好きの逆転
「おかあさんの馬鹿! お弁当にアレ入れてって言ったじゃん!」
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「給食のおばさんはこんなに苦労してるんだ。お母さんも大変なんだろうな」
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「ごめんねお母さん、あんなこといって」
この物語はジグザグに点と点で繋がっているよりもむしろ、振り子のように関連し合っている、と捉えることができます。というか、ほとんどの物語は振り子です。
この話には基本的に母親は絡んできません。母親はただひたすら弁当にものを入れ忘れるだけです。物語における「母親」というとなにやらほんわかあったかなイメージがつきまといますが、今はとにかく細部を考えず、ともかく弁当を入れ忘れた人だとしてください。
子どもは弁当に頼んでいたものが入っていないので怒っています。しかしその後、給食のおばさんの様子を見ることで「お弁当を作るのって大変なんだ。申し訳なかったな」と思い直します。
きわめていい話なのですが、さて、ここで母親がいじわるババアだったとしましょう。これでもいい話でしょうか? 「あ~、めんどくさ。てきとうでいいわw」と準備したとしたら? 逆に言えば、この子どもは「お母さんもまた、給食のおばさんと同様に苦労している」と信じ切っているからこそ、申し訳なさを感じるわけです。
そもそもその信じることがなければ、給食のおばさんがいくら苦労していようが家にいるママンとは一切関係がないわけです。「給食のおばさんは頑張っているのに、うちの親ときたら弁当にものを入れ忘れる迂闊者だからますます許せない」と言う風に思ってもいいところを、「ごめんねお母さん(´;ω;`)」となる。まさしく、母と子の普段の関係を象徴するような出来事です。
つまり、この物語がいい話になっているのは、子の親に対する信頼感が隠れた軸になっていて、終始それが描かれているからです。振り子です。
一方で、こうも言いたくなります。子は親なしには生きていくことができません。いつまでも弁当のおかずごときで怒って、まさか絶縁するわけにもいきません。もしかするとこれは、そういうものに動機づけられて「親を救うような解釈をさがし、それを発見した」というような物語ではないか?
これを軸とすると、上の物語は美談どころではありません。なにがどう違うんだとあえて言葉にはしにくいのですが、前のケースの場合、お母さんに対する信頼感をより強化する話なのですが、後のケースの場合、その場限りの理屈をこしらえることになります。
まとめると
物語の骨組みだけを抜き出すと、「美談とは限らない」こと。それは多くの細部に支えられているのだということ。少なくとも、上の物語を成立させるためには、母親との普段の関係を提示しなければならないだろうということ。「料理をがんばってつくっているひとが少なくとも一人存在する。だからあの人も同じようにがんばっているのだろう」という類比の推理は、なんらかの隠れた結論を引き出すための手段になっていること。逆に言えば、結論は最初から出ている、こと。
しかし、この信頼感はある物語を分析した結果として発見されることであって、「普段から信頼感なる気分を持っており持ち続けている」とは限らないし、ほとんどの場合そうではないこと。わたしたちは脳内に信頼感を貯蔵していたわけではなく、上の物語連鎖が単にその実在を予感させているだけだということ。わたしたちは脳内に「好感度ゲージ💖」を持ってはいないということ。いわば、振り子の軸は架空のものである。一方で、わたしたちはまさにそのような行為連鎖を信頼と呼ぶ。信頼とは常に隠れており、隠れていることこそ信頼と呼びうる。繰り返すが、別に「無意識」という領域に貯蔵されているわけではない。もし「貯蔵されている」ということで、それが「~する傾向性」を意味すると定義したとしても、なんの甲斐もないし、実験の結果は常に裏切られ続けるだろう。
そして、登場人物である子どもは、以上のような構図を一切考えていないこと。しかしもしこの構図にあることを反省などしてたら、弁当のおかず問題は余計に面倒な問題に発展していただろうということ(「給食のおばさんとうちのお母さんは関係ないよね」)。
考えることは、常に有益であるとは限らないこと。正しさはたいしたものではないこと。「なぜ?」「本当に?」と問うことは、進行している物語を止めることであること。
物語を止めない方法は「私はどうしたい?」だと思われます。
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