にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで

第一章 序論

 本書の目的は【徳について説明すること】である。その必要はあるのだろうか。

  1.  徳とはなにかについての共通理解を取りだすことで、徳を中心におく倫理学理論のあいだで起こる論争がはっきりわかるようになり、見渡しがよくなる。
  2.  徳を発揮するためには実践的推論が不可欠であり、それがどのような推論であるのかは実践的な技能を発揮する人のうちに見出される推論と比較することによって明らかにできる―――つまり徳は技能と似ている。そしてこの考え方が本書のユニークな点であり、現代の論争にも適用できる。

第二章 徳、性格、傾向性

 徳は人の持続的な特性であり、人が一定のあり方をする傾向性である。なんらかの徳を身に着けているというのは、ある一定の仕方で行為する傾向があるということなのである。そして徳は状況に対する選択的な反応を通じて発達する。

 あなたは「徳」など縁遠い話だと思っているかもしれないが、たとえば気前のよさはひとつの徳である。ジェーンが気前がいい、ということはジェーンの行為が気前がいいわけでも、ジェーンが気前のいい気持ちだということではない。気前のよさはジェーン自身の特性なのである。つまり徳とは次のような特性をもつ。

  1.  persisting : 一貫して存続する
  2.  reliable:当てにすることができる
  3.  characteristic:性格をあらわす

 まず第一に、徳とは単に持続するだけではなく発達する。ジェーンが気前のいい行為をすることで気前の良さは強化され、けちけちした反応によって弱まる。

 第二に、徳はあてにすることができる。気前のいいジェーンがけちけちしていたならば、われわれは驚き、なんらかの説明を求める。われわれは気前のいいジェーンに対してある一定の反応を期待することができる。もちろん、ある程度までの話である。

 第三に、徳は性格をあらわす。徳はその人にとっての根深い特性で、その人がどのような人であるかの中核をなす傾向性である。われわれは徳の面から人の性格について考える。たとえば数独がうまくなることは性格を変えないが、思いやりから行為することができるようになった人は以前とは違った性格をもつ。

 

 このように論じてきたとき、徳について重要なポイントが既に示されている。われわれは議論を次のようにすすめることはしない。つまり、①有徳な判断を下すとは?②その判断を下した人はどのようにそう行為することを動機づけられるのか?という議論である。われわれが主張しているのは、われわれはすでに動機づけられており、動機付けが経験を通じて発達したことでいまあるようなものになっているのだ。たとえば、「勇敢な行為とは大型犬から少女を守ってやることだ」と勇敢な行為を説明し、「どのようにして少女を守る動機付けをもつんだろう」ということを説明する仕方は間違っている。そうではなく、少女を守るために大型犬の前に飛び出した少年ははじめからそうした動機付けをもっていたのである。

勇敢な人とは、何か別の仕方ではなく、まさに勇敢な仕方で行為し、推論し、反応するように性格の傾向性が形づくられている人にほかならない。徳が初めから活動にかかわり、発達をともなう傾向性であるのはこのためである。それは外からの度重なる影響によって受動的に生み出されるものではない。徳は、活動する生き物としての私(やあなた)が、育成と教育を通じて性格を一定のあり方への発達させる、まさにそのあり方にほかならない。

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 だがしかし、こうも言えるのではないか、とあなたは思うかもしれない。「気前のいい人っていうのは、気前のよい行為をして、気前のよい感情を抱く傾向がある人なのではないか」と。このとき、あなたは傾向性よりも行為や感情を基礎的なものとみなしている。このことも批判していきたいことのひとつである。

 また、もし気前のよさが、気前のいい行為・感情を抱く傾向に過ぎないとすれば、その傾向性にわれわれが価値を認めるのはなぜなのか。「それはその行為や感情に価値があるからだよ」というのが普通の答えだろうが、あなたは「あいつは気前がいいんだよ」というとき、ほかならぬあいつ自身を称賛しているはずである。この称賛が実は気前のいい行為と感情をどれだけ抱くかという計算にもとづいているんだというのはばかげている。

 

 徳を身に着けるためには熟慮と経験が必要で、時間を要する。習熟によって一定の方向に導かれるわけだ。「いや、だとすると徳とは習慣、つまり機械的な反応にすぎないのではないか」と言いたくなるかもしれない。たとえば会社に行くという習慣を続けているとボーッと歩いていたらいつのまにやら会社の前まで来てしまうことがある。あそこで右折するはずだったのにいつも通り左折してしまったのだ。

