にんじんブログ

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「どのように生きるべきか」の理論

 

 

  • 「われわれはなぜ生きているのか」(Why)
  • 「われわれはどのように生きるべきか」 (How)

 この2つの問題はきわめて大事だと思う。第一の問いについて、そもそも生きるべきではないと唱えるものももちろんいる(「死亡促進主義」)し、新たに子どもを産むべきではないと唱えるものもいる(「反出生主義」)。しかしにんじんとしては、この二つを受け入れる気にはまったくなれない。しかしそれを受け入れないことにも理由が必要であろうし、根拠もなしに批判するのはよくない―――「もし死ぬことが根本的に全く正しいことならば、受け入れる用意をしておかなければならない。しかしまぁ、まずそんなことはないだろう」と思っているというわけだ。

 これについては過去に記事にしたことがあるから、この機会に統合しておこう(次節)。

 

「生まれてこないほうがよかった」のか?

 人口蓄積はたった一人でも過剰である。すべての誕生はほとんどの場合、全体として悪であり道徳的に許されない―――これが「反出生主義」の主張である。ほとんどの場合というのは、その一人の誕生が他の人々の苦痛を軽減する場合であるが、そんなことはほとんど起こり得ない。

 反出生主義者に対して「じゃあ今すぐ死ねよ」と非難するのは正しくない。彼らは自殺もしなければ、大抵の場合、殺人を犯すこともない。それはまぁ「まともな」反出生主義者ならば「死亡促進主義」を拒否する構えを見せるからである。死亡促進主義とは、人を殺すことがその人になるといって許される、とする思想である。もちろん人には自分も含まれるし、他人も含まれる。反出生主義を唱えながら、いま唱えつつ生きているという事態を説明するためには別の理屈を持ち出す必要がある。

 

 一見して〈死亡促進主義〉を受け入れずに〈反出生主義〉を受け入れるのは矛盾なように考えられる。とはいえ、決定論と自由の両立という考えよりははるかに許容できるだろう。この二つの主張をまとめあげるものは、「死は望ましくない」という一つのテーゼである。死亡促進主義は一刻も早く生を終わらせることを主眼とするが、しかしそもそも、生を終わらせる死という事態が最高級の悪であって、到底許されない。一方で、死は望ましくないものであるから、その可能性を発生させる誕生という出来事もやはり望ましくないことになるだろう。それが反出生主義者たる理由のすべてではないにしても、「死は望ましくない」というありふれた考えが、この二つの思想を結び付け、かつ、発生させる―――というか、もっと強く言えば「死はそれ自体で悪」なのだ。

 

アンチ死亡促進主義的反出生主義の論証戦略

 順番に進んでいこう。誕生、つまりある人の生が始められるべき「でない」ことを主張するのが反出生主義のメインである。ところで誕生すべきかどうかを判定するには一体どうするのが適当だろうか。

 このことについて、その人が「存在する状態」と「存在しない状態」を比較するのがよいだろう。大抵の理屈では、存在する状態を考えたうえでその人生の中での善悪が考慮されてきた。しかしもっと手を広げて、生まれてこなかった場合に何が起こるかも計算に入れたほうがいいだろう―――【生まれてくるべきことの判定法】

 ある人物が存在する状態は苦痛の経験などの悪があり、また同時に快を抱くなどの善がある。ではその人物が存在しない状態はというと、苦痛の経験がなく、快楽の経験もない。反出生主義者は苦痛の経験がないことを善だと評価する。しかし、快楽の経験がないことは悪であると評価しない。当たり前だが、この理屈からいえば、存在しないほうがマシである。というのも、存在すると善悪が混じり合っているが、存在しないと善しかなく悪はないのだから―――【非対称性論証】

 

 非対称性論証においてまず問題となるのは、明らかに、その人が存在しない状態に関する評価である。この二つが受け入れられるのは、次の二つの言明がともにその後ろに控えているからである。

  1.  苦痛を体験しうる人間がいなくても、苦痛の不在は善。
  2.  快楽の不在が悪なのは、快楽を剥奪される人間が存在する場合のみ。

 しかしこの二つの言明を受け入れる根拠ははっきりしない。しかしこれらを受け入れれば、いろいろな事柄がうまく説明できる……と彼らはわれわれを説得する。けれども上記二つの言明を受け入れることによってさまざまな物事を説明することができるということを認めたとしても、他にも様々な説明があり得、それだけを特権視する理由は何もないことに気づく。そしてこのことは反出生主義者とて気が付いている。彼らは他の点でこの言明を擁護しようとしているがその論証は十全とは言い難い。

 

 

存在<非存在?

