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にんじんと読む「依存的な理性的動物(アラスデア・マッキンタイア)」🥕 一度目の読み

 伝統的な哲学が前提してきた、ヒトとそれ以外の動物を区別する根拠とは何か?両者の間に引かれた境界線を、イルカなど他の知的動物たちとの比較を通じて批判するとともに、人間を孤立し自足した強い個人ではなく、傷つきやすく障碍を抱えうる動物、共同体のなかで“与える”だけでなく“受けとり”、他者への依存のもとで初めて開花しうる動物として理解する、徳倫理学の画期的な明察。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 

傷つきやすさ、依存、動物性

 マッキンタイアはまず初めにヒトというものが、「多くの種類の苦しみaffiction[受苦]に見舞われやすいvulnerable(傷つきやすい)存在」であることを指摘する。そうした受苦に対して個人ができることは少なく、たいてい他者の力を借りなければならず、私たちの生はずっとそのようであり続ける。だから、この「受苦&傷つきやすい」ことと「いかに他者に依存しているか」という二つの事実は、生について説明するどんな理屈をこねても、どうしても中心的な位置に置かざるをえないと思われる。

 しかし歴史的には、まったくそうではなかった。苦しみに遭うこと、傷つきやすいこと、そして他者に依存していること、またこの関連についてはほとんど言及されることがない。もしされたとしても、ちょっとしたことで、すぐに別のテーマに移ってしまう。この事実を承認することはこれを話の中心に置くためではない。むしろ話さないために、これを承認するかのようだ。

  •  たしかに障害をもった人々が登場することはあるにはある。けれども、大抵の場合、「こんなに苦しんでいる人にどうしてあげればいいでしょう?」といったような対象として登場する。つまり、苦しんでいるのは私たちではなく、常に私たち以外の誰かになっている。障害を持つ(=能力を阻害されている)というのは、なんだか私たちと離れた特別な存在であるかのように。
  •  他者への依存も中心的なテーマにならない。もちろん他者に頼ることは目標達成のうえで「役に立つ」。けれどもそれが全面的に承認されることはないし、わたしたちの苦しみと関係する仕方も承認しない。つまり、依存も無視する。/たとえばフェミニストたちはこう主張している。「女性への無視と軽視は、女性への依存の事実を無視する企てと結びついている」まさに、これと類比的である。

 

 では、二つの事実を中心的に扱えば、倫理学はどのように変化するだろうか。

 二つの事実を念頭に置いた上で、われわれはどこから倫理学をはじめるべきだろう。出発点はさまざまあるだろうが、次のことを注意しておこう。:〈受苦〉と〈依存〉に関する事実を見えづらくする習慣が私たちの間に共有されていること、そしてその習慣を捨てることが極めて難しいこと。

 私たちのそうした習慣は、もしかしたら私たちが私たち自身を理解するのに失敗しているか、理解するのを拒否しているのかもしれない。

 

 

 マッキンタイアが主張するところでは、

この失敗あるいは拒否はおそらく、私たちが私たち自身を動物とは異なるものとして、すなわち、「たんなる」動物性という危険な条件を免れたものとして理解し想像することに根ざしており、そのことによってたしかに強化されているのだろう。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

  である。つまりわたしたちは自分たちを動物から画然と区別していることが問題の源になっている、と診断しているわけだ。多くの人は、動物が思考や信念、行動の理由といったものを持たないと思っている。少なくとも、多くの哲学理論はそのように説明してきた。私たちは私たち自身が身体を持っていることを忘れ、私たちの思考というものがヒトという一つの動物種が持っている思考であることを忘れる。

 だから、私たちが動物であることから始めよう。

 そこで参考にすべきものはアリストテレスである。なぜなら彼はヒトの動物性を真剣に受け止めた哲学者であるからだ―――いや、しかしアリストテレスはこうはいっていなかったか。すべての人以外の動物は「知覚と記憶によって生きており、経験をほとんどもたない」と―――たしかにそうだが、アリストテレスは動物が考えなしだとは言っていない。それどころか〈フロネーシス〉(思慮)はヒトではない動物たちにも広く備わっている能力だと考えていたからである。だからアリストテレスを読むうえで本当に問題にしなければならないのは、彼がヒトとそれ以外の動物のフロネーシスの違いを、どのように理解していたかである。…………そしてこのことは、長い間無視され続けてきた。

 

 

 

 動物性の忘却以外にも、〈受苦〉と〈依存〉を忘れさせるものはある。

  •  アリストテレスはこう言った。「経験家のほうが、原則は心得ているが経験を欠くものよりも有能である」と。このことは正しい。しかし、多くの倫理学理論は受苦にいやおうなく向き合わざるをえない人々を無視してきた。「扱われない人々」が必ずいた。実はアリストテレスも、特定の人々を政治の世界から排除した。それこそ、彼の倫理学がうまくいかなかった理由だろう。
  •  そしてもうひとつある。アリストテレスもそうした障害を克服できなかった一人であるが……他者に依存しない人物をすぐれた人物とみなし、そうした人物がお手本だとする考え方である。