 徳は多くの点で機械的反応と異なる。まずは習熟が機械的反応につながらない事例をみよう。ピアニストは楽譜通り演奏することに慣れることで機械的反応を得られるようになったのだろうか。そうではない。ピアニストはたしかに意識的な入力は行わなくなったが、そこで生まれるのはピアニストの考えが吹き込まれた演奏であり、そして何度も自分の演奏を改善し続ける。もし実践的な技能が機械的反応に変わるなら、それは硬直し、衰退していく。こうした技能は手に入れたら変化しないものではない。たえずできるかどうかチェックしなければならない。それはつねに発達の過程にあり、弱まってしまうこともある―――徳の場合も同様である。徳は実践的技能ときわめて似ているのだ。

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

第三章 技能を要する行為と有徳な行為

 技能と徳は似ているが、すべての技能が徳と似ているわけではない。技能は「学習の必要性」と「駆り立てる向上心」のあるとき、徳とよく似ているのである。技能と徳はなによりも実践にかかわるものであるが、それに加えて学習というものが大きな類似性を作っている。

 たとえば建築などは猿真似だけでできるようになるものではなく、単なる機械的反復以上のことを含んでいるがゆえに、駆り立てる向上心というものも最初から必要となる。学習者は別のやり方ではなくこのやり方である理由はなんなのか、何が重要で何が重要ではないのかを理解しなければならない。単なる猿真似は技能習得の観点から見れば失敗である。ピアニストになるためにはブレンデルのものまねができるだけではいけない。本当の学習者はブレンデルと異なるやり方で演奏しつつ、ブレンデルの演奏の核心をつかんでいるような演奏法を習得するだろう。つまり「自分のものとして」習得しなければならない。向上心がなければ、技能は単に繰り返しや機械的反応になってしまう。

 また、その技能が複雑であるとき、熟練者が学習者に伝えることのなかには理由を与えることが含まれる。そのように電線を配線する事実だけではなく、そうする理由も知らなければならない―――技能の伝達と習得には言葉で説明することが必要だろうか。まさにそうだと考えられる。そもそも技能というものを広く解するからそのような疑問が起きるのであって、言語で説明できることが「こつ」と「技能」を区別している。

 

 

 さて、以上が徳と技能の類似性の基礎にある特徴である。徳とは技能と同様に学習にかかわるものであり、徳について知ろうとするときも学習の観点から出発しなければならない(どのようにして徳を習得するか?)。

 われわれはいつでも、徳を一定の文脈のなかで学習する。気前のよさというものを抽象的に学習することなどということはなく、たとえばホームレスのために家をつくってあげるというようなことでそれを学習することもある。(「徳は常に組み込まれた文脈のなかで学習される」)。この文脈には多くの種類があり、重複から矛盾まで互いにさまざまな関係にたつ。これの学習は知性をともなわない吸収ではなく、やはり向上心があってのものである。その時点ではその徳を学んでいることさえわからないこともある。

 初めのうちは子どもは手本となる人物を見習う。親が犬を追い払っているのを勇敢なこととして覚えるところから始まる。しかしそれと同時に三つの点で向上心を抱くようにならない限り、徳が生まれることはない。(1)どうしてそうしたのかを理解し、その犬は危険であるというような、当の行為に関連のある要因を理解する。(2)似たような状況におかれたときに、自分だけで勇敢に行為する。(3)自分ではまだへまをやらかす可能性があり、うまくやれないかもしれないことを正しく認識する。

※しかし、子どもがこういう向上心をもつだろうと信じるのは楽観的ではないか、とも思える。たしかにまったく向上心をもたず人のやっていることをただ真似をして根拠など理解しようとせず、自分で考えようとしない人間もいるだろう。このような人は世間と向き合うなかで自分の反応の不適切さに気づき、結局は向上心をもつように駆り立てられるだろう。