 さて、ある人物の非存在がもたらす二種の価値判断を受諾したものとしよう。非対称性論証はそこから「全体を考慮すると存在しないほうがいい」と結論する。だが、一見して明らかだと思われるが、この結論は性急である。ごく単純にいって、生まれた場合の「善ポイント=10」で「悪ポイント=5」なら差し引き「5」だろう。一方で、彼が存在しないことによっては確かに「悪ポイント=0」だが、「善ポイント=2」程度しかなかったら、存在したほうがよかったことになる

 存在してると善悪アリ、存在しないと善しかない。

 はい、生まれないほうがいいよね。

  と言われても、その内実が不明である以上、どうともいえない。こうなると『少しでも悪があったら終わり』と言っているのと同じになる。

 

 もちろん、これに対する反出生主義者側の反論もある。

 まず悪について考えよう。存在しない方が苦痛はないのだから、それだけ見れば存在しないほうが良い。なにしろ、存在しなければ「悪ポイント」を取得することは絶対にないのだから。

 次に善について考えよう。善いことがないというのは悪ではないのだった。そしてそれは単に悪ではないというだけのことではない。そこにおいては『剥奪』ということが起こり得ない。存在しながら得る善いことは剥奪されることがありそれは「より悪い」ことである。しかし存在しない場合は剥奪されるということがないので「より悪いわけではない」という意味で、悪ではない。

 たとえばクジラさんは病気がちだが速攻で回復する能力を持つとする。一方で、リンゴさんは病気にならない代わりに回復能力を持たないとしよう。このとき、クジラさんはリンゴさんよりも優越しているとはいえない。リンゴさんは回復能力が欠如しているが、クジラさんより悪いわけではない。

 それと同様に、存在しない場合の快楽欠如が、存在する場合より悪いとはいえない

 たしかに存在していると快楽がすごくあるかもしれない。善ポイントは一億を軽く超えてくるかもしれない。しかし『存在くん』は苦痛を感じがちであり、何度も快楽を妨げられる。一方で『存在しないくん』は苦痛など一切感じない。快楽は欠如しているが。―――【存在する者の快楽は存在しない者の快楽の不在に対する真の優越性を構成しない】

 

 

反出生主義へ

 存在するより存在しないほうがベターだということを認めたとしよう。

 しかしながら、「生まれてこないほうがいい」とするほど大げさな差であるとは限らない。0.00000000000001ぐらいしか差がなくても「ベター」だとは言える。このことから反出生を申し立てるのはおかしい。それゆえ、今度はこの差について圧倒的なものだということを示す必要がある。ここから福利(well-being)に関する話がはじまる。

 

⇩ 現代思想2019.11にあります。

ci.nii.ac.jp 

 

生きることへの疑念

生きることの意味

 生きることに疑念を抱かせるものはもしかすると「どうせ死んでしまう」ことかもしれないし、「嫌なことばっかり」だからかもしれない。

第一の問題

 わざわざ大学の偉い先生に聞かなくても、生きることに意味はないなんてことは誰もが理解している。あなたが子孫を残せば、あなたの生きた証は残せるかもしれないが、三世代もしないうちにあなたのことなどだれも覚えていない。アリストテレスのように紀元前から語り継がれている人物など本当に一握りだし、どれほど大きな結果を残しても、数世代で消えてしまう。というかもっといえば、地球自体が数億年先には危ないのだから、いくらアリストテレス孔子が偉くたって、なんの甲斐もない―――だから生きていることに意味はない。

 にんじんも実は、生きていることには意味はないと思っている。どう言いつくろっても、人類はいずれ消滅するし、どんな立派な人もそこまでの世代まで影響なんか残せない。これに対して「いや、数世代だけでも影響を残せればいいのさ」といって生きる意味を感じることもできなくはないが、はっきりいって気休めに過ぎない。

 そうはいってもにんじんは反出生主義には加担しないし、当然のことながら死亡促進主義者でもない。にんじんは生きるべきだと思う。だが、自殺してはならないとは言わない。自殺を禁じるような道徳規則を正当化することは恐らくできない。というのは、恐ろしく特殊なケースを考えれば、自殺したほうがいい場合などいくらでも思いつくからである。自殺するか残虐に殺されるかを選ぶような状況がまさにそれにあたるかもしれない。ここで安楽死できるほうを選ばずに残虐に殺されるほうを選べというのはそれこそ非倫理的な気さえする。

 ではなぜ生きるべきだと思うのか。意味がないのに。たしかに意味はないが、意味がないことを理由に生を拒絶するのは少々行き過ぎである。それはたとえば遊園地に来ているときにアトラクション参加者を見て「何の意味があるの?」と言っているやつに似ている。何で乗ってるって楽しいからに決まってる。しかし楽しいことには大して意味があるわけではない。あなたの子孫には少なくともなんの関係もない。

