にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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人生ひととおり

Q.どうして生きてるんだろう……?

 

タイプⅠ「デカいことがしたい」

 アインシュタイン相対性理論という偉大な発明(発見ではない)をした。彼がそれを発明することは運命的なものに思える! だからそれと同じように、自分も何かデカいことをする運命なのか、そうじゃないのかと思い、生きていく目的を問いたくなる。

  • 自分はなにかデカいことをするのか?=生の意味の存在問題
  • デカいことをするとすればそれはなにか?=生の意味問題

 このタイプⅠは非常にありふれている。答えは単純で、あなたはアインシュタインと違って死んでいないので、人生全体を上から見ることなどできない。ゆえに、生きている意味など存在しない。というより、判定ができない。

 生の意味が存在しないという言葉でこのタイプが受ける衝撃はつまり、「あなたは別になにもでかいことなどできない、平凡な人生を送る」ということである。しかしそれも間違っている。正確には「どうなるかわかりません」というべきだ。人生全体を上から見ることはできない

 

タイプⅡ「デカいことどころか何をしても無駄。結局死ぬので」

 これは若干、タイプⅠよりたちが悪い。そしてまた、どうとも言い返せない厄介さがある。このタイプは面倒な懐疑論者と同様に、何を言われても「でも、死ぬよね?」と返せばいいので議論の際には最も気楽である。独我論者が「でもそれって妄想じゃないんですか?」というようなもので、何を言われてもそういえばいいので、その気楽さがその位置にとどまらせやすい。タイプⅡが独我論と違うのは、独我論よりも「間違ってるゾ」と誰もが胸を張っていえない点である。

 しかしタイプⅡにも弱点はある。それはなにかといえば、タイプⅡ論者は基本的に主張などできない。主張をしても無意味だとしているのは自分なのに、何を主張などしているのか、誰にもわからない。議論の際には気楽だといったが、そもそも参加させてもらえない可能性すらある。独我論者に対する文句もたった一言「じゃあお前今からトラックに飛び込めよ」で済むわけだ。

 タイプⅡ論者をけなしたいわけではない。にんじんは、「およそ今生きている人間でタイプⅡ論者でいることなど不可能だ」と言いたい(いま自殺の最中の人間は、タイプⅡである可能性はある)。このことはタイプⅡ論者であることと死んでいることは同じだという主張を含意しているが、そもそもタイプⅡを確信するということはそういうことである。何をしても無駄なのだから! 無駄なことでもしちゃいけない理由はないが、無駄なことは動機付けがないため、近いうちに死ぬだろう。

 疑似タイプⅡ論者(タイプⅡを主張しつつ、死なない)は、自らの死なない理由を、死への恐怖や痛みだと説明する場合が多い。まず、タイプⅡなのに、なぜ「主張」などしているのかよくわからないが(主張しないと体が激烈に痛むなら別だが、そんなやつはいない)、いずれにしろ、死ぬのだから選べるうちに死ぬべきではないか、とも言える。疑似タイプⅡ論者は安楽死するなら死ぬというが、可能性を探査することは基本的にしない。頑張れば、外国の制度に則って安楽死が可能かもしれない。

 わたしたちのほとんどは、疑似タイプⅡ論者である

 わたしたちは、結局死ぬのにどうして生きているのだろう、とどこかで感じている。その理由を見つけるために、謎の宗教にのめりこんだりするが、宗教の教義は「ここに書いてあるので信じなさい」の一言に尽きるため、心底納得することはほとんどない。言い換えれば、宗教における真理は運営主体が握っている。しかし「間違い」だというわけではない。だから、信じたい場合は信じればよい。これは好みの問題で、にんじんはみんなで納得できる哲学や科学のほうが趣味だというにすぎない。

 生の意味を問うことは「どうせ死ぬから生きてても無駄」に反論するかあるいは基礎づけしようとする試みである。

 

 生の意味問題は一旦わきにおこう(いまのにんじんでは手も足も出ないため)。

 そうではなく、ぼんやりと「結局死ぬのでな」と思いながらもなぜ生きているのか、を問おう。これもまた手も足もでない問題であるが……。

 そこにはおそらく、死の恐怖や痛みも含まれているだろう。しかしそれだけではない。わたしたちの希望は「何が起きるかわからない」に含まれている、と思う。わからないことが、わたしたちを生かし続けている、と思う。

 

 わたしたちは「考える」とき、常に上からものを見ようとする傾向がある。生きていることを考える時も、私たちは自らの人生の帯の端と端をつまんで、フームと言いたくなる。だが、そんなことはありえない。景色は常に前からひらけていく。人生の帯は現に今作られつつある。

 しかしわたしたちは、たしかに自分の死をさっきまでつまんでいたように感じる。

  •  赤ん坊、幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生、サラリーマン、結婚かなにかしたり、昇進したり、退職エントリを書いたり、年老いてなんか体の調子が悪くなってきて、親が死んだりして、周りの奴もポックリ逝ってきて、とうとう自分も動かなくなって、死んでしまう。

