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にんじんと読む「実在論と知識の自然化(植原亮)」🥕 実在論の基本的枠組み

 少々先走る部分もあるが、第一章と第二章を読み終えたいま、改めて第一章と第二章を振り返ってみたい。実のところ、第二章の記事は中途半端である。こうなったのは、読み進めるうちに自分の理解の浅さがはっきりしてきてしまったからだ。

 この記事では実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用という本の第一部『実在論の基本的枠組み』の内容を要約しつつ、自分なりにまとめなおしてみよう。

 

 

そもそもの問題意識

 Twitterでその本はなにが面白いのかと聞かれ、やりとりするうちに、自分の理解の浅さがわかった。そもそも「実在する」ということを問題にするのはなぜかという意識が、にんじんには欠けていたのだ。あれほど主観と客観について記事にしながら情けないことである。

 媒介説という括りで紹介するよりも、カントの哲学理論のほうがうまく実在の問題を補足できるように思われる。彼は岩崎武雄氏の表現するところの「認識論的主観主義」を掲げ、認識が対象に従うのではなく対象が認識に従うのだという転回を成し遂げた。これによって対象というものの構成には実はわれわれが関与しているという話になり、いろいろな難点を克服することになるのだが、大きな問題も生まれた。それは、結局のところわれわれは『ものそれ自体にはたどり着けない』という帰結をもたらしたことだ。というのも、対象というものはそれ自体から触発されてわれわれが作り出した素材をこねくり回すことで生み出されたものなので、こねくりまわさなければ対象と出会うことさえできない。つまりわれわれの関与がなければ何かと出会うことさえできない。これによって「現象界」に閉じ込められ「物自体界」へのアクセスが完全にシャットアウトされることになってしまったのだ。

 物自体といったようななんだかわからないものがあることは理解できる。しかし、本当に存在するところの世界、われわれが消え失せたあとも、生命体がすべて消え失せたあとに残る世界がどんな風な形をしているのか、……まったくわからないのだろうか。

  • われわれは走り回る犬を見て、犬が走り回っていると考えている。しかし実のところ、それは勝手な区切りにすぎないのかもしれない。犬はそこにはいないのかもしれない。ふつう、あなたはボールの上にのって揺れているゾウを見て、ボールゾウという新種だとは思わないだろう。あれはボール、あれはゾウなのだ。しかし実はあれはボールゾウなのかもしれない。
  •  言い方を変えよう。「物自体界」というわれわれを触発するなにかがあることは間違いない。しかしそれがどういう形をしているのかがわからない。たとえばそこにゾウがいるとしよう。だがあなたが勝手にゾウを区切っただけで、そんな風に切り離せる何かではまったくないのかもしれないではないか。そもそもあなたはあなたという外部との区切りをもっているつもりかもしれないが、それは幻想なのかもしれない。世界はモザイクであり、そのモザイクがうねうねとまったくの不規則に動いているだけなのだが、われわれがちょっと濃くなったところをゾウだとかペン立てだとか適当なことを言っているだけの可能性がある。だいたい、あなたはペットの次郎と朝に挨拶を交わすとき、「おはよう次郎」というかもしれないが、なぜ彼が次郎だと思うのだろう。われわれが勝手にそう思いこんでいるだけで、彼は次郎ではないのかもしれない。もともと次郎などいなかったのかもしれない。

実在論 v.s. 規約主義

 まず区別しておきたいのが「次郎」と「犬」である。次郎は〈個体〉であり犬は〈種〉である。なにが本当に実在するのかと問うにあたっては当然個体から話をはじめるだろうと思いきや、この本は〈種〉から話がはじまる。まずはその点を注意しておかなければならない。

  •  先ほども書いたが、次郎という個体は昨日の次郎と同じであるとは限らない。しかしわれわれはそれを次郎と呼ぶ。ここに〈種〉との連続性を見るのである。だから〈種〉を考察の最初におくのは、個体について考えていないからではなく、個体ー種という区別が連続的であるからなのだ。