第二の問題

 だが人生は遊園地と違って、まったく面白くないどころか苦痛でさえあるアトラクションに溢れている。われわれはここで生にふたたび疑問を感じる。過去に記事で次のようなことを書いたことがあるから、この機会に統合しておこう。

 ショーペンハウアーは生命に対する否定的評価をする(『生存虚無説に対する補遺』)。曰く、人生は失望の連続である。『だれもが自分が幸福と思いこんでいるものをめざして一生努力するが、それに到達できることはめったになく、到達したとなっても、幻滅を味わうだけだ』し、『辛苦の壮年時代、肉体的に故障もでてきて、おうおう悲惨な老年時代、死病の拷問、そして最後に断末魔の苦しみ』を味わう。

 苦しい感覚はあるくせに、苦しくない感覚はないか、あってもほとんど意識されない。しかも、苦しい感覚は長続きする癖に、幸福はさっと過ぎ去っていく。彼はここに苦痛の経験の優越を見たのである。人生を支配するものは苦痛である! 『われわれは苦痛を感じるが、しかし苦痛のないことは感じない。心配は感じるが、心配のないことは感じない。恐怖は感じるが、身の安全は感じない』。便りのないのは元気のしるし、だということだ。

 なにか幸福を感じるとしよう。しかし幸福とは常に消極的なものだ。というのも、それはつねに願望の充足だからだ。願望の充足は、欠如していたことを意味する。なにかを欲求することは欠如を感じることであり、それは苦痛である。そして幸福はすぐに過ぎ去る。振り子だ。苦痛と退屈のあいだをぶらんぶらんと揺れる振り子。それが一振り揺れるたびに、われわれはちょっとした、一瞬の幸福を感ずる。

にんじんブログ【人生と苦しみについて】(元記事:削除済)

  しかし、ショーペンハウアーは間違っている。彼は不幸を過大評価しすぎるし、幸福を過小評価しすぎる。たとえば恋人からもらった贈り物はもらった瞬間だけが幸福なのだろうか。そうではないだろう。それから、『身の安全を感じない』というが、身の安全をわざわざ感じるような状態は安全ではない。

 

 生のなかの苦しみの存在は、ひとつひとつ数え上げられない。人生の得点票をつけるみたいに「総計したら苦しみが買ってるので人生はカスですね」という話にはならないのである。いわば離散的に「はい、快」「はい、苦」と並んでいるわけではない。

 注目すべきは、(1)苦しみの存在は生の放棄を選ばせないし、(2)苦しい状態にありながらもわれわれはなおも生きることを志向できることである。先天的に目に障害をもって生まれた人は苦しかろうが、なおも生きる希望を持ち続けることはできる。

 それはなぜだろう。

生きることの目的 → エウダイモニアへ

 人生という大外れありの遊園地になぜい続けなければならないのだろう。そこにいることに意味がないことはわかっている。神様の指示ではもちろんないし、指示だったとしても従う理由については論証が必要になる。どうしてって、どうせ死ぬのだからきかなくっても別によさそうなものだ―――そこで「死後の世界」などと言いだすのがお決まりのパターンだが。

 「われわれはこの遊園地でなにをしようとしているのだろう?」 

 これが人生の意味を失いながらなお生きようとするわれわれに求められる問いである。遊園地の比喩を続けるなら、遊園地にい続ける理由は決まっている。できるだけ楽しもうとしているのだ。ここに幸福という語彙が登場する。

 われわれは幸福を目指す。幸福はわれわれを駆り立て、生かす。しかしこの「幸福」とはいったいなんなのだろうか。もしかすると、幸福とはきわめて消極的なものであるかもしれない。多大な苦痛がありながらも、幸福というニンジンをぶら下げられて、われわれは生きるように、なかば強制されているのかもしれない。

 

意味の探求―人生論の哲学入門

意味の探求―人生論の哲学入門

 

 

その他

「意味」の意味について(過去記事統合)

 にんじんの目的は「生きている意味」を見つけ出すことである。そのために、意味という言葉の〈意味〉について確認しておくのは当然のなりゆきであると思う。

 たとえば「人生の意味はなにか」と問うことにおいて、「人生というのは、人がこの世で生きているあいだのことです」と答える者がいたら人の気持ちがわからないのかと文句を言われるに違いない。

 