 

 しかしそうだとしても、アリストテレスに頼らざるを得ない理由がたくさんある。彼は修正が必要であったとしても最良の資源を提供してくれる。マッキンタイアが主張するテーゼは次のみっつである。

  1.  他のすべての種と私たちの間の諸々の相違点はたしかに決定的に重要ではあるが、幼年期の私たちが最初におこなう諸活動において、また、その後もある有意味な程度において、私たちは世界に対して、他の知的な動物たちとほとんど同じような仕方でふるまっている、という事実もまた重要である
  2.  〈自立した合理的行為者の徳〉が適切に発揮されるためには、それらは私が〈承認された依存の徳〉と名づけるものに伴われる必要がある。/個人の自律はいいことだが、それは他者への依存とセットでなければならない。
  3.  〈合理的な自立の徳〉と〈承認された依存の徳〉の双方がセットで受け継がれていく社会集団はどのようなものだろうかという問いとその答え。そしてそれによって次のことがわかる。:「近代の国民国家も近代の家族も、必要とされているような政治的・社会的結合をもたらすことはできない」

 

西洋倫理思想史〈上〉

西洋倫理思想史〈上〉

 

 

動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト

 

 動物という言葉はふたつの意味で使われてきた。ヒトを含むか、ヒトを含まないものとして。近代の西洋文化において支配的だったのは後者の意味だった。こうした考え方はヒトと動物の違いといった観点から目を逸らさせる。私たちは私たちが動物であることを忘れてしまった。ヒトが著しい成果をあげるほど、その傾向は高まっていく。

 ヒトではない動物に関する議論は次のように展開される。まずヒト特有の能力(思考・理由に基づく行為など)が探求の対象とされ、そして、この能力の発揮が必然的に言語を使用するものであることが示され、そして動物は言語を持たないので、ゆえに、問題となっている能力を動物は持たない……。

 このような否定的議論がふつうに行われている一方で、しかし、次の事は否定されていない。それはヒト以外の動物が知覚や感情を持ち、多少の知性を持つこと。動物が完全に機械だと主張するのはもはや愚かしい事である。動物を機械だとみなしたデカルトがあやまっていたの動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト

 

 

 動物という言葉はふたつの意味で使われてきた。ヒトを含むか、ヒトを含まないものとして。近代の西洋文化において支配的だったのは後者の意味だった。こうした考え方はヒトと動物の違いといった観点から目を逸らさせる。私たちは私たちが動物であることを忘れてしまった。ヒトが著しい成果をあげるほど、その傾向は高まっていく。

 

 ヒトではない動物に関する議論は次のように展開される。まずヒト特有の能力(思考・理由に基づく行為など)が探求の対象とされ、そして、この能力の発揮が必然的に言語を使用するものであることが示され、そして動物は言語を持たないので、ゆえに、問題となっている能力を動物は持たない……。

 

 このような否定的議論がふつうに行われている一方で、しかし、次の事は否定されていない。それはヒト以外の動物が知覚や感情を持ち、多少の知性を持つこと。動物が完全に機械だと主張するのはもはや愚かしい事である。動物を機械だとみなしたデカルトがあやまっていたのは、「他者の思考や感情や意思決定は、他者のふるまいや発言から推理するしかない」とみなしたことである。ヒト以外の動物に対する誤解は、ヒトに対する誤解に基づいている。

 もちろん私たちは他者の考えを推し量ることがある。けれどもそうしたケースでさえ、「原初的でより基礎的な解釈的知識」に頼っている。それはいわば実践知の一形態である。この知は次のような社会的作用から生じる。:『他者たちへの私たちの反応と、私たちの反応に対する彼らの反応が、自分はどんな思考や感情に対し反応しているのかに関する認知を彼らに、そして、私たちがもたらすような、そうした複雑な社会的相互作用である』。実践知は非認知的なもので、他者とのかかわりにおいてしか生じない。

 たとえばわれわれは相手との関係に応じて、相手との距離を調節する。非常に親しい人ならかなり近づいて話すし、上司ならそれほどべたべたしないだろう。いくら親しくても風邪なら近づかない。といっても、相手にもよるだろう。……こうした知識は、非明示的な、さまざまな実践を通して得られる知識である。われわれは間違うこともあるが、「あ、間違った」と思えること自体が、この種の知識を前提としているのである。たとえば上司と恋仲でも、職場でそれを隠していたら、職場で近づきすぎるのは間違いだったと気づくだろう。それは上司と恋人の距離感を理解しているがこそである。皮肉を皮肉だと理解できるのは、別に推論しているわけではない。

 このことはヒトとヒトとの間に当然成り立っている。しかし、ヒトと他の動物種の関係についてはどうだろう―――それにももちろん当てはまると言いたいのである。たとえば、トレーナーとイヌは? そしてイルカたちのコミュニケーションは?