  次に「理由を与えること」について。徳の学習には言葉で説明されないことも多く含まれているし、そのほうが普通に思える。しかし徳を理性にもとづかない「コツ」とみなすことには問題がある。(1)アリストテレスは人間に先天的に備わっている傾向性である自然的な徳と、本来の徳とを区別した。自然的な徳しか持っていない人は、自分がすることに対して理由を要求することも与えることもできない。たとえば、人のいうことをなんでも真にうけてはならないということを学習したことがなければ、生まれつき勇猛な人は冗談にマジギレするかもしれないし、生まれつき共感しやすい人は詐欺にあうかもしれない。(2)倫理的な不一致について理にかなった説明を与えられなくなる。ある忠実な人に「友人に忠実でありたいが、あいつは麻薬をしている。どうすればいい」と尋ねるとしよう。この場合友人関係を解消することに賛成か反対かはともかく、ともかく何らかの理由を述べることができるはずである。もしその人が「説明しようがない。ほかの忠実な人がどうするかを観察しておけばどうだ」と言ったら明らかにばかげている。

 有徳な人の反応は即座になされるものであるが、それは知にもとづいた反応なのである。それは教育にもとづいたものである。

 

 

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

  • 発売日: 2015/09/19
  • メディア: 単行本
 

 

 

第四章 徳の力はどこまで届くか

 有徳になるためにはいかに行為すべきか学習する必要がある。しかしそれにしても、軍人の社会で勇敢さについて学ぶことと、平和な社会で勇敢さについて学ぶことはまったく違うように思える。二人は同じ勇敢さについて話しているのだろうか。つまり徳の視点から倫理学を論じることは、その文化でしか通用しないような、そういう偏りがあるようにも見えるのである。

 この点を説明するものが駆り立てる向上心であり、理由を要求したり与えたりする衝動である。とはいえ、そんなことをする奴は実際にはそれほどいないだろうと思われる。社会の大多数の人は自分の社会の社会・文化的基盤を批判し始めることができない。親のやり方を改善すべきと思えても、根本的な変革が必要であると考えるひとはほとんどいないように。だから、この説明では不十分なのだ。

 徳の習得のための学習ははじめ教師と額守者のあいだで行われるが次第に範囲が広がっていく。このことを考えるにあたって、ある共同体の一員になるという視点から考えるのが役に立つだろう。正直者になることは単に家族のすることをするようになることではない。それどころか、家族のやることに失望したりもするようになるかもしれない。その人は今や二つの共同体に属している。このことが、当初の文脈から身を引き離す可能性を秘めているのだ。

 しかし先ほど指摘した通り、自分の社会を批判し始める人はほとんどいない。なぜなら、われわれは引き離されることに抵抗するからである。家族や社会の共同体は現実に安心感や支援を与えてくれるが、正直な人々からなる共同体は目に見えない。日々の生活を営む上ではほとんどなんの助けにもならないのである。

 

 

第五章 徳とよろこび

 徳と技能とが違っているのはどんなところだろうか。技能は感情面のありかたとは無関係に発揮することができる。金を差し出すだけで相手の反応に無関心なやつは気前のいいやつとはいえない。アリストテレスは「有徳な人」と「自制心のある人」を区別している。喜んで何かを与える人と、与えはするが不愉快な人との明白な区別である。

 何を為すべきかを認識しあとでその行為の動機付けを見つけ出そうとする人は有徳な人ではない。徳を発達させることは、われわれが最初からもっていた動機付けを教育することである。正直な人は正直に行為するだけでなく、誰かの不正直さに嫌悪感を抱く。徳は情動的感情をもつこととそれを表現することを含む。すると徳を身に着けるとは情動を教育することでもあるわけだが、それがどういうかたちをとるのだか統一見解はない。というのも、情動というのがなんだかよくわからないからだ。しかし徳は感情が推論や思考と調和することを要求するというのは間違いない。アリストテレス曰く、有徳な人は自分のすることを快く思うという点で他の人から区別される。

 

 

第六章 徳の多様性と統一性

 人がある一つの徳を申し分なく発揮できるかどうかは、その人がその徳以外の面でどのような性格をしているかによって決まる。たとえば、気前のよさは高慢な態度と衝突するときには発揮することが容易ではない。アリストテレスは次のように主張した。すなわち、その人がある一つの徳をもっているなら、その他のすべての徳をもっているのであり(「すべて」かどうかはまちがいなく議論の余地がある)、もし一つでも徳を欠いているなら一つも徳を持っていない―――これが徳の統一性と呼ばれる。たとえばピアニストは、まず指の動かし方を学び、それからテンポを学び……そうしてようやくその統合をどうするかを考えるわけではない。

 

 

→ 読み直しへ!