 さて、意味の〈意味〉には少なくともいくつかあることが観察された。

 これについて一般的には三種の用法が区別されている。まず言語的な意味が第一に置かれる。これは人生というものをこの世で生きているあいだとする〈意味〉である。たとえばボゴヌヌという言葉は言語的意味を持たない。第二に置かれるのは、その内容である。たとえば出された提案の内容を指して「意味はわかった?」と問うときがある。これは明らかに第一の意味とは異なる。マニュアルという言葉が何を指しているかわかったとしても、マニュアルの中身を知っているわけではないからだ。第三に置かれるのは、たとえば「必死こいて行ってみたけど閉館だった。意味ねえことで時間潰した……」という場合。これは第一のものとは異なるし、第二のものとも関係がない。そしてにんじんたちの求める人生の意味は、この第三のものであろう。

 意味についての問いかけには二側面ある。まず第一は「意味があるか」であり、第二は「どういう意味があるか」である。第一のものを〈形式的側面〉、第二のものを〈実質的側面〉と呼ぼう。

 

 〈第三の意味〉について、その特性を次のように言い現わすことができる。つまり何かが有意味であるとは、①広義には何らかのものに対して一定程度の強い影響関係がある、②狭義にはそのものに対してポジティブな影響関係がある(人生の意味の哲学: 時と意味の探究)。

 意味はつねに「~にとっての」意味である

 二番目は非常にわかりやすいが、一番目は大変曖昧である。「すべてのものはすべてのものにとって意味がある」とさえ言いたくなる。宇宙のはるか遠くにある惑星でだれかがインクを垂らすことは地球人にとって何の関係もないだろうか。『実は』影響があるということはありえないか? 「意味がない」とされたものでも、「意味があった!」にひっくり返る恐れが常にある。そしてそれは当初から意味があったはずだとされる。広義の「意味がある」はあくまで用例としてはあるが、人生の意味を考えるうえではあまり役に立たないと思う。

 〈第三の意味〉を①因果的連関、②価値的連関と呼ぶことにしよう。しかし因果といっても「われわれの、そのときの、ふつう考えられる因果」である。

 

 いずれにしても、この〈意味〉は未来と関係がある。注意しなければならないのは、「起こることがすっかり決まっている」という決定論的な考えである。もしその尺度で話をするなら、われわれは意味があるかないかを判別する手段はないし(①)、ポジティブな影響と言われてもどうせ次のことは決まっている(②)。ここでいう未来とは、あくまでわれわれの普通の予測のことである。たとえば釘をハンマーで叩けば刺さっていくと思うし、置いていた荷物は誰も触らなければ突然消えたりしない。

 お腹が減っているときに飯を食うのは意味がある。箸を持ち、つまみ、口に運び、飲み込むこともやはり飯を食う目的に奉仕するため、それぞれ意味を持つだろう。われわれはここに「意味」という言葉を「目的」としてみることの契機を見つけるし、また、因果的連関が目的遂行の下地になっていることも知る。*1

 

 こう言ってしまってよいだろうか。:「行為の意味がある⇔行為の目的を果たす」。しかしこれは違うと考える。⇐は言えたとしても、⇒は成り立たない。

 〈第三の意味〉は、〇〇にとってそれが未来にもたらすポジティブな影響である。行為に意味があるとは、その行為をすることが何か・誰かにとって将来ポジティブな影響をもたらすことである。行為の目的は一般にポジティブな影響を求めてのことだから、目的を果たすことは意味のあることである(⇐)。しかし、もし行為の目的を果たせなくても、その行為には意味があるとされることは多くある。大会で優勝を目指さないチームはいないが、出場に意味があったのは優勝チームだけだとでもいうのだろうか。

 

幸福とはなんなのか?

問いの動機付け

 前回の記事で、生きる目的としての「幸福」が突き当てられた。われわれは生きているが、生きている意味はまったくない。しかし目的(この世にい続ける理由)は存在する。それは幸せになれる(可能性がある)からだ。これゆえ、幸福の第一の特徴はその最終性にある。つまり、「どうして幸福になりたいんですか?」などという問いはまったく意味をなさない、ということだ。幸福になることに理由などないのだ。

  • 幸福とはなにか?

