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にんじんと読む「カント(岩崎武雄)」🥕

 

序論 カント哲学の背景と意図

 西洋哲学の大きな流れを「古代」「中世」「近世」「現代」に大きく分けてみよう。中世哲学は『言うまでもなく本質的にキリスト教哲学である』(西洋哲学史)。しかしその末期になると、キリスト教の教義を理性的に基礎づけることが不可能であることが次第に明らかになってきてしまった。発展してくる学問はキリスト教的世界観を揺るがしはじめ、その対策として、ウィリアム・オッカムは神学と哲学を切り離した。学問の結果が狭義を揺るがしても二つは関係がないので、これによって信仰を守ろうとしたのである。オッカムはキリスト教の信仰を守ろうとしたが、ふたつを切り離したことによって、教義を気にせず学問的探究ができるようになってしまった。

 近世哲学は「古代」とも「中世」とも異なっている。前時代においては、人間は自然の一部にすぎず、その支配を脱することのできない存在であった。たとえば物体の落下運動は、物体が””下に向かう””という本質を持っているために起こると考えられた。この本質にはどんなものも逆らうことができない。しかし近世に至ってこのような自然探求の方向は大きく転換され、””本質””ではなく””法則””が求められるようになった。自然の””なぜ””を突き詰めていくのではなく、自然現象が””いかにして””起こるかが求める考え方である。わたしたちは法則を実験的に確かめることができる。

 

 自然科学の成功は哲学にも大きな影響を与えた。

 デカルトは、確実な真理から出発して演繹的に次々と新しい真理を見出していくという、数学的方法の模倣をした。また、スピノザも定義や公理から出発し哲学を構築した。彼らのように、演繹によって真理を獲得しようという立場は「大陸合理論」と呼ばれた。しかしAからBが導出されるなら、Bの内容は既にAに含まれている。すべての人間は死ぬ、かつ、ソクラテスは人間であるならば、ソクラテスは死ぬ、のだが、ソクラテスが死ぬことを知っていなければすべての人間は死ぬなどとは言えない。

 合理論のこのような欠陥に対して「経験論」がおこってくる。合理論が学問の数学的方法に注目したものであったとすれば、経験論は学問の実証性に目を向けたものである。真理を求めるならばまず経験から始めなければならず、経験していないことなど知るわけがない。ところがこの経験論の選択は、形而上学的哲学をすべて撤廃することを意味する。そして経験論が行きついた先は、認識に対する懐疑であった。経験するのはわれわれであるが、われわれの認識自体がまずもって正しいのかわからない。また、よく知られているように、何百羽の黒いカラスを見たところで、白いカラスがいないなどとは証明ができない。

 カント哲学は、こうしたなかで生まれてきた。

 

カント

カント

 

 

純粋理性批判』の課題と根本思想

 カント哲学の意図は、自然科学の確実性を基礎づけ、それと同時に形而上学の可能性を立て直すことだった―――形而上学と自然科学の調停。

 認識には二通りある。経験的認識と先天的認識である。先天的認識とは、一切の経験から独立な認識という意味である。経験的認識は決して必然性と普遍性を持つことができない。即ち、何故事象がその性質を持つか、又、将来においても常にそうであるか、などはわからない。経験的認識が必然性と普遍性を持たないならば、それは真に学問性を持った認識であるとはいえない。従って、先天的認識こそ学問的に重要な意義を持つ。

 しかし、先天的認識のすべてが学問的に重要な意義を持つわけではない。

 あらゆる判断は「AはB」という風に、主語と述語を持つが、この関係によって二通りに分類される。分析判断と総合判断である。分析判断とは、主語の内に既に述語が含まれている判断のことで、総合判断とはそうではない判断のことである。例えば「物体は延長をもつ」というのは、物体という以上延長(ひろがり)を持つのは当たり前であるから、分析判断とみなされる。

 分析判断は主語を分析すれば導かれるため、経験を必要としない。即ち、経験的分析判断は存在しない。しかし、わたしたちの知識を拡張することもない。だから、分析判断は学問的に重要な意義をもたない。従って、総合判断こそ、学問的に意義がある。以上により、カントが重要視したのは「先天的総合判断」である。先天的総合判断はわれわれの知識を拡張するものであり、かつ、必然性と普遍性を持つ。

 形而上学は当然、先天的総合判断のみから成り立つだろう。形而上学が学として可能であるかどうかは、その点を検討することが必要である。

 

 

 先天的総合判断はいかにして可能なのだろうか。一切の経験から独立でありながら、総合判断であるなど可能なのだろうか。カントはこの困難を『カントのコペルニクス的転回』によって乗り越えようとする。即ち、『認識が対象に従わなければならないのではなく、対象がわれわれの認識に従わなければならない』と見直すことによって、この問題は解決されるというのである。つまり、われわれの主観に先天的な形式があって、この形式によって対象を構成している、という考え方である。「対象はわたしたちと無関係」ではないのである。

