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エウダイモニア主義

エウダイモニア主義

 エウダイモニア主義とは、徳と幸福に関する考え方の一つである。

  1.  エウダイモニアとは古代ギリシア語で、一般に幸福と訳されるが、よく生きることと同じ意味をもつ。それゆえエウダイモニアは特定の場面での感覚や気分ではなく(短期的幸福)、生き方としての幸福(長期的幸福)を指す。
  2.  エウダイモニアは究極目的である。それゆえ、なんのために幸福になるのかという問いは意味をなさない。
  3.  エウダイモニアと有徳に生きることは何らかの仕方で積極的に結びつく。

 以上、要約すれば《エウダイモニア主義とは、「究極目的としての幸福(よく生きること、うまくやること)を有徳に生きることと何らかの仕方で積極的に結びつけようとする立場」》(p337徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)である。ではどのように結びついているのか。よく生きることは有徳に生きることを意味するのか、有徳に生きることはよく生きることを意味するのか、それとも両方か?

 さて、「どのような環境のもとで生きているか」(〈生活の環境〉)と「その環境のもとでどのように生きるか」(〈生きることそれ自体〉)は区別される。その人が金持ちとして生まれたりイケメンだったりすることはそれ自体として人を幸福にはしない。生活の環境のなかでどのように生きるかという問いが重要なのだ。そして、問い続けなければならない。

 たとえば、「結婚している人は未婚の人より幸福度が高いから結婚すべきだ」などという””科学的知見””は生活の環境と生きることそれ自体の混同として起きる。幸福がなんらかの状態であるという考えを後押ししているのは、そのような科学理論でもあるだろう。

 

 

「どのような環境であれ、

そのなかでどのように生きるか?」

 

 

 これが問題となる。アリストテレスは財産などの外的な善も必要であると考えたが、ストア派プラトンなどは徳と幸福を完全に一致させた。ジュリア・アナスは後者の立場である。にんじんも後者の立場である。

 たとえて言えばこういうことである。:エウダイモニアというパズルを完成させるのに、ピースがきれいに分類されていることは完成に役立つが、分類されていること自体はピースではない。つまり、遅かれ早かれどんな環境でもパズルは完成する。

 

  •  幸福にはいろいろな使われ方があって、エウダイモニアとしての幸福もそのひとつである。麻薬をやって気持ちよくなっている人は幸福感に包まれているが「彼は幸福だろうね。本当はどうだか知らないけど」と言うことは許されるだろう。ここでいう本当は、幸福の別の使い方を示唆している。

徳と幸福の関係

幸福と快楽・欲求

 幸福な人生は快く続けたくなるようなもので、不幸な人生はできるなら避けたいものだろう。だとすると、幸福と快楽にはつながりがあるように思える。しかし、ごく当たり前の感覚として、これが一致しているとは思えない。

 また幸福とは欲しいものを手に入れ欲求不満に苦しまないことだという説もある。しかし反吐がでるような欲求をもちマジでやってしまったときに、こういうやつを幸福だといいたいだろうか。また、空腹のときに飯を食ったら幸福だが、満腹のときは拷問である。そして一般に欲求とはなにかが欠乏しているときに感じるわけだが、つまり、幸福は欠乏と関係があることを認めなければならない。すなわち、欠乏がないと幸せになれない。こういう人生が不幸に見えるのは欠乏を満たすための努力がしんどいからだといえるかもしれないが、技術が超進化して欲求したらポンポン叶う世界になったとしよう。きっとうんざりすることだろう。

 快楽に比べて欲求充足説は説得力があるから、「生活満足度」説が出てくる。そのときだけのことではなく、生活を眺めて評価するわけだ。その時々の評価の仕方をどう考慮に入れるのか、信用できるのか、などそもそも言いたいことは山ほど出てくる。しかしともかく、われわれが幸福かどうかはその時々によって変わる、ということを帰結する。もちろんそれを研究対象にすることには一定の意義があるが、限界がある。

 快楽と欲求充足説と生活満足度の三つは幸福についての有力な候補ではあるが、それぞれに困難を抱え、その困難に対する満足な反論もない。幸福であることは快楽を感じることだとか、欲求を満足させることだとか、生活に対して肯定的な態度をとることだとかいう考え方は、幸福に関する議論のスタート地点にされる場合が多いが、これらの概念は多くの問題を含む。

 

 エウダイモニア主義者は幸福に感じることと幸福であることを区別する。しかし幸福に感じることを排除しはしない。

 

エウダイモニアと徳

 エウダイモニアは究極目的、つまり自分の人生をよく生きることによって達成しようとする全体的目標である。このことを受け入れるなら、徳がスタート地点にいることはきわめて当たり前なことのように思える。人は自分の子どもに狡猾な人や臆病な人に育ってほしいとは思わない。それは正直さや勇敢さといった徳が、子どものよりよい人生を歩むのに役立つと思うからである。《直観的に理解できる出発点は、概して言えば、人は徳をもっている方が――たとえば、気前がよかったり、勇敢であったりする方が――徳をもっていない場合よりも、人生はうまくいく(go better)というありふれた常識的な想定である》(p245)。このことはわれわれを徳について考えさせる。

 ところで、徳が幸福と関係しているのだとすると、幸福のために有徳な人間を目指すのは不道徳な感じがする。有徳な人になることを目指すとき、そうする理由は幸福のためかそうでないかいずれかである。目指すとすれば利己主義的でいやな感じがするし、目指さないとすれば、エウダイモニア主義は「これを目指せとはいったが目指すな。するとそれに達することになる」といったような理論を支持することになる。これでは困る。

 とはいえ、このような反論は幸福概念を固着しているがゆえに起きる。「エウダイモニアとはコレコレのことです、そして徳はそれを目指します」と思う限り、そのような批判が起きてしまう。これまで述べてきた通り、エウダイモニアは特定の環境や状態から定義されたり、特徴づけられるものではない。あらかじめそのように定義して「徳はその達成のために手っ取り早い」などという人びとしかこのような批判はしないだろう。幸福とは不明確な全体的目標であり、自分が何かをしているときに何らかのかたちでそれを念頭においていることに気づく。われわれの幸福は、われわれが人生を歩む中でより明確なものとなっていくのである。《これこそが幸福であると私たちが疑いの余地なく考えるものは、私たちが有徳になる前の時点では与えられていない》(p260)。

 しかしそれでもこうはいえるのではないか、とも考えられる。「発達してりゃ幸福についてわかるんでしょ。結局何らかの状態だってことでしょ。それに向かうために徳があるんでしょ。やっぱり徳は道具じゃん」―――これに対してはこう答えられる。「いや、だから幸福は状態じゃないんだっての」と。幸福は静的ではなく、動的であり、その本質は活動にある。

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

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徳倫理学について

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