にんじんブログ

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にんじんと読む「心がつながるのが怖い(イルセ・サン)」🥕

 他者と愛情に満ちた親密な関係を築けないのは何故か?

 その答えのひとつとして、『私たちが自分自身をあざむき、自分を守ろうとする戦略をとり、愛に自らストップをかけてしまっている』ことが挙げられます。そのような戦略は、防衛機制フロイト)だったり、コーピング(認知療法)だったり、様々な名前があります。ここでは『他者や自身の内面と距離を置いたりする措置』のことを、自己防衛の戦略と呼ぶことにしましょう。

 

第一章 自己防衛の戦略とはどのようなものか

 自己防衛の戦略のほとんどは人生の早い段階でとられるようになります。そのときは困難を避けるためにやったことなのですが、大人になってからそれを無意識にやってしまい、問題が出るケースが多いのです。特に人間関係の問題です。

 具体例を挙げましょう。アンナという女の子は両親の気を惹き、見てほしいと思ったのですが、いつもそっけなくされてしまいます。しかし彼女は「何を読んでるの?」と親に注目すると、親が嬉しそうな顔をすることに気づきました。それから彼女は他者へと注目する能力を伸ばしていくのですが、実際のところ、アンナは自分を見てほしいのです。しかし親からのネガティブな反応を見て来たので、そんなことは言えません。

 

 自己防衛には内的と対人の二種あります。嫌な感情から自分を守るのが内的、距離をつめてくる他者から身を守るのが対人です。嫌なことを忘れること、意識から遠ざけようとすることは内的自己防衛です。また、一時のテンションに身を任せて他人にべらべら内心を話してしまわないようにするのは対人自己防衛の一例でしょう。他者から距離をとるのは一見冷たいようですが重要な自己防衛で、相手との距離を選ぶのは大切なことです。

 内的自己防衛が強いと外部に対して防衛する必要はありません。たいてい耐えられるからです。それが弱い場合、それを補うのが対人です。自身を守るためにはどちらも大切です。

 

 でも、自分を守りすぎると、無意識のうちにそれをやっていると、人間関係に問題が起きます。人に近づけなくなるのです。

 

第二章 自己防衛戦略を無意識にとるとき、問題が起こる/第三章 喪失の悲しみを恐れて愛に満ちた関係を避ける人たち/第四章 愛情に満ちた人生への扉を閉ざしてしまう不幸なパターン

 

 基本的には章のタイトルがすべてです。

 忘れようとしているときには、親身な人は逆に近づきがたい人になるでしょう。そういうときに冷淡な人を選択することになりますが、この選択が無意識なものになると、将来のパートナーも冷淡な人を選びかねません。

 自己防衛の戦略が人格の一部になっている場合、つまりごく自然にそれを選んでしまうような場合、人は迷走します。悲しみを避けるために人間関係自体を避けてしまったりします。あるいは①とんでもない理想を掲げて届かない相手を求め続ける、②心を閉ざした相手をパートナーに選ぶ。要はこの人には自分がいないと駄目パターン。

 

第五章 親を理想化することの危険

 親との関係をポジティブに語れば語るほど、実際の幼少期がつらいものだとわかります。現実には完璧な子ども時代などありません。自分は特別よい子ども時代を送って来たと主張する人は、「両親は常に私に強い関心を示してくれました」と言います。

 関心とは二種類あります。(1)相手がうまくいっているかという関心、けっこう打算的(2)内面への関心。相手をできるだけ理解しようとし、相手の独自の性格を発見しようとし、相手の立場になる。たとえば世間体ばかり気にして子どもに向かう親は一番目の関心を持つでしょう。

 いろいろ複合されているのが普通で、完璧な両親などそもそも存在しないのですが、それなのに親を理想として語っているのは少々問題があります。理想化された親のイメージは自己像に影響するからです。①親とともに、自分も理想化する。②親を理想化し、自分を蔑む。両方のあいだをふらふらすることもあります。ある時期には自分を完璧だと信じ、別の時期には自分のことを無価値なカスだと思います。

 両親が自分を扱ったように人を扱います。親からいつも批判されていた人は人を批判しますし、そして、その批判に従ってくれるような人と一緒にいることを選びます。というのも、そういう関係性こそが自然で落ち着くからです。

 

 だからこそ、両親がどんな人たちであるか、あったかを、より詳しく正確に理解する試みは重要ですし、一生の試みでさえあります。人間関係の改善のためには自分がどのような戦略をとっているか自覚することから始まりますが、場合によっては、より深く、自分がなぜそのような行動をとってしまうのか調べる必要があります。それが親です

 

第六章 感情を完全に意識する

 感情を完全に意識するとは、「体の反応」「衝動」「認識」の三つの面で意識することです。たとえば恐怖することは、体が震えることであり、逃げ出したくなることであり、恐怖していると認識することです。必ずしもそうとはいえませんが、この三つのどれかが感じられない場合は、自己防衛によって抑圧している可能性があります。

 喜びも、怒りも、不安も、願望も。

 

※つまるところ、本当にそう感じているんだろうかという話だろうと思います。「~したい」と言いながら特になんの行動も移さない、衝動がない、というのは「したさ」を感じていないということの証拠かもしれません。

 

