまだ生きていますし、生きていると確信されている。生きていないと断じられるのは、なにによってでしょうか。
いろいろなケースが考えられます。「いつまで寝てんの?」と言っても、ぴくりともしない。揺すってみる、全然起きない。おかしい、と心臓に耳を当ててみる。動いていない。病院へ電話する。救急車が来て、心臓マッサージを施す。しかし心臓が再び動き出すことはなかった……。
どうにも、生きていないことは反応がないことと関連があるように思われます。しかしまったく同じというわけでもない。シカトは反応みたいなもんですから、マジで透明人間になったようにこっちに対して反応してくれないケースを考えましょう。簡単のために、ここには彼と二人っきり。自分には反応してくれないが、ふつうに生活を営んでいたら、むしろ生きていないのは自分じゃないかと疑いたくなります。しかし自分も、魚を釣って暮らすことができる。妙なもんです。彼はどうすれば生きていない状態になってくれるのでしょうか。
私だけでは足りないのかもしれません。彼はすべてに対して、反応しなくならないといけない。反応とは、なにかからの「問いかけ」に対して、「応じる」ことです。動いていながらも、「応じない」ことはできます。プログラムされた通りに動く機械は、まさにその典型でしょう。生きていないとは、応じていないことだとすれば、生きていることは応じていることをその本質としてもつのでしょうか。
応じるとは、相手の働きかけを受けて行動することです。受けるだけでは駄目で、返してくれないといけない。ものには、正確に言えば、私たちがものと呼ぶものには、「応じる」という特徴がないようです。入店すれば「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と聞いてくれるロボットはいますが、生きているとは言いません。
以上の議論が正しいならば、人間との関係において悩むとき、そのままならなさはこの「応ずる」仕方がままならないということでしょう。それは自分の思うように「応じてくれない」ということです。
わたしたちがこの悩みを解決するための極端な立場は、『理想の人間関係とは、思う通りに応じてくれる関係である』というものでしょう。当たり前ですが、向こうも人間です。そうすると、その理想の人間関係においては、『相手の思う通りに応じることが自分の思う通りである』ような他者が必要になります。いつも自分のお気に入りの言葉を相手に求め、相手はいつも自分のお気に入りの言葉を返してくれる、しかし自分は相手のお気に入りの言葉は知らなくていい……。
理想の人間関係という上記の了解のそれぞれの立場をとった2人がいたとしても、人間関係はやはり困難なものとなるでしょう。一人は好き勝手言うだけなので楽ですが、いつもお気に入りのセリフを言わないといけないほうは大変です。というかそもそも、そいつが何を気に入ってるのかをどうやって知ればいいのでしょうか。その知っていく過程で発生する人間関係こそ、この立場が最も恐れる事態だったはずです。いやいや、しかし理想に至るためには努力が必要なんだよと言えるのであれば、二人はうまくいくでしょう。なにしろ一人のほうは自分の好みを叩きつけて行けばいいだけだし、もう一人は必死に努力して理想に近づくことを良しとしている人間なんですから。たまにはミスしながらも献身的なその人は、まさに理想的でしょう。
努力をよしとしないなら、ネットの掲示板にデート台本をアップロードして「この通りやってください」とかやっといて、受け手の入念なリハーサルを経て、臨むことになりますが……一体なにがその人を動機づけるのでしょう?
この人間関係に対する理想主義が現実的ではないのは、わたしたちがさまざまな人間のいる社会に生きているということから明らかなように思われます。*1。
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*1:んじゃ二人っきりならいいんかい、と言われるとなんとも言えないのがつらいところです。この理想主義は徹底的に叩きのめしておく考え方だと思うからで、「現実的に実現不可能だが、理想としては適切だ」では困るのです。