 この構図は、おそらく正しい。行きつけのスーパーに行くなら、もうあなたは道順を知っているだろう。「ああ行って、こう行って、曲がって、しばらく進んで、あぁ着いた」がある。それで、家を出てスーパーに着くまでの帯をつまんだつもりでいる。わたしたちのするものごとの把握は、未来を含む。ふつう「予期」などという。

 わたしたちは人生という概念をつまむ。それは予期で埋められている。しかし肝心なことは、わたしたちの予期などほとんど当てにならない、ということだ。

 家を出る。するとなんと偶然隣の家の人も出てくる―――こんなことは予想していなかった。びっくりする。でも「起こり得ない」ことではない。わたしたちは勝手に補完して「ありふれたおつかい」をする。まったくありふれていないのに。

 だが予期は役立たずではない。というのも予期がなければ驚くことすらできない。わたしたちは驚くことができる。この可能性は、逆に、予期の存在を示す。

 

 わたしたちはある種の決定論的世界に生きながら、予期とはずれた驚きがあるということも理解するという、二重性のなかで生きている。「あの道をこう行ってこう進めばスーパーに着く」のは当然のことであるし、そうでなければ生活などできないのだが、思いもかけないことがあることも理解している。たとえばスーパーが目の前でガス爆発でもしたらさぞびっくりするだろう。

 にんじんはこの「驚き」に、「どうせ死ぬのに生きていく理由」を見出す。わたしたちは『どうせこうなる』に導かれてどうせ死ぬと思っているが、その一方で、きっと何かがあることも固く信じている。それがわたしたちを生かす。

 

生きる意味 (岩波新書)

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おどろき

 自転車に乗ってたらですね、こういうことを考えたわけです。

「あ~~、だる~~~。自転車漕ぎたくねえ。つまんねえ~。今からこの道をああ行って、あ~、あそこ漕ぐのだるいんだよな。道がボコボコでさあ……。さっさと工事すればいいのに、ン~」

 しかし、道は工事されてきれいに舗装されていました。

 にんじんは文句のいいどころをなくしてしまいました。

 

 「道」というのは、向こうから人が歩いてくるところです。後ろから人が来るところです。だからどうせ人は歩いてきます。人はどうせ服を着ていますね。全裸のやつが来るとは思っていませんが、まぁ来たら驚きますよね。チーターがきたらもっと驚くでしょう。

 ただ、人は服を着ているというけれど、どんな服を着ているかなんて、にんじんたちは知りません。なんか奇抜なスタイルをしているとか、すごいきれいなひとがきたとか、「どうせ」からはずれつつもはずれないような、いい線ついた驚きが満ちています。そう思って見回してみると、案外おもしろいわけです。

  おっさんが歩いてきた。ハゲている(わっ、ハゲてる)。なぜか道の真ん中で立ち止まった(止まってびっくり)。服の内ポケットからなにかをとりだした(えっ、なに)。携帯だった(ガラケーかよ)。

  おっさんに集中しなくてもよくて、たとえば景色なんかでもそうです。一歩歩くと、視界が変わります。見えなかったものが見えるようになったりしますし、誰かと近づいたりします。そこに、人が歩いてくる。動物が飛んでくる。いずれも「どうせ」に乗りながらも、ちょっと違ったものたちです。人が動物にパンかなにかをやりだしたりする。そんな相互作用もあります。まさかパンをやるなんて思ってもみないでしょう。でもいちおう「どうせ」には乗っかっている。

 

 わたしたちは自分の世界観が歪むような出来事にでくわすと、合理的にそれを解決しようとします。たとえばですね、自転車道と歩道が分かれている道で、歩道と自転車道の境目を歩いてくる変な人がいたとしますよね。「なんなんだよこいつ」と思うのですが、よく見てみると、そこがぎりぎり日の当たる部分なんです。その日はすごく寒い日で、にんじんは納得したりする。

 歩道と自転車道ごときで「世界観が歪む」とか「驚く」とか大げさだなと思われるかもしれません。たぶんそれが、子どものときにはあって、大人にはない感覚だと思うんですよね。子どもは「どうせ」よりも、「驚く」ほうが多いと思うんです。だから単に走り回っているだけでも、よのなかは楽しくなる。それどころか、驚き=楽しいことを探している風なことさえある。

 でも年を重ねると、たいてい「世界改変」しちゃってるんで、特に面白くもないんですね。にんじんは「自分探し」とかいって外国に行っちゃう人の気持ちはよくわかります。馬鹿にするつもりにはまったくなれません。まぁ、にんじんは行きませんが。でも、自分は絶対に見つかりませんよ。でも「驚いて」癒すことができます。

 

 いうなれば、タイプⅡは大人になりすぎたのです。

 ちょっと子どもに戻って、しょーもないことに驚いてみてください。「思った通り」のことは、他のあらゆる部分に目をつぶらなければ、絶対に起きません。そこに人間などの生きたものが加われば、もう無理です。予測不能です。でもそれを振り返った時「なんにもなかったな」と言うのが、きっと大人なのです。

 

追記

 おどろくっていいよね、という風にまとめている。が、当たり前のように、程度というものがある。その人にとってちょうどいいぐらいというものがあって、その限度を大きく超えると不快になる。少し超えるぐらいは新鮮でいい。

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

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君たちはどう生きるか (岩波文庫)

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