にんじんブログ

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(三度目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物」🥕

 

第一章 傷つきやすさ、依存、動物性

 一生のあいだに多くの苦しみに見舞われること(〈傷つきやすさ〉)、多くの他者の助力を必要とすること(〈他者への依存〉)。この明らかな二つの事実を取り扱えないような倫理学は誰も納得しない。そしてこれまでの倫理学はたいていがそうだった。

 その間違いは、ヒトとヒト以外の動物に決定的な区別をし、ヒトというものの動物性を忘却したことにはじまった。さらにヒト以外の動物はすべてひとくくりにして扱われ、その連続性はまったくない。そして他者に依存しないという意味で自律的な人間というものをすぐれているものとして扱って来た。動物性と他者へと依存を忘れたいという傾向がわれわれにはある。

 

 

 

第二章 動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト

 ヒト以外の動物とヒトの決定的な区別は「言語」を用いてなされる。ヒト以外の動物が部屋の模様替えをするとしても、テーブル・本棚・ベッド……などをあらわす紙片を試しに机の上に広げてみることはないだろう。

 そうとはいえ、次の事実は指摘しておく必要がある。われわれは別にそれほど考えているわけではない、ということを。誰かのふるまいを理解するというのは、「今こういう状況だ。ああしている。こうした。だから彼は今こういう気持ちでいるんだ」などと頭を悩ませることでは、多くの場合、ない。たとえばこう考えてみよう。目の前に気心の知れない人間がいるとする。あなたはそいつと恋人並の距離で会話するだろうか。いや、もし相手が恋人だったとしても、もし風邪をひいていたらどうだろう。そしてその距離のとり方を、あなたは定式化することができるのだろうか。いや、できるわけがない………それはいわば実践知とも呼べる、社会的相互作用であり、前言語的なものである。認識以前。こうした反応的な相互作用は、たとえばイヌとトレーナーにみられるように、ヒトとそれ以外の動物とのあいだにも起こるし、たとえばイルカ同士のコミュニケーションのように、ヒト以外の動物同士のあいだにも起こる。

 他者を知るということは、作用や相互作用を通じて反応的な共感や感情移入が[他者に対して]引き起こされるということであり、そうした共感や感情移入なしには、私たちは、他者たちのとった行動の理由を、私たちがしばしばそうするように、彼らに帰することができないだろう。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

  他者のことがまったくわからないデカルト的な懐疑はこうした実践知を奪われた人に起こる(たとえば哲学をしているとき!)。もちろん目の前の人間は愛想笑いしているのかもしれず、あとになってそれに気づくかもしれないが、それが間違いだとわかる能力自体が、他者が何を考え感じているかがわかる能力を前提としている。

 

 そうとはいえ、私たちはなおも疑うことができるのではないか。

 たしかにイヌはわたしたちの帰りを楽しみにして玄関の前でじっとしているように見えるのかもしれないし、足音が聞こえると玄関のほうに走っていくのは喜んでいるように見えるかもしれない。事実、わたしたちはそれを「喜んでいる」とかいうだろう。

 しかし、イヌが本当に喜んでいるかはわからないではないか。たとえたいていの場合、イヌがそのような反応をするとしても、「あの人が帰って来たワン」に類することをイヌが思っているとは限らない。つまり、イヌにはその資格がないのかもしれない―――そしてその資格を有するための条件として挙げられるのがやはり「言語」である。

 

美徳なき時代

美徳なき時代

 

 