 われわれは次にこの問いに突き当たる。われわれを生かす、幸福とはなんなのか。

 しかしなにかを問う以上、まず指摘しておかなければならないのはこれをなぜ問うのかということである。「生きる意味はないが目的はある。目的は幸福である」ことが理解され、かつ、「幸福という語彙をわれわれは漠然とだが理解している」のだから、もうこれ以上問い進める必要はどこにもないではないか――――好奇心からか? いや、心という語彙を用いて理由を説明するのは簡単だが、答えにはなっていない。われわれはこれを問う理由を複数思いつくかもしれないが、実際のところ、次のことに集約されると思われる。:幸福になるための指針を得、また幸福かどうか評価するために、われわれはこれを問うのだ。ここに「指針」と「評価」という語彙が登場する。〈事前の規整〉と〈事後の評価〉を求めているということもできる。

 幸福とはなにかを問うときは、常にこの動機を念頭においていなければ、われわれは自らの行く道を見失ってしまうだろう。

幸福とはなにかを問うこと① 主観的/客観的

「幸福を感じること」と「幸福であること」には差があるという考え方もある。しかしまずはこれを一致させている幸福の主観説について検討してみよう。

 

【快楽主義(幸福=快楽)】

 快楽主義は「幸福とはいい気持ちを感じていること」とみなす。この考え方には、一般に浸透していることもあって、一定の説得力がある。しかし、考えてみれば、すぐにそれは間違いだと気づくだろう。快楽は明らかにわれわれにとっての幸福にはなりえない。なぜならそれは究極目的足り得ないからである。というのも、われわれは快楽機械に繋がれることを望まないから。

 たとえばあなたが快楽を感じているとき、乗っている車のタイヤがパンクしたとする。そしてまたある時、あなたが快楽を感じているときに自分の子どもが死んだとする。この二つはどちらも、快楽が失われた状況を表している。この二つの状況は区別されなければならないが、快楽主義はそれを区別できない。彼らは次のように言うことができるかもしれない。「パンクよりも子どもを失うことのほうが、快楽の喪失度合いが大きい」と。しかしパンクと子どもを失うことはそのような程度問題ではない。質的にまったく異なる出来事である。

【欲求充足説(幸福=欲求が充たされていること)】

 欲求充足説は「幸福とは欲求が充たされていること」とみなす。この立場は幸福な人生の内容に関して、非常に中立的であるように見える。つまりあなたが騒がしさを求めるなら、逆にあなたが静けさを求めるなら、それを充たすことが幸福であり、それぞれがどちらとも幸福な人間でありうる。

 しかし、魅力的に見えるこの提案もすぐに難があることに気づくだろう。通常、われわれが欲求を感じるのは欠乏するからである。腹が減るからものを食べたくなるのであって、満腹のときに何か食べたいとは思わない。幸福が欲求充足であるとすると、幸福はわれわれが欠乏をもつことによって成立する。幸福は欠乏することと強く結びついているのである―――われわれは生きていくうちに、必ず欠乏する。必ずお腹が減って来る。われわれとしてはお腹を満腹にしておきたいのだが、食った先から消化されるので、まったく甲斐がないのだ。穴の開いたボトルに水を注ぐように、幸福が決して手の届かないところへ行ってしまう。

 以上はプラトンの指摘である。これについて次のように反論できるかもしれない。「問題は欠乏の再発ではなくて、資源の確保などの諸々の困難ではないか?」と。もしここがユートピアなら、欠乏したとしても即座にそれを充たすことができる。ボトルは穴だらけだとしても、困難を克服できればわれわれは幸福になれるのである……。

 これに応えて、ユートピアに赴いてみることにしよう。そこでは容易に欲しいものが手に入り、それによって不都合な結果が生まれることもない……。ここでの生活はすべてが順風満帆であり、願った通りのことが起こるのだが、しばらくするうちに退屈になってくるに違いない。なにしろ、願ったことが起こるのだから。そうしてこう願うことになる。「私にわからないようにランダムに悪いことが起こりますように」

人間の欠乏的性質から生まれるはずの問題が何も生まれず、あらゆる欲求が満たされる人生は、人がそのために生きているもの、前に進むように人を駆り立てるものを何一つ残さない。

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 【客観説へ】

 例示した二つの幸福観はいずれもわれわれに指針を与えてくれるものであったが、前述した通り、その内容には疑問が残る。そこで、「快楽主義」「欲求充足説」の欠点を補充するために、社会科学でよく用いられる「生活満足度」を幸福の尺度として用いることもできるかもしれない。これはある場面における幸福・不幸ではなくて、ある一定の期間をあとから振り返って評価する。だが、この説も不満足に終わるだろう。これはその時々における幸福かどうかの報告であり、限界があるのだ。どれだけ昔に貧困に苦しみ不幸に感じたとしても、後になってみればそれが貴重な経験でありあんな経験ができたことは幸運だった、というのはさほど不自然なことではない。

