にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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「おなかがへった」ってなんだろう

 はじめからいきなり汚い話で申し訳ないのですが、このまえお腹を壊したことがありました。すごくお腹が痛くて、いつもは楽しみにしている食事の時間が来ても、用心のためになにもお腹に入れないほどでした。痛みのおさまったのは二時間ぐらい経ってからです。三十分ほどはへらへらTwitterをしていたのですが、なんだか急におなかが減ってきました。にんじんは「おなかがすいたな」と思いました。

 それで「おなかが減った」という意味のことをツイートしたのですが、フォロワーの指摘もあって、ちょっと不思議な気持ちが湧いたのですーーあれ? おなかがへったってなんだろう?

 なんでにんじんは「おなかがへった」なんてわかるのでしょうか。「だって、お腹にそういう感覚があるもの!」でも、それはもしかしたら三十分前の腹痛がぶり返してきているだけかも……勘違いなのか……あぁ、そういえば昔も、腹痛なんだか空腹なんだかわからないことがあったなぁ、と思い出します。

 「私はお腹が減ったということを知っている」と言われれば、ウンウンとなります。ようじん深いひとはそうでないかもしれないけど、でもお腹が減ったなって思うことはあるはずです。なんでそれが空腹だってわかったのか、とにんじんは不思議に思ったのです。下痢とか、大腸がんとか、まぁいろいろ病気はあると思いますけど、なんでそういうものの可能性を考えず、いきなり空腹に行ったのでしょう。「おなかが減ってたから」というのが素直な返答だと思います。にんじんたちはある程度大人だから、「それじゃあ答えになってないよ」というだろうけれど、たぶん一番素直な気持ちは「おなかが減ってたから」だと思うんですよね。まぁ「知らねえよ」と同義に使ってるんじゃないことを祈らないといけませんが。

 

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おなかがへった

 不思議だとおもいましたか?

 にんじんはこれをフォロワーとちょっと話して、不思議だなと思ったんですよね。

 でも「それじゃあいっちょ記事でも書くか」となったのは別に読者の人に答えを示してやろうとかそういうんじゃないんです。多分出せないですしね。でもやっぱり主張があるから書いてはいるわけで、もったいぶらずに最初にそれを言うと、これって『欲求』というもの一般に通じる問題だと思ったんですよ。

 フォロワーのみなさん(特にパオン)は日常的に「ナオンとの危ない関係」に思いを馳せてますよね。で、それが「性欲だ」って言われたら「そうだが?😎」って言うと思うんですよね。性的欲望って言われたら多分ピンとくると思うんです。でも、それが食欲じゃなくて性欲だってわかるのはなんででしょうか。「別にものを食べたいとは思わない」から? たぶんそうでしょう! でも、まさかすべての欲求をリストアップして、性欲以外が否定されたから性欲であると推理しているわけじゃないと思うんですね。

 脳がやってくれてるのかもしれませんね。でも欲求を完全に脳に任せると、わたしたちはふつう自分が何を欲求しているのかわからなくなります。もちろん私たちには「おなかが減った」って感じられますけど、脳を観察してないんだから、実際はどうだかわかりませんよ。

 

 肝心なのは「おなかが減ったなあ」と思うわたしたちが、ふつうそれをまったく疑わないということです。いや、いま疑ってるじゃねえか、というかもしれませんけど、でも「おなかが減ったなあ」って思ったのはどう抗おうが本当でしょう。なんでそんなことを思っちゃったのかなっていう話です。ふしぎなことです。わたしたちは「おなかが減った」ことを理解しているみたいです。わかっちゃってます。

 でも「空腹の感じ」だと思ってたけど「腹痛の感じ」だったってこと、普通にあると思うんですよね。「あいつに対する想いは勘違いだった。俺は恋に恋していたのさ」ってことあると思うんですよね知らんけど

 

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

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欲求ってなんだろう

 ご飯食べたい! ってなんなんでしょうね。でもひとつだけ確かなことは、「ご飯をまだちゃんと食べてない」ってことですかね。お金が欲しいって、そりゃみんな1円ぐらいは持ってるけど、たぶんもっともっとたくさんほしいと思うんです。Aさんと握手したいはどうでしょう。これって握手しながら思うことですかね。ふつうは思わないんじゃない?

 こういうこともあると思うんです。無人島で三か月、ボーッとしていたら目の前に船が見えた。見た瞬間にワーッと言って駆け出していく……。これ、間違いなく「見つけてほしかった」んだと思うんですけど、別に「見つけてほしい」と思って行動するばかりじゃないと思うんです。体が動いてしまったんですね。

 欲求が人間の行為のすべての原因だっていう人は、そうじゃないっていうんでしょうけど。そういう原因がなにかって、駆け出したんだって。それが欲求なんだっていうんでしょう。でも心が身体にアクセスする方法がよくわからないから、脳を使うのが最近のはやりです。いわゆる物理主義とか唯物論っていうやつの一派です。

 このとき、欲求という心的なものは残されません。もしそんなものを認めちゃったら、欲求→脳となって、「なんで心が身体に影響を及ぼすんだ。どうやって……」ってなっちゃうからです。「欲求を感じるとホルモンが出る」とかも駄目ですよ。「どうやって形のない欲求がホルモンなんか指示できるんですか」って言われてしまいます。

