にんじんブログ

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アタラクシアと幸福

 エピクロスの倫理思想を見ていく。

 

 エピクロスにとって第一の善とは「精神の平静と肉体の無苦」であった。

 精神の平静とは、動揺(タラケー)のない状態である。これはアタラクシアとも呼ばれていた。そもそも動揺というものは根拠のない信念によって生じる。これを除くのが理性であって、哲学もそのためにある。彼が具体的に考えていたのは『魂は不死であり、我々の魂は(身体の)死後にそれぞれに応じた報いを受ける、また神々は我々の生活に様々に関与する』という誤った信念である。

 アタラクシアへ至るためには魂や神々、自然一般について考察し、理性的に判断せねばならない。そして真とか偽とかを判断するためには規準が必要である。これによって生じてくるのが規準論であり、進んで自然学であるが、すべてはアタラクシアを第一の善(倫理学)とし、そこに向かうためなのだ。アタラクシアの状態にあるものは、根拠のない信念を持たない知者である。

 

 

動的快楽と静的快楽

 アタラクシアは静的快楽と呼ばれ、ふつうに想像される快楽とは異なる。味覚による快楽、セックスの快楽、音楽を楽しんだり、運動を楽しんだり……そういった快楽を動的快楽と呼ぶ。特徴づけるなら、静的快楽は苦痛がない状態であり、動的快楽は快がある状態である。エピクロスは静的快楽こそが真の快楽であるというが、動的快楽についてはどのように考えていたのだろうか。

 

 まずその前にこんな疑問が浮かばないだろうか。

 もし君がいまアタラクシアの状態にあるとしよう。それは苦痛のない状態である。私は苦痛のない状態を快楽であると感じるだろうか。恐らく感じないだろう。だとすれば、動的快楽を認めないということは「快楽なんて感じない状態」を理想とすることを意味する。しかし認めたところで、結局のところ感じるのは動的快楽だけであることには違いはなく、それじゃあそもそもアタラクシアなんて言葉は持ち出さずに「将来のことを踏まえて快楽を選びましょう」とだけ言っておけばよかったのではないか。哲学なんてやっていない限り、誰がアタラクシアなんて求めるだろうか。……

 

 エピクロスとして譲れないのは「アタラクシアと肉体の無苦」が第一の善だということである。そしてそのことから帰結するのは、次である。:動的快楽を認めないことは『快楽がない』を理想とすることに等しい。だからそれを避けようとすれば、動的快楽は理論的に認められなければなるまい。しかし、そうすると静的快楽の地位が危ぶまれるのだ。静的快楽と動的快楽はどのような関係にあるのだろうか。

  Ristはこれに関して、「全ての動的快楽は常に静的快楽の先在を前提とし、専らそれに継起するものに過ぎない」としている。たとえば、食事をするとき、『我々の口蓋は、何の苦痛も経験していないが故に既に静的快楽の状態にあり、摂食の動的快楽を感じるに至る。その後、食物が口を経て身体へと通過してしまった時には、この動的快楽は消滅する。その際、身体の様々な部位は食物によって回復せられ、静的快楽がその回復に伴う』という。

 

 お腹には苦痛が生じていると仮定する(空腹)。まず口は静的快楽の状態にある。食べることでお腹の苦痛が除去される(動的快楽)が、それはすぐに消えてしまい、静的快楽の状態となる。ところでわれわれは腹を満たした後も、食事をとることができる。しかしもはや、得られる快は限界に達しておりそれ以上得ることはできない。その後はただ「多様化される」とエピクロスは言っている。つまり、そのまま食べ続けても快は新しく得られず、最初に得たものを様々の形に変えていくだけである。

 静的快楽が先在するとは、つまり動的快楽が静的快楽への「復帰」によってもたらされるということだと解釈できると思う。静的快楽という状態への回帰こそが動的快楽なのである。

 

 

 

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