第七章 不適切な自己防衛の戦略を取り除く

 自己防衛の戦略に気づくことができれば、ある程度それは効力を失います。

 また、両親との関係に戻って、その戦略を考えることは有益です。

 

第八章 本来の自分に戻る

 ありのままの自分でいると、他者と出会うことができます。

 自己防衛の戦略に気づき、ありのままの自分でいること。愛されているとはその自分が受け入れられていることであり、愛するとは受け入れることです。また人生の状況は刻一刻と変化し、別れもあります。それによって新しい出会いが訪れることもあります。

 

 不必要な自己防衛をやめること。

 そのためにまず自己防衛の戦略に気づくこと。

 

にんじんの考察

 基本的な骨子は理解できる。理解できない点も多々ある。

 人間の世界に対する了解を形作る点で、親が重要なのは納得できる。彼らは生きていくために欠かせないし、彼らの意向は生死にかかわる。そしてそれをコアにして、徐々に自分を固めていくのだろう。そこで人間関係の対処が学ばれるなら、親が自分を扱うように人を扱うのは筋が通っている。他者を親と「同一視」しているのではなく、「親を基準にして」人を見ているといえる。

 注意しなければならないのは、親がすべての原因ではない、ということだと思われる。第一に、単純に説明すれば、親の影響下がA地区、親とかけ離れた存在がB地区、まぁまぁ近しいのがC地区だとすると、A地区での経験をすべての地区のすべての説明に用いるのはどうかしている。故郷に川が流れていなければ、旅先の川は一切目に入らないのだろうか。しかし、旅先においても基本的には故郷と同じように振る舞うだろう点において、親の影響は決定的である。第二に、じいさんばあさんや、同じ共同体に属する人々も強い影響力を持ちうる。親が他の人々より形成の点で優位な立場にいることは間違いないが、その優位は「まず誰のもとで修行を積んだか」ぐらいのものであって、他にも教師となりうるし、影響力を持ちうる。もしそうでなければ、この本を読むことには何の価値もないだろう。

 

 親を理想化することは、過去の経験をボンドで固めるようなもので、変化に乏しくなるため、その危険性を理解することができる。ただし、ここで注意しなければならないのは「健全な肯定」と「不健全な肯定」が区別されていることだと思われ、かつ、そのふたつを区別する方法は存在しない。「うちの親もいいとこあるんだけどなぁ。もちろん悪いところもあるよ」という発言は理想化した親を擁護する発言だと解釈されかねないが、実際、それを区別する根拠は何もない。実生活に問題が起きていることは、先に述べたように、親だけによって説明され得ないため、区別する根拠にはならない。そうすると、親を過度に攻撃しかねない。「良いところもあり、悪いところもあるね、親は完ぺきではないね」が大切なはずが、健全な肯定への道が閉ざされており、良い部分を認めがたい。「うちの親は完璧なんです!」と言っている奴はたしかに病的な感じがするが、ごく一般、ふつうの人々は最初から「長所も短所もある」ことを理解している。

 

 また、「ありのままの自分」などという概念は不必要である。

 精神分析関連の本を読むと必ずこの手の概念が出てくる。アルノ・グリューン「人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)」では、「自分の中の他人」という名前で本来の自分が顔を出す。いわく、本来の自分がありのままに認められないためにそれを攻撃し自分や人を傷つけてしまうという。親が自分のことを理解してくれない(「ごはんが欲しい」「トイレがしたい」)のは、まぁまぁあることだろうし、それによってだんだんと歪みが生まれてくるというのも筋が通った見方だと言える。

 けれども、「ありのままの自分」という想定は危険である。

 第一に、「ありのままの自分」というコアを持ち、それが受け入れられ続けて成長し、そのまま亡くなるなどといったケースはまったく想像がつかない。もちろん「受け入れられる」とは肯定されるという意味ではないが、そのように見たとしても、やはりそんなことはありえないように思われる。なんとかいう民族にその例を見ているようだが、受け入れられた結果そうなっているのかどうかは誰にもわからない。受け入れられない経験はいくらでもしているが、民族特有の文化や社会構造がそれを助けているのかもしれない。

 第二に、一般的には人は受け入れられなかったりしながら過ごしてくるわけだが、現在の姿は常に「歪み」のもとで見られることになる。ありのままの自分は「帰る場所」であり「向かう場所」である。だが、そこに帰ったかどうかはまったく判断できない。「うん、ありのままの自分だね」などとどうやってわかるというのか。また、到達することができないとするとさらに問題で、「ありのままの自分」想定は到達不可能な課題を人に与え続ける。今の自分は常に歪んでおり、欠点だらけで、理想とはほど遠い。しかし、理想に達することはほとんどできず、できたかどうか判定すら満足にできない

 

 もし「ありのまま」という言葉を使いたいなら、むしろ今まさにそのように振る舞っていることこそが「ありのまま」だというべきである。自分の振る舞いが環境に適合していないと感じていると、『欠点』があらわれる。この欠点は、ありもしない「ありのまま」へと向けられているわけではなく、いま自分がこうしたほうがいいと思うひとつの解釈を示す。これは、たどり着くことができる。今の自分をことさらに否定し続ける必要もない。

 これは「あなたは常に完璧ですよ」と肯定しているわけではない。自分はそういうもんだと受け入れる態度であり、変更を認める態度である。