 「生活満足度」はその時点におけるわれわれの肯定的態度/否定的態度をはかるものである。この調査が幸福とはなにかを答えるのに頼りないとしても、生活に対する肯定的態度というものは幸福と密接なつながりがあるように思える。それは単に快楽というよりも複雑な気持ちだからである。しかし、肯定的態度を幸福とみなすことはできない。たとえば家庭円満で幸せな家族も、結婚当時からの父親の不倫が発覚すればもはや肯定的態度はとれなくなるかもしれない。そのとき、人はこのようにいうだろう。「彼女は幸福だと思っていたが、実際にはそうではなかった」と。

 

 客観的な幸福という概念を受け入れるなら、自分は本当に幸福なのかどうか……すなわち、自分が今不幸ではなく幸福にしているものはなんなのか、と問わずにはいられなくなる。なにしろ幸福に感じていても幸福ではないかもしれないのだから。これに対する最も有名なやり方は、われわれの感覚とは関係なく幸福であるために持っていなければならないもののリストを作成することである(「客観的リスト説」)。だが、客観的リスト説がうまくいかないのはもはや明らかであると思われる。そこで「これさえあれば幸福です!」といくら言われても、「じゃあこの場合は?」と文句をつけることはたやすいからである。これが本当の幸福ですと差し出すことには、「いや、僕はそうじゃありませんが」という異論を避けられない。

 主観も客観も受け入れられないアポリア(袋小路)。どうすればここから抜け出すことができるのか?

幸福とはなにかを問うこと② 重要な区別

  ジュリア・アナスの指摘する通り、〈生活の環境〉と〈生きることそれ自体〉の区別は重要である。

にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで - にんじんブログ

(二回目)にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで - にんじんブログ

  1.  〈生活の環境〉とは、どのような環境のもとで生きているか、である。
  2.  〈生きることそれ自体〉とは、その環境のもとでどのように生きるか、である。

 〈生活の環境〉というものは非常に広い意味があり、たとえば年齢・性別・身長・文化・言語・お金・健康・容姿・地位・教育・配偶者等々も生活の環境である。この区別は幸福についての多くの説明に対する混乱を避けるためにも役立つ、きわめて重要な区別である。

 幸福についての多くの理論は、われわれが現にいる〈生活の環境〉がどのようなものであれ、そのなかで幸福に生きるにはどうすればいいかを教えてくれようとする。つまりそれは〈生きることそれ自体〉についての理論であって、すなわち幸福というのはその環境のもとでどのように生きるかに関わる、活動に関わるものである

 

まとめ:主観説と客観説を乗り越える

 まとめよう。

  •  倫理学の多くは〈生きることそれ自体〉について語ってきた。どのような環境であってもこれを指針とすれば誰でも幸福になれるのだという幸福を説明しようとしてきた。それが時には快楽であったり、欲求充足であったり、肯定的態度であったりした。
  •  しかしそのいずれも受け入れられないものであり、「幸福を感じること」と「幸福であること」は分けなければならないことも理解できてきたが、一方で、客観的幸福というのもわれわれに答えを与えはしなかった。「これが幸福です」といって提示されたものはすべて、反例を示すことが可能であるように思われた。これとこれを満たしていれば幸福だという考え方には限界がある。もし健康でなくても幸福になれるし、貧困でも幸福になれる。美しい必要もない。これこそが幸福だというリストは作成できないのだ。

 幸福の主観説も客観説も受け入れがたい。では幸福とはいったいなんなのだろうか。主観説と客観説を乗り越えるためには、これらが共有する前提をつきとめなければならない。そしてその前提とは、「幸福とは〇〇です」と突き止められるというところなのである。すなわち、幸福とは静的なものではなく、動的なものなのだ。

 

第三の選択肢:エウダイモニア

 生きることに意味はなく、幸福がわれわれを生かす。その幸福とは最終性を持つもので、かつ動的な概念であることがわかった。幸福は「練り上げられて」いくものなのだ。もちろん、心地いい感覚を幸せだと呼ぶこともある。それを短期的幸福と呼べば、われわれの求めているのは生全体で目指される幸福、長期的幸福である。そしてそれがエウダイモニアである。

 幸福が動的であるならば、「幸福とはなにか」という問いは「どうすれば幸福になれるのか」と問い直されなければならない。幸福とはなにか、〇〇です、といったような回答はもはや望めないからである。われわれは今はまだ見えない幸福を形作っていくのだから、幸福とはなにかという問いはその形成を追うようなものであるはずだ。

  • どうすれば幸福になれるのか?

 

 

徳倫理学について

徳倫理学について

 

 

 

どうすれば幸福になれるか?

