にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

【日記】労働時間について

 

 このブログでは開設した当初から言っていたことがある。

 

「労働時間を少なくしよう」

 

 である。労働時間は長くてもいいことは何一つない。お金が得られるだろうというが、労働のあのストレスに比べれば安すぎる。にんじんは一日五時間ぐらいが限度だろと思う。

 雇用されることは集団に所属するということを伴う。それがアイデンティティを形成し、「自分はこれをやっている者です」などと自己紹介ができる。こうしたことは大変なメリットであり、精神的にも非常に良い。にんじんの(元)友人は以前このように言っていた。「サービス残業とか諸々含めると年収一千万いくかな💦」と。年収〇万円以上という区切りはなにか人を安心させるらしい。

 

労働と政治

 誰か一人の労働の問題は政治に関わる。

 日本全国の人たちが「働きたくねえ」となれば、少なくとも今の水準でサービスを維持するのは無理だろう。夜勤は体に悪いと誰もが知っているが、夜にコンビニが開いているのは便利に思っている。すべてのイベントにはスタッフがいて、彼らには主催者から給料が支払われている。夜になるとすべての店は閉まり、ライフラインを支える人々だけが交代に作業をすることになるだろう。にんじんは別にいいと思っているが、「どうしても働いてお金を稼がなくちゃ」という人々にとっては夜勤がなくなるのは死活問題である。借金はしてはいけないと強く思う所であるが、別に本人たちもしたくて借金をしたわけでもないだろう。まぁ、お前が悪いだろそれはというケースもないことはないが。

 社会保障は税金で行われている。稼ぎが減れば、税収も減る。国防も税金で行われている。ひょろひょろだと何を言い訳に攻め込まれるかわからない。グローバル化などといって世界中大抵の場所には気軽に行けるようになったが、特に世界平和という感じでもない。あの国は相変わらず飛翔体を飛ばしまくっているし、相変わらず戦争は起こっている。国を守るためには、国のエンジンを内部で動かしてそこで得たエネルギーの一部を「国」が、一部を「国民」が、という風に分け合わないといけない。

 そんなときに「もういいだろ、エネルギーいらねえわ」というのはいかにも無謀な感じがするし、マスコミによく取り上げられる【政府関係者】の人からどんな目で見られるかわからない。鬱陶しい国同士の争いに巻き込まれたくないからといってどこへ行ってもどこかの領土だし、南極になど行ったら死んでしまう。

 まぁそういうわけで、「効率が悪い。長時間労働は無駄」という論調もある。短い時間で同じだけの仕事をしようというわけだ。しかしながら、そのノウハウができればどうせもっと働かせようとするに決まっている。東京ー大阪間が素早く移動できるようになったからといって仕事がラクになったわけではないのと同じことである。日帰りなど当たり前。「昔は向こうで一泊できたもんだ」と話すオッサンの姿が目に浮かぶが、実際に一度も見たことはない。しかし、よくある感想だろう。過労死を出しておいて50万円払って済み、今もまともに営業している企業もあるぐらいだから何をされるかわからない。

 

 というか、求人を見たってどこに「週一日からOK! 5時間から」などと書いてあるだろうか。大抵はフルタイムで働かせようとしてくるし、パートになると最低賃金ギリギリで働かせようとしてくる。なぜか平日は毎日出勤するのが当たり前みたいになっている。ビジネスマナー講座や、資格取得、就職活動にあたっては自己分析などを行い面接の練習を行い、「社会性」を身につける。へろへろと色々なことを受け流せるようになると「大人」とみなされる。ありがたい話である。大学時代はあれほど尖っていた人が、久しぶりに会ったら礼儀がどうだのと言っている。上座とか下座とかの知識は「常識だ」そうだ。食べにいかないほうがマシだな、と思われて当たり前だ。

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

需要を生みだす

 アスペという言葉もまぁまぁ出回っている。アスペルガー症候群の略だが、要するに社会性・コミュ力・変なこだわりの三種が揃ったやつのことである。彼らは相手に構わず好きなことを一方的に話したり、冗談が通じなかったり、変なマイルールを持っていたり、扱いにくい。こういう人は就職においてもうまくいかないケースが多いので、ビジネスマナーを意識的に身に着け、人と話すときはコレコレに注意しなさいと言われる。一方で「天才の資質がある」「アスペルガーは才能」などと言われることもある。たしかにミステリー小説の探偵役はアスペ感が強いし、森博嗣先生の本に出てくる人々はアクが強すぎるので全員アスペではないかと思える。

 ところでにんじんは今になって、あの冗談の通じなさそうなキャラクターたちがまたいとおしく感じ始めている。彼らは多分おかしいと思ったらおかしいとはっきり言うだろう。そしてその意見は、たいてい正しい。社会に放り込んだら間違いなく仕事はできないだろうが、「仕事ができるだけ」よりは百倍マシに見える。

