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徳倫理学に「絶対的禁止」はないか?

倫理学に「絶対的禁止」はないか?

 この問いに関する答えは「ある」になる。徳倫理学は絶対的禁止を認めていないように見えるがそれは誤解にすぎない。そしてその誤解は徳倫理学の支持者によっても強められているのである。まずはそのことを見よう。

 ―————たとえば「嘘をつくな!」という禁止を考えてみよう。功利主義からすれば、別に嘘をつくことそれ自体は善でも悪でもない。それがいい結果をもたらすなら、むしろ功利主義者は人に嘘をつくようにすすめることもある。これに比べて嘘をつくことをどんなケースでも禁じようとする義務論者のほうがわかりやすいのであるが、たとえばナチスユダヤ人がいるかと質問されたようなケースを想像すると、やはり功利主義に戻りたくもなってしまうのである。/では徳倫理学はどうだろう。徳倫理学は個々の難局をそのつどみずからの力で考えることを命じる。徳倫理学は単に嘘をついたという結果だけをみたり、また逆にその結果がどうなるかを無視するわけでもない。大切なのは状況をどう認知するかという能力であって単に規則に従うことではないのだ。

 このことはまるで、徳倫理学が一切規則を生み出さず、「そのつど個々の場面ごと」を徹底しているように見えてしまう。しかし徳倫理学は〈徳-規則:正直者であれ〉といったようなものを生み出す。もちろん上の彼がいうように、ナチスユダヤ人がいることを教えてやるかといわれれば、状況に応じた対応が必要となるのも事実です。しかしこのことから、息苦しい規則だらけの義務論から解放してくれることを徳倫理学に期待するのも大きな誤解なのである。

 しかしそれにしても、「状況に応じて変わる規則」というのはどんなものなのだろう。それはつまりこういうことだ。:「AかBかのどちらかにしろなんて、誰が言ったんだ?」。たとえばこういう状況を考えてみよう。我が子に性的虐待を繰り返す夫を、妻が背後から殴りつけて殺した。妻は「有徳な人でもあなたを殺したはずよ」と。なぜ殺人などに及んだのかって、それは【それしか方法がなかったから】というかもしれない。しかしそんなことを決めたのは、一体誰なのか? 問題は、それしか方法がなかったという主張を受け入れたことにある。そもそも【それしか方法がない】などと安易に考えること自体が悪徳の大きな特徴でもある。

徳倫理学について

 

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 にんじんの頭に思い浮かんだのは、あの有名なトロッコ問題のことです。つまり車線変更して一人を殺すか、放っておいて五人を殺すかどちらか選べ、というあの問題です。にんじんは、というか誰でも思いつくと思いますが、「なんでどっちかしか選べないんだよ!」と不満でした。「一人殺すか、五人殺すか、どっちにしますか」って、誰も死なないほうがいいに決まっているのに、なんでどっちかを選ばされるのでしょう。そして「犠牲が少ないので一人にすべき!」と言ったり、「もし自分がいなければ五人が死んでいたわけだから、運命みたいなものなので、五人のままで!」と言ったりする人々に、「いやそうじゃねえだろ!」と言いたくなった人も多いでしょう。

 

徳倫理学について

徳倫理学について