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にんじんと読む「嫌われる勇気」🥕

 「青年」と「哲人」の対話を通してアドラー心理学を学んでいくという本です。図書館も予約がたくさん入っていました。若干、青年がキツいキャラなのですが、それを最初に書かせていただいて、以下はそのことをスルーしたいと思います。

 

 

第一章

 哲人が説いたのは「世界はシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる」という思想でした。青年はそれを疑問に思い、哲人のもとを訪れます。

哲人 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう

嫌われる勇気

  共有し得ないというのは言い過ぎだと思いますが、完全に同じ立場に立つことはできないだろうという意味でしょう。問題は自分自身がどうであるかであって、世界の側になにかおかしなところがあるわけではないというのです。

  •  たとえばあなたが幼少期の頃に恐ろしい虐待を受けたとしましょう。「それが原因で私は心を病んでしまった。もう動けません」というかもしれません。しかしそれは間違いなのです。あなたは動かないでおこうという自分の目的を達するために、過去の経験を引き合いに出すのです。もちろんあなたは好き好んで部屋に引きこもっているのではないというでしょう。しかしよくよく考えてみれば、外に出ないことによってあなたに何か得があるはずです。
  •  たとえばあなたが喫茶店に行ったとしましょう。店員がいろいろミスをし、遂にはあなたの上着にコーヒーをこぼしてしまいました。あなたは激怒し大声を出します。あなたは自分が大声を出したのを店員が原因だというかもしれません。でもそれは違う。むしろ、あなたは大声を出すために怒りという感情を作り出したのです。それは相手を安直な手段で屈服させたかったからかもしれません。

「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」

嫌われる勇気

  さて、その人が「世界」をどう見ているかといった意味づけを集約させた概念がライフスタイルです。つまり世界観のようなものであり、アドラー心理学における性格や気質のことをあらわしています。そして重要なことは、ライフスタイルは自分の選択の結果だということです。もちろんすべてがそうではありません。どういう家庭に生まれるか、人種、文化、国籍などの環境は選ぶことができないものですし、そこから受ける影響もあるでしょう。しかしあなたがそうした環境のなかでその世界観(ライフスタイル)を維持しているのは、それがあなたにとって「ためになる」からなのです。性格が変わらないと悩んでいる人はむしろ、変わらないでおいたほうが自分のためになることがあると知っているのです。

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 

 

【第一章のまとめ】

 われわれは客観的世界に生きているのではなく、主観的に意味付けされた世界に生きている。そうしたわれわれの世界観のことを〈ライフスタイル〉といい、そのものの見方がいわばあなたの性格なのだ。それは過去のトラウマや原因から形成されたものではなく、あなたにとって「ためになる」ことを繰り返すことによって定着した、まさに生活様式に過ぎない。怒りっぽい自分が嫌だというあなたは、実のところ、怒るということにどこか都合の良さを感じているから怒ってしまうのであって、そんな自分を変えたいとは思っていない。

 

第二章

 人間の悩みはすべて人間関係の悩みである。価値判断とは社会的な文脈のうえで成立しているもので、身長が低いといって思い悩んだり、ダイヤモンドを所有していなかったり、お金持ちでないことで悩んだりするのは他人がいるからなのだ。そしてそうした価値判断は客観的な事実ではなく、主観的な事実に過ぎない。つまりこれもライフスタイルである。(ライフスタイル⊃価値判断➡なやみ)

 そういう意味で誰にだって価値判断はあるもので、ふつうは健全なものである。そしてそうした判断のある以上、やはり人間は向上したいと願うものだ。この〈優越性の追求〉は人の普遍的な欲求といっていいだろう。これの裏面として〈劣等感〉というものもある。これは理想に到達していないといって、自分が劣っているような感覚を持つことだ。このふたつが刺激となってわれわれは成長しようとするのだが、そのためには「一歩踏み出す勇気」が必要となってくる。そしてそれが挫かれると〈劣等コンプレックス〉として害をもたらすようになってくる。