 エウダイモニアは人生全体、つまり生き方に関わる長期的なものである。

 「どうすれば幸福になれるか」という問いに答えようとするならば、われわれはなんらかの状態ではなく、生き方について指摘しなければならない。どのように生きれば幸福になれるのか、どのように生きれば幸福は形づくられるのか。

幸福の特質①「究極目的」

 さて、われわれの探究する意味での幸福というものは次のような特質を持っていた。

  1.  人生の究極目的
  2.  動的なもので、形成されゆくもの。

 ある職人が釘を打つのは家を建てるためだったとする。家を建てればお金を得ることができ、お金を得れば彼の欲しがっている或るモノを手に入れることができる。こうした目的の連鎖は、最終的に「幸福」に関係するはずである。なぜなら幸福というものは究極目的なのだから。

 いやそれはおかしい、という反論がありうる。なぜ目的の連鎖を幸福という根に向かうものだとして考えなければいけないのか。実は根がいくつもあって、つまりいくつもの木があるかもしれないではないか――――この指摘はきわめて正しい。しかしそうだとしても、幸福は究極目的なのである。どういうことか?

 たとえば画家として目指されることが、たとえば父親として目指されることと対立することは当然ある。画家としてはひとりヨーロッパにわたって修行するのが善いのだが、父親としては妻子を日本に残していくのは善くないといった場合である。しかし人はこのときも、ふたつを考慮して判断を下す。この最善についての判断こそが、幸福についての判断なのである。

ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、(中略)ヒトの開花についての判断なのである。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

  アリストテレスはかつて、行為の目的を次の三種に分けた。:①他の目的の故に追及される目的。②そのもの自体として選ばれもするが、同時に、次に述べる目的3の故に選ばれもする目的。③常にそのもの自体として選ばれ、いかなる場合にも他の目的の故に選ばれることのない目的。

幸福の特質②「動的」

 さて、あらためて、幸福とは究極目的であり形成されゆくものである。次はこの第二点目、形成されゆく、動的であるという面から考えよう。前節でみたように、幸福というものは究極目的であり、さまざまな目指されるものを結び付けるようなものである。いわば木々を育てる地面のようなものであって、これが究極目的である以上、なんらかの形で幸福がなければわれわれにはどうしようもない。

 ではたとえば生まれたばかりの赤ん坊にとって、幸福とはなんなのか? 「それをまさか〈徳〉だというつもりではないだろうな」。いや、それはそうではない。これは単純にこう考えるのが妥当だと思われる。:生まれた当初の段階で、身体に感じられた欲求、より一般的に「感じられた欲求」が満たされる際に得られる快楽=目的。

 ヒトは動物の一種である。ヒトとヒト以外という風に明確な線を引きたがる傾向がわれわれにはある。哲学においても同じことで、たとえばハイデガーは動物の世界が貧弱なのだといい、人間とはまったく異なる存在者なのだといった。ハイデガーはヒト以外の動物は岩を「岩として」、そのものを「そのものとして」見る能力がないのだと言った(これを、ヒト以外の動物は〈として構造as-structure〉をもたない、という)。彼らは刺激を受け取り反応するだけで、機械とは違って感覚はするけれども、結局その刺激ー反応の連鎖から逃れることのできない存在である――――だが、これは間違っている。盲導犬について考えれば明らかだし、そして、猫がネズミを時には遊び相手として時には食べるものとして扱うことからも、ハイデガーの主張は疑わしい。

 ヒトは動物と同じく、はじめは欲求充足によって得られる快楽を目的とする。だがしかし、前に検討した通り、これはわれわれの考える幸福ではありえない。だからわれわれは次のように結論しなければならないだろう。生まれた当初において、エウダイモニア(われわれの考える幸福)は形成されていない。始まってさえいないのだと。われわれを突き動かすものは動物的な欲求なのだと。

 

動物性

 人生の初期段階における行為の理由は動物的本性によってもたらされる。しかしわれわれはその他の動物もまたそうであるように、それ以外のさまざまな行為の理由を経験から学ぶことがある。たとえば子猫ははじめ、ネズミならば区別なく遊び相手にし最後には食べてしまうが、もしそれが毒を持つ種類のネズミならばもうそれを食べることはしない。これは〈前言語的な〉行為の理由と呼べるだろう。というのは、猫はわれわれがネズミを「ネズミとして」扱うような仕方では、ネズミをおそらく見てはいないからである。言語を学ぶ前の子どもも、そのようにしてさまざまな理由を持つ。そしてそのようなあらかじめさまざまな理由を有しているからこそ、言語を得た時に反省ということができる。なにしろ、反省対象がなければ反省などできないのだから。われわれはここにおいて、動物性といわゆる合理性への出発点を見ることができる。

