にんじんブログ

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研究の途中記録

倫理学:幸福とはなにか。正しい行為とは。

 この成果についてはある程度記事にまとめている。次は、ヒトと動物の連続性を考慮しながら、言語による接続を考える。だとすると、ヒト以外の動物たちもあるレベルにおける「言語」を用いることができる、と考えなければならない。言語というのは、たとえばアーとウーだけからなる原始的なものから、われわれが用いるような複雑なものまで、幅のあるものである。しかしもちろん、言語によって動物が格付けされるわけではなく、生きるための道具の一つに過ぎない(もしそうでなければ、「人間こそが動物界においてトップレベルだ」という主張に与することになるだろう)。

 そういう弱いレベルで、あるいは、強いレベルで、言語を所有する動物を言語的動物と区分しよう。言語的動物はある意味で言語を学ぶことが必然化された動物である。それは人間の多くが指を持って生まれてくるのと同じような意味で。もちろんそれを持たずに生まれてくる人もいるので、完全に必然的だというわけではない。また、言語には「習熟」という側面が強い。何かを褒めるのに「すげえ」しかない人はいまいち習熟していないといえるし、「おはよう」と言われた時に「おはよう」と返すのがまぁ普通のことだという理解がない人もまた習熟しているとはいえない(どこぞの博士のように「挨拶は無意味です」という場合もあるが、ふつうは挨拶すると思っているからこそああいう発言をする)。

 

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち

 

 問うこと

 この機械はなんですか、と問うとき、われわれは何を問われているかを大抵の場合、理解している。しかし正義とはなんですかと問うと、途端にそれが曖昧になってしまうものである。問いにはすべて、問う理由が存する。新しい職場で見慣れない機械を見つけた時、先輩に「これはなんですか」と問う。これは機械の構成要素とその繋がりについて質問しているわけではなく、「仕事でどう使われるんですか」と聞いているのである。このように、ある問いとある問いは問う理由によって同じとみなされるうるのであり、この意味である問いはその本体を陰に隠しているのである。

 あのお寺へはどう行けばいいのか、というように、大抵の場合、問いの理由は明確である。寺へ行く理由はさまざまあり、その人が信心深いのか、あるいはただ雰囲気のある写真が撮りたいだけか、それはわからない。われわれは理由を明示化できないことが普通である。だがなんらかの理解がなければ、問いの意味が消失してしまう。たとえばあなたがデパートのインフォメーションで勤務していて、「洋服売り場はどこですか」と訊かれたり、「閉店時間はいつですか」と訊かれたりする中で、「木星は何色だったでしょうか」と当たり前なふうに訊かれたらさぞ当惑するだろう。あなたは頭の中でいろいろなことを考えるに違いない。とはいえ、ふつうは「えっ、どういうことですか」と問いかけるだろう。