 

 

 

言語をもたない動物は信念をもちうるか

 ヒトの世界で使われている4500以上の自然言語は、

  1.  さまざまな言い回しを自由に使いこなすこと
  2.  それらを統語論上のルールに合致したしかたで組み合わせること
  3.  名刺をその指示対象に、あるいは、述語をそれが指示する事物の属性に、あるいは、文脈依存指示語をそれらが指示する特定のものに対応させること等ができる

 といったような特徴を持っているだろう。しかしこれらのことができたからといって言語を習得したことにはならない。主張するとか問いを発するとか、種々の言語行為を種々の文を用いつつ実践することができなければならない。

 さらに、そうした言語行為における種々の文の使用がある理解可能な目標に資するものでなければならないだろう。たとえばなにか主張をしてパズルの解を教えてやるとか、そういったことである(『その行為者の置かれた状況や抱いている目的、ならびに社会的文脈の双方に照らして理解可能な目的に資するものでなければならない』)

 特に注意が必要であるのは、(1)言語の使用はつねに社会的実践の形式の中に埋め込まれている、ということである。つまり実践に参加する能力が求められる。「最寄りのバス停はどこですか?」。だから社会的状況を理解せずに、文の組み立てだけ知っている外国語の学習者は、相手に対してとんでもない誤解をすることもあるだろう。

 

「もしも言語がなければ、考えも考えることもありえない」か?

 たとえば犬の前におやつを差し出してから、手でそれを隠してしまう。すると犬はふんふんと息を荒くしてわれわれの手を突っついてくるだろう―――これを以って、「犬は手の中におやつがあると考えている」と言ってしまってはいけないだろうか。

 いや、そうすることはできないのだと哲学者のマルコムは答える。

 というのも、われわれは「考える」ということばをたしかに動物に対して「手の中におやつがあると考える」という風な使い方をする。けれども、別に動物がその命題を思いついたとか考えついたとか、そんなことを言おうとしているわけではない……。

 つまり彼は「考えをもつ」=「心の中である命題を把持する」と考えており、その命題は言語によって表現されるのだから、言語をもたない動物には考えをもつことなどできない、とそう考えているわけだ。

 

 だが、信念だったらどうだろう。マルコムの理屈だと、信念をもたないことまでには論及していない。

 犬は手の中におやつがあると信じているということは許されるのではないか。なぜなら、われわれも信じているということを表現するために言葉を必要としないからである。自転車で駅へ行こうというのは、自転車も駅もあるだろうと信じているわけだし、自転車の機構が適切に作動すると信じているわけだ。犬だってその信念にもとづいて行動しているはずだ。その信念が〈行動の原因〉であることは間違いないだろうが、それでは〈行動の理由〉として犬がこしらえたものだろうか。つまり機械論的な話ではなく、犬自身が「おやつを食う」などの目的をつくって、手の中におやつがあるという信念を理由に、われわれの握りしめた手に向かってくるのだろうか。

 

「言語をもたない動物は信念も持ちえない」か?

 哲学者デイヴィドソンは言語なしの動物が信念すら持たないというところまで進む。彼は「ある言語共同体のメンバーとして、他者たちに種々の信念を帰することによって彼らの発言の解釈に従事している場合にのみ、信念という概念をもちうる」と結論している。

 犬は手の中におやつがあると信じている、のであれば、手の中におやつがないという可能性も理解していなければならないはずだ。そうすると真なる信念と偽なる信念の違いを理解している必要があり、そのためには言語を持つ必要がある。なぜって、偽なるものなど、世の中のどこを見回してもないからだ。世の中にあるものはすべて成立している。

 

 

 われわれが真であるか偽であるかの「反省」ができるのは言語をもつことによって、という。このことは正しいと思われる。しかし真か偽かを区別するのに言語は要らない。真偽の前言語的な区別だ。

 ポチはリスが木の上にいると信じている。だが、リスが木の枝をつたって塀を飛び越えたらどうだろう。もはやポチは木の下では待たず、塀を飛び越えていくだろう。このように、知覚に応じて変化していく信念が真偽の前言語的な区別を示す。もしこのような区別がなければ、言語的な意味での区別をどう果たしているというのだろうか。机の上にペンがある、こんな単純なことさえ、われわれは「言語的に」処理しているというのだろうか。もし机の上にまさにそこにあるペンが、理論的にそこにはないということが示されたなら、われわれは一切の疑念を捨てて、それをないものとして扱うだろうか。そこにあるのに?

 つまり動物を「非言語的」と呼ぶよりは「前言語的」と呼ぶべきだ、ということになる。