 対象とは主観の形式から構成される。そうであるならば、われわれがこの対象について先天的認識を持つことは可能である。なぜなら、その対象はわたしたちが構成しているのだから。少なくとも構成に携わった部分については知られるはずである。加えてそれは概念の分析ではないから総合判断でありうる―――認識論的主観主義

 認識論的主観主義によって当初の目的は果たされる。

 まず第一に自然科学の基礎づけについて。自然科学は経験的認識が主であるが、そればかりでは必然性と普遍性を持ちえないのだった。しかし、経験というものは対象と同様にわれわれが主観の形式によって構成したものである。ゆえに、経験は先天的総合判断を含む。

 第二に、形而上学の立て直しについて。認識論的主観主義は、わたしたちが決して対象自身にはたどり着けないことを含意する。ゆえに形而上学はカント哲学によっても廃棄されたように、思われてしまうかもしれない。たしかに理論的認識は決してその対象自体にはたどりつけない。これが認識論的主観主義そのものであった。しかし、カントはここに形而上学が成立する余地を残した。すなわち、主観が影響してくる「現象」の領域と、対象それ自体の領域「物自体」を区別した。「現象」には理論的認識という仕方で迫る。一方、「物自体」には別の仕方で迫る。それがどのようなものであるかは、カントのこれ以降の著作に繋がっていくのである。

 

 この認識論的主観主義によって主張される「主観の形式」とはどんなものであろうか。これを扱うのが、次の「先験的感性論」である。

 

 

正しく考えるために (講談社現代新書)

正しく考えるために (講談社現代新書)

 

 

感性と悟性の先天的形式

先験的感性論

  認識論的主観主義の要請によって、われわれは主観のなかに先天的な形式を求めなければならない。カントによれば、人間の認識能力は感性悟性という二つのはたらきの共同である。物自体から刺激されてそれを把握する能力が感性であり、それを「机」とかいう概念を用いて説明するのが悟性である。このいずれにも、先天的形式があると考えられる。先天的形式を持つことが客観性を持つことなのであるから、悟性にそれが求められるのは当然である。また、もし感性に先天的形式がない、つまりすべての直観が経験によって生まれるならば、それを素材としていくら悟性を働かせても先天的総合判断など可能にはならない。感性の先天的形式を「直観形式」(純粋直観)、悟性の先天的形式を「カテゴリー」と呼ぶ。

 

 感性とは、「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を得る能力」である。いわば受容する能力であるが、ここに先天的・つまり経験を必要としない形式をどのように見出せるだろうか。われわれは触発された結果、「感覚」するが、この与えられる感覚を秩序づけるところに先天的形式=直観形式が認められる。

 具体的には、カントによればそれは時間と空間であった。つまり、非空間的・非時間的な直観的表象は存在しない。このふたつが先天的形式であることの論証は「形而上学的究明」と「先験的究明」と呼ばれるものに分かれる。たとえば空間においては、形而上学的究明によって、空間が先天的であること・空間が概念ではなく直観であることが示される。先験的究明においては、空間を先天的と考えることによって先天的総合判断が可能になることを説明しようとする。時間においても同様である。

 

 次にカテゴリーについて論ずる。

 

先験的分析論

 カテゴリーにはどんなものが見出されるか。これを求める手続きを「カテゴリーの形而上学的演繹」という。カントはそれまであった判断表を基礎として、カテゴリーの一覧を作成した。しかしこのやり方はいかにも天下り的というか、既存のものを利用したので、批判が集まるところにもなっている。カントの作成したカテゴリー表については別途調べていただくとして、カテゴリーが対象に対して客観的妥当性をもつかどうかをみていこう。

 感性の場合は、このことは問題にならなかった。というのは、直観形式が対象をつくりあげるのであるから、直観形式が対象に関係していないなどということはありえないから。一方悟性の場合はそうではない。対象は既に作り上げられており、悟性とはつまり考えることであるから、別に対象と関係を持つとは思えないのである。

 カントはこのことを単純に解決した。つまり「感性が対象を作り、その対象に関して考える」のではなく、対象を作る過程で既に悟性が関与している、と。直観によって我々に与えられるのは統一なきカオスである。悟性がそこに統一をあたえるのだ。

 