 さて、規約主義者は「犬」というまとまりを人間がかってに拵えた取り決めにすぎないと主張する。これはワンワン鳴くあの生物をわれわれが犬と呼ぶのは、四月一日をエイプリールフールと呼ぶのと本質的には変わらないということだ。犬の半分と猫の半分を合わせたものを「ドキャット」という名前で呼ぼうが今と同じように「犬」「猫」と呼ぼうが、それは人間の勝手な都合であり、どちらが有用かどうかで決まる(ドキャットには、ゴールデンレトリバーは入るが柴犬は入らなかったりする)。

 実在論者が提示した包括的な自然種(実在する種)の理論はボイドが提唱したものであり、次の三つの特徴を持つ。

 

【自然種とは?】
  1.  性質群の恒常性 ある自然種に属する個体は、単一の性質ではなく、それに特徴的な性質の一群として出現する。しかもそうした性質は、いわば単なる寄せ集めとしてひとまとまりをなしているのではなく、外部に変化が生じてもそれに耐えうるような安定したひとまとまりをなしている。
  2.  帰納的一般化の成立 恒常的性質群の中に含まれる性質のそれぞれについては、帰納的一般化ないし、その個別的な適用としての因果的説明および予測が成立する。
  3.  カニズム その基礎となる一定の構造ないし基底的メカニズムが存在している。

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

 

  まず第一には「犬」という種に属する個体の諸性質は、安定したひとまとまりをなしているということである。言い換えれば、自然種はまず恒常性のある性質群としてあらわれる。ちょっとした変化などにさらされても、簡単に変わることはない群である。しかしもちろん、この恒常性は厳格なものではなく、あくまでも一定の範囲で性質が一群となって出現すれば十分である。

 第一の条件が全体として安定したまとまりをなしているといっているのに対して、第二の条件は個々の性質について法則なり一般化が成立していると述べている。カラスはたいてい黒いし、トラは黄色地に黒い縞模様がある。水の場合であれば一気圧100℃で沸騰するのだ。

 第三の条件「メカニズム」。なぜ水が100℃で沸騰するのかなどの個々の性質、そしてその性質群が安定的であることはH2Oという微細構造によって説明される。もし水がそうした構造をもたなければそもそも水がそうした性質をもつものたちとしてあらわれてはこなかっただろう。このメカニズムという第三の条件が、自然種というものが「雑多な寄せ集め」ではなくなるきわめて重要な要件になっているのだ。このメカニズムもまた恒常的な性質のなかに組み入れられ、それによって中核的な性質とそこからの派生的な性質を区別するようになるだろう。

 「実在性」というものはこうした性質の強さや結びつきの緊密さである「理論的統一性」によって捉えられるのだ。逆にいえば、単なる規約によって定まる種はこのような特徴をもたないことになる。

【自然種の特徴、実在性】
  •  (規約種)たとえば一グラムのものであればすべて集める「一グラム種」というものを考えよう。これは明らかに第二の条件を満たす。なぜならそこに含まれるすべての個体には一グラムであるという法則が存在するからだ。しかしこの種に属する個体をいくら研究しようが、これ以外の性質は見つからないだろう。もちろん、一グラム種の個体はすべて質量をもつのだが、それは経験的に見出されるものではない。《つまり、一グラム種には、帰納的一般化を成立させるような性質が経験的探究を通じて続々と見出されていく、という可能性がないのである》(実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用 p60)。
  •  (規約種)たとえば「東京都民種」というものを考えよう。この種に属するすべての個体は住民票は東京都にある。しかしそこに属する個体にそれ以外の性質を見出すことはないだろう。もちろんこの種に属するすべての個体はホモ・サピエンスであるから、それにまつわる安定した性質群も、DNAといったメカニズムも見出されるに違いない。しかしそれは、「東京都民」を単位としているために成立していることではない。これはむしろ「ホモ・サピエンス」という自然種の性質やメカニズムが東京都民にも見られるというに過ぎない。つまり、これを固有の一単位としなければ説明できない要素があるわけではない。

