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新アリストテレス主義は利己的か?

アリストテレス主義は利己的か?

 エウダイモニアを得るためには有徳な行為者を目指さなければならない。しかし、そもそも道徳というのは他者の利益や関心にかかわるものであって、幸福になりたいからといって有徳を目指すというのはなんだかおかしい気がする……というわけである。有徳に生きることの価値の部分は、われわれ自身の幸福によるのだが、これは自己中心的な考え方だろうか。

  • 「私が徳を身につけるのは、そのほうが私にとって得だから! 私が正直なのは、私のためだってわけ」……自己利益を理由として行為する人はもちろん有徳な人ではない。ここで問題にしているのは、そういうことではない。われわれが想定しているのは、まさに正直で、勇敢で、慈悲深い、真に有徳な人物である。その人が有徳に振る舞う理由はつまるところ自分の幸福に対する関心から生まれ、それに動機づけられている――――「利己主義が基礎にある」

 

 ①有徳に行為するとき、それは自分自身の幸福の達成を目指しているかいないかのいずれかであろう。②もし目指しているとすれば利己的だろうし、しかし目指していないのだとするとそれはそれで難しい。つまりこの立場というものは、『目標を目指さないことによってその目標を達成するように告げる』理論になってしまう(自己秘匿的理論)。

 

 ①(幸福の達成)ここで思い起こさなければならないのは、幸福というものを「あらかじめ」定めているような見方をしてしまっていることである。すなわち「幸福とはこういうものです。そしてそこへ至るためには徳が必要です。だから徳は幸福のための手段です」という見方である。だが実際のところ、これこそが幸福だというものなどわれわれには与えられておらず、徳に対して「手段」などという評価を与えることはそもそもできない。

 ②(自己秘匿性)この点は実は問題にはならない。次の二つのポイントをおさえよう。

  1.  徳というものは有徳な人の動機づけのなかから自分の姿を隠すようになること。初学者は有徳になろうと努力し、有徳な人がするであろうことを色々考えることだろう。しかし有徳となった時には、彼はその傾向性として徳のある行為をしようとし、徳については考えなくなる。だが消えてしまうわけではなく、必要であれば思い起こすことができる。
  2.  幸福と徳の結び付きについて。/たとえば、勇敢さを学んでいるが幸福についての何の見解も持っていない人を想像しよう。その人はいじめに立ち向かったり、目標の達成に必要なときには苦難に耐えたり……といったような勇敢さを学んでいるだろう。しかし彼には幸福についてなんの見解ももたないのである。そうすると、いったいどうしていじめに立ち向かうことが勇敢だとか、その目標が苦難に耐えるにたるものであると理解できるのだろう。《価値、行為、反応、感情に関するこうしたポイントを学習しておきながら、自分の生き方に対してそれらがどのような含意をもつかについては何の考えももっていないということが、いったいどうしてありうるのか》(p268 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。もし本当にそうなら、彼は徳を学んでいるというよりむしろ、機械的反応の習慣を教え込まれたにすぎないだろう。/次に、幸福に関する彼の見解が見当違いなものだったとしよう。「人生でなによりも大事なことは楽しむことだ!」しかしこれでは勇敢さを学ぶことは決してできない。なぜなら、勇敢さの徳はわれわれに楽しむことを放棄するように要請するからである。/すなわち、幸福と徳は一方が発達すれば、もう一方も発達するような力動的な関係にあるといえる。

 幸福もまた徳とともに、その姿を隠すようになる。これが新アリストテレス主義の「自己秘匿性」の正体であるが、これが問題がないのは明らかである。

 幸福を「目的」、徳を「手段」とはしない。行為の動機付けからそれらは姿を隠してしまう。

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学