第三章 イルカの知能

第四章 言語をもたない動物は信念をもちうるか

 ヒトの持つ言語の特徴は、

  1.  一群の単語や、一群の言い回しを備えている。話し手たちは音素を共有することで様々な言い回しをお互いに識別可能なしかたで発音し、ときとして一群の筆記記号も有している。語彙
  2.  文を形成するためにさまざまな言い回しをどのように組み合わせるべきかに関する一連のルールを備えている。統語論
  3.  言い回しにはさまざまなタイプ(名詞・確定記述・述語・数量詞・文脈依存指示語・論理結合子等々)がある。そして名詞をその指示対象に、述語をそれが指示する事物の性質に、文脈依存指示語(イマ、ココ等々)をそれらが指示する特定のものに対応することが理解されている。意味論
  4.  種々の言語行為(主張する、問いを発する等々)を、種々の文を用いつつ実践することができ、どのような文脈において適切に使用されうるかを理解できる。言語行為の遂行
  5.  言語行為によってある一定のタイプの言語的課題を遂行できる。つまり、言語行為における種々の文の使用が、ある理解可能な目的に資するものでなければならない。すなわち、その行為者の置かれた状況や抱いている目的、ならびに社会的文脈の双方に照らして理解可能な目的に資するものでなければならない。社会的実践への埋め込み

 このような言語を、ヒト以外の動物は持っていないように思われる。

 ノーマン・マルコムの指摘するとおり、いわゆる「考える」、つまり命題を操作するといったようなことは言語がなければできない。だから我々の言うような意味で、言語を持たない動物たちはものを考えてはいない。

 しかし、考えることができないということによって、ヒト以外の動物からその他のすべてを奪ってしまうのは誤っている。ドナルド・デイヴィドソンは、「動物というものはいかなる信念を持たない」と論じた。というのも、真なる信念と偽なる信念の区別ができなければならないが、彼らにはその区別をする言語がないから。信念をもつというのは、それが誤っている可能性を理解していなければならない———たしかに彼のいうように真偽を反省するのには言語が必要であろう。しかし、真と偽についての区別のために、言語は必要とされない

 このことを説明しよう。木の上にいるネコに向かって吠えるイヌが、突然それをやめ、隣家の庭に向かって駆け出したとする。なぜだろう。それは、ネコが木から飛び降りるのをイヌが見たからだ。駆け出したイヌはもはや、木の上にネコがいることを信じてはいない。イヌは信念を訂正したのである。『真と偽の区別の初歩的な認知は、動物の知覚の対象が示す変化に応じて動物の信念も変化していくことのうちに具体的に示されている』。これは前言語的な区別と呼ぶことができ、ヒトもまた同様にこの種の区別を行っており、逆にこの区別が「真」だとか「偽」だとかの概念を支えているのである。

 

 さて、真と偽の前言語的な区別を考えることによって、動物にも前言語的な信念と呼びうるようなものを認めてみたいと思う。しかし、動物に対して信念を帰することの反論は多い。たとえば次の三つ。

  1.  デイヴィドソン:ある存在者に帰することが論理的に可能な多数の信念ないし欲求のうち、実際にその存在者が抱いている信念を、その存在者の行動のみにもとづいて特定することはできない。たとえば右手にパン、左手にごはんをもち、相手がパンを選んだとしよう。それはパンが好きだったからか? 右が好きだっただけでは? 色がよかったのでは?
  2.  スティック:私たちが言語を用いない動物に対して信念を帰する場合に使用することばの意味の不確定性。たとえばイヌは「ネコが木の上にいる」と信じているといいたいわけだが、そもそも「ネコ」ってなんだかわかっているのか。ボールだろうが同じ反応をするのでは。「木」はどうだ?
  3.  サール:言語を用いない動物が抱いているとされる信念に関して、それはためらいがちに抱かれているのか、それともいかなる留保もなく断固たる態度で抱かれているのかといった、心理学上異なる信念の様態を私たちは区別しえない。われわれが「あいつは〇〇を信じてる」というばあい、信じていることと、単にそれを想定しているだけとか、仮説をたてているとか、それ以外の諸状態との区別ができなければならないはずだ、と彼はいう。

 これらの議論は動物の信念を否定しようとするが、恐らく成功してはおらず、疑義をとなえる程度のものに見える。われわれが先に見定めた前言語的な信念というものは、その理由をまさに説明しているように思われる。

 

西洋倫理思想史〈上〉

西洋倫理思想史〈上〉

 

 