 それに、さっきも書いたみたいに、「本当に欲求なんかしているのか」って路頭に迷うことになっちゃいます。だってわからないんですからね。頭をあけてみないと自分が何がしたいかわからないんです。にんじんたちは、脳科学が進歩するまでは自分の欲求もわからないんです。ご飯が食べたいって言ってても、本当は逆立ちしたいのかもしれませんよ。

 

 欲求なんか存在しない、っていうのも違います。

 船を見つけてワーッって駆け出すときに、「見つけてほしかったんだ……」って回想することはありえますよね。それが欲求じゃなかったらなにが欲求なんですか。そういうのは過去欲求といって本当の欲求とはちがうんだって言えるかもしれません。でもにんじんたちは「見つけてほしかったんだ」って言ってるおじさんが実は欲求してなかったんだとは思いません。もしそのおじさんがあなただったら? 「あなたは別に欲求してませんでしたよね」って言われたら「は?」ってなるでしょう。もしその誰かが「欲求することとは〇〇することと定義します。どうですか」って言われたら「違うかも」ってなるかもしれませんけど。でもそれはその人が勝手に決めた区切りですからね。

 

 にんじんたちは「見つけてほしい」って思わなくても行動することができるし、後から振り返って「見つけてほしかったんだ」っていうこともできます。この点は非常に重要だと思います。にんじんは「おなかがへったなあ」って思いましたけど、別に思わなくても手近にせんべいでもあればバリバリ食ってたかもしれません。でもやっぱり「食欲がわいてたんだなあ」ということはできます。

 でも、言うことができる、って言い出したらなんでもそうじゃないかって思えるかもしれません。たとえば暴行事件を起こした人が「おなかが減っていてね」と言い出したりとか。ただ、これはちょっと誤解なんです。にんじんたちは「欲求」という言葉を、一人で使っているわけじゃあないからです。それが「食欲ってやつだね」と他のみんなもある程度頷かなくちゃいけない。

 たとえば「僕は京都に行きたいんだ」という人がいます。彼は旅行好きで日本全国を飛び回っているんですけど、決して京都には行かないんですね。「あっ、ものすごいラクチンで、格安のプランができたよ」と提案しても、それより高いししんどい他県に行ってしまう。でも彼は京都に行きたい京都に行きたいと言っている。……でも、どんなにチャンスが訪れても絶対に行かないんです。彼は京都に行きたいなんて欲求を持っていたんでしょうか?

 こんな風に訊きたくなるかもしれません。「本当のところは、そういう欲求があるの? ないの?」と。

 にんじんとしては、欲求というのが「その人にだけ判断できる不思議な感覚」だとは言いたくありません。だからといって、誰にもわからないものだとは言いたくない。欲求というのを不思議パワーにしたくもないし、完全に実在物として扱いたくもないわけです。でも欲求っていま普通、そういう風に扱われていると思います。

 他人のことはわからない、とはいうけれど、自分だってよくわからないものです。

 

 「京都旅行プラン破棄パオン」の例でわかるのは、欲求を持っているかどうか否かは前後の物語で判断されるということです。無人島の前を通りかかった船に手を振った男性が「見つけてほしかったんだよ」と回想できるのは、まさに手を振ったからです。体が動くのに、一切手を振ろうとしない男性が、「見つけてほしかったんだ」と回想する場面を想像してみてください。恐ろしく奇妙なものでしょう。

 

 だから、にんじんが「おなかが減ったんだ」と思ったのは、自分を包む大きな物語のなかでそれが妥当だからです。にんじんは腹痛で、いつもしている食事をしていなかった。だから、お腹が減ったんだろうなと思った。なんて当たり前の結論でしょう。理由は「さっき飯を食っていなかった」です。

 

 

 

まとめ

 では最後にまとめましょう。

  1.  欲求は自分のものでもなければ、自分以外のものでもない。私を含めたみんなのもの。まちがうかもしれないけど、みんなで話し合うことができる。突然でてきたやつに「ははん。君は自分の本当の気持ちを知らないんだね」と言われない。「ぼくの気持ちなんてぼく以外にはわからないさ」なんてことはない。ぼく以外にわからないことは、ぼくにもわからないだろう。
  2.  にんじんがお腹が減ったと思った理由には、「さっきご飯を食べなかった」ということが含まれる。それだけが理由ではないかもしれない。でもそれがなかったら、どうだったかわからない。
  3.  欲求は反省的なものである。「わっ欲しい~!」と見たと同時に思うことはあっても、もともと備え付けてあったわけではない。また、お祭りにいったときに、ふだんは絶対欲しくならないおもちゃを買ってしまい、「いや別にそんなに欲しいわけじゃなかったねぇ……」と思い直すことがある。わたしたちは自分に起きた「感じ」を反省的に改訂しうる。
  4. 欲求は心理学のものではない。統計的な要素に分析できるとしても、それがすべてではない。本棚をばらばらにしたら、木の板が数枚出て来るけれど、それを組み立てて本棚にするやつは本棚を知っているやつだけ。本棚を知っているのは心理学ではない。心理学をしている人、していない人、みんな知っている。でも心理学をしていると、あるひとつのバラし方がわかる。きっとそれは、ある目的のための手段として、「うまい」バラし方だったりすることもある。

 

 以上、答えになりましたでしょうか。(フォロワー)