 にんじんは彼らに対して「社会性を身につけろ」とは決して言わないだろう。というか身につけなくてもよい。好きなことを一方的に話すことは欠点のように取り上げられるし、たしかに欠点なのだが、だからといって彼らに「話したくなっても落ち着いて、ちょっと抑えるように」などと言ったら頭が爆発しかねない。具体的にどうすればいいのやらわからない。トークマニュアルがあるならそりゃ従うが、黙ってたら黙ってたらで暗い奴だとかみなす割に、話し始めたら「黙るように」というなんてひどい。テレビ番組か、マクドナルドとかコンビニの新商品についての当たり障りのない会話を繰り広げる訓練は受けていない。「晴れていますね」って上を見りゃわかんだろうが! ……こういうのを軽く受け止め、ふわりと相手にボールを打ち返すのも社会性である。「うーん、彼らはある種の障害を持っている可能性がありますね」って、持ってるのはどっちだかわかったものではない……と、思っていたら「定型発達」というのも障害のひとつだそうで、人類みな障害がある。

 そしてこういう曖昧な用語は「〇〇的傾向」などといって本で取り上げられ、購買層を増やそうとしてくるようにも思われる。にんじんの認識では、うつ病というのは脳レベルで問題がある深刻な病気のはずだが、ちょっとだるいだけで「うつ病! 予防! 心の疲れ! 癒し!」と迫って来る。また、本人も「そうか自分はうつ病なのかもしれない」と深刻に受け止める。ココロはいい商売の種である。

 

 必要のないものを、必要だと感じさせる。手に入れるためにはお金が必要で、お金を得るには働かなければならない。人生を楽しむためには娯楽が必要ですと宣伝し、週末はイベントに参加しなければ無為に終わると信じている。車がものすごく好きならともかく、別に要らない車を買ったりする。イヴァン・イリイチの計算によると、労働時間を含めて車の移動時間を計算すると、歩くよりわずかに早い程度の速度しか出ていない。そのお金があれば当分は暮らしていけたのだが。

 たくさんのものを消費した先に満足は特にない。すぐに過ぎ去り、多くの苦痛が待っている。「じゃあ消費しなかった先には満足があるのか?」節制を求めること、消費をすることは目的地が違うだけで両方が正当なのだろうか。それとも二つには質的な差異があり、どちらかに優位があるのだろうか。相対的なもので、「人それぞれ」なのだろうか。

 こういうときに、哲学が必要だと感じるし、また哲学のために、いわゆるエピクロスのいう「精神の平静」を第一にする方向がどうしても優位であるように思える。

 

 

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

 

 

労働について(過去記事:再掲)

 「どうして働かなければならないのだろう?」

 わたしたちはこのように問うかもしれません。しかしこの「どうして」という問いはきわめて漠然としていて、答えづらいものです。単なる知的好奇心としてこの問いを発することはほとんどないでしょうし、あるとしても、もう少し限定的なものでしょう。一般的になぜ働かなければいけないかと問われれば、こう答えるのがひとつでしょう―――「別に働く必要はどこにもない」。

 もしもそれに「でも働かないと死ぬじゃないか」と応答するなら、「それじゃあ君は働くことの理由を既に知っているわけだね」と返すことができるでしょう。つまり「現在の社会制度、環境ではわたしのいう意味での「働く」という活動をしなければ死んでしまう」から、働くのです。

 けれど、多くの場合、それで理由が尽くされたとは考えない。もしもそれで理由が尽くされているならば、なぜ生活に必要な分だけの労働をせずに、余分に働いてしまうのでしょうか? それは、「とりあえずこの一か月生きるために働いている」からではなく、いわば「一生生きるために働いている」からです―——―明日、生きている保証もないのに? 貨幣経済を支えているものは、実は、おのれの死の忘却であるかもしれません。親はいずれ死んでしまう、だから葬式の費用もある。友達が結婚したら祝儀もいるし、事故をしたら入院をしなければ、でも、自分は死なない―――いや、でも、そうだろうか? たとえば自分の死後、こどもの生活の資を稼ぐためにはたらくという場合もあるではないか。もしかすると君は「だれかの死を忘れることによって」と言うかもしれない。われわれは明日も地球があることを信じている。そうでなければ、だれが働いたりするだろう?