第五章 ヒトではない動物の世界はどのくらい貧しいのか

 ハイデガーによれば、ヒト以外の動物は単に「言語をもたない」だけではなく、そもそも「言語の成立を可能にするもの」すらない。彼らは単に行動することはできても、何かを何かとして把握することはできない。岩の上にいるトカゲは、その岩について何らかの意識は持っていたとしても、それを岩としては意識していない。ヒト以外の動物というものは、存在者に注意を向けることが決してできない。(〈として構造〉)*1

 しかしハイデガーは二つの点で誤った。①「ヒトではない動物」をひとくくりにして扱ったこと、②それによってヒトとヒトではない動物たちとの間にある共通な面を見逃したこと、である。

 ハイデガーはサンプルとしてとりあげるヒト以外の動物を間違えた。たしかにトカゲやハチについてはみたし、たしかに「〈として構造〉がない」というのにも説得力がある。しかし彼はイヌやイルカ、チンパンジーについては取り上げなかった。彼らはあるものを時には遊び相手として、時には食べ物として見る。〈として構造〉がない、と断言するにはサンプルが偏りすぎているし、イヌなどに対してはまったく説得力がない。

 そして、われわれがこれまで主張してきたのは、ヒトの能力は動物たちと共有している能力の延長上にあるものである、ということである。

ヒトに特有の、言語を用いる能力やそれにかかわる諸力の発展は、かなりの程度まで、ヒトがその他のいくつかの知的な種のメンバーたちと共有している動物的な諸能力や諸力の延長上にあるものであって、それらに基礎を置くものである。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

 

 

第六章 行動の理由

 アンソニー・ケニーは動物が行動の理由をもたないという。なぜか。それは動物たちが言語をもたないために、自らを行動に駆り立てるものの比較ができないからである。たしかにヒトが自らの状況から一歩引いて評価する能力がある。これは言語能力によるものだ。しかしだからといって、ケニーのいうように動物が一切行動の理由をもたないなどということがあるのだろうか。アクィナスはそうは言っていないし、これまでわれわれが考えてきたことからするとケニーの結論は受け入れがたいものになっているに違いない。また、あなたの飼っているイヌやネコも、ケニーのいうことを信じがたいものにさせている。

 アクィナスは動物の下す判断を自然的判断と呼んでいた。ネコは毒性のあるトガリネズミを経験によって避けるようになる。彼らは理性に似たそうした能力を持っており、ネズミで遊んでやろうという自らをセーブしてトガリネズミを避けることができるのである。ケニーのいう意味において、動物には行動の理由があるというべきではないか。まったくないと断言するよりも、よほどアクィナスのほうが穏当だと思われる。

 これまでの議論と同様に、このような前言語的な行動の理由は、ヒトにも見られるものである。反省するという能力を発揮するために最初に反省の対象となるものがまさにこの前言語的な行動の理由だといえよう。

 

 われわれはヒトと動物とのあいだの連続的なスケールを理解することを求められている。一方の極には〈として構造〉ももたないようなタイプの動物たちがおり、徐々に知覚と反応がよりきめ細かい動物たちへと至る。ヒトはもう一方の極にいる動物であるが、だからといって他の動物たちと共有するものがなくなってしまうわけではない。マクダウェルは「ヒトはたんなる動物として生まれ、その後、成熟へと向かう過程で、思考する者へと、また、意図的に行為する者へと転換を遂げていく」と述べたが、そのような転換は「何が何をなす理由なのか」を学ぶ結果として生ずる。

 

マンガで学ぶ動物倫理

マンガで学ぶ動物倫理

 

 

 

第七章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」

 特定の善の達成やよく生きることの達成を妨げたり、その障害になる可能性があるとき、それは危害や危機的状況とみなされる。〈傷つきやすさ〉とは一生のさまざまな場面でまざまな能力の阻害に苦しめられがちなことであるが、それは善さに関する一定の観念を前提としている。

 善というものはまずその動物以外の動物とよく似たものとしてあらわれる。ヒトのこどもはイルカのこどもとおなじように、身体に感じられた欲求が即座に満たされることをめざす。これが善というものの第一の意味を成す。そして第二に、何かが善であるというのは、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段として善であるということがある。そして第三に、善い看護師、善い画家などにみられるように、ある社会的に確立された実践的文脈のなかで役割を果たすものとしての善がある。そして第四番目の善は、これらの善をどのように秩序付けるのが最善かについての善である。