 次に悟性が統一を与える仕方について考えよう。

 カオスをまとめるためには、与えられた印象たちに目を通し、それをひとつにまとめていかなければならない(覚知の総合)。この総合が可能であるためには、瞬間的に消え失せていく印象を心に保持し、再現できなければならない(構想における再現の総合)。その再現の総合が可能であるためには、保持した印象と再現した印象が同一であるということを再認識できなければならない(概念における再認識の総合)。再認識ということが可能であるためには、認識する意識は同一のものでなければならない(先験的統覚)。意識の同一性つまり先験的統覚こそ、総合する働き、悟性であり、ここに含まれる先天的形式(カテゴリー)がそこに秩序を与える。

 

 

ここまでのまとめ

 自然科学の成功によって、哲学もその成功を模範とし始め、その姿を大きく変えていく。たとえばそれはデカルトの「われ思う故にわれあり」という基本命題から出発して新たな真理を導出しようとする大陸合理論と呼ばれる立場にあらわれている。しかしこの演繹を重視する考えには問題がある。大前提から結論を演繹するとき、結論は大前提のうちに含まれているはずだからである。

 合理論が一切の経験を無視して純粋に理性による演繹的推理によって神とか世界とかに関する知に至ろうとする一方、イギリス経験論は「経験なくしては事物についての認識を行うことはできない」として経験を重視した。ところが経験というものを重視するに従い、経験したことがないもののことなどわからないと当然その方向へ傾いてくる。すると、神や世界一般の意味、価値など、形而上学は廃棄されることとなる。さらに進み、ヒュームに至ると、そもそも経験の確実性も疑われた。*1

 形而上学も自然科学も両方が失われてしまうという事態に、両方を調停しようとする哲学であるカントがあらわれる。カント哲学はコペルニクス的転回を行うことで、両方を救う手立てを考え付いたのだ。すなわち、それが認識論的主観主義である。

 

 認識論的主観主義における主観の形式の中に求められるのは、経験によらない先天的形式である。われわれの認識には経験的認識と先天的認識がある。先天的認識とは経験によらない認識である。必然性と普遍性をもつのは当然先天的認識のほうであり、それが学問的認識と呼べるものでもある。しかし先天的認識のすべてがそのような学問的に意義のあるものではない。たとえばAかつBはAであるといったような命題は、主語を分析することで述語が導かれる。しかしそれはわれわれの認識を一切拡張するものではない。このような判断を分析判断と呼び、総合判断と対置される。すなわち、われわれが求める学問的な意義を持つ判断とは、先天的総合判断のことを指す。

 先天的総合判断が可能なものとなるために、認識論的主観主義がどうしても必要であり、先天的総合判断と認識論的主観主義は密接に結びついている。先天的総合判断を可能ならしめるのは主観の形式のうちにある先天的なものによるのだ。そしてこの先天的総合判断によって基礎づけられる自然科学はその確実性を守られ、また、形而上学は認識論的主観主義の導出する結論によってこれまでとは違う独自の立場を見出すことになる。

 

 では、主観の形式とはなんだろうか。カントは認識というものが「感性」と「悟性」からなると考え、それぞれの先天的形式を直観形式およびカテゴリーと呼んだ。直観形式とは空間・時間であり、カテゴリーは判断表を基礎につくりだされたカテゴリー表によって一覧することができる。

 認識は感性と悟性の共同により「対象」を作り上げる。ここで重要なのは、感性が物自体を受け取り対象をつくりだし、悟性がそれについて思考するのではなく、悟性もまた対象をつくる過程に携わっているということである。だからこそ、人間が自前に持っている形式というのが、単なる偶然ではなく、必然的に対象に適用可能なものとなっているのである。なにしろ、悟性がカテゴリーによって変形させる対象というものは悟性が作り出したものでもあるのだから。

 そして悟性が対象の製作に携わる仕方を分析することによって、われわれは「先験的統覚」という意識の同一性にまで達する。

 感性が作り出した印象に過ぎないものを悟性が秩序付けるためには、あらわれる色々な印象を束ねてひとつにしなければならない。(覚知の総合)。ひとつにするためにはどんどんと消えていく印象を保持してまた再現できなければならない(再現の総合)。再現できるためには保持した印象と再現した印象が一致することを確かめられなければならない(再認識の総合)。確かめられるためには、前と後とで同じ意識であることが必要なのだ(先験的統覚)。われわれは先験的統覚、自己意識、「われ思う」に到達する。

 

 

 実はカントはデカルトの出発点(コギト)を掘り進めたのである。デカルトはコギトから出発した。しかしカントが示したのは、「われ思う」は既に対象と一定の関係にあるということだった。

 

 

 

 

現代英米哲学入門

現代英米哲学入門

 

*1:こうしてみてくると、経験論もまたデカルトの枠組みのなかにいる。彼らもまた経験を「基本」として、確実な知識に向かおうとしたのだから。