 〈劣等コンプレックス〉とは、自らの劣等感を自分への言い訳に使い始めた状態のことを指す。たとえば赤面症で悩む少女は「赤面症が治ったら彼に告白する」というのだが、実のところ告白しないために赤面症でいようとしている。またある人は「自分が結婚できないのは両親がぼくの子ども時代に離婚したからです」という。つまり一歩踏み出す勇気がないというのは、言い換えればそのままの自分を見ようとしていないということでもある。あなたは変わらないでおこうと決意している。

 劣等コンプレックスは言い訳の形をとる。「〇〇だから私は駄目なんだ」これを逆にいえば「〇〇さえなければ私は成功できる」ということでもある。そして大抵の場合、これが〈劣等コンプレックスの第二形態〉になる。人間は欠如した部分を欠如したままにはしておけない。しかし欠けた部分を穴埋めする勇気はない。だから、「今は〇〇のせいで駄目だけど、本当の私は成功するんだがなあ」と言い始める。これが第二形態〈優越コンプレックス〉である。あたかも自分が優れているかのように振る舞いはじめ、偽りの優越感に浸り始める。経歴詐称、過度のブランド信仰、著名人と懇意であることをアピールしたりすることによって優越感に浸る―――これを〈権威づけ〉といって、優越コンプレックスの手法のひとつ。だからべらべらと自慢をしているような人はむしろ、自分に自信がない。そしてもうひとつ興味深い手法が〈不幸自慢〉である。自分はこんなにつらい境遇なんだぞとアピールすることで自分が特別な存在だと思いこもうとする。そして果ては自分の不幸を武器にして相手を支配しようとする。そしてその人は、永遠に不幸のままでいようとする。特別でいるために。

 

 さて、最初に戻ろう。人間はみな〈優越性の追求〉という欲求を持っているのだった。しかしこれが誤解されがちなのだが、優越性の追求というのは「他者と比べて」ではなく「自分と比べて」である。われわれは同じピラミッドの頂上を目指して競っているわけではなく、平らな場所を好きな方へ動いている。ただ前を向いて歩けばいい。ここを捉え損なうとなぜ深刻なのかというと、自分が自分であろうとするとき競争は必ずそれを邪魔してくるから。

 〈競争の図式〉の中にいると、他者はすべて敵になる。競争の恐ろしいところは、たとえ敗者にならなくても、そこにいる限り心の休まることがないということ。他者はいつも自分を出し抜こうとしている。他者の幸福は自分の負けであり、人を祝福することもできない。非を認めることも負けである。《人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、陥れようとしてくる油断のならない敵なのだ、世界は恐ろしい場所なのだ》(嫌われる勇気 p96)。人間関係のなかで相手を議論で負かしてやろうとか自分のほうが正しいのだと思った時点で既に権力争いに巻き込まれている。主張の正しさは議論では決しない。ただあなたは相手よりも自分のほうが優れていることを証明してやろうとしている。

 

 以上のことから、アドラー心理学では人生の目標として次のようなことを考える。

  1.  自立すること
  2.  社会と調和すること

これを支える心理的な目標は二つ。

  1.  わたしには能力がある、という意識
  2.  人びとはわたしの仲間である、という意識

  言い換えれば、ありのままの自分を受け入れながら競争の図式から逃れること。そしてこれらの目標は「人生のタスク」と向き合うことで達することが出来る。逆に言えば、一歩踏み出す勇気がない人は人生のタスクと向き合っていない。