 たとえばある食べ物を摂取することはヒトとしてのあなたにとって善いということがある。これは二番目の善であり、ヒトとしての善である。たとえばあなたが相撲取りならば、ふつうの人間ならやめておくべき量の食物を摂取することが、相撲取りとして善いということもありうる。これは三番目の善である。そしてたとえば、画家としてのあなたの選択が善であったとしても、父親としての選択が善であるとは限らない。このときあなたは何をなすことが最善であるのかについて無条件的な判断を下す。これが四番目の善であり、ヒトが「よく生きる」ことにかかわる。

 

 イルカのこどもは成長の各段階で「感じられた欲求」から前言語的な行動の理由を知覚することでより多くの種類の善を認識する。仲間と狩りをすること、遊ぶこと。イルカたちはヒトと違い、自分が抱く欲求を自分から切り離す必要はない。

 ヒトの子どもは「私は何を欲しているのか」という問いから、「何をするのが私にとってもっとも善いのか」という問いを区別し始める。いくら好きな食べ物でも、食べてはいけないものを、あなたは他者から聞いて教わるかもしれない。プロサッカー選手であるために何が善いかは、あなたはコーチから、あるいは先輩から学ぶかもしれない。自分の欲求と同じような、何が善いかに対する権威はそこにはない。他者から学ばなければならない。

 そして次の段階は、それらをただ呑み込むだけではなく、それらを自分自身や他者に対して合理的に説明し、自身の判断を自律的に下す段階である。この以降は三つの特徴を備えている。

  1.  単に行動の理由をもつ状態から理由を比較衡量できる状態への変化だということ。前言語的な状態がなければこの移行は理解困難なものとなる。
  2.  欲求や情念の変容。つまり自らの欲求から一歩身を引くことができるということ。これに失敗した人間は、小児的欲求を善そのものに対する欲求だと言い聞かせている。自己の欲求から距離を置く力の欠如は健全な実践的推論や善い動機付けを阻む危険因子である。
  3.  現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態への変化。言語を持ちえないメンバーはこれを持ちえない。イヌは主人が玄関の前にいることは信じても、あさって帰って来るとは考えられない。

 これら三つの領域は相互に関連し合っており、どれかの重度の失敗は他の失敗にもつながる。

 

 

第八章 私たちはどのようにして自立した実践的推論者となるのか。また、諸徳はどのようにしてそれを可能にするのか

 自立した実践的推論者へと移行するために必要な能力について、われわれは第七章で既に取り扱っていた。:

  •  自分の抱えている欲求の直接性から自己を引き離す
  •  未来に関して現実的な種々の選択肢を想像する
  •  多様な善の種類を認識し、それらについて正しい実践的判断を下す傾向性

 この章で主張したいのは次の事である。:この能力を得るためには「徳」「技能」「自己認識」が必要であり、この三種を獲得できるとすればそれは他者たちのおかげであり、かつ、自立したあとも他者たちに依存することはずっと必要であり続ける。諸徳がなければ自立した実践的推論者になることができないだけでなく、今度は他者たちに対してそうしたケアをしてあげることができないし、ネグレクト・共感の欠如・愚かさ・欲深さ・悪意などから自分自身とお互いを守ることもできない。 

 

 

 ……というところで中途終了。それぞれの能力を取り上げてどういう点で徳が必要になるのかを挙げていくのが普通だと思うが、肝心の徳というものがぼんやりしていてわかりづらい。ちょっとここで打ち切って、徳について勉強したいと思う。

 

 

 

 

 

*1:わかりづらい場合はペンらしき物体を「ペンとして見る」ことを考えよう。ところで、そこに強盗が押し入ってきたときにはそのペンは「武器として」もみることができるのである。そのようにしてあらわれるのが存在者であって、動物にはそれがない、とハイデガーは主張している。