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にんじんと読む「和辻哲郎の解釈学的倫理学(飯嶋裕治)」 序論+第一章

 

序論 和辻哲郎倫理学理論の全体像の解明のために

 和辻哲郎の『倫理学』は「間柄の倫理学」として知られている。人間は単に孤立した個人として存在しているのではなく、人と人との間の相互関係のなかで存在している。人間を個人性と社会性という二重性格をもつものとして規定したのだ。この本ではこの倫理学の全体像を描きだすことを目的としている。

 

 和辻倫理学はいくつかの基本的特徴を持っている。

 第一に、それは解釈学的に考える

 解釈学の核心は、人間が物事をいかに理解しているかという問題を、全体-部分関係から捉え直す点にある。ふつう、われわれは何かを理解しようというとき、「部分を積み上げて、その全体に向かう」という風に考える。しかしこの観点においては、そもそも全体の理解など可能なのかという問題がある(いくら青年Aについて調べたところで、A氏のすべてなどわかるのだろうか?)。

 しかし解釈学は逆に、われわれは全体の理解を初めから持っていたと考える。たとえば青年A氏の評判を耳にして「あいつらしくないぞ」と思ったとする。それはA氏についての全体の理解があるからこそ言えることなのだ。もちろん、この理解は不明瞭なもので、ぼんやりとした印象のようなものである。わたしたちはそうした漠然とした理解を背景に、その部分を理解していく。そして部分の理解(=解釈)に応じて、全体の理解が更新されることもあり得る。こうした往復運動を通して対象をより分節化された明瞭なものにしていく過程こそ、「何かを理解する」ということなのだ。

 第二に、それは行為のある側面に注目する

 倫理学において、行為は規範性と結びつけて考察される。わたしたちは漠然と規範というものを理解しており、それに応じてたとえば目上の人へ相応のふるまいをとる。また、その振る舞いに対して「あれはよくなかったな」と規範をもとに評価されたりする。

 行為の規範性には、この二つの側面「事前の規整」・「事後の評価」がある。これまでの哲学においては事後の評価ばかりが問題にされた。たとえば客観的な価値基準などあるのだろうか、といった風に。こうした議論のなかで、そんな基準に対する懐疑論がうまれてきた。一方で「事前の規整」という側面は、客観的な価値基準が定まればそれに従えばいいという風に、さほど重視されてこなかった。

 和辻倫理学はむしろ事前の規整という側面をより重視している点に特徴がある。

 また、そもそもわたしたちは「こういう規範があるで、従うわ」と毎回呟きながら行為するわけではない。目上の人に対して敬語になるのはきわめて日常的であり、大抵の場合は適切な仕方で行為される。ところが伝統的な哲学は行為というものを手持ちの原理を参照しつつそれに適合するように行動していると考えるのだ。これを主題的・命題的・表象的な知識に基づく「主知主義的な行為観」と呼ぼう。

 和辻倫理学はそれとは逆に、非主題的・非命題的・非表象的な「非主知主義的な行為観」を持っている。和辻倫理学においては日常性とか常識といったものがより重要視されているのである。

 

 この行為観において、規範がわかる、規範を「了解」するとはどういうことだろうか。この「了解」とは解釈学的概念である。つまり、規範を了解するということは規範の全体を把握していることである。規範の全体とは、記述し尽くせない無数の規範の全体である。

 ハイデガーは『存在と時間』において、道具の使用に関する無数の指示関係がある全体性をなすものでなければならないといった。ペンは道具のひとつであるが、紙がなければ意味がないし、さらには机がないと書けないし、また、机はなんらかの部屋のなかにあり、部屋は家のどこかにあったりする。われわれが道具を道具として理解できるのはそのような指示関係の全体が先行的にわかっているからであり、このわかり方こそが「了解」というものの基本的特徴である。

 和辻倫理学においては「間柄」というものを、この了解という概念から精緻に分析しようとしていた。そもそも行為とは、ある間柄において意味をもつ振る舞いであり、単なる動作とは異なる。たとえば本を書くということは、読者との関係においてなされる行為である。また「盗み見る」ことができるためにはその相手と自分との間に一定の関係を求めるだろう(たとえば、その相手とはケンカしており、ふつうに話しかけることができない、など)。和辻倫理学においては日常生活における諸実践を可能にしている了解を「実践的了解」と呼ぶ。

 和辻はハイデガーの「道具使用の規範性」を「行為の仕方の規範性」に拡張する。日常的行為はこの実践的了解によってあらかじめ方向付けられる(事前の規整)。

 

 さて、このような規範全体性の了解はほとんどの場合、ことばにはならない。実践的了解とは意識以前のことなのである。このことから「了解」と「認識」は大きく異なることが分かるだろう。

 とはいえ、了解は「本能」とは違う。人間は必要な時には、それを言葉にして表現することもできる。たとえば毎年毎年「ガキ使」を年末に見ているとする。別に意識してやっているわけではないのだが、母親から「あんたは毎年それやな。なんでなん」と言われ、なんとなく「紅白つまんねえからかなあ」などと表現したりする。われわれはそのとき、実践的了解を自己解釈し、それによって自らの了解を更新させていくことができる。こんなことは本能にはできない。