 人生のタスクは、生きていく以上直面せざるをえない人間関係のことで①仕事のタスク、②交友のタスク、③愛のタスクに大きく分けられる。

  •  どんな仕事であれ一人で済むものはない。しかしある意味これが対人関係のハードルがもっとも低いものである。その対人関係は仕事という一点のみで結ばれており、やめればそれっきりになってしまう―――ニートや引きこもりといった人たちは「仕事にまつわる対人関係」が嫌なのだ。
  •  仕事のような強制力がない対人関係こそ、交友のタスクである。これは踏み出すのも深めるのも難しい。学校や職場のような場があればいいのだが、そこには踏み出すきっかけがたくさん用意されている。/しかし勘違いしてはいけない。交友のタスクが大事だというのは「友達をいっぱい作れ」ということではない。
  •  三つのタスクのうちで、愛のタスクは最も難しい。これまでの話の流れからわかるように、アドラー心理学はありのままの自分を認めることを求める。だからもちろん、他者だってそうなのであり、束縛ということを許さない。愛のタスクを充たす対人関係というのは「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」というもので、緊張を強いられるものではない。
  •  恋人や夫婦であれば別れるということができるが、親子はそうはいかない。恋人であれ親子であれ、大事なことは「逃げてはいけない」ということである。

 

 さて、もう一度はじめから考えよう。

 物の見方=世界観=ライフスタイルからの価値判断があって、ここに〈優越性の追求〉という基礎的な欲求を見る。これが不健全なものとなるのは人生のタスクから逃げている(➡ありのままの自分を見ない)からである。自分との比較をやめ、他者と比較する〈競争の図式〉に陥ると、劣等コンプレックス→優越コンプレックスとどんどん深みにはまっていくことになる。

 なぜ人生のタスクから逃げていると〈競争の図式〉に突入=他者を敵とみなすようになるのか。たとえばAさんという人との対人関係から逃げてしまうことを考えよう。するとあなたは「Aさんを回避するために」、「Aさんの欠点を見つける」。そして「Aさんはバカだから付き合いたくない」などと言いだすのだ。アドラーはこれを〈人生の嘘〉と呼んだ。

 

 

幸せになる勇気

幸せになる勇気

 

 

【第二章までのまとめ】

 われわれは客観的世界ではなく主観的に色付けされた世界に生きている。その物の見方=世界観を〈ライフスタイル〉と呼ぶが、ここに〈価値判断〉というものも生じる。人間にはよりよいものを求める〈優越性の追求〉という基本的な欲求があるのだが、これは〈劣等感〉と裏にもつきわめて健全なものである。これが不健全になるのは〈人生のタスクー仕事・交友・愛〉を避けるせいであり、この回避の目的のために〈人生の嘘〉を用いて他者を敵だとみなし〈競争の図式〉に入り込んでしまう。「今の自分」ではなく「他者」より優越しようとする〈劣等コンプレックス〉と、その発展である〈優越コンプレックス〉にはまりこみ、あなたの悩みは徐々に深みを増していくのである。

 

第三章

 具体的にどうやって他者を仲間だとみなしていけばいいのか。そのスタート地点にあるものは〈課題の分離〉という手法である。これは出来事を「誰の課題なのか?」によって振り分け他者の課題には踏み込まないというものである。《あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます》(嫌われる勇気 p140)。

 それが自分の課題なのか、他者の課題なのかを見極めるポイントは「それによってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」ということである。たとえば我が子がテスト勉強をせずに海苔せんべいばっかり食っている場合、テスト勉強をしないという選択の責任を負うのは我が子である。これに対して親のあなたがとやかく言ってもトラブルのもとになるだけなのだ。親のあなたはあなたの望み通りに子どもが動くことを期待するし、もしそうならなかったときはムカつくことだろう。アドラーのいう〈愛のタスク〉には、相手が思い通り動かなかったときにも相手を信じることができるか、という問いかけも含まれているのだ。「自分を変えられるのは自分だけ」「相手を変えられるのは相手だけ」である。/同様に、相手があなたのことをどう評価するか、それはあなたの課題ではない。あなたは自分が最善だと思うことを選べばいいだけで、相手がどう思うかはなんの関係もない。

他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。

 〈課題の分離〉を阻むものは〈承認欲求〉である。あなたは誰からも嫌われたくないから自分の最善を選ぶことができない。社会的な役割があって、名誉のためにはそれを果たさなければならないと考える。逆にいえば、〈課題の分離〉をするためには他者から嫌われる必要がある。そのコストを払わない限り、あなたは自由にはなれない

