にんじんブログ

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「生まれてこないほうがよかった」のか?

 人口蓄積はたった一人でも過剰である。すべての誕生はほとんどの場合、全体として悪であり道徳的に許されない―――これが「反出生主義」の主張である。ほとんどの場合というのは、その一人の誕生が他の人々の苦痛を軽減する場合であるが、そんなことはほとんど起こり得ない。

 反出生主義者に対して「じゃあ今すぐ死ねよ」と非難するのは正しくない。彼らは自殺もしなければ、大抵の場合、殺人を犯すこともない。それはまぁ「まともな」反出生主義者ならば「死亡促進主義」を拒否する構えを見せるからである。死亡促進主義とは、人を殺すことがその人になるといって許される、とする思想である。もちろん人には自分も含まれるし、他人も含まれる。反出生主義を唱えながら、いま唱えつつ生きているという事態を説明するためには別の理屈を持ち出す必要がある。

 

 一見して〈死亡促進主義〉を受け入れずに〈反出生主義〉を受け入れるのは矛盾なように考えられる。とはいえ、決定論と自由の両立という考えよりははるかに許容できるだろう。この二つの主張をまとめあげるものは、「死は望ましくない」という一つのテーゼである。死亡促進主義は一刻も早く生を終わらせることを主眼とするが、しかしそもそも、生を終わらせる死という事態が最高級の悪であって、到底許されない。一方で、死は望ましくないものであるから、その可能性を発生させる誕生という出来事もやはり望ましくないことになるだろう。それが反出生主義者たる理由のすべてではないにしても、「死は望ましくない」というありふれた考えが、この二つの思想を結び付け、かつ、発生させる―――というか、もっと強く言えば「死はそれ自体で悪」なのだ。

 

アンチ死亡促進主義的反出生主義の論証戦略

 順番に進んでいこう。誕生、つまりある人の生が始められるべき「でない」ことを主張するのが反出生主義のメインである。ところで誕生すべきかどうかを判定するには一体どうするのが適当だろうか。

 このことについて、その人が「存在する状態」と「存在しない状態」を比較するのがよいだろう。大抵の理屈では、存在する状態を考えたうえでその人生の中での善悪が考慮されてきた。しかしもっと手を広げて、生まれてこなかった場合に何が起こるかも計算に入れたほうがいいだろう―――【生まれてくるべきことの判定法】

 ある人物が存在する状態は苦痛の経験などの悪があり、また同時に快を抱くなどの善がある。ではその人物が存在しない状態はというと、苦痛の経験がなく、快楽の経験もない。反出生主義者は苦痛の経験がないことを善だと評価する。しかし、快楽の経験がないことは悪であると評価しない。当たり前だが、この理屈からいえば、存在しないほうがマシである。というのも、存在すると善悪が混じり合っているが、存在しないと善しかなく悪はないのだから―――【非対称性論証】

 

 非対称性論証においてまず問題となるのは、明らかに、その人が存在しない状態に関する評価である。この二つが受け入れられるのは、次の二つの言明がともにその後ろに控えているからである。

  1.  苦痛を体験しうる人間がいなくても、苦痛の不在は善。
  2.  快楽の不在が悪なのは、快楽を剥奪される人間が存在する場合のみ。

 しかしこの二つの言明を受け入れる根拠ははっきりしない。しかしこれらを受け入れれば、いろいろな事柄がうまく説明できる……と彼らはわれわれを説得する。けれども上記二つの言明を受け入れることによってさまざまな物事を説明することができるということを認めたとしても、他にも様々な説明があり得、それだけを特権視する理由は何もないことに気づく。そしてこのことは反出生主義者とて気が付いている。彼らは他の点でこの言明を擁護しようとしているがその論証は十全とは言い難い。

 

 

存在<非存在?

 さて、ある人物の非存在がもたらす二種の価値判断を受諾したものとしよう。非対称性論証はそこから「全体を考慮すると存在しないほうがいい」と結論する。だが、一見して明らかだと思われるが、この結論は性急である。ごく単純にいって、生まれた場合の「善ポイント=10」で「悪ポイント=5」なら差し引き「5」だろう。一方で、彼が存在しないことによっては確かに「悪ポイント=0」だが、「善ポイント=2」程度しかなかったら、存在したほうがよかったことになる

 存在してると善悪アリ、存在しないと善しかない。

 はい、生まれないほうがいいよね。

  と言われても、その内実が不明である以上、どうともいえない。こうなると『少しでも悪があったら終わり』と言っているのと同じになる。

 

 もちろん、これに対する反出生主義者側の反論もある。

 まず悪について考えよう。存在しない方が苦痛はないのだから、それだけ見れば存在しないほうが良い。なにしろ、存在しなければ「悪ポイント」を取得することは絶対にないのだから。

 次に善について考えよう。善いことがないというのは悪ではないのだった。そしてそれは単に悪ではないというだけのことではない。そこにおいては『剥奪』ということが起こり得ない。存在しながら得る善いことは剥奪されることがありそれは「より悪い」ことである。しかし存在しない場合は剥奪されるということがないので「より悪いわけではない」という意味で、悪ではない。

 たとえばクジラさんは病気がちだが速攻で回復する能力を持つとする。一方で、リンゴさんは病気にならない代わりに回復能力を持たないとしよう。このとき、クジラさんはリンゴさんよりも優越しているとはいえない。リンゴさんは回復能力が欠如しているが、クジラさんより悪いわけではない。

 それと同様に、存在しない場合の快楽欠如が、存在する場合より悪いとはいえない

 たしかに存在していると快楽がすごくあるかもしれない。善ポイントは一億を軽く超えてくるかもしれない。しかし『存在くん』は苦痛を感じがちであり、何度も快楽を妨げられる。一方で『存在しないくん』は苦痛など一切感じない。快楽は欠如しているが。―――【存在する者の快楽は存在しない者の快楽の不在に対する真の優越性を構成しない】

 

 

反出生主義へ

 存在するより存在しないほうがベターだということを認めたとしよう。

 しかしながら、「生まれてこないほうがいい」とするほど大げさな差であるとは限らない。0.00000000000001ぐらいしか差がなくても「ベター」だとは言える。このことから反出生を申し立てるのはおかしい。それゆえ、今度はこの差について圧倒的なものだということを示す必要がある。ここから福利(well-being)に関する話がはじまる。

 

⇩ 現代思想2019.11にあります。

ci.nii.ac.jp