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問いの構造「もの」と「こと」

 何事かを問うということがどんな形式的構造をとるのか?

 ハイデガーによれば、問いとは探求である。探求は探求せられるものによって方向を決められる→すべての問いは「問われているもの」を持っている。たとえば【美】について問うとき、この問いは【美しいもの】を持っている。この問いは【美しいもの】を前提としなければ始まらない問いである。

 そしてまた、すべての問いは「問われていること」を持っている。【美】について問うとき、わたしたちが聞きたいのは具体的な【美しいもの】のリストではなく、【美しいこと】とはどういうことなのかである。

 そして願わくば、それを理論的に概念化したい。つまり、美しいとはこういうことだと言葉にしたい。その言葉こそ、「問われていること」の「意味」である。理論的には【美】について問われた時、その本来の目標は「意味」だといえるだろう。

 

 つまり、問い、特に理論的な問いは、「問われているもの」「問われていること」「意味」の三つを有する

 

 

 あるということはどういうことであるか?

 これがハイデガーの存在の意味への問いである。この問いは【存在者】を「問われているもの」として持ち、【存在】を「問われていること」として持ち、その意味を問うている。和辻哲郎もいうように、『哲学はまず第一に「こと」の学』なのである(和辻哲郎の解釈学的倫理学)。

 

 「こと」は「もの」に先行する。すなわち、「もの」がそのようにあることをそもそも可能にしているのが「こと」なのである。伝統的な哲学においては、本当に存在するものはなにかと問うていたが、ハイデガーは存在者がそのように存在していることの根拠としての存在を求めた。例えば、【美しいもの】はそのものが【美しいこと】に基づいて【美しいもの】として存在しうるのである。つまり【美しいもの】を【美しいもの】として把握するということは、そのものの【美しいこと】を理解することである。

 

 このことは、一見極めて分かりづらいから詳しく見よう。上の例を理解するためには、わたしたちの「もの」との出会い方への理解が肝要であると思われる。このにんじんブログでは何度もこの『存在の問い』に立ち戻ってきたが、今回は『時間と自己 (中公新書 (674))』によってこのことを考えてみよう。

外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。

時間と自己 (中公新書 (674))

  伝統的には、一歩離れて何らかのことについて考えることが真理を見出す最良の方法だとみられた。しかしここには、つまり「もの」には、わたしたちとの関わりという観点が抜け落ちるのである。

「木から落ちるリンゴ」という名詞的な言い方をする場合、それを見ている人は、自分がそこに立ち会っているという事実を消去している。

時間と自己 (中公新書 (674))

  カントは『認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う』という意味のことをいった。このことは認識する主観が、対象を形作るのに関与しているということである。ハイデガーの用いる現象学という分野はこのカント哲学の主要なアイディアを踏まえていて、【美しいもの】が【美しいもの】として存在するためには、わたしたちが関与しているといっているのである。

例えば、【美しいもの】はそのものが【美しいこと】に基づいて【美しいもの】として存在しうるのである。つまり【美しいもの】を【美しいもの】として把握するということは、そのものの【美しいこと】を理解することである。(上述)

 美しいものが美しいものとして現れている以上、わたしたちは既に美しいものについての何らかの了解を持っていなければならない。客観的に【美】というものが存在して、ものにその【美】が貼りついて【美しいもの】になり、それをわれわれがヒナのように受け取っているわけではない。受動的ではなく、むしろ能動的に、わたしたちは【美しいもの】の現われに関わっている。

 

和辻哲郎の解釈学的倫理学

和辻哲郎の解釈学的倫理学

  • 作者:飯嶋 裕治
  • 発売日: 2019/11/20
  • メディア: 単行本
 
時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

  • 作者:木村 敏
  • 発売日: 1982/11/22
  • メディア: 新書