 

生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと

生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと

 

 

【第三章までのまとめ】

われわれは客観的世界ではなく主観的に色付けされた世界に生きている。その物の見方=世界観を〈ライフスタイル〉と呼ぶが、ここに〈価値判断〉というものも生じる。人間にはよりよいものを求める〈優越性の追求〉という基本的な欲求があるのだが、これは〈劣等感〉と裏にもつきわめて健全なものである。これが不健全になるのは〈人生のタスクー仕事・交友・愛〉を避けるせいであり、この回避の目的のために〈人生の嘘〉を用いて他者を敵だとみなし〈競争の図式〉に入り込んでしまう。「今の自分」ではなく「他者」より優越しようとする〈劣等コンプレックス〉と、その発展である〈優越コンプレックス〉にはまりこみ、あなたの悩みは徐々に深みを増していくのである。

 〈人生のタスク〉を受け入れるためのスタート地点、それは〈課題の分離〉である。これを妨げる主なものは〈承認欲求〉である。人は嫌われるコストを払って自由になる。

 第四章

 〈課題の分離〉はスタート地点に過ぎない。ゴール地点は他者を仲間だ思い自分の居場所をもつこと:〈共同体感覚〉である。アドラーは、共同体感覚を他者だけでなく、世界そのもの、文字通りの「すべて」を対象にした。

 自分の課題と他者の課題を分けることは一見、自己中心的に見える。しかし自分と他者の課題を分けないことこそ、自己中心的なのである。他者にどう見られているか、といったことを気にするのは自分のことを気にかけているからだ。〈課題の分離〉がスタート地点なのは、「他者への関心」のためにどうしても必要だからである。

 

 では〈課題の分離〉を行ったあとはどうすればいいのだろうか。まずこれによって実現されるのは、他者との対等な関係:〈横の関係〉である。これはたとえ親子であっても、対等なつながりが求められる。叱ってもいけないし、褒めてもいけない。なぜならそれをすると、子どもは「叱られるから」「褒められるから」行為するようになるから。でも親はそれでもいいと思っているかもしれない。他人は「操作」できるほうがいいからである。逆に〈縦の関係〉が起こるのは〈課題の分離〉を行えていないときであり、他者に介入をする。

 いちばん大切なことは、他者を評価しないことである。評価は〈縦の関係〉の言葉である。「今の良かったよ」と褒めるのではなく「ありがとう」と感謝されたほうが、その人は自分が貢献できたと感じるだろう。自分には価値があると思えるだろう。ありのままの自分を受け入れるためには、この〈貢献感〉が大事になって来る。これが〈共同体感覚〉につながっていく。

 

性格は変えられる (アドラー心理学を語る1)

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劣等感と人間関係 (アドラー心理学を語る3)

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【第四章までのまとめ】

われわれは客観的世界ではなく主観的に色付けされた世界に生きている。その物の見方=世界観を〈ライフスタイル〉と呼ぶが、ここに〈価値判断〉というものも生じる。人間にはよりよいものを求める〈優越性の追求〉という基本的な欲求があるのだが、これは〈劣等感〉と裏にもつきわめて健全なものである。これが不健全になるのは〈人生のタスクー仕事・交友・愛〉を避けるせいであり、この回避の目的のために〈人生の嘘〉を用いて他者を敵だとみなし〈競争の図式〉に入り込んでしまう。「今の自分」ではなく「他者」より優越しようとする〈劣等コンプレックス〉と、その発展である〈優越コンプレックス〉にはまりこみ、あなたの悩みは徐々に深みを増していくのである。

 〈人生のタスク〉を受け入れるためのスタート地点、それは〈課題の分離〉である。これを妨げる主なものは〈承認欲求〉である。人は嫌われるコストを払って自由になるのだ。課題の分離を行うことによって自己への執着を捨て、ようやく他人をはっきり見ることができるようになる。そして自分がここにいてもよいという〈共同体感覚〉へと至る。