 ほかにもあるでしょう。たとえばコミュ障で自分に自信がないというのに夜な夜な鏡の前で自作の衣装でコスプレをしている人が出るアニメ(私に天使が舞い降りた! Blu-rayとか、千里眼を使えるのに妹の堕天を見過ごした姉が出るアニメ(ガヴリールドロップアウト)のBlu-rayBoxとか、そういうものを買うためにお金を貯めるとか*1、要するに「今、もっと贅沢がしたい」からお金を貯めることだってあります。なにも将来のためとは限りません。つまりそういった現在と未来のさまざまな用途のためにわれわれは働いているのです。もちろん労働した瞬間にお金がもらえるわけではないですから、働くということはある程度、死ぬことを忘れることが含まれるでしょうが。

 

 以上、述べ来たったところで働くことの理由は見つかったでしょうか?

 見つからない⁉(´⊙ω⊙`)

 それではもう少し進みましょう。

 

 わたしたちはもしかすると、働くこと自体ではなく、働くという「仕方」に関心があるのかもしれません。なるほど、生活のため、贅沢のため、将来のために働くことには納得しても、まさか例の地下帝国(カイジ)で働きたい人間はいない。わたしたちが求めていたのは働く理由ではなくて、「どうしてこんな働き方をしないといけないんだ?」ということだったのかもしれません。

 どんな働き方なのか。それは「生活のため、贅沢のため、将来のために」やっていた労働が、その目的性に合致しないようなものでしょう。地下帝国で働くことが、もし数十億手に入る労働だったとしても、お金を使う機会がなければ意味がないし、しかも著しく健康を害します。そういうものを、「割に合わない」というのでしょう。

 そうすると、どうしてこんな働き方をしないといけないのか、というのは実は問いではなく、自らの境遇に対する嘆きのようなものなのでしょうか? おそらく、そういう面もあるでしょう。働き方に不満を感じながらも、かといってそれを辞めることもできない。また働けるという見込みもないし、だいたい、転職したところで何が変わると言うのでしょう?

 

 こうした動きの中で、「ミニマリスト」の登場はもはや必然的だったのかもしれません。そんな大仰な言葉を使わなくても「節約志向」でいいような気もしますが、つまり、支出を減らそうという運動であり、加えて、それこそが幸福に至る道であると説くのがミニマリズムなのでしょう。余分な贅沢は削り、本当に必要なものにお金を使おうというわけです。これなら彼らの著作がミニマリストとは思えないほど長い理由も納得がいくでしょう。それを書くことが彼らの大切にしている趣味だから、分量を増やしているのです。

 この登場が必然的だと書いたのは、「働き方」に対する不満の合理的な応答だからです。余分な支出と将来の保証をある程度カットすることで順応しようとしている。おそらくそうせざるを得ないでしょう。

 

 

 しかし、この頃にんじんが思っているのは、こういうことです。どうやら「おのれの生活」というものは、自分が決定できるようなものではないということ。食費をいくら下げるというのも、単なる数値の問題でコントロール可能なものではなくて、わたしたちの自由にはならないのではないか、ということ。「本当は必要だと思っているけれど」「削ることも必要だから」、その「必要性」に応じて削る、ことはできないのではないか、ということ。

 心理学において「意識」「無意識」といえば一個の氷山にたとえられる統一を持っています。大部分は沈んでおりわれわれのコントロールできる場所にはない、といいます。そしてそれは正しいでしょう。これをどうにかしてコントロールしようとしているのが「マインドフルネス」といったようなことかもしれません。呼吸というものは自律神経とリンクしており、ある程度気持ちというものにはアクセスができるんだよ、と言わんばかりです。「催眠」もそうですね。普段は浮かんでこない無意識にアクセスしようとする。理論というものはすべて、このようなコントロール欲求を持っているとさえ言えるかもしれません。アクセス不能なものにアクセスできるという確信を、われわれは理論の発展によって期待してもよいことになっている。

 しかしコントロール不可能性は氷山ではない。それの浮かぶ海、他の氷山、それがある惑星、あるいは銀河、そこまで行かずとも、そこに住むアザラシやペンギンなどの生命、さまざまな不可能性の統一としての不可能性が、そこにあるわけです。銀河とかいうとなにやら宗教的なスメルがしてきて気色悪いですが、ともかく、相当に入り組んだ不可能性ということです。

 それはわれわれが生きる仕方、つまり生活、暮らしというもののあり方もそうです。「今月はピンチだからチキンはやめておこう……」というのは、コントロール不能だということです―――いや、ちょっと待て、わたしは我慢ぐらいできる――—でもその我慢がもたらす影響は、800円というお金に比してどのぐらいのものか、はっきり了解できるでしょうか?————つまり、言いたいことは、良いか悪いかの判定が不可能だということなのか?———いや、むしろ、良いか悪いかの判定は可能だが、正しいか正しくないかと同様に、その判定はただそれだけのものだと言いたいのです。

 