 この二つの例からわかることは、規約種というものをいくら調べても無数の性質が見つかることはないし、他の実在的対象に寄生したものしか見つからないということである。実在的対象には無数の性質(もちろん可能な性質すべてから見ると限られている)が経験的探究によって見出されるのだ――――自然種と規約種の明確な区別

 そしてこの実在的対象の明確な区別こそが、「実在性」というものを「理論的統一性」を通してみることを許す。なにしろ、理論的統一性には、先に見たように程度の差があるものだからだ。たとえばトラは黄色地に黒の模様が入っているものだが、時には、真っ白のトラがいることもあるだろう。そのような例外を許し、実在性というものにも程度の差を認めるのが、理論的統一性である。

 モザイクのもやもやとした世界に戻ろう。スパッと切れてしまうような実在的対象もあれば、境界面があいまいでふわふわしたものもある。切り方は人によるので、その点では規約的であるが実在していることには変わりない。たとえばヒトの人差し指というものをどこ部分から指と呼ぶか1,2mmぐらいの違いがあったところで、指というものがあるには違いがないみたいなことである(要するにあいまいなのは境界線だけということ)。

 

【メカニズムについて】
  •  次に考えたいのは「目」の問題である。たとえば「ヒトの目」というものは自然種と認めてよいものと思われるが、しかし、一般にそれを「目」としてしまうことはよいのだろうか。犬にも目があるし、鳥にも目があるが、それらすべてに共通するメカニズムなどあるのだろうか。これについては次のように答えることができる。

たしかに鳥類、翼竜、コウモリの翼はメカニズムにある程度共通性はあるものの、完全に同じではない。つまり異なる内的構造がある。だが、外的構造:発生上の制約や進化に関連する条件まであわせて考えれば、翼の基底的メカニズムと呼びうるものが見つかるかもしれない。

スワンプマン

 スワンプマンとは、沼の朽木に雷が落ちたことからまったくの偶然により生じた哲学者デイヴィドソンの物理的複製のことである。つまり「こういう例を考えてみよう」というひとつの仮想である。スワンプマンはデイヴィドソンとまったく同じように振る舞うし、内的構造も完璧に同じである。しかし進化的・歴史的起源についてはもちろん共有していないため、起源論的にいえば異種である。

 デイヴィドソンホモ・サピエンス種である。しかしスワンプマンはどうだろうか?

 

 いま何が問題になっているのかを整理しよう。あなたは沼地から生まれたわけではない。これは間違いない。だがスワンプマンは沼地から生まれた。これははっきりいって研究の余地がある。その探求からいえば、スワンプマンをホモ・サピエンスだとみなして研究するのは無理がある。/一方で、スワンプマンは完璧にホモ・サピエンスと構造が同じである。「人間の体ってどうなってたっけ?」と来れば、スワンプマンを解剖しても同じ結果が出る。少なくとも生物学的には彼はホモ・サピエンスであり、よって、彼をホモ・サピエンス種だといってもよいと思われる。どういう風に発生したかはともかく、中身が同じなのだから。

 そうだとすると、探求領域によって自然種というものは「じゃあこういうことで」という取り決めが働いていることになる。つまり結局のところ、規約主義が正しかったというわけだ。

 

 だが探求領域によってなにを自然種だとみなすかが揺らぐことは、規約主義にとって有利に働くものではない。世界との因果が生じるありかたはひとつではないし、われわれはあらゆる角度からそれに接近することができる(つまり理論がどうであれ種自体が揺らぐことはない)。さらに、そのそれぞれの見方によって、「スワンプマンってホモ・サピエンスだよね」といえたり「違うよね」と言えたりする。当然のことである。

 理論によって階層構造が変わったとしても、それはわれわれが恣意的にどうにかできることではない。スワンプマンを今日からトカゲ種に入れよっか、といった妙なことはできない。

 

 

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

  • 作者:植原 亮
  • 発売日: 2013/12/19
  • メディア: 単行本