 この点は少しわかりづらいかもしれない。たとえばわれわれが「真である」という言葉を理解できるのも、前言語的な真理というものを持っているからである。真か偽かという区別は前言語的に行われるのだ。たとえば犬は猫が木の上に登ったのを見て、木の上をじっと睨みつける。すると猫が木から飛び降りた。そうすると、犬はもはや猫が木の上にいるという信念を放棄して、猫のほうへ走っていくだろう。犬は当然われわれの持つような言語をもたないのだが、われわれの言うような意味で【猫が木の上にいる】といったようなことが間違っていることを理解している。これが前言語的な真偽の区別であり、このような区別がそもそもなければ、なぜ「猫が木の上にいる」と言葉にされ、実際猫が木の上にいるときに、なるほどそれが正しいと言えるだろうか。われわれは「真であるとはナントカであり……」と言われ、目の前のものを見てナントカを満たすかどうかチェックリストを作ってじっくり見ていってはじめて真であるかを知ることは、よほど技巧的な例でない限り、ほとんどない。

 さて、以上により、次のことがわかった。

 われわれはまず動物的本性から導き出される善を希求する。そして経験によってさまざまな種類の〈前言語的な〉理由を見つけ出す。これが幸福へ向かう基盤となる。

 

【これまでのまとめ(整理)】

まとめ

 まずわれわれが問うたのは「なぜ生きているのか」だった。そしてそれを将来への影響という観点で考える限り、われわれの人生には意味がないと言わざるを得なかった。しかしわれわれは現に生き続けており、それを促しているのが幸福の希求であると論じた。すなわち、『生きることに意味はないが、目的はある』。

 では幸福とはなんだろうか。それはまず究極的なものである。すなわち、「なぜ幸福になりたいのですか」という質問が無意味となるような、まさにそれ自体のために目指されるものが幸福である。主観的幸福と客観的幸福のいずれの立場も採用しがたいことがわかり、これらふたつの共通の前提が間違っているのだと論じた。それはつまり「幸福とは〇〇である」という風に幸福が記述できるということである。幸福は静的なものではなく動的なものであり、形成されゆくものである。

 では幸福はいかにして作られるのか。人がまず目指すものは動物的なものである。人は人以外の多くの動物と同様に、さまざまな経験を通して多くの行動の理由をもつようになる。たとえば猫は腹を下すことによって食べてはいけない類のネズミがいることを知る。これは言語をもたない動物にも共通にみられることであるから、これを〈前言語的な行動の理由〉と呼ぼう。

 

動物一般の幸福――開花

 ここでヒトではなくヒト以外の動物一般も含めた幸福について言及せざるを得ない。エウダイモニアEudaimoniaという用語はその意味で論点先取なところがあって、本来は開花Flourishという語がふさわしい。なぜなら、エウダイモニアはその出自からして、理性的存在者、つまり言語を有する存在者にしか用いられない概念だからである。一方で開花にはそのような含意はない。開花のうちでも、ヒトの開花をエウダイモニアと呼ぶ。

 幸福=開花が究極目的で形成的なことには代わりはない。しかしその形成には、それぞれの個体がもつ動物的本性が関与するため、おおまかにいって、種ごとに開花のありようは異なって来る。アデリーペンギンにとって巣作りの小石を収集することは非常に重んじられることだろうが、人間にとってはまさに路傍の石ころといった感じで大抵の場合どうでもいい。

 開花とはなんなのかについて、われわれは自然的な調査を必要とするだろう。人類について調べるにしてもそうで、たとえば猿からホモ・サピエンスに進化したばかりの頃の人類と、今の人類とでは、幸福のあり方は大きく異なっているに違いない。人間に本質的なものを理性とし、理性を十分に働かせることが幸福にとって必要だとアリストテレスがニコマコス倫理学で論じたが、言語をもたない動物が幸福になれるのと同様に、言語をもたない人類も十分に幸福になることができるに違いない。

 前章では〈前言語的な〉という言葉を使うことによって、これから「言語」が絡むことを暗示させた。しかし、人間の発達のなかに必然的に言語が伴うわけではない以上、エウダイモニア=ヒトの開花を追うにあたって言語は本質的なものだと、少なくとも現時点で断ずることはできない。

 

[ケンブリッジ・コンパニオン] 徳倫理学

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  • 発売日: 2015/09/19
  • メディア: 単行本
 

 

*1:そしてまた、行為や状態の〈意味〉があるためには、その状態でないことや、行為をしないことができるのでなければならない。「私が生物学的にヒトであることは、私にとってどんな意味があるのか」は〈第三の意味〉がない。………というようなことが本に書いてあるが、ちょっと信じがたい。生物学的にヒトであることが私にもたらす影響については容易に語ることができる。ペンギンと違ってスイスイ泳げないし、ヒトならではの制限も多くある。