 われわれは「社会性」だけでなく「個人性」も持っています。社会は個人に影響を与えますが、同時に社会を構成するものは個人であります。ある家庭では父親が席につくまでは食事には手をつけないことになっていたとしましょう。この文化は、その家族の構成員の行動を規定するでしょう。しかし、父親が軽んじられ、父親としていられなくなった場合、その文化は次第に、あるいはたちどころに変化し、気ままに食事をするでしょう。ひとりが声を上げ、またひとりが何か言い、あれや、これやと動いているあいだに、文化は少しずつ変わります。

 女性の権利というものを叫ぶのも、男性に「こんな差別があるぞ」ということを意識させるためでしょう。文化というものはしみ込んでおり、意識しづらい。だからまな板の上にものらない。まずは俎上にのせる。それで話し合う。するとちょっとだけ変わる。そうして変わっていく。でももちろんその間も、社会は個人に影響を与え規定し続けるのです。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

 

 労働は生活の一部を形作る、それ自体がさまざまな連関のなかにある複雑なものです。Aさんを社長にすれば会社がうまくいくといっても、ありとあらゆる事情がそれを許さなかったりします。そして彼が社長になるかどうかが、ほかならぬ私の生活を決めるかもしれません。しかし生活は、彼が社長になるかどうかだけで決定されるものではなく、その他の要因、それ以外のすべてによって・それ以外のすべての、そのおのおの以外のすべてによって、決まって来るのです。家計の数値を変えようとするのは、その数値を基礎的な単位と見て生活の面舵をとろうとするようなものです。

 つまりわたしたちにはどうすることもできないというべきなのでしょうか?

 ある意味ではそうであると言わざるを得ませんが、そうでないともいえます。わたしたちにできるのは「数値を変える」というノックであり、恐ろしい現実の応答を待つことだけです。「もっと食費がいるよ」と来れば、上げざるを得ません。時には栄養失調になるなど、重たい反応が返ってくるかもしれません。振り子のように揺れながら、生活は決まる、というそういう意味で、生活はわれわれの手元にありながら、手元にはないのです。

 

 それでは結局のところ、われわれにできることはどちらにせよ、「数値を変える」だけになるでしょうか。そうではないのではないか、というのがにんじんの考えるところです。これまで書いてきた「連関」は、実際のところ、実在的なものではないからです。つまり世界における「真理」として、動かない現実として、厳然とそこにあるわけではないのです。いや、正確には、そうあるばかりではない、ということでしょうが。

 たとえば仕事でミスをする。ミスをするとこの世の終わりだと思っている人は自殺するかもしれません。しかし大抵の場合、ちょっとしたミス程度では自殺しないでしょう。彼らの違いはなんだったのかというと、「仕事」とその他の結び付きです。彼は仕事を「重たく」見すぎてしまったのです。見え方が、違うのです。

 

 見えている対象と、どう見るか、ということは違うことです。

f:id:carrot-lanthanum0812:20191222203329j:plain

 同じものを見ていても、違うものの見え方を「知っている」場合があります。わたしたちは世界そのものに触れながら、それを別様に見ることができるのです。ある文化を「なんてひどい!差別だ!」と見ることができるのも、これによるのでしょう。

 わたしたちにノックをさせるのはむしろこの作用であって、数値を変えるという行為は二次的なものに過ぎません。数値を変えることの合理性は働くということばを冒頭のように分析したことに実は先取られていました。古代ギリシャにおいては働くことは必要悪と考えられ、できればしないほうが良いとされました。一転して中世になると、キリスト教と結びついた労働は神聖な意味を持つようになりました。それは神から与えられたそれぞれの義務です。にんじんにはその「見え方」が全く理解できませんが、彼らは働くというのをそのように見ていたため、おそらく、最初の分析にすら納得してくれないでしょう。実は「働く」と、あなたが、あなたのいる文化において、あなたの今いる環境において、言ったことで既に、ある程度「合理的な」結論は出ていたことになります。われわれは枠組み、つまり「見え方」を超越することで、新たな一歩を踏み出すのです。

 

 『存在と時間』においてハイデガーは、学問の進歩というものは根本概念を問い直すときに起きるという意味のことを書いていました。アインシュタインが時間と空間を書き換えたように!

 わたしたちが「働き方」について考えるために、「働く」ということがどういうことなのか、まず知らなければならないし、自分がどのような「働く」を持っているのかをまず知らなければなりません。なぜならそれを知らなければ枠組みを変えるのはほとんど不可能であり、自分が眼鏡をかけていることにさえ気づけないからです。

 そしてその見え方を、ある見え方に過ぎないと教えてくれるのが、哲学であるとにんじんは思っているわけです。わたしたちは問わなければなりません。:「働くとはなにか?」

 

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

 

*1:アニメをBlu-rayで見ると感動するぞ!