 第五章

 共同体感覚には「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の三つが必要である。

 自己受容は自己肯定とは異なる。できもしないのにできるというのが自己肯定で嘘をつくことである。一方で自己受容は、できない自分を受け止めて前に進んでいこうとすることである。

 他者信頼の信頼は、いっさいの条件なしを意味する。銀行はわれわれを信用してくれるかもしれないが、信頼はしてくれない。信じるにも証拠がいる。しかし信頼はそうではない。「相手が裏切らないなら、私も裏切らない」ではなく、ただ「自分はどうするか」だけを考えればよい。もしその人との関係を良くしたいなら、信頼するのが絶対に必要な手段になる―――もし別に関係をよくしたいと思わないなら、別にやらなくてもかまわない。

 そして最後に「他者貢献」が来る。仲間である他者に対してなんらかの働きかけをしていくこと。役に立っている、ことによって自分の価値を実感する。目に見えない貢献でもかまわない。大切なのは〈貢献感〉だから。

 

総まとめ

 最後に、にんじんの言葉で全体をまとめてみよう。ものすごく考えさせられることの多い本書であるが、疑問がないわけではない。その疑問をにんじんなりに解消しながら、にんじんなりの理論を組み立ててみよう。ただかなり不満があるので、いずれ他の記事と組み合わせながらさらに洗練することを目指そう。

 

 

  1.  客観的世界ではなく主観的に色付けされた世界に生きている。
  2.  この色眼鏡を「世界観」と呼ぼう。
  3.  人間はより善いことをしようという基本的な傾向がある(善的傾向、目的論的傾向)。

 色眼鏡は比喩であり、たとえばペンをみてその使い方を意識せずとも使えるようなことも世界観のひとつである。なにしろペンギンが鉛筆を見ても文字をかこうとは思わないのだから。また、善的傾向などというといかがわしいが、これは「より自分のためになることをしよう」というぐらいの意味である。たとえ誰かがリストカットしたとしても、それは痛むためではなく、それがその人にとって何らかの「ためになる」からだ。この三つ(実質2つ)は、赤ん坊から仮定しても問題ないように思われる。

  •  赤ん坊の最初の善は生理的欲求の満足であるだろう。彼は成長とともに多くの善(生理的なものではない広い善*1)を環境から、他者から、共同体から学んでいく。言語を獲得し、複数の善を比較できるようになったとき、彼は「なにがより善いか」を問い始める。その考えは「何がより悪いか」を含む。
  •  善について重要なことは、それが共同体的なことである。あなたが経営者であり、ある経営判断を下すことが善であると判断したとしても、それは即刻善となるわけではない。必ず世界からの、共同体からの、応答がある。それが新しい試みなら、なおさらである。よって、「なにがより善いか」というのは世界の、ひいては共同体的な色をもつ。それゆえ、それが世界または共同体に適合することを求める(優越性の追求)。

 だがこの共同体への適合とは『誰かに認めてもらう』こととは異なる。たとえば経営者の経営判断を別の経営者に認めてもらっても、意味がない。しかし人間は優越性の追求という要請に対して、この錯誤を犯す(〈安直な追及〉)。健全な優越性の追求は安直なもののように他者によって行われるものではなく、自分を軸に行われる。

自分がこうやるべきだと感じたありのままが、世界にどのようにはたらきかけるかはわからないが、そこへ飛び込んでみること

 世界が、共同体が、どのように自らのはたらきかけに応じるかはわからない。このわからなさに飛び込めない場合がある。:

  1.  自分のありのままを受け入れない = 自己受容しない
  2.  他者・世界を信用しない = 競争の図式に入る

 

 

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 
幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

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*1:たとえばサッカー選手としての善、父親としての善、もちろん生物としての善もあるだろうし、これをするならこうしたほうがいいという形式の善もあるだろう。またそれが激突したときに選択する善もある