 

 

和辻哲郎の解釈学的倫理学

和辻哲郎の解釈学的倫理学

 

 

 

第一章 解釈学的方法と「日本語で哲学する」こと

第一節 倫理学の方法としての解釈学的方法

 なぜ和辻倫理学に解釈学的方法が要請されるのか。それはそもそも彼の基本的な姿勢として、考察の仕方の問題が考察対象のあり方と密接な関係にあると考えられているからである。ではその考察対象とはなんであり、解釈学的方法を要する考察対象としていかなる性格をもつのか。

 和辻倫理学の考察対象は「人間」と名指される何ものかである。人間とはただ観照するものでも、観照されるものでもなく、まずなによりも、行為し実践する主体である。だから和辻は人間というものを実践的主体として把握しなければならない。だが、ここに大きな困難がある。というのも、和辻が作ろうとしているのは学問であり、人間というものを観照されるものとして扱うことになるからだ。主体的な人間をあくまで主体として、しかも学的に把握するにはどうするか―――ここに、解釈学的方法が要請されるのである。

 それは「表現」である。表現とは『主体たる人間(「者」)が自分自身を外化する(「外に出る」)ことにおいて、自らを客観化・対象化したもの(「物」)』である。つまり表現とは対象化された物でありつつ、外に出たわれわれ自身である以上は主体自身と関係がある。すなわち、①「物」であるから誰でも検証可能(学的要請)、②主体的なものと内的関係をもつ。

 

 ここで「表現」概念について、注意しておかなければならない。上述した説明の中で「外」という語を使ったが、これは主客二元論的な構図をもたない。つまり、『個人の主観的な意識や体験(内)と、それに対立する対象的な事物からなる客観的な世界(外)』といった対比ではない。

 あらためて「表現」とはなにか。それは、個人的・主観的な体験の表出ではあい。それは「実践的な間柄における主体的な存在の表現」である。長ったらしいのでこれを単に「間柄の表現」といえばわかりやすい。表現とは個人的なものというより、間柄の表現なのである。たとえば、「僕は君の事を愛している」と口でいいながら、何かあったら一目散でひとり彼女を置いて逃げる男がいたら、彼は自身の了解をうまく表現してくれたなと思うだろう。「われわれはつねにすでに自らを何らかの仕方で表現してしまっている」(表現の基底性)。

  わたしたちはさまざまなことを、そしてさまざまなものを表現する。『われわれの身の回りにあるものはみな、「外に出た我々自身」としての「間柄の表現」である』(和辻哲郎の解釈学的倫理学, p39)。もはや表現概念は存在者概念とほぼ同義であり、これによって『「表現」は存在論的な概念へと拡張・転換されるにいたっている』。

 

 存在論的/存在的という区別はハイデガーに由来する。和辻はそれを踏まえつつ、存在論的認識を、人間の歴史的風土的構造一般に関する認識であるとし、一方、存在的認識を、具体的な人間存在の仕方、その特殊性における存在に関する認識だとした。

 存在論的認識は、わたしたちがかならずどこかの国・時代に、ある特有な仕方で存在しているということを規定する。しかしそれだけである。それは各人の各人なりのあり方そのものではない。それは存在的に認識されねばならない。つまり、人間存在の把握はふたつの認識が必要になって来る。『存在論的認識は人間の存在構造一般に関わる点で、倫理学研究に対応する。また存在的認識は、その人間の存在構造が、各時代・地域においていかに実現されているか、といった人間存在の特殊性に関する思想史研究に対応する』。

 

 これまでのまとめ

序章

 この本は和辻哲郎倫理学理論の全体像を解明することを主題とする。

 和辻倫理学の基本的特徴は①解釈学的な思考様式と②行為の規範性・意味への問題意識である。まず第一に解釈学的な思考様式について、これは「全体の理解は部分の理解に先行する」という言葉に要約される。全体の理解が背景となって部分の理解(解釈と呼ぶ)を可能とし、この解釈が全体の理解に影響を及ぼすという往復運動をする。何かを理解するとかこの往復運動を通じて最初は不明瞭で不確定な全体の理解をより分節化された明瞭なものにしていく過程のことである。

 第二に、「行為は規範的である」。ある行為はわたしたちが事前に持っていた規範理解をあらわし、また、行為は後で規範によって評価される。即ち①規範は行為を事前に規整する(事前の規整)、②規範は行為を事後的に評価する際の規準になる(事後の評価)という二つの側面を持つ。伝統的には、倫理的に正しい規範を見つけようとする事後の評価の側面に重きが置かれがちだった。しかし和辻倫理学においては事前の規整を重視するのである。

 そもそもわれわれは行為するときに規範など参照しない。事後の評価が重視されるのは「規範を状況と適合させながら行動している」という主知主義的な行為感があるためだ。しかし実際には人間はそのように行為していない。目上の人に挨拶するとき、目上の人には丁重にすべきであるという規範を参照するのではなく、むしろ自然に「そのように」振る舞う。これは非主知主義的な行為観である。

 

 わたしたちは規範というものを漠然と了解しており、ふつうはそれを意識することなく自然に行為する。この「了解」という認知様式は明らかに「認識」とは異なる。規範についての全体的な了解(実践的了解。さまざまな規範たちのつながり、その全体性のの了解)は意識されるとは限らない。意識以前のことである点で、認識とは異なる。

  しかし了解は本能とは異なる。というのも、了解は更新することができる。自らの了解を表現し、自覚し、それを更新させていくことができる。わたしたちは常に自分自身の了解を常に更新させており、親しい人に挨拶をして無視されると、次に挨拶するとき少しためらわせたりする。

 了解というものは行為を可能にするという点で、認識よりも基礎的である。また、了解によってハンマーを扱うことができる(道具の繋がりを理解している。「技能」の側面)。また先述したように自らの了解を表現することで反省も可能にしている(「反省」の側面)。技能と反省を了解という軸を用いて統一的に理解することができるようになったのだ(「実践」と「理論」)。

第一章第一節

 和辻によれば、上述してきたような基本的特徴に含まれる「解釈学的方法」は、倫理学が採るべきものである。倫理学が考察対象とする人間は、単なる客体ではなく、われわれ自身である。だから、人間をあくまで主体的なものだと扱いながら、また同時に学問としても取り扱いたい……。

 この事情は少々捉えづらい。しかし恐らくこのようなことだと思われる。:「観察されるものは、なにものかから観察されている。そして、そのなにものかは観察されていない」。観察する限り、観察している当人は観察の外に出てしまう。普通はそれでいいかもしれないが、今回の場合は特に、観察したいものも、観察するものも両方人間であるから、困る。では観察するものを観察したらどうかということになるが、じゃあ観察者2は誰が観察するんだろうか。

 だいたいこのように考えてくると、主体であり客体でもあるような人間全体を把握するためにどういう研究をすればいいかがわからなくなると思う。これを解決する方法こそ、解釈学的方法であり「表現」に注目することだった。

 

第二節 「日本語で哲学する」という問題構成をめぐって

 和辻は、「倫」は「なかま」を意味するから~というように日本語の語義解釈を手掛かりにしていく。しかしこのような日本語で哲学をすることを可能にしている前提とは一体なんなのだろうか。日本語は数多くある言語に過ぎず、普遍的な知を目指す哲学にはふさわしくないように思われる。まずは彼の言語哲学を見てみることにしよう。

表現主義

 表現主義とは、「人間の活動一般および特に芸術活動は、個人や集団の全人格を表現するものであり、そうした活動が理解可能であるその程度は、それがどれだけ表現されているかのみにかかっている、という主張」である。つまり人間の活動はどれをとってもその人の全人格を表現しており、それが十全に表現できていればいるほど人格自身の完成に近づく、というものだ。このような人間観を哲学的に考察し直したのがチャールズ・テイラーである。人間観と言語観との一体性を説く。

 まず言語観には二つある。「指示的」なものと、「表現ー構成的」なものである。指示的な言語観においては、言語は世界の物事を指し示す記号として扱われる。一方で表現ー構成的な言語観においては、指示的な機能だけでなく、言語使用者自身の意識のあり方を表現するものである。この表現ー構成的な言語観には二つの重大な特徴がある。

 一つは『表現の構成的機能』である。この言語観においては、「思考がまずあって、それが言語で表現される」という、思考と言語の分離を拒否する。むしろ思考と言語は一体であって、「言語は思考の表現であることにおいて、その思考(内容)を形成・構成している」。つまり、何かを表現するとき、その何かは表現される以前には未完成の状態にあり、不明瞭なものだが、表現されることによって十全なものとして形成される。何かを表現するということは、何かを具体化・明示化することで、それをそのように存在させるという営為なのである。

 一つは『共同性・民族の言語であること』である。

 指示的な言語観なら、物事を指し示せばいいだけだから、言語の違いなど大したことではない。個別の言語の特殊性は視野には入らない。しかし表現ー構成的な言語観では、言語の違いは大きな意味を持つ。

  1.  言語はその民族のものの見方を表現している。たとえば虹の色。又、エスキモーは雪の名前を100種類以上持っている。
  2.  各共同体は独自性を持つ。

 各共同体は独自性を持ち、言語はその独自性を表現している。この表現主義的な言語観は、「人間」というものについて或ることを教えてくれる。表現は一定の言語や文化のもとで初めて可能であり、背後にはそれを育む共同体がある。個々人は共同体のなかに生まれ、その文化のなかで育つ。『その意味で、人間を互いに独立した原子のようなものとして把握する原子論的な人間観は否定されることになる』(和辻哲郎の解釈学的倫理学